沖縄の雑誌『青い海』1971年5月号 徳田安周「私の青春/あゝ女性たちよー毛遊びに失敗した若き日の想い出ー」

1973年10月 『琉球の文化』第四号 徳田安周「琉球古神道への旅」


1975年8月 徳田安周『沖縄てんやわんやー気楽に読める沖縄の世相風俗史ー』沖縄文教出版社(神山吉光)

川平朝申
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1960年ごろ料亭松の下にて野町良夫牧師(1937年、那覇日基教会牧師)歓迎会。前列右から3人目・当山正堅夫人、野町夫妻、古賀善次。後列右・山田實、4人目・川平朝申、大嶺政寛、一人置いて天願俊貞、一人置いて当山堅一。徳田安周も居る。

1951年11月 第3回沖展(琉米文化会館) 川平朝申「西陽射す頃」「思い出の丘」

1955年3月 第7回沖展(壷屋小学校) 川平朝申「旧知事官舎」

1958年3月 第10回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「みーにし」「影」

1959年3月 第11回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「河童」「古都の石畳道」「ビルとドブ川」「晩秋」

1960年3月 第12回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「或る踊り」「暮色の国際通り」

1963年3月 第15回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「富士とチャンパ葵」

1963年5月 『沖縄芸能マガジン』川平朝申「沖縄演劇の将来を思う!-現役俳優へ希うこと!」
○私は若い頃から郷土史や郷土の民俗、土俗に就いて深い興味をもっていた。それは私が中学の頃、台湾に移住し、郷土に対する郷愁が、こうして私の心を郷土の総てに愛着をよせるようにしたのかもしれない。とりわけ郷土の演劇に対しては私の心をすっかり、とりこにしてしまった。それと云うのも私の父が非常に芝居好きで、よく父に連れられて辻町のはたみちの芝居に行ったものである。「球陽座」「中座」等、芝居がはねると父はきまったように楽屋まで足を運び、幹部俳優に挨拶をし、「今日の芝居は上出来だった!」等と激励をしていた。

1968年3月 第20回沖展(壷屋小学校)  川平朝申写真カラー「夕陽その1」 前原基男「旧家」
                            西村貞雄「S子の首」

1968年8月 沖縄タイムス社ホール「川平朝申作品展ー写真とスケッチ」

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川平朝申

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1945年5月中旬、シュガーローフ・ヒルの攻防戦の最中に米陸軍は沖縄での短波放送(WXLH)を開始した。沖縄放送局は米軍上陸前に完全に破壊されていたが、東京からの敵対宣伝放送は続けられていた。46年暮れ、台湾から川平朝申が引き揚げてきた。川平は台湾総督府情報部勤務の経験があった。台北放送局では児童番組の制作、演出も手がけた。川平は岳父の当山正堅が部長をつとめる沖縄民政府文化部の芸術課長に任命された。48年、川平は文化部からの出向で軍政府情報部に籍を移した。職名は統計長であったが、情報部長ハウトンの元で新聞発刊、映画興行、演劇公演の許認可や検閲に関する仕事に携わる一方で、放送局設置の準備を進めていた。

1948年11月、軍政府の情報部と文教部が統合されて情報教育部(のちにCIE)になる。そこに米軍放送局WXLHの放送主任としてジェームズ・N・タルが赴任。放送局AKAR用地は具志川の栄野比に決定。49年5月16日に最初のテスト放送をした。アナウンサー第一号は川平朝清であった。50年1月21日、真和志の沖縄劇場でシーツ長官に対する感謝の芸能大会が沖縄興行連盟主催で開催された。AKARのスタッフは川平朝申指揮の下、芸能大会の模様を録音して晩の6時に放送した。開局式は2月1日にキャンプ桑江でシーツ長官、志喜屋知事をはじめ琉米双方の代表が出席して行われた。

1950年8月、軍政府が那覇の上山中学校敷地に移り、放送番組もそこで作られるようになった。同年暮れには送信所も那覇の楚辺に移された。51年夏ごろから米民政府は奄美から八重山まで全琉をカバーする放送網計画を立て、先ず豊見城の嘉数高台に送信所、スタジオを琉球大学内に建設を進めた。52年、米民政府はガリオア資金で親子ラジオ(ラジオ有線放送)の設置工事を推進する。53年2月1日、AKARはそのコールサインも米国西海岸地帯に合わせてKSAR「琉球の声」に改められてスタートした。53年7月15日には米政府直轄のVOAが本部を嘉手納基地内に、受信施設を万座毛、送信所をオクマビーチに置き開局した。

1954年3月20日、KSAR琉球放送局は琉球大学基金財団に移管され、沖縄放送通信社(社長・松岡政保、伊礼肇)と、財団は月額120万B円で賃貸契約を交わした。ラジオ放送は6月から開始された。そのうち松岡、伊礼が手を引き『沖縄日報』の仲宗根仙三郎が引き継いだが支払いが悪く財団側から7月に契約を解消された。財団は9月に座安盛徳と30万B円で賃貸契約。9月20日、琉球放送株式会社が創立された。役員は座安盛徳、豊平良顕、上地一史、具志頭得助らで支配人は平川先次郎であった。
1982年2月ー川平朝申『おきなわの歌と踊り』月刊沖縄社





1989年5月8日『琉球新報』川平朝申「山里永吉氏の逝去を悼む」
□山里さんは、私の8歳先輩で、戦前からかわいがってもらった方である。出会いは中学1年生(二中)のころだと記憶している。私は樹緑会(16人のメンバーで結成していたのでそう命名された)の少年画家であった。山里さんは1920年(大正9)、渡嘉敷唯選、野津久保、浦崎永錫らと「ふたば会」を結成、中心メンバーとして活躍していた。その画風は、重厚で、豊かな色彩に富んでいた。そのころから先輩画家としてお付き合いが始まった。(略)「マヴォー」派同人として活躍するが、帰省して開いた第一回個展は今でも忘れられない。特に「レーニンの死」とかいう題は印象的だった。

個展が開かれた波上通りにあった2階の洋風レストラン「波上軒」で山之口貘と一緒にごちそうになったライスカレーの味は今でも思い出になっている。私が初めて食べたライスカレーだったからである。

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書斎での川平朝申さん

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