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2020-9-2 ウークイ、紙銭を燃やす

映画ー1960年10月21封切り 那覇若松国映 国映館「タイムマシン」

左ー2002年の映画『タイムマシン』(The Time Machine)は、2002年のアメリカ映画で、SF映画。ワーナー・ブラザーズ製作。H.G.ウェルズの小説『タイム・マシン』を原作とした映画であるが、物語には大幅な脚色がされている。また、本作は1959年にアメリカで製作されたSF映画『タイム・マシン 80万年後の世界へ』のリメイク作品である。(ウィキ)

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1984年1月 ノーマン&ジーン・マッケンジー 村松仙太郎訳『時の旅人―H・G・ウエルズの生涯』早川書房

1983年10月11日ー『琉球新報』新城栄徳「落ち穂『未来』」〇当時の平和美術展で対馬丸遭難の絵に「イカダが多すぎる」と新聞紙上にあった。

 中学3年のころ、写真左下のアーサー・C・クラーク 福島正美・川村哲郎訳『未来のプロフィル』早川書房をよく読んだ。このクラークの科学エッセイ集は1958年から1962年にかけてアメリカの『ホリディ』『ホライズン』『サイエンス・ダイジェスト』『プレイボーイ』などに書いた記事をまとめたもの。中に、バートランド・ラッセルの挽歌を引いて「・・・・・あらゆる時代のあらゆる労働も、あらゆる献身も、あらゆる霊感も、あらゆる天才の白昼のごとき明晰さも、太陽系の死と同時に滅亡の運命にあること、そして人類の建設したすべての寺院が滅びゆく宇宙の廃墟の下に埋もれてしまわねばならぬということーこれらすべてのことが、かりにまったく論議の余地がないわけではないにしても、ほとんど確定的であるため、それらを否定しようとするいかなる哲学も存立する望みは持てないのである。  これはまさしく真実であるかもしれない。が、それにもかかわらず、宇宙の滅亡は、思量すべくもない遠い未来に属するので、われわれ現代の種の直接的な関心の対象とはなりえないのだ。」原子に就いて、「物質のエネルギーを解放するために必要だったのは、化学的燃焼に相当する原子の”火”だった。そして、ウラニウムの核分裂こそ、それだったのである。一度、これが発見されれば、原子力の利用は時間の問題だったーただし、もし戦争という圧力がなかったならば、その開発に、ほぼ一世紀はかかったかもしれないけれども。」

1969年4月ー安田寿明『頭脳会社ーシステム産業のパイオニア』ダイヤモンド社
1970年9月ー野口悠紀雄『シンク・タンク』東洋経済


株式会社ダイケイ 大阪市西区 1997年1月にゼンリングループの一員/ダイケイは伊藤彰彦が1961年に設立した株式会社大阪計算センター(大阪市東区)が1979年8月に株式会社ダイケイに社名変更。 

「宇宙船地球号(Spaceship Earth)」という言葉は、20世紀アメリカの建築家・思想家、バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)によって有名になった。彼は1963年、『宇宙船地球号操縦マニュアル(Operating manual for Spaceship Earth)』を著し、宇宙的な視点から地球の経済や哲学を説いた。フラーはその生涯を通して、人類の生存を持続可能なものとするための方法を探りつづけた。
 フラーは、地球の歴史とともに蓄えられてきた有限な化石資源を燃やし消費し続けることの愚を説いた。これらの資源は自動車で言えばバッテリーのようなものであり、メイン・エンジンのセルフ・スターターを始動させるために蓄えておかねばならないとした。メイン・エンジンとは風力や水力、あるいは太陽などから得られる放射エネルギーなどの巨大なエネルギーのことであり、これらのエネルギーだけで社会や経済は維持できると主張し、化石燃料と原子力だけで開発を行うことはまるでセルフ・スターターとバッテリーだけで自動車を走らせるようなものだと述べた。彼は人類が石油やウランといった資源に手を付けることなく、地球外から得るエネルギーだけで生活できる可能性がすでにあるのに、現存する経済や政治のシステムではこれが実現不可能であると述べ、変革の必要性を強調した。
 宇宙船地球号とは、地球上の資源の有限性や、資源の適切な使用について語るため、地球を閉じた宇宙船にたとえて使う言葉。バックミンスター・フラーが提唱した概念・世界観である。またケネス・E・ボールディング(クエーカー教徒でもあり、今日でいう平和学に大きな関心を寄せていた。妻は平和研究者、平和運動家のエリース・ボールディング)は経済学にこの概念を導入した。 ウィキペディア□戦後の日本においてGHQのボナー・フェラーズ准将が熱心なクエーカー教徒で日本でのクエーカーの布教活動に精力を注いだ。また、信徒のエリザベス・ヴァイニングは後に天皇となる皇太子・明仁の家庭教師を務めた。

 新城□2010年12月28日ー妻の実家の読谷楚辺へ行った。父を見舞った帰途、赤犬子宮を訪ねると管理されていないのか入口を車が塞いでいた。釈渚善さんの言うていた大湾の真常寺を思い出し訪ねた。そこで京都全体マップで親鸞聖人ゆかりの地が載っている近畿日本ツーリスト発行の「親鸞聖人ーお念仏の道をたずねて」「大谷光真パンフ」を貰った。(去年暮れに書いたものを移動)


1972年11月 沖青友の会機関誌『石の声』10号〇上原良三「初秋の京都北山へーそもそも諸準備の為、京都に勤める新城君の職場(某食事処食堂)で米や、スープンの調達のついで、コーラやコーヒーを御馳走になったのも一原因かも知れない。」


京都駅 右に蘇鉄/「新福采館本店」「本家第一旭」
 帰途、何時ものように京都駅近くの塩小路の中華そば屋による。京都から帰宅する前は必ずよるのが慣わしとなっている。22,3歳のころもよく食べにいった。「新福采館本店」と「本家第一旭」はまだ健在だ。当時は駅前でも中華そばの屋台があった。屋台の暖簾には「贈・中島連合会(→現会津小鉄会)」の文字があったのが今でも印象に残っている。最近では新福も第一旭もネットで賑やかだ。新福はHPも開いて全国展開している。どちらも1947年に店舗を構えた。新福は休みだったので第一旭に入った。青春時代の懐かしい味だ。腹ごしらえも済み、京都市南区東九条にかつて間借していた家を訪ねた。家はそのままだが、冷やし飴を売っていた店はとっくに壊されビルになっていた。向かいに図書館ができていた。


寮は南区/近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅
〇2020-5-17 朝、テレビで「目撃!にっぽん 『番地のなかった街で在日コリアン2世 最後の語り』」でこの地域が報じられていた。今はGoogle地図で東九条を散歩できるが、動画を見るとネトウヨ視点で「東九条コリアタウン」などとやっている。  


 2011年10月12日午後ーJR永和から大阪駅、駅舎もだいぶイメージが変わった。新快速で京都駅。途中、茨城と高槻でイオンの看板を見かける。かつてこの路線から「今日も元気だ煙草か(ママ)うまい」の大きな広告が見えていた。そう、濁点が剥げ落ちていた。京都タワー (「お東さんのろうそく」とも呼ばれているが、本来は灯台をモチーフにしたもの)が見えた。帰ってきたという気分だ。私の22,3歳は京都駅八条口近鉄名店街の「紅屋」で働いていた。東寺などはよく遊びにいったが、西本願寺や東本願寺もよく遊びにいってはいるがこれといった印象は少ない。どちらの寺も雰囲気も同じだから名前も西、東取り違えて記憶していた。東、西の違いは、「南無阿弥陀仏」をお東は「なむあみだぶつ」、お西は「なもあみだぶつ」と称えるという話はよく聞く。
 京都駅烏丸中央口を出て左の方に歩いて、しばらくすると、元植柳小学校に「ご縁まちマルシェ」会場があった。入ると色々な売店があり、京の銘品、仏具の店が並んでいた。地方の特産品の店には、沖縄からも首里の「美南島マーケット」が出店していた。会場で出て伊東忠太設計の伝道院(テーマ館)を見る。『本願寺新報』を貰う。宗祖親鸞聖人七百五十回忌ということで通りは大勢の人たちで混みあっていた。ほとんど地方からの団体だ。西本願寺の甍が見えてきた。中に入るとやはり混雑していた。売店で「安穏」という水を買った。混雑を避け国宝の書院を見る。襖絵や柱は黒光りし年月を感じさせ、庭はソテツが主役だ。次の国宝飛雲閣は銀閣寺の雰囲気である。国宝の唐門は唐破風で豪華な装飾彫刻が施されている。西本願寺を出るとすぐ隣りの興正寺による。
 大谷光真門主は、新宗教(右翼)の指導者を除けば、歴史ある巨大宗教教団「浄土真宗本願寺派」の最高指導者としては例外的に社会問題に積極的な発言をしてきたことで知られているが、『本願寺新報』10月特集号の発言に「人間の欲望と知恵のバランスが崩れてしまい、人間に扱えないようなものによって欲望を満たしてきました。恐ろしいものには恐れをもって対処するというようなことが欠け、傲慢になっていたと思います。(略)今のままでは原発との共存は難しいと思います。現状は、薄い氷の上に乗っているような感じですね」と口先社会科学者顔負けの発言である。すべからく指導者はこうあらねば。虚言妄言ウスノロ内閣(→10-12『日刊ゲンダイ』命名)に爪の垢でも煎じて呑ませたい。またそんなノロノロ内閣でも国民をバカにした悪政(増税、年金改悪、政党助成金)だけは得意とみえる)それを一緒にやっているのが労働貴族の連合である。古賀会長のごときは「私は原発『脱依存』とは言ってない」とは、コロコロ総理と同じだ。 
 浄上真宗本願寺派の沖縄開教は、1879年大河内正念師(宮崎県、願心寺)の来島に始まる。98年より亀井慈雲師(鹿児島県、善行寺)の13年に亘る開教の跡を受けて、1910年鹿児島県川内市光永寺の菅深明師が大谷光端宗主の特命を受けて大島郡徳之島説教所より転任来島し、那覇市上之蔵に湖城宅を借りて那覇説教所を設置して布教伝道を始めた。翌年の11年7月には、同説教所を松下町1丁目71番地(現在地)に移して、寄留商人や官吏を中心に布教を行い、漸次地元の沖縄の人々へも教化の手を進めていった。1916年5月、大正天皇即位の御大典を記念して、本堂及び庫裡を建立し「聖徳山大典寺」と寺号を公称して、開基の菅深明師が初代住職となった。爾来、与那原、嘉手納、西表、八重山、渡久地と布教所を開設、各方面へ教線を拡げると共に、非行少年の更生保護のため、沖縄少年感化院(後に球陽学園と改称)を設置する。更に子女教育のため沖縄家政女学校(後に積徳高等女学校と改称)を創設して、活発な教化伝道を展開していたが、去る沖縄戦でこれらすべてを焼失した。(□→「聖徳山大典寺HP」)□大谷光端「食を精ならしめんと欲せば,先ず材料を撰(えら)ばざるべからず」
 東本願寺は行事でないせいか、西本願寺に比べたらだいぶ人出が少ない。入り口にハトが多い。最近は糞害のためハトに餌をやらないようにと、表示されている公園が多い中、ここでは餌を売っている。御影堂にのぼると20人の人が座っていた。瞑想。御影堂は世界最大の木造建築。親鸞聖人の御真影が安置されているところから御影堂と呼ぶ。出るとき正面に見えるのが御影門で京都三大門の一つである。ちなみに三大門とは、洛西の仁和寺二王門、洛東の南禅寺三門、洛東の知恩院三門を指す。また、仁和寺二王門の代わりに洛中の東本願寺御影堂門を数える。沖縄那覇市西町にある真教寺は浄土真宗東本願寺派の寺。1876年、田原法水により布教が開始され、84年創建。はじめは東本願寺講義所と称したが、大谷派琉球別院と改称、92年に真教寺に改めた。
 大谷本廟に向かう。途次、あちこちで観光土産なのかシーサーをよく目にする。文子天満宮、塩竈山上徳寺、仏性山本覚寺による。本覚寺境内には江戸中期、浮世草子の版元・八文字屋自笑の墓がある。ソテツもある。六波羅蜜寺は今までに何回もよっている。951年、醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。現存する空也上人の祈願文によると、963年、諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。1183年、平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。(□→「六波羅蜜寺HP」)

 五条坂の大谷本廟手前の円通橋(通称「めがね橋」橋脚、敷石板、欄干など総て花崗岩の切り石を用いている)を渡ると右側にソテツが見え、左側には親鸞聖人像が見える。仏殿を参拝。かつて本廟に、親鸞聖人の木像を安置するようになったのは、1295年頃からといわれている。大谷本廟は、親鸞聖人の末娘である覚信尼と、東国門弟の協力によって建てられたものだが、敷地は覚信尼の所有。覚信尼は、敷地を廟堂に寄進し、廟堂守護の役目(留守職)を、みずから引き受け、以後尼の子孫の中の適任者が門弟の承認を得て、就任することになった。これが後年の本願寺の血統相続の基となりました。大谷の廟堂が、親鸞聖人の墓塔を覆う屋舎から、聖人の彫像を安置する影堂へと移行したのも1295年頃。そして、三代目覚如上人によって、本尊阿弥陀如来を安置する寺院へと移行した。五条坂近くに河井寛次郎記念館があるが5時なので閉館していた。
 2006年10月発行の『大坂春秋』に宮元健次「豊臣秀吉による寺町の形成」が載っている。それに「1591年秀吉は、本願寺門主顕如に『下鳥羽より下、淀より上の間、何れの所なりとも御好次第』と伝え、本願寺は迷わず現在の六条の地を選んだ。というのも現在の地は、本願寺にとって聖地というべき浄土真宗の開祖・親鸞の聖廟・大谷本廟のもとあった場所の真東にあたるからに他ならない。興味深いのは、その東西軸上に、阿弥陀ヶ峰が位置し、その山頂に秀吉の霊廟である豊国廟が位置していることだろう。また同軸線上に秀吉を神として祀る豊国神社が位置することも注目したい」と記す。つまり秀吉は生前より死後の世界を保証するという阿弥陀如来信仰を応用し自らが神に再生する計画をしていたとする。

「伏見稲荷から豊国廟へ」(inoues.net/family/fushimi_inari.html)
 国立博物館隣にある豊国神社は、豊臣秀吉死去の翌年の1599年、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。方広寺にあった大仏は、天保年間に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。この大仏は私もよく見にいったが1973年3月28日深夜の火災によって焼失した。


方広寺の大仏

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〇京都(大石橋の東にある陶化小学校の校庭)・大阪(住吉大社)にある石敢當。右端のこの写真は旅館の前にあった石敢當、現在は御津八幡宮にある。心斎橋駅の南西、御堂筋と西横堀に挟まれた西心斎橋のうち、御津公園(通称、三角公園→グーグル画像「アメリカ村三角公園」)を中心にアメリカ村と言われる。近くの御津八幡宮(祭神・応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)の左側狛犬の傍にソテツ、梅石筆「石敢當」(→画像グーグル・ヤフー)入り口付近に建っている。沖縄県立図書館の階下に仲島の大石がある。(石川正通は1945年の東京空襲で自宅と5万冊の蔵書全焼している)そのそばに那覇名誉市民・石川正通歌碑[橋内の 誇りも髙き 泉崎 昔も今も 人美しく](写真左)がある。
 陶化小学校(1872年に授業開始)で江戸時代からの「石敢當」を見に行く。小学校の門近くに二宮金次郎像があった。石敢當の説明文に「この石燈篭は安政のはじめ(1854年)銭取橋という今の勧進橋のたもとに、絹問屋商の手で、夜の通行人の安全を守るため建てられたものです。しかし、長い年月の間に破損したので、村人が、明治23年に修復し、明治41年に陶化小学校の玄関に移つされ、今日にいたっています。なお、石敢當は、沖縄県、鹿児島県、宮崎県の南部に多く立っていて、九州、四国、本州、北海道まで散在しています。石燈篭の竿石部に石敢當と彫(ほ)られているのは全国でもきわめて珍らしいものです。」とある。→(グーグル画像「陶化小学校 石敢當」)、夕日が沈みはじめていた。京阪東福寺駅から帰宅。

 ネット上の情報を妙出する。1570年から1580年までの10年間、織田信長と石山本願寺が間戦った石山戦争までさかのぼる。信長が天下統一のチャンスを失ったのは、実にこの無用な戦の為だったといわれます。信長は最後は正親町天皇を仲裁にたてて和議を求めて来たが、この時開城するか抗戦するかで本願寺内の議論は真っ二つに分かれたのです。これが、東西本願寺分裂の遠因となる。時の十一代宗主、顕如上人と次男の准如とは和解の勧めに従おうとしたのに対し、長男の教如は籠城して徹底的抗戦を主張してゆずらず、両派は対立することになった。一朝の思いつきで叡岳三千坊を焼き払い、高僧から美女小童に至るまで数千人を火中に投げ込んだ織田信長。残虐非道な大量殺りくが行われた長島一揆などを知っていた教如は、信長を警戒した。

 顕如上人は己に順わない教如を義絶し、弟の准如をたてて御真影と共に和歌山の鷺の森別院へ移ったのです。信長の軍勢は、その後間もなく雑賀騒動を機として、浄土真宗殲滅を期して追撃してきた。1582年6月、暁の風を切って粛々と進む光秀の大群が大江山にさしかかるや、右すれば備中に走る道を「敵は鷺の森の本願寺に非ず、本能寺にあり」と馬首一転、織田信長が49才の生涯を火中に葬るという一大悲劇があったが為、危く本願寺は救われた。だから三日天下の明智光秀は浄土真宗にとっては大恩人ということになります。顕如上人は教如の義絶は解きましたが、親子の溝は深まるばかりで、やがて教如をおいて弟の准如へ本願寺十二代目の宗主の職をゆずることになりました。これが今日の西本願寺。戦乱はおさまって、利口な秀吉は、さわらぬ本願寺にたたりなしの態度で一生終わりましたが、徳川家康は天海僧正の謀略によって、この不遇をかこっていた教如に目をつけ、本願寺勢力の分割を謀って、寺地を寄進して東本願寺を別立させることに成功しました。□詳しくは→(中村僚「西本願寺と東本願寺の違い-浄土真宗.jp」)

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1934年4月25日ーこれは那覇西新町真宗大谷派の末寺眞教寺の大伽藍、本堂の偉観

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1934年7月20日ー大谷光暢大谷派管長、智子裏方来県

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1934年ー真教寺で親鸞上人降誕会、写真は真教幼稚園同窓生出演の余興「麦ふみ」

1936年10月ー振興沖縄の産業視察に大谷光瑞氏来春に来県予定ー昨日先発に原少将来る
1938年11月26日ー太田朝敷(琉球新報社長、沖縄郷土協会会長、沖縄新聞記者協会会長、瑞泉社組合長、真教寺信徒総代)真教寺に於いて琉球新報社葬を以って告別式


2012年11月3日~12月26日 那覇市歴史博物館「那覇の神社・寺院 ~先祖が拝んだ神・仏~」
那覇市中核市移行記念
那覇市歴史博物館・那覇市教育委員会文化財課共同企画展
「那覇の神社・寺院 ~先祖が拝んだ神・仏~」

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1983年10月11日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂ー未来」/右は『琉文手帖』発売元の琉球書院(琉球文化社)

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小学6年の息子(後ろに息子愛用NECのパソコン、私は操作が分からないので触れたことがない)、さやか、あけみ