□笹川良一の父・鶴吉はかねてよりの碁敵川端三八郎(天保12<1841>年4月10日生まれ)を招き、碁盤を挟んで睨み合っていた。三八郎の孫が康成である。(略)ときに川端康成は、第四代日本ペンクラブ会長として国際ペンクラブ大会の招聘などに奔走し、資金調達に大いに腐心していた。そんな折、竹馬の友は進んで資金援助を申し出ている。(2010年10月 工藤美代子『悪名の棺 笹川良一伝』幻冬舎)

1938年2月」19日『沖縄日報』「懐しの歌手 藤山一郎君きのふ思出の那覇へ/川端康成氏来月来訪」

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1938年3月『琉球新報』□東京の比嘉春潮から國吉眞哲に「川端康成が沖縄に行く予定で、折口信夫からは『辻の今昔』、比嘉春潮から『遺老説傳』を寄贈された。川端氏は沖縄を見てから読みたい、との話を知らせてきた。が、何らかの事情で来沖は実現しなかった。

1938年4月2日『琉球新報』南風原リリ「東京の印象」(2)
1938年4月5日『琉球新報』南風原リリ「東京の印象」(4)

1938年4月13日『琉球新報』當間光男「川端康成氏の琉球旅行」(3)
1938年4月14日『琉球新報』當間光男「川端康成氏の琉球旅行」(4)

1938年4月26日『琉球新報』「簪献納運動に悲鳴の金細工達」

石川正通□「ふりむん随筆」
「雪国」の作者川端康成は、その姉妹篇として沖縄に取材した南国物を書こうと意図して、在京の沖縄知名人に集まってもらって一夕の会談で沖縄に関する予備知識を得ようと会合を催した。何に怖気づいたのか、新感覚派で売り出した「伊豆の踊り子」のこの作家は沖縄行を思い止まって、現地における「沖縄の踊り子」を見る機会を自ら捨てた。

1958年6月3日『琉球新報』「川端康成氏きのう来島」
1958年6月3日『沖縄タイムス』「川端康成氏きのう来島ー誕生日は沖縄で」
1958年6月4日『沖縄タイムス』「二人の作家は沖縄を見るー川端康成氏、内村直也氏」

1958年6月5日『琉球新報』「川端康成氏ー民芸はすばらしい 身をもって沖縄を吸収」
1958年6月8日『沖縄タイムス』「座談会・川端康成氏を囲んでー川端康成、豊平良顕、宮城」聡、南風原朝光、牧港篤三、大城立裕、池田和、太田良博」(上)
1958年6月9日『沖縄タイムス』「々々」(下)

1958年6月9日 「川端康成氏を囲んで(座談会)川端康成、仲宗根政善、中今信、亀川正東、池宮城秀意、上原記者」→6月20日『琉球新報』

1958年6月10日『沖縄タイムス』「琉舞の粋に感慨 川端、鳥海氏ら迎え鑑賞会」

1958年6月11日『沖縄タイムス』「川端、鳥海、沢田、横山4氏の講演会」


昭和53年9月 千原繁子『随想集 カルテの余白』□1958年6月11日ー前列左から豊平良顕、山里永吉、川端康成、千原繁子、新垣美登子。中列左から具志頭得助、仲本政基、太田良博、牧港篤三。後列左から亀川正東、当真荘平、宮城聡、池宮城秀意、嘉陽安男、船越義彰/写真ー山里永吉案内で糸満の門中墓を見学する川端康成(右)


2004年9月 『新生美術』13号「写真前列左よりー南風原朝光、宮城聰、川端康成、豊平良顕/後列左よりー池田和、太田良博、大城立裕」 

1958年6月12日『琉球新報』「鳩笛ー川端康成氏は今日のノース・ウェスト機で帰京ーきのうはたまたま川端氏の59回目の誕生日で波上”新鶴”(我那覇文・佐久本嗣子)で、沖縄ペンクラブ主催の別パーティを兼ねた誕生祝」

1958年6月13日『沖縄タイムス』「すばらしい沖縄の踊り 川端氏帰る」/『琉球新報』「川端氏"沖縄独自の美しさ"」


1958年8月『オキナワグラフ』「ペンをかついだお客様ー川端康成氏 来島」
○篤之介のペンネームと感覚的な詩で知られる文学頭取、沖相銀具志頭得助氏の数次にわたる交渉の熱意が実を結び、国際ペンクラブ副会長、日本ペンクラブ会長の川端康成氏が6月2日ひる3時40分、那覇空港着のノースウエスト機で来島した。今回の来島は沖縄ペンクラブの招きによるものであったが、「伊豆の踊子」「雪国」などの作者として文壇でも特異な存在にある同氏の来島は今まで期待されながら不可能視されていただけに、沖縄文化人の喜びは大きく、ペンクラブ会員多数が出迎えた。滞在中はペンクラブの山里、亀川氏や具志頭氏に案内されて、沖縄視察を続けられたが、6月11日、はからずも沖縄で誕生日を迎えたペンの賓客は、ペンクラブ会員、具志頭氏、沖相銀、紅房、那覇薬品、沖縄火災の関係者多数に囲まれ、「私はこんなに誕生日を祝ってもらったのは初めてでしてねエ」と島人達の温かい心づくしにその喜びを語っていた。・・・・



2014年6月 川端康成学会『川端文学への視界』(年報 №29)深澤晴美「川端康成と沖縄」
○1年間で最も完成度の高い短編小説に贈られる第41回川端康成文学賞(川端康成記念会主催)は15日、大城立裕さん(89)の「レールの向こう」(「新潮」2014年5月号)に決まった。賞金は100万円。贈呈式は6月26日、東京・虎ノ門のホテルオークラ東京で行われる。89歳での同賞受賞は、2003年に受賞した青山光二さんの90歳に次いで2番目。
 同小説は、妻が脳梗塞で倒れたことから、日常と個人の記憶が不安定となる様子を描いた物語。記憶障がいのリハビリに寄り添いながら、夫婦を取り巻くさまざまな記憶が、巧みに織り交ぜられていく。 受賞の報を受けた大城さんは「家内の病気をきっかけにして生まれた私小説。これまで2度、川端賞の候補になっているがここまで待って受賞でき良かった。彼女も喜んでくれると思う」と話した。 県出身者では2000年、目取真俊さんが「魂込め(まぶいぐみ)」で同賞を受賞している。(2015年4月16日『沖縄タイムス』)

 〇2013年7月 岩波書店『文学』<浅草と文学>深澤晴美「川端康成『星を盗んだ父』ー執筆時期の推定と執筆の背景」

○2014年6月 川端康成学会『川端文学への視界』(年報 №29)深澤晴美「川端康成と沖縄ー幻の長編『南海孤島』/米国占領下の沖縄行』」



〇1938年1月 『月刊琉球』山里永吉□壺中天地ー印象 昭和13年の新春早々、作家川端康成氏が来県し、沖縄を主題とした小説『南島孤島』を執筆するといふ私の趣味からいふと、右の『南島孤島』といふ題はあまり感心出来ない今迄、誰もが使い古した平俗な響きと内容を思はせる言葉であり、川端康成氏のやうな作家が琉球を表現するに、果たしてあんな安つぽい題を採用するかどうか、甚だ疑問に思っているが、先ずさういふ枝葉の問題は暫くおいて、川端氏来県の報をいち早く耳にした蔵重知事は、東京の本宅から鎌倉の川端氏に電話して、敬意を表しておいたといふ。
 蔵重知事が川端康成の愛読者である事は、本誌創刊号の知事の随筆を読んでも解るが、知事は川端氏が来県せば、その書斎として官舎の離室を提供したいと筆者に語った・・・

斎藤 陽子(Walnut, California)2019-10月22日
 台風19号の被害地では、いまだに断水や停電に耐えて居る処もあるといいます。
水害で亡くなった方は日を追うごとに増え続け、一週間めの昨日は80人にもなり、台風19号のニュースを見るたびに心が痛いです。
性懲りもなく、再び大型で強い台風21号が、どうやら日本を目がけて進んでいる様ですが、台風21号が進路を変えることをひたすら願っています。
このところ夜が長くなり「読書の秋」になりましたが、今年のノーベル文学賞も決まりましたが、ノーベル文学賞を受賞した川端 康成についての、2年前の投稿を再度載せさせて頂きます。
放ったらかしにしている机の引き出しを整理をしておりましたら、私には忘れられない60数年前の懐かしい名刺を発見しました。
1958年私が高校1年生の、まだ沖縄が完全には戦争の復興から立ち上がれていない、日本復帰にはまだまだ遠い頃、のちにノーべル文学賞を受賞した川端康成氏が日本ペンクラブ会長として初めて沖縄訪問された時に、思いがけずお会いすることができ、お話までできた日に頂いた、鎌倉のご自宅の住所まで記載された川端康成氏の名刺が出てきました。
私は当時 首里城跡に創立された琉球大学の敷地内(首里円覚寺跡)に同じ形の10軒ほどの琉球大学官舎に父母が大学に勤めていた関係で住んでいて、(ここには当時琉球大学の主要教授が住んでいて)我が家のお隣には日本ペンクラブに所属していらした、琉球大学教授の亀川正東教授も、この官舎に住んでいました。
亀川氏の家に立ち寄られた日本ペンクラブの会長の川端康成氏が、亀川氏を庭でお一人で立って待っている姿を発見し、高校1年の小娘の私はあらん限りの勇気を持って、川端康成氏に挨拶をしに駆け寄り話かけたのです。
あろうことか、川端氏は紳士的に小娘の私に丁寧に話しかけてくださり、鎌倉にいらしたらお寄りなさいと、あの大きな眼で見つめられて話されて、鎌倉の住所の入った名刺まで下さったのです。
当時の私は文学にどっぷりと溺れている、ちょっとませた文学少女で当然川端康成の小説をほとんど破読していたので、天にも登る気持ちで5分間ほどの会話は1時間ほどの時間にも思えました。
今では川端氏の大きなギョロッとした眼だけを思い出しますが、丁寧に少女を相手にする川端氏の目は優しみをたたえていました。
「伊豆の踊子」にもみられるように、川端康成は少女を非常に丁寧に美しく描く作家だったと言われています。
川端康成の少女愛的な趣向が、私に対しても優しかったのかとこの歳になると、うがった(穿った)思いをしてしまいます。
思いがけずも引き出しを整理中に出てきた60数年前の思いがけない川端康成氏の名刺は私の宝物になってしまいました。
FBの友人に頂いたフウセンカズラの種子、春先に植えてみましたらフウセンを付けて成長しましたフウセンカズラを活けて、あの日を思い出しながら、川端康成氏の名刺を添えてみました。



2018年6月 『現代公論』西田健次郎「102歳天寿全う、さよなら亀川正東先生」


1971年8月 沖縄の雑誌『青い海』 4号 亀川正東「学問ばかりが能ではないー働く青少年の皆さんへー」


1976年7月 亀川正東『善意の灯 上原清善』

1981年 『琉大法文学部紀要 語学文学論集№26』亀川正東「ポーに於ける異端と性の假設On Heresy and Sexual Benavior of E.A.Poe」

1981年 亀川正東『心に残るあの人この人』琉球青年乃村□「川端康成はなぜ死んだ?」
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川端康成 かわばたやすなり 1899年6月14日-1972年4月16日 日本初のノーベル文学賞受賞作家、小説家。大阪市天満此花町生まれ。幼くして両親を亡くし、祖父母と共に大阪府下三島郡へ転居した。その後、8歳で祖母、16歳で祖父が亡くなり、母の実家に引き取られた。1917年に第一高等学校に入学。1920年、東京大学英文科に入学するが、翌年国文科へ転科。大学時代に第 6 次の「新思潮」を発行し、そこで発表した作品をきっかけに、菊池寛に認められ、交流を持つようになり、文壇への道が開けた。1924年に大学を卒業し、横光利一らとともに同人誌『文芸時代』を創刊。この同人誌には、新感覚派(感覚的にとらえた現実を知的に構成していく作風)と呼ばれた、新進作家が集まった。1968年にノーベル文学賞を受賞し、『美しい日本の私』という講演を行った。その3年後に、門下の三島由紀夫の割腹自殺などによる強度の精神的動揺から、逗子マリーナの仕事場で72歳でガス自殺をとげた。さまざまなインタビュー番組の中で自分は「怠け者」であり、川端文学は「怠け者の文学」であると語る。1968年のインタビューに同席した三島由紀夫は「剣道で言えば一番強いタイプで、無構えの構えですね。」と解説している。(はてなキーワード)