琉球最古の石橋を持つ長虹堤も、近代になると、泊高橋を経由して首里-那覇間をむすぶ電車の開業(1911年)や、1934(昭和9)年の新県道(現在の国際通り)開通などにより、次第に華やかさを失った裏通りとなり、現在は通りの一部が「十貫瀬(じっかんじ)」の道として残るだけになっている。 →「道の歴史」


2003年6月 原田禹雄訳注・周煌『琉球國志略』榕樹書林

○ネット上で画像「長虹堤」を見ると、ローゼル川田「琉球風画夢うつつー長虹堤」、琉球ニライ大学の「長虹堤跡を訪ねて」、或いは個人などの画像が豊富である。2010年11月・那覇市歴史博物館発行の『那覇の名橋と知られざる橋』には当然ながら「長虹堤」が載っている。null
大正期の長虹堤跡(現・十貫瀬通り)

○2013年9月23日ー美栄橋駅周辺の歴史は、琉球王国時代の「長虹堤」の築造に始まる、といってよい。15時からジュンク堂那覇店で、ゆたかはじめ×ローゼル川田「沖縄の鉄道と旅する」トークイベントがあった。冒頭ゆたか氏が周煌『琉球國志略』の那覇風景を見せていたのは偶然か。会場入口でローゼル川田絵ハガキ「長虹堤」を買った。
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石川和男 みどり印刷2013-9-24□これは仮説ですが。長虹堤も龍潭も懐機①の作とされています。おそらく、現在の龍潭の場所は葦などが茂る湿地帯であったとおもいます。土地がクチャ(不透水)である事から掘り下げて周囲に積み上げハンンタン山などの小山や半島をつくり、現在の中城御殿の左端から城西小前までに長虹堤と同じ手法で堤を東西に築き城西小正門前坂道の前までL字型の堤、同じ手法で世持橋のオーバー フロー・・・建築手法が長虹堤と同じなのです。壊機とその技術スタッフで作られたのが この二つの土木遺構だとおもいます。周辺にはその他にも数箇所の暗渠が今では知る人 も少なくアスファルトの下に眠っています。(機能は果たしています。)

①懐機 【かい・き】
尚巴志王代の琉球王国の国相。中国からの渡来人か。初代尚思紹から5代尚金福に至る第一尚氏歴代の王に仕えた。2代尚巴志代に国相となり,三山統一や中国への進貢貿易に尽力した。尚巴志6(1427)年建立の琉球最古の金石文である「安国山樹華木之記碑」に,北京に派遣されたこと,王城外に池(竜潭)を掘ったことがみえている。また旧港(パレンバン)の宣撫使や中国竜虎山の天師大人(道教教主)に文書や礼物を送っており(『歴代宝案』),その権威の高さがうかがわれる。尚金福王代(1450~53)には那覇と泊を結ぶ長虹堤を創建している。古琉球王国草創期の注目の人物である。 (田名真之)→コトバンク

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沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。

2005年11月 与並岳生『新 琉球王統史③思紹王、尚巴志王・尚泰久王』「尚金福王と長虹堤建設」新星出版

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1933年の泊方面の写真ー左奥の橋が中之橋(この橋の中央が現在の我が家がある場所)、手前が崇元寺橋で、右の杜が崇元寺

1944年6月21日
屋良幾久枝『長虹堤異聞』(国民劇場当選脚本)→1946年6月 屋良幾久枝『長虹堤異聞』(奈良・文化琉球人会)