☆2024-2 星雅彦さん(ほし・まさひこ=県文化協会顧問、詩人、美術評論家)1日午前1時29分、病気療養中のところ浦添市の病院で死去、92歳。那覇市久米出身。自宅は浦添市伊祖。

星雅彦/1932年1月5日 那覇市久米町で生まれる。     
1944年4月 那覇国民学校に入学、8月23日、妹と二人で疎開、巡洋艦で鹿児島港に入港。9月、千丁国民学校中等科1年に転入。
1945年4月、熊本県立八代中等学校入学。
1948年4月、熊本県八代高等学校1年に入学。春休み、上京し上野公園や御徒町で野宿しながら3週間過ごす。☆6月、翁長良明 首里に生まれる/12月、新城栄徳 粟国島で生まれる
 星雅彦/1949年8月 母からのまとまった金を持って上京。小田急線・参宮橋近くに三畳部屋のアパートを借りる。1951年7月、鎌倉の由比ガ浜の「海の家」で働きながらひと夏を過ごす。8月、父の位牌(享年74歳)と対面。1954年、東京中を歩き回り、勝手に記事を
書いて週刊誌や業界紙に売り込む。またサンドイッチマンをしたり、街角で似顔絵を描いたりする。いっぽう、「プロバンス」「風月堂」にも通ったが、ときたま池袋の「おもろ」「さんご」、新宿の「山原」にも出かけた。11月、杉並区でおおのしずこ(1956年7月、婚姻)と同棲、やがて中野区江古田に移る
 星雅彦/1959年8月、りらを連れて親子3人、那覇丸で14年振りに那覇へ渡航。母はスクラップ業をやめて松山町に「満月」という旅館を経営していた。

 ☆1964年4月 新城栄徳、集団就職で白雲丸に乗船、那覇港から上京、晴海桟橋に着く。後に知るが芥川賞作家・東峰夫も乗船していた。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。錦糸町駅から御茶ノ水駅で降りてニコライ堂の傍を通りながら神田古書街にも近い神田錦町三丁目の錦城商業高校夜間部に通う。神保町には新刊書店もあるが何故か古書店や古書展が面白い。古書店に積まれている雑誌は安く、主に週刊誌を買って切り抜いて手帳に貼っていた。この頃の週刊誌を切り抜かず、そのまま保存出来たらミニ大宅壮一文庫となっていた。しかし手帳は残っていない。

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1966年7月『新沖縄文学』2号 星雅彦「南の傀儡師」
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1971年8月 『青い海』星雅彦「沖縄戦からの 発想」

1982年9月 星雅彦、新生美術協会設立に参加、機関誌『新生美術』を編集発行。
1984年8月 『新生美術』<特集・玉那覇正吉>

1984年10月 やちむん会機関誌『』編集担当

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儀間比呂志、星雅彦

1987年5月 『新生美術』6号□新城栄徳「『浦崎永錫画伯』美術史を語る」
1988年5月 『新生美術』7号<特集・大嶺政寛 追悼アルバム>


1990年4月12日八汐荘にて、左から福本泰男氏、大城精徳、星雅彦氏/左から屋部公子さん、喜納勝代さん、船越義彰氏、星雅彦氏、新川明氏
1990年5月 『新生美術』8/9合併号<特集・山里永吉・豊平良顕・宮城孝也
1992年6月 『新生美術』10号<追慕・山元恵一・山田昌弘・浦崎永錫>
 
        □新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」

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1994年6月21日 川平朝申さんを訪問した星雅彦氏

1996年3月 『新生美術』11号<特集・安次嶺金正の画業を偲ぶ>
1996年6月 星雅彦、『うらそえ文芸』の企画編集を担当
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2000年4月 『うらそえ文芸』第5号
座談会「琉球処分から沖縄戦まで・・・・-戦争への道・100年ー」司会・星雅彦/大田良博/金城正篤/比屋根照夫
2001年3月 『新生美術』12号<特集・追悼 思い出 アルバムー具志堅聖児・金城安太郎・大嶺政敏・大嶺信一・宮良信成>
         □新城栄徳「金城安太郎さん」
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左から新城栄徳、幸地学氏、山城興勝氏、星雅彦氏

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新城栄徳、星雅彦氏、翁長良明さん



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2006年10月 沖縄県文化協会『10周年記念誌』

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2013年9月24日 十貫瀬橋近くでー詩人・星雅彦氏








2014年8月30日 「星雅彦 詩集『艦砲ぬ喰え残さー』出版記念会」

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星ファミリー
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星宛て:佐木隆三/嘉手川繁夫
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