麦夢忌/田原煙波
1924年12月14日『沖縄タイムス』/田原煙波①「俳友麦門冬を痛む」
○今まで障子に明るかった冬の日陰に失 したように薄れ行くを見つめて滅入るような淋しさを覚えている矢先君の死を聞かされた私は、物語る人の顔と口元とを見比べて、ただボンヤリと耳を傾けるより外はなかった。気の毒な事をした、惜しい事をしたといふ思が、それからそれへとひっきりなしに胸に湧いて来る。●●れ、やがて君のありし日の面影や、どん底からの表情が私の印象に蘇生へって来るのであった。君と相知ったのはたしか、明治四十●年の夏の頃、紅梯梧君の宅で亡三念③君の紹介によってであったと覚えている。其の年の秋亡柴舟君の宅で沖縄で初めての子規忌句会を催した時に君は「糸瓜忌や叱咤に洩れし人ばかり」といふ句を吐いて、私をして君の俳想凡ならずと感せしめたのであった。これより先、紅梯梧、(山下)紫海、私とが相合して沖縄俳界の革命者として自認し、三念其他の同志を糾合して在来の月並派に反旗を翻したのであったが其後更に亡楽山④と共に蘇鉄吟社を結んで、月並派を駆逐したのであった。然し私等の進みは遅れた。
君はやがて第二の革命者として名乗りをあげたのである。それは私等が子規派の句にたるみを感じて、碧梧桐先生一派の新傾向の句を研究せむとする頃、たまたま碧梧桐先生が来県せられた時、君は「潮ガボと吸ふ磯田 蘭刈●す」といふ句を発表して先生の賛辞を得たので私等は茲に目醒めざるを得なかったのである。私等は覚めた、そして連夜新傾向の句を批評し、感味した、やがて今迄の日本派が去って新傾向派として立つようになったのは慥かに君によって啓発された或物を感じたからであったのである。其後三念去り、楽山逝き、同人相離れて、いつの間にか君も私も俳界を遠ざかる様になったが、最近君の研究は学者として史家として世の造詣を深くするに至り、詩才は更に延びて漢詩に及び 優に一家をなすまでに心境を見たのであったが、惜しい事をした、もうこの世の人ではない。手元に遺っている君の旧作を漁りつつあり●昔の追憶に耽る時、北荒れの強い風と浪の音にまじって千鳥が寂しげに啼いている。君の魂は定めて君自身の道に躍進しつつあるであらふ、嗚呼
悼句  「君逝くと聞く薄るる冬日」「独りはぐれて野冬行く人」「遺句拾ひ偲ぶ千鳥啼く夜なり」「寒さしみじみと浪の音荒れて」

①田原煙波
1882年8月5日~1934年11月7日 本名・法馨。俳人・星佛、白水居。真教寺住職。那覇西村生まれ。1906年(明治39)東京真宗大学卒業。翌年、西新町において真教寺幼稚園創設、初代園長となる。

那覇の眞教寺
③三念・髙江洲康健
null
『琉文手帖』「歌人 山城正忠」
null
□私が入営中に高輪中学に髙江洲康健という人がいて、今、球陽座の髙江洲紅矢君の父で俳号を三念と言っていた。(『琉球新報』1932年5月)
④楽山・薬師吾吉


人物カタログ/俳人・内籐鳴雪
null
生年: 弘化4.4.15 (1847.5.29)
没年: 昭和1.2.20 (1926)
明治大正時代の俳人。本名素行。伊予松山藩士内藤同人の長男として江戸に生まれる。漢学を修めたのち,京都へ遊学。長州征討の従軍などを経て官吏となる。明治25(1892)年に正岡子規に俳句を学び,南塘,破焦の号で句作を始めた。和漢の学識と明治の情調にあふれた「初冬の竹緑なり詩仙堂」などの句は国民的に親しまれている。また,飄々乎として円満洒脱な人柄は万人から敬慕された。その死は,明治俳句の終焉を象徴するものであったともいえるであろう。著書に『鳴雪句集』(1909),『鳴雪自叙伝』(1922),『鳴雪俳句集』(1942)などがある。 →コトバンク(平石典子)

正岡子規著 岩波文庫 1927年7月『仰臥漫録』 1927年12月『墨汁一滴』 1936年10月『病狀六尺』 

 『仰臥漫録』ー正岡子規(しき)の日記(1901~02)。子規の死去する前年の1901年(明治34)9月、10月の日記がおもな内容となっている。05年『ホトトギス』の1月号に一部分を付録として発表、18年(大正7)岩波書店から全1巻木版本刊行。日々三度の食事の献立、訪問者、見聞を記録するとともに、病床に釘(くぎ)づけにされた子規のもろもろの感想、病苦のさま、家族への批判、遺言めく文章など、公表を意図したものでないだけに、思うままを率直に記し、子規の赤裸々な人間性をうかがう絶好の資料となっている。手控え帳として俳句、短歌、写生画も書きとどめ、新聞の切り抜きを貼(は)るなど雑然としたところがまた魅力である。[宮地伸一]→コトバンク
 『墨汁一滴』ー病める枕辺まくらべに巻紙状袋じょうぶくろなど入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾わかざりをくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶しだの枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙だいだいを置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据すゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨そこつの贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林きつりん黒竜江こくりゅうこうなどは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何いかに変りてあらんか、そは二十世紀初はじめの地球儀の知る所に非あらず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱ほうらいなり。
枕べの寒さ計ばかりに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも→青空文庫
 『病狀六尺』 ○病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤まひざい、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪むさぼる果敢はかなさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪しゃくにさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして
○土佐の西の端に柏島といふ小さな島があつて二百戸の漁村に水産補習学校が一つある。教室が十二坪、事務所とも校長の寝室とも兼帯で三畳敷、実習所が五、六坪、経費が四百二十円、備品費が二十二円、消耗品費が十七円、生徒が六十五人、校長の月給が二十円、しかも四年間昇給なしの二十円ぢやさうな。そのほかには実習から得る利益があつて五銭の原料で二十銭の缶詰が出来る。生徒が網を結ぶと八十銭位の賃銀を得る。それらは皆郵便貯金にして置いて修学旅行でなけりや引出させないといふ事である。この小規模の学校がその道の人にはこの頃有名になつたさうぢやが、世の中の人は勿論知りはすまい。余はこの話を聞いて涙が出るほど嬉しかつた。我々に大きな国家の料理が出来んとならば、この水産学校へ這入はいつて松魚かつおを切つたり、烏賊いかを乾したり網を結んだりして斯様かような校長の下に教育せられたら楽しい事であらう。→青空文庫