02/18: 1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 大城皓也「藤田嗣治先生の想い出」
2022年3月 沖縄県立博物館・美術館『美術館紀要』第10号 豊見山愛「藤田嗣治《辻美人》解題ー沖縄美術史研究を通して」
1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 大城皓也「藤田嗣治先生の想い出」
2014年5月24日~9月15日 沖縄県立博物館・美術館「コレクション展/『沖縄美術の流れ』」で、藤田嗣治の「辻美人」「海辺の墓地」が展示されている。下記の頃に描いたものだ。
1938年4月ー世界のフジタ、二科会の重鎮・藤田嗣治が加治屋隆二、竹谷富士雄、南風原朝光を伴って浮島丸で来沖。那覇港には比嘉景常、名渡山愛順、大城皓也らが出迎えた。加治屋は東京の小学校での比嘉景常の教え子。南風原と琉球新報記者の國吉眞哲とは同じ泊出身、親友であった。琉球新報は藤田の講演会、座談会を企画し、藤田作品鑑賞会を後援するなど抱え込んだ。
藤田嗣治の来沖の経緯は、国吉真哲さんが「絵かき仲間の加治屋隆二さん、竹谷不二雄さんと南風原朝光君3人で沖縄へ行こうという話になり、その旅費のことなど打ちあわせている所へ、藤田画伯が来て『おもしろそうな話をしているなあ、ボクも行こう』ということになって沖縄を訪れた」と『南風原朝光遺作画集』の中で述べている。
藤田は1910年に東京美術学校を卒業、同級生には岡本一平(岡本太郎の父)、近藤浩一路などがいた。30年、藤田は世界恐慌の最中に北米に旅立つ。そして南米に廻りブラジル、アルゼンチンなどで多くの沖縄人にも出会う。メキシコで『週刊日墨新聞』を創刊した平田忠義もその一人で平田はその出会いを自伝に書いている。それ以来、藤田は沖縄に関心を持ちつづけていたようだ。沖縄県が購入した藤田作「孫」は38年9月の第25回二科会展覧会(東京府美術館)に出品されたものだ。
藤田が沖縄で描いた作品「山城正忠像」
1938年5月14日『琉球新報』辻井浩太郎(三重県立上野中学校教諭)「沖縄観光の思ひ出ー有名な辻の女を見、独特の舞踊も見た。彼女らの生活内部も只見るだけは見て、いい話の種にはなった。今度行ったら古典劇をゆっくり見たいと思ふ。・・・」
1938年5月15日『琉球新報』「藤田展覧会」ー辻美人も描いている。
1938年5月20日『琉球新報』「藤田帰京」
□藤田嗣治「沖縄へ送る讃美」
黒潮に浮ぶ首飾の島々/浪に風に憩いなく洗はれ打たれ/長き黒髪は漂ひ瞳は輝く/憧れのこの島 ◇
赤く又青く咲き茂る名も知らぬ木草/影は旅人を包み、枝は異鳥を宿す/りゅうぜつらんは月を貫き、墓場は愛の密語を漏さず/懐しのこの島 ◇
帯もなき薄衣の女子等/乳も脛も銅に染めて、珊瑚礁の花の上を歩む/海山の幸を頭上に飾りて/さらば、この夢の國
1943年2月 『新美術』春鳥會 藤田嗣治「戰爭画に就いて」
現地に於ける藤田嗣治氏、田村孝之助氏
藤田嗣治「12月8日の真珠湾」
藤田嗣治「シンガポール最後の日」
1982年9月 沖縄の雑誌『青い海』116号
加治屋隆二
右は南風原朝光がモデル。
1938年4月28日『琉球新報』加治屋隆二「沖縄を想ふ」
1939年6月1日、2日『琉球新報』山元恵一「南風原朝光氏の近作について」
1940年7月『みずゑ』加治屋隆二「沖縄旅行」(挿絵4)
竹谷富士雄
1938年4月27日『琉球新報』竹谷富士雄「琉球を夢みて」
1940年10月「竹谷富士雄第1回個人展覧会」青樹社
1970年9月「竹谷富士雄展」ギャラリーためなが
1987年12月『竹谷富士雄画集』日動画廊