03/13: 1922年3月28日 『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆ー豊見親碑」
3月28日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<11>ー豊見親碑」
3月29日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<12>ー豊見親碑」
与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑】(よなはせどとみおやとうりゅうきゅせきひ)所在地:上之屋201
与那覇勢頭豊見親は、1390年、宮古の人ではじめて中山に服属した人で、それによって宮古の首長に任じられました。
ところが言葉(方言)が通じないので、一緒につれてきた部下達の中から20人を選んで学ばせました。彼らは3年で言葉が通じるようになり、国王への貢物を自ら納めることができ、宮古に帰る時には王城内で送別の宴を賜ったといわれています。
豊見親の部下で高真佐利屋(たかまさりや)という者がいて、故郷が遠く離れているので望郷の念にかられ、毎夜泊の後方にあった火立屋(ヒータティヤー)に登ってアヤグを歌ったりしたので、村の人たちはこの地を高真佐利屋原(たかまさりやばる)と呼んだといいます。碑には、「その後屋敷跡は人手に渡ったので、与那覇の子孫がこの地を買い求めて記念碑を建て、礼拝の場所にするため白川氏正統14世恵政が上国の時、1767年、この碑を建てた」と記されています。(オキナワン ネイチャー BOY)
1922年3月25日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆ー琉球史に見えたる暗殺」
○国頭按司家の家譜によると、10世正實 国頭按司、童名思五郎金 馬元亮は康煕42年即ち元禄16年(西紀1703)正月13日の生まれで、父は正長、母は尚貞王の女(むすめ)眞鍋樽金 室は向氏西平親方朝叙の女 眞鶴金、長男 正方、長女 眞鍋樽、次女 眞加戸樽 三女 眞勢仁金を生む。尚貞王世代康煕四十五年六月 父の跡を継ぎ三百石を領す。その時僅かに四歳である。・・・・□→家譜は太平洋戦争で消失。戦後『馬姓大宗世国頭家家系図』が刊行された。莫門冬は口碑をそのままに物語ろう、と家譜を参考に蔡温を刺さんと企てた国頭按司正實について述べている。
3月30日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<13>ーおもろ艸紙の消失」(具志川按司家譜)
1922(大正11)年
1月 島倉龍治ら沖縄史蹟保存会を設立し東宮行啓記念碑などの史蹟20余を建碑
2月17日 『沖縄朝日新聞』写真「上村渠の行列」「前村渠の馬小」
2月18碑 『沖縄朝日新聞』広告「那覇劇場」
2月 那覇の帝國館で「元勲大隈侯 國民葬」上映
2月9日 『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(2)」
この記事の側に「山公の国葬ー今日午後2時 真教寺」
2月21日 『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(10)」
側に「啄木碑建設」記事
〇嘗て印度哲人タゴールが来た時隈侯は例の口調にて「我輩老来書をよまさるを以て哲学などは研究していない、唯花を植えて楽しむのみであるんである」と云ったら、タゴール①「花を植えて楽しむことがまた哲学であります、閣下はそれに依って自然と人生の問題を考へて居らるるから」とやって、流石の長広舌をして一時沈黙せしめたことがある。併し隈侯の観花哲学はそこまでは進んでいなかったようだ。
①タゴール 【Rabindranath Tagore】
[1861~1941]インドの詩人・小説家・思想家。インドの近代化を促し、東西文化の融合に努めた。ベンガル語で作品を書き、一部を自ら英訳。1913年、ノーベル文学賞受賞。詩集「ギーターンジャリ」、小説「ゴーラ」など。→コトバンク
2月22日 『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(11)」
側に「美しく有望な女形ー儀保松男君」記事
2月24日 『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(14)」
3月21日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<5>ー男女の幼名」
3月22日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<6>ー察度は童名?」
3月24日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<8>ー琉球史に見えたる暗殺」
3月25日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<9>ー琉球史に見えたる暗殺」(国頭按司家譜)
3月26日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<10>ー琉球史に見えたる暗殺」
3月28日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<11>ー豊見親碑」
3月29日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<12>ー豊見親碑」
3月30日 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<13>ーおもろ艸紙の消失」(具志川按司家譜)
□程順則の碑を手始めに七偉人(羽地王子、宜湾朝保、護佐丸)の碑が続々その墓地に建てられた。書は東宮侍従長子爵・入江為守氏①。1923年1月9日『沖縄タイムス』「厳かに行はれた文若公建碑式ー島倉氏の建碑報告」
①入江為守 いりえ-ためもり
1868-1936 明治-昭和時代前期の官僚,歌人。
慶応4年4月20日生まれ。冷泉為理(れいぜい-ためすけ)の3男。入江相政(すけまさ)の父。明治30年貴族院議員。のち東宮侍従長,侍従次長をへて昭和2年皇太后宮大夫。この間大正4年から御歌所所長をかね,「明治天皇御集」「昭憲皇太后御集」編集事業を完成させた。昭和11年3月19日死去。69歳。京都出身。(コトバンク)