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右下に井筒屋の開業広告
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1994年2月21日、新聞で井筒屋の開業広告を見つけたので、井筒屋の話を聞きに浦添市のオキジム本社を訪ねた。新里有四郎会長、新里盛吉社長、新里有造氏が同席された。有造氏はライフル射撃で国場武三(こくば駐車場)氏とも知り合いだった。現社長はこの人の子息である。写真/オキジム会長室で、左から新里有四郎会長、新城栄徳

1995年6月ー『私の好きなすばやー物語』(資料提供・新城栄徳)ボーダーインク


2002年10月30日ーオキジム本社で左から、新里有四郎会長、玉寄貞夫氏(世界のそてつを守る会℡098-862-0906)、新城栄徳

1992年5月 『食足世平ー日清食品社史』「めんの系譜図」
『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]


〔大濱聡〕2019-3-30

1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」


沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


あぐに/沖縄そば
1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業



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1959年11月 『オキナワグラフ』


1984年1月 沖縄の雑誌『青い海』129号 「特集・沖縄そばと生活文化史」
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「沖縄そば」資料


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翁長良明コレクション「箸袋」


1974年10月 『歴史読本 日本たべもの百科』新人物往来社


1975年5月 渡口初美『実用琉球料理』月刊沖縄社


 1975年 季刊『創造の世界』№20 藤原邦達「食品汚染の現況と問題点」
藤原 邦達(ふじわら くにさと) プロフィール
1927年長崎県生まれ。旧制大阪高等学校卒、大阪大学工学部卒。京都大学医学部衛生学教室助手、京都市衛生研究所主幹、大阪大学工学部講師を兼務。食生活の安全委員会代表幹事、コープこうべ商品検査センター技術顧問などを歴任。現在、大阪PALコープ、大分、なら生協顧問、生協総合研究所評議員、光華女子短期大学講師、山形大学農学部講師(公衆衛生学)(1997年11月現在)


1988年3月 『唐辛小遍路』ハウス食品工業


1989年9月 外間ゆき・松本嘉代子『食品と料理 おきなわの味』ニライ社



1986年12月ー新島正子さん、新城三郎に厚生大臣表彰


1993年から1994年 お米ギャラリー心斎橋『心斎橋お米塾』

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1994年4月 『太陽』「特集・沖縄を食べつくす」

2005年9月16日 沖縄都ホテル「現代に蘇る『ペリー提督饗応料理』と『新琉球王朝料理』晩餐会」

      


新城良一氏の資料も展示。良一氏も招待された。