10/31: 世相ジャパン
2023-11-1 伊佐眞一 昨日、中国から帰ってきました。北京に4泊、上海に2泊しただけですが、現地に立った感覚は文献や映像では代え難い体験です。琉球の文化がいかに中国に大きく負っているか、わずかなりともわかりましたね。
2022年11月2日、首里から伊佐眞一さんが泊まで歩いて(健康のため)きて『「時の眼ー沖縄」批評誌N27』第10号を恵まれた。
2022年10月 『「時の眼ー沖縄」批評誌N27』第10号 伊佐眞一「『復帰』思考を葬る」/安里英子・ 聞き手「新川明が語る『反復帰』論・自立の思想」
伊佐眞一「『世替』とぅ ウチナーンチュぬ 実」/又吉盛清「新垣弓太郎と辛亥革命」/大田静男「南西諸島の最前線基地化を断て!」
後田多敦「大龍柱向き改ざんを止められるか!」/永津禎三「首里城正殿大龍柱問題」/比嘉慂「じっと見る・私の怨念 日本復帰50年」
2007年2月 比嘉慂『美童物語』講談社
大濱 聡 11-2 ■本日(11.2)の『琉球新報』朝刊が伝えた普久原恒勇さん(沖縄市在/作曲家・音楽プロデューサー)の訃報に驚いた。昨夜、ある宴席で同席した琉球新報社のYさんが同紙に普久原さんが連載した「ぼくの目ざわり耳ざわり」の担当だったことから、普久原さんのことを話題にしたばかりだったからである。
2022-10-30 第7回世界のウチナーンチュ大会
2022年10月28日 なるみ堂で、店主の翁長良明氏(右)/写真「濱田庄司夫妻」/仲里正雄氏、屋良朝信氏/なはーと、左から村上佳子さん、仲嶺絵里奈さん、屋良朝信
2022年10月 深澤晴美(岡山県生まれ 和洋女子大学 総合研究機構 近代文学研究所 上席主任研究員 准教授 博士))『川端康成 新資料による探求』鼎書房(〒132-0031 江戸川区松島2-17-2 ℡・FAX 03-3654-1064)◇10月28日、川端康成研究家の深澤さんから『川端康成 新資料による探求』が献本で送られてきた。
◇第7章 川端康成と沖縄ー幻の長編「南島孤島」/米国統治下の沖縄行ー
一,幻の長編「南島孤島」ー戦前の企て
二,昭和33年、米国統治下の沖縄行
1,戦跡の巡拝、民芸の鑑賞
2,沖縄タイムス主催「川端を囲む座談会」、乙姫劇団
3,ハンセン病療養所愛楽園訪問と講演「逢い難くして」
4,琉球新報主催「川端康成氏を囲んで 文学を語る座談会」
5,タイムス文化講座講演「国際ペン大会と外国作家」
三、沖縄行以後の川端と沖縄
関連〇斎藤 陽子(Walnut, California)2019-10月22日 1958年私が高校1年生の、まだ沖縄が完全には戦争の復興から立ち上がれていない、日本復帰にはまだまだ遠い頃、のちにノーべル文学賞を受賞した川端康成氏が日本ペンクラブ会長として初めて沖縄訪問された時に、思いがけずお会いすることができ、お話までできた日に頂いた、鎌倉のご自宅の住所まで記載された川端康成氏の名刺が出てきました。
私は当時 首里城跡に創立された琉球大学の敷地内(首里円覚寺跡)に同じ形の10軒ほどの琉球大学官舎に父母が大学に勤めていた関係で住んでいて、(ここには当時琉球大学の主要教授が住んでいて)我が家のお隣には日本ペンクラブに所属していらした、琉球大学教授の亀川正東教授も、この官舎に住んでいました。
亀川氏の家に立ち寄られた日本ペンクラブの会長の川端康成氏が、亀川氏を庭でお一人で立って待っている姿を発見し、高校1年の小娘の私はあらん限りの勇気を持って、川端康成氏に挨拶をしに駆け寄り話かけたのです。
あろうことか、川端氏は紳士的に小娘の私に丁寧に話しかけてくださり、鎌倉にいらしたらお寄りなさいと、あの大きな眼で見つめられて話されて、鎌倉の住所の入った名刺まで下さったのです。
当時の私は文学にどっぷりと溺れている、ちょっとませた文学少女で当然川端康成の小説をほとんど破読していたので、天にも登る気持ちで5分間ほどの会話は1時間ほどの時間にも思えました。
今では川端氏の大きなギョロッとした眼だけを思い出しますが、丁寧に少女を相手にする川端氏の目は優しみをたたえていました。
「伊豆の踊子」にもみられるように、川端康成は少女を非常に丁寧に美しく描く作家だったと言われています。川端康成の少女愛的な趣向が、私に対しても優しかったのかとこの歳になると、うがった(穿った)思いをしてしまいます。
よみたんまつり。孫は三線で参加
保育園でハロウィン。家でもかぶっている