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  「くろねこの短語」2021年5月28日 凄いことになってきた。なんと、IOCの最古参の重鎮が、まるで宗主国の君主のごとくオリンピック開催強行の持論を喚き散らしたってね。「仮に菅義偉首相から東京オリンピックの中止を求められたとしても、それは個人的な意見に過ぎない」「前例のないアルマゲドンに見舞われない限り、東京五輪は計画通りに進むだろう」いやはや、これって国家主権の侵害だろう。まるで植民地みたいなもので、アジア蔑視と言っても過言ではない。それにしても、アルマゲドンって、お前はブルース・ウィルスか、って古いな。
 「犠牲を払わなければならない」(バッハIOC会長)、「緊急事態宣言下でも五輪開催」(コーツIOC副会長)に続いての「アルマゲドン」発言だってのに、カス総理やフリップ小池君がダンマリを決め込んでいるのは何故なんだろうね。こういう時こそ「ざけんじゃねえ」って啖呵切るのが務めなんじゃないのか。「中止を求められたとしても、それは個人的な意見に過ぎない」とまで言われて、何のリアクションも起こさないでいると、世界中から腰抜け野郎と見くびられることになりますよ。
 M・T 5-28 世界は微妙な状況に来ていますね。今頃になってワクチン接種に躍起になっている内閣ですが、どうしてこうも気づきが遅いのでしょう。頭が悪いか、井の中のカワズか、他人任せの緊迫感の欠如でしょうね。楽しくないオリンピックはするべきではありませんね。/東京オリンピックは、日本に住む者として、本当に無念ですが開催は無理かと感じます。オリンピック開催国なのに、対策があまりにも甘過ぎます。オリンピック、パラリンピックを目指して、血の滲むような努力をされてこられた選手の皆さんがお気の毒でなりません。

  「くろねこの短語」2021年5月27日 (前略)そんなんだから、なかには、「もう、無理。自粛、そんなのかんけーねー」っていう店だって出てくるのもむべなるかなってものだ。大阪では実際に、雇用を守るためにも休業要請に従わない飲食店が目立ってるってね。それに対して、イソジン吉村君は「“正直者がバカを見る”ということは、あってはならない」「ここのお店で来るお客さんも、陽性になった時にね、命失っても、それでいいんかなと」「(守らない店には)営業停止ですよ。感染を抑えるためにもっと強い権限を与えてもらいたい」なんて強気の態度をとっているんだが、「だったらちゃんと休業補償しろ」と返り討ちにあっちゃいました。
 そもそも、大阪がパンデミックに陥ったのは、イソジン吉村君や雨合羽・松井君の無為無策が原因なんだよね。そればかりか、都市構想の住民投票に血道を上げてたんだから、いまさら何を言ってやがる、ってなもんです。それにしても、緊急事態宣言延長を大々的に謳い上げるメディア報道の中から、「休業と補償はセット」という基本がスッポリ抜け落ちてるのはどうしたわけなんだろうね。最初の緊急事態宣言の頃は、「休業と補償はセット」というのがコンセンサスだったはずなのに、いったい何をしてるんだろう。コロナに慣れたってよく言うけど、メディアこそコロナ慣れしちゃって、本当に報道すべきは何かってことを見失ってるんじゃないのか。
 5-31 本日も「さざ波 笑笑だからオリンピック強行」ウィルス禍、沖縄142人(2)、大阪98人(16)、東京260(1)人
 5-30 本日も「さざ波 笑笑だからオリンピック強行」ウィルス禍、沖縄271人、大阪197人(8)、東京448人
 5-29 本日も「さざ波 笑笑だからオリンピック強行」ウィルス禍、沖縄335人、大阪216人(31)、東京539人(6)
 5-28 本日も「さざ波 笑笑」ウィルス禍、沖縄313人、大阪290人(13)、東京614人(6)
 5-27 本日も「さざ波 笑笑」ウィルス禍、沖縄 240人、大阪309人(30)、東京684人(11)
 5-26 本日も「さざ波 笑笑」ウィルス禍、沖縄 302人、大阪331人(27)、東京743人

  「くろねこの短語」2021年5月26日 (前略)さて、話変わって、河井バカップルの買収事件で、原資となったとされる1億五千万円について「関与していない」と言い募っていた土建政治・二階君が前言を翻して、「決定をした責任者は党総裁および幹事長だ」って認めたってね。この発言で、ペテン師・シンゾーの説明責任を問う声が党内からも上がっているとか。「責任は認めるけど、責任は取らない」のがペテン師・シンゾーの得意技だから、昨日も国会後に「1億五千万円の8割が税金で賄われている。説明責任はどう考えるか」と記者に質問されて、そのまま無言で立ち去りましたとさ。
 土建政治・二階君の「決定をした責任者は党総裁および幹事長だ」という発言が何を意図したものなのかはさだかではないが、あわよくば復活を画策していたペテン師・シンゾーはさぞかし「余計なことを」とお腹が痛くなっていることだろう。

 斎藤 陽子 5-25 米国務省は5月24日、日本の新型コロナウイルスの感染拡大を受け、これまでは2番目に高い「レベル3(渡航の再検討)」としていましたが、日本への渡航警戒レベルを4段階で最高の「レベル4」に引き上げ、「渡航中止を勧告」しました。夫婦二人ともワクチン接種を3月に済ませ、これでいつでもふる里へ帰れると、心つもりにしておりましたが、日本が当分遠くなってしまいました。この米国国務省の勧告は日本に対しての、オリンピック開催の再考通告のようなもの、これでますますオリンピック開催も中止が現実的になって来たような雰囲気です。
 時を同じくして、国連のアントニオ・グテーレス事務総長(72)が新型コロナ禍を「戦時中」との見解を表明し、東京五輪の開催中止につながる可能性が出てきたと言います。フランスメディア「キャピタル」は、24日に行われた世界保健総会の開会式でグテーレス事務総長が「我々には戦時体制が必要だ」と呼びかけたことを大々的に報道。「我々はウイルスと戦争をしているんだ。戦時体制の論理と緊急性が必要だ」と続けて力説したといいます。同メディアがこの発言に注目したのは、賠償金なしで、国連がオリンピック開催中止を後押しかとの報道です。東京五輪への風向きが変わる可能性があると示唆しています。
 写真はイソマツ科のシーラベンダー(Sea Lavender)、ラベンダーの名がありますが、ラベンラー色の青紫なのでラベンダーと呼びますが、ラベンダーの花ではありません。別名マーシュローズマリー(Marshrosemaery)とも言い日本では標高800メートル以上の乾燥耕地で栽培されている様ですが、気候が乾燥し暖かい南カリフォルニアでは雑草のようにどこにでも自生しています。生息中から花はドライ・フラワーのように水気がないカラカラの花弁で、1年ほどドライ・フラワーとして飾っても同じ色を保っています。この花の精油はアロマ・オイルに使用されているといいます。
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大濱 聡 5-24

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2021年5月21~7月18日 那覇市歴史博物館「那覇の誕生祭」
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図録『那覇の誕生祭』那覇の宝物/令和の影

 「くろねこの短語」2021年5月24日 オリンピック開催強行論が横行する中、一定程度の観客を入れての開催が検討されているってね。緊急事態宣言下に野球などのスポーツイベントが観客入れて開催されているのも、実はそうした動きを後押しするためのアリバイ作りという話もある。なし崩し的に開催強行に突き進むことは、既にIOCと大会組織委員会、そして政府との間で合意ができてるんだろうね。だから、IOC副会長のコーツが「緊急事態宣言下でも東京五輪を開催」とのたまわったわけで、そんなコーツの何様発言を後押しするようにIOC会長のぼったくり男爵・バッハが極めて悪質な発言しやがりました。「五輪の夢を実現するために誰もがいくらかの犠牲を払わないといけない。アスリートは間違いなく彼らの五輪の夢を実現することができます」、ひとの犠牲の上に成り立った「平和の祭典」なんてのがどこにある。オリンピックをビジネスとするIOCこそが犠牲を払うべきだろう。こんな発言許していいのかねえ。主権国家として、その長としてカス総理は一言あってしかるべきだろう。
 と思ってたら、紙をなくせばデシタル化と信じているおめでたいデジタル大臣・井上君が、まるで国民に犠牲を強いるのは当たり前のような発言して炎上しちゃいました。「新しいパンデミック下でのオリンピックの開催というモデルを日本が初めて作ることができる」凄いなあ。そのうち、「戦時下でのオリンピック開催という日本モデル」てなこと言い出すんじゃないか。もうどうしようもないね。アメリカやヨーロッパ諸国が選手団派遣を中止でもしない限り、このまま行っちゃうんだろうね。

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大濱 聡 5-20

 沖縄復帰20年を記念して発行された記念硬貨500円白銅貨、表は沖縄の首里城正殿、裏面には龍が描かれている。最近出た那覇市の「市民の友」には正殿が描かれている。/琉球大学開校記念切手(原画)/正殿切手/私の愛蔵品ー茂生作「御殿墓ミニチュア」
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1935年10月 上原永盛『沖縄縣人物風景寫眞大観』沖縄通信社

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1969年3月 『当間重剛回想録』同刊行会

初代那覇市長・當間重慎
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写真/1900年4月8日「東京・沖縄青年会ー平良保一君卒業記念」伊江朝助、伊波普猷、伊波普成、當間重慎、渡久地政瑚、東恩納寛文ら後に沖縄の新聞界で活躍する面々が居並ぶ。この写真は沖縄県立図書館の東恩納洋資料にあるもの。この写真の時代背景は伊波普成が1909年3月19日『沖縄毎日新聞』に書いた入社の辞「誓閑寺時代の回顧」でよく分かる。→「誓閑寺時代の回顧」
『平氏當間家譜 正統』(那覇市歴史博物館所蔵)





1911年9月 那覇区区会議員による区長候補選挙において、第1候補者當間重慎、第2候補者齋藤用之助、第3候補者伊波普猷(国立公文書館)

1936ー那覇市の戸籍

那覇/那覇市制90年
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1921年
3月6日ー『琉球新報』「中城湾ご仮泊に関し警保局長より県へ公電あり御上陸は不明なるも」
3月6日ー東宮(昭和天皇)来沖

3月7日ー『琉球新報』「此れ眞に千載一隅の栄誉!東宮殿下昨日中城湾に御仮泊 御上陸御自ら民情を御視察遊ばさる」

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 史料 編 集室紀 要 第25号 (2000) 新聞資料 「那覇首里市制紀念号」について小野まさ子★
1998年に東京大学明治新聞雑誌文庫 よりマイクロフィルムにて収集 した新聞資料は、当山昌直 「東大明治新聞雑誌文庫に新たに収蔵 された戦前の沖縄の新聞」(『史料編集室紀要 第24号』1999.3)で、その詳細が述べ られているが、その中に大正10年 (1921)5月21日
沖縄 タイムス 「那覇首里市制紀念号」があったので、紹介する。那覇 ・首里は、明治29年 (1896)3月の勅令第十九号により区制を敷 き、その後、明治41(1908)年 3月に勅令第四十三号の改正区制公布 をへて、本記事の大正10年市制施行 となるのだが、区制廃止市制施行の問題は、既存の新聞資料で見ると、すでに大正 6年から7年にかけて登場 している。
 大正 6年12月27日琉球新報記事の、那覇区会に提案された 「特別区制廃止に関する意見書」などによると、那覇区は、明治29年の区制が施行 され、明治41年の改正区制をへて、都市が拡大 し発展 してい く時勢をうけ、大正 8年 1月の所得税改正を契機 に、市制への移行 を熱望 している様子が うかがえる0-万首里区では、大正 7年 3月18日の琉球新報記事「特別撤廃 と首里」のように、政治経済の比重が次第に古都首里から那覇へ と傾いてい くのを受けて、市制-の転換は那覇区と同様 にはしがたいとの意見 と、大正 7年 5月28日の「首里区撤廃協議/請願書提出決定」のように、市制への移行を願 う、区制撤廃賛成の意見 とがあった。最終的に那覇 ・首里 ともに市制への意見の統一を見、県知事鈴木邦義が国へ特別制度撤廃 を内々に伺 う内容の記事があるにも関わらず、市制への転換はなかった。
 そ して、それから3年後の大正10年に市制が施行 され、本記事- とつながるのである。ここでは、「那覇首里市制紀念号」 と 「市制施行」の新聞を写真で、またその周辺の関連記事 を以下の記事見出 しとして記 した。

 斎藤 陽子 【思い出のアルバム】2014年6月にロスアンゼルス空港からロンドン・ヒースロー空港に到着し、二泊を過ごしたロンドンはお天気に恵まれて、あらかたのロンドン市内観光を終えましたが、2泊3日滞在した英国ロンドンは新旧混ざり合った建物の景観と、外国人にはテンコモリの歴史的な重みのある観光地でした。ホテル代は2人で5万円は出さないと、まともな部屋にありつけず、レストランの価格は東京の2倍、タクシー代金は東京の3倍と高く、特に物価の安いアメリカからの旅人には余りの長居は閉口します。
 ガソリン代金は1リッター260円から300円と高価で、ほとんど85%の人は2リッター級のディーゼル・エンジン車を使用しています。アメリカで生活していると、日本のガソリンが高いと思っていましたが、イギリスのガソリンは日本の2倍の価格には驚きました。ロンドンの町並みを走っているイギリスの車は余り見当たらず、ほとんどがベンツ、BMW,、アウディーなどの、ディーゼル・エンジン車で占めていました。北ノールウェー北極圏へのクルーズの旅へと、明日の船出のためロンドンを後に、イギリスの南部ハンプシャー州の港町サウサンプトン(Southampton)へ、早朝に車で向かいました。
 ロンドンからサザンプトンまでは約200キロ、車で2時間ほどかかり人口22万のサザンプトンの港町に着きました。サウザンプトンの街の歴史は古く、ローマ人が最初に港町に移住したあと、サクソン人に引き継がれたとのこと。西暦840年頃にバイキングの擊襲にあい、港周辺に防壁を作った跡が今でもあります。この地は11世紀にはノルマン人に征服され、以後 貿易港としての街として栄えたといいます。その昔、海に囲まれたサザンプトンはバイキングの襲来に備えて、各地に要塞を作り備え、住宅地にはバイキングの侵入を防ぐため、高い塀で街全体を囲い今もその名残があります。サザンプトンの港町はかつてはイギリスの入口としてロンドンと並んで、物流などで活気のある賑やかな港街だったといい、サウザンプトン港は、かつてはヨーロッパ各地と結ぶ港として、有名な位置をしめていたといいます。
 また第一次、第二次世界大戦には、多くの戦艦がサザンプトン港から出港したと言われています。1912年当時としては世界最大の26,328トンを有した映画『タイタニック』で知られる、当時としては最大級の豪華客船タイタニック号も、このサザンプトン港から出港し、北大西洋上で氷山と接触して乗員乗客1,513人が犠牲になりました。この街には、タイタニックの資料や遺品を展示している、タイタニック博物館があり、明日のクルーズ乗船まで時間があるので、タイタニック博物館へ行ってきました。アメリカから来たものには特にイギリス北部の英語なまりは理解するのに時間がかかるものですが、南部サザンプトンは余り訛りが激しくない英語で助かります。明日から12日間のノルウェー沿岸を観光をしながら、ノールウェーを北上して北極圏まで行く、プリンセス・クルーズ、ルビー号の旅に、サザンプトン港の埠頭から出発します。
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