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第17代那覇市長・兼次佐一


 1953年9月『沖縄婦人の友』創刊(表紙画・山田真山)。社長・兼次佐一、編集兼発行人・比嘉寿助
 1953年11月『沖縄婦人の友』2号
 1954年1月
 1954年2月
 1955年『沖縄婦人之友』新春号□大宜味朝徳(沖縄出版協会長)/沖縄婦人之友の発展を祝すー出版事業は難事業の一つである。これ位、体力・智力を使うなら他にいくらでも楽な仕事はある筈だ。智識階級を相手の仕事だけに一寸でもヘマをやるともう相手にされない。沖縄における出版業は全く宿命の仕事である。これは過去の出版受難史が雄弁に物語っている。
 永続した雑誌と云うのは今まで皆無の状態である。三号雑誌は良い方で一号でつぶれたものや計画だけで本の姿を見せず流産するのが多い。この難事業を比嘉君がコツコトと継続し、逐年発展の一途を辿りつつあることは比嘉君の信念と情熱の然らしむるものとして敬意を表するものである。今度更に新年度を期し編集方針を改革し誌面を公開し、雑誌文化を通じて沖縄の発展に寄与したいということは非常に意のあることでその発展に期待している次第である。
 私が比嘉君を知ったのは昨年彼が那覇市会議員に落選したとき、私の事務所を訪ねて会ったときが始めてである。そのときの言草がふるっている。「どうも那覇市民は私の人物を知らぬようだ。どうか権威のある沖縄興信所発行の『琉球人物名鑑』に私の経歴を紹介してくれ」ということであった。
 比嘉寿助(□1915年2月10日~1978年6月27日)代書業サイン社
本籍・那覇市西新町 住所・那覇市二区九/大正3年2月10日生 南大東島尋常高等学校卒。 趣味・一人で夜道を歩いて考えること。/家族・妻豊子、長女祥子、二女美津子、三女小夜子、四女市子。昭和8年あの有名な琉球天一坊事件をまきおこし後に日刊沖縄新聞記者。23歳の時に沖縄批判社を創立、初版で解散となり、24歳の時上京すべく鹿児島から土方をやりつつ1年がかりで25歳の暮れの鐘を東京新宿の安酒屋で聞くという放浪の旅をなし、26歳の時サンゴ座脚本部に入り、戦争と共に徴用され八重山飛行場の作業班長となる。終戦後はPT船大工、МGメスホールコック、『八重山文化誌』記者。現在前記場所にて代書業をなす。年3月、那覇市会議員に立候補し惜敗。比嘉和志のペンネームで雑文を書く。であった。
 終わりに乞わるるままに『沖縄婦人之友』に忌憚のない希望を述べてみたい。沖縄の出版界の現状として、枕の代用にするような数百頁の雑誌をつくることは無理な話である。・・・・とすれば頁を少なくして質でゆくほかはない。同時に特色を持たせることが必要である。しからば『沖縄婦人之友』の特色をどこに置くか?という問題であるが、これには私は漫画(現在もやっているが)と婦人、子どもの読物に重点をおくことだと思う。漫画は立派なニュースであり、社会評論であり目に訴える読物として高く評価してよい。婦人子どもには最初に飛びつくのは漫画である。
1954年『向姓仲吉家之家譜』沖縄婦人之友社

1976年5月ー『政経情報』創刊/編集発行・兼次佐一 発行所・政経情報社(那覇市古波蔵)


1976年5月『政経情報』創刊号□「伊波普猷生誕百年記念 おもろと沖縄学の父」、沖映演劇「那覇大綱挽き基金募集特別公演・裁判劇女よ強くあれ」
1976年6月『政経情報』№2
1976年8月『政経情報』№3□「浜比嘉出身の彫刻家(金城実)本土で大気炎」「沖縄ヒューム管工業所・仲本幸智」
1976年9月『政経情報』№4□「小佐野賢治の摩手 沖縄にも延びていた」「沖縄電力の発電所建設に地元民反対」「NHK受信料徴収率最下位の沖縄」「天災と人災ー中国の地震と玉城村の陥落」
1976年10月『政経情報』№5□「毛主席の死を悼む」「防衛施設庁の態度」を糾弾せよ」、「安里徳仁ー米寿を迎えて」「(有)嘉栄産業・赤嶺嘉栄」
1976年11月『政経情報』№6□「海洋博の犠牲・琉海倒産」「大阪商人 生肉牛輸入」「国会議事堂のトラパーチンを切った粟国太郎翁の話」「暴力による組合弾圧(オリオンビール)」、島庄吉「関東地区における北山会 8年ぶりに復活ー平光雄、上間実、春山国生(夫人は岸本賀昌の二女とよ)、宮城栄昌」→№12島庄吉「うちなーんちゅ物語」
1976年12月『政経情報』№7
1977年1月『政経情報』№8
1977年2月『政経情報』№9□「観光立県に奇抜な着想が欲しい」「大阪のロンボックチーム優勝(平岡行秀)」
1977年4月『政経情報』№10□「集団就職の少年少女を守れ(がじまる会)」、屋良朝四郎「努力格差を是正せよ」「大阪便り」、仲井真元楷「狂歌雑記」、安里徳仁「琉歌」
1977年5月『政経情報』№11□「「大阪で沖縄の観光物産展/がじゅまる会総会/金城実氏の解放会館彫塑」


1977年7月『政経情報』№12□「身障者・照屋潔氏 大阪でがんばる」島庄吉「うちなーんちゅ物語」、荻堂盛進「思い出の風物ー人力車と客馬車」
大阪便りー若水会、西淀川区県人会、港区県人会、金城康子琉舞研究所発表会」
1977年10月『政経情報』№14

1977年12月『政経情報』№15□「モノレールを早く北部まで」「具志堅用高KОで王座防衛」「久茂地文庫」、大阪山原人「県外就職者について県当局に堤言(沖縄エイサー大会)」/大阪支局(島袋俊一)、横浜支局(島庄吉)

1981年1月『政経情報』№36□「みさを未亡人の仲宗根源和伝」→1983年2月『政経情報』江刺昭子「仲宗根源和伝」所感
1981年3月 『政経情報』№38□「85歳でなお燃え続ける浦崎康華の炎」
1982年10月『政経情報』№54□「みんなのみんかえんー古江亮仁」、座喜味康夫「那覇病院七号室」
1983年1月 『政経情報』古江亮仁「沖縄芸能を見て」①~④4月
1983年10月 『政経情報』兼次佐一「真実の落書き64佐藤惣之助歌碑」
1986年4月 『政経情報』№89□仲村昇「ヤマトのウチナーンチュ」
1988年11月『政経情報』№115□ジェームス小田「戦後、CIAは反共工作のために元ナチス、元軍国主義者を雇ってきた。殊に日本ではCIA工作は大成功」「伊良部新聞 大阪本社(元長栄)」

小田兄弟
元那覇市長の兼次佐一氏が発行していた『政経情報』に、世界タイムス社長の小田俊与が第73回太平洋美術展に女性の裸体画を出品、入選した作品絵葉書を掲載している。広島出身なので戦後「水爆禁止十字軍」と名乗ったこともある。兄・栄と、戦前の那覇市で『日刊沖縄新聞』(社長・栄、総務・俊与、営業・義春)を発行したこともある。
兄の栄は天界と号し『天界物語』(1969-9)という自叙伝がある。中に金城南邦や当山哲夫が出てくる。ハワイに当山を訪ねてのところに「人口過剰の日本から、一人でも海外へ出稼ぎ移民すれば、それだけ日本全体の行き詰まりが軽くなる。ハワイやブラジルなどへの移民の先駆を切った人たちは、日本人に宿命づけられている人口地獄解決の先駆者であり、救済者でもある」と記している。
□→島袋和幸『沖縄の軌跡』「昭和初期沖縄を疾駆した小田兄弟ー小田栄・俊与兄弟」

島袋俊一『沖縄新報』大阪市大正区
島袋俊一(1917年5月16日~2001年9月22日)
高嶺朝光『新聞五十年』(沖縄タイムス社1973年)「1945年5月25日、沖縄新報の私たち一行は豊平良顕君、具志堅政冶君(妻子同伴)、前田宗信君に牧港篤三、大山一雄、稲嶺盛国、仲本政基、島袋俊一、与儀清三君らが加わって首里城から脱出した。(略)捕虜になるー私の知人で首里第一国民小学校の教頭だった座波嘉永氏が米軍の命令を受けて学校を開いていたので、これさいわいと頼み込んで豊平君を始め牧港、島袋俊一君らを教員に引きとってもらった。(略)沖縄タイムス創刊ー発行日の二日前に上間正諭、牧港篤三、大山一雄、仲本政基、稲嶺盛国、島袋俊一君らは編集の作業をすませた」(末吉家の仏間にて)。



1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)」

2001年10月11日『沖縄タイムス』垣花義盛「島(島袋俊一)先生ー27回を数える今年のエイサーは、9月16日、大正区平尾公園グラウンドで繰り広げられ、大盛況であった。近畿一円はもちろん、愛知から、東京からと多団体の参加に運営役員はうれしい悲鳴を上げた。いつものように、にこにこ笑顔をふりまいてくれたのに、5日後の永別となった。島先生は名護市羽地・稲嶺の出身、享年84歳であった。

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1966年12月8日『沖縄新報』創刊号(編集発行・島袋俊一)

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左、島袋俊一氏、貞子夫人(撮影・新城栄徳)