1931年、瀬長亀次郎は神奈川で井之口政雄宅に下宿をしていた。井之口夫人は日本赤色救援神奈川地区の活動家で瀬長は大分お世話になった。飯場生活の瀬長は「全協日本土建神奈川支部」を朝鮮人の金一声らと結成、京浜地区の責任者になった。そして横須賀町久里浜の平作川改修工事に従事していた朝鮮人労働者350人と労働条件改善、全員に仕事をよこせの要求をかかげてストライキに突入、瀬長も、金一声も検挙され一ヶ月投獄された。
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墓の前の写真は城間得栄氏も大事に所蔵。1978年11月の『琉球新報』の「むかし沖縄」に掲載し解説も書いた。城間得栄□戦争前夜の沖縄県・オイル事件の犠牲者弔うー軍国主義時代の悪法「治安維持法」により、獄中生活を強制された池宮城秀意と瀬長亀次郎の両兄が昭和10年、相前後して久しぶりに娑婆へ帰ってきた。その2,3年前まで那覇署と首里署の留置場を引きずり回されていた私も、昭和9年にようやく琉球新報に拾われ記者の末席を汚していた。またこの写真を撮した国吉真哲さん(紙面に姿の見えないのは残念だが)は、すでに警察の追及からのがれ、琉球新報の編集室で孤塁を守りながら紙面作成に励んでいた。4人の志を同じくする仲間が期せずして顔を合わせたので、ある日、教員組合(オイル)事件で過酷な拷問を受け保釈中に狂死した真栄田之璞(通称一郎)の霊を弔うため、姪の上原美津子さん(沖縄の婦人記者第一号)の案内で那覇市外松尾の真栄田家の墓へ出かけた。まさに日中戦争から第二次大戦へ突入しようとする前夜のことである。

1944年2月  『沖縄県産業組合聯合會三十年史』編集人・瀬長亀次郎/発行人・平良辰雄/発行所・沖縄県産業組合聯合會


1973年7月21日『人民』 「対談・池宮城秀意×瀬長亀次郎ー人民党創立の頃から反共攻撃 池宮城ー共産党との合流予想した」。新里恵二「沖縄人民党創立の歴史的意義と今後の展望」/1964年の池宮城秀意一家
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1972年4月『青い海』14号 森口豁「廃屋の島からの報告」

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森口豁『ヤマト嫌いー沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』講談社1995年9月/左から新城栄徳、又吉盛清氏、森口豁氏


2019年7月22日 大濱聡「森口豁」




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(上)2001年12月13日/左から、高良勉(詩人、ジャーナリスト)、島袋捷子ニライ社代表、N・T(歴史研究家)、新城栄徳、松島オキナワグラフ社長、一人置いて、大城将保(歴史研究家)、 森口豁(ジャーナリスト) 。(下)沖縄コレクター友の会