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魚住惇吉

○大正13年(1924年)魚住惇吉校長の後を受けて建学当初から教鞭をとられた志喜屋孝信先生が第四代校長に就任した。

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『アサヒグラフ』1927年7月13日号□南島談話会のメンバー/前列右より柳田国男・金田一京助・伊波普猷・富名腰義珍・岡村千秋 後列右より魚住惇吉・南風原驍・金城金保・仲宗根源和・金城朝永・島袋源七

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1924年夏 小石川植物園で、向かって右から魚住惇吉、永田千代、


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1987年8月 関川夏央・谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』双葉社
1988年8月 日本エッセイスト・クラブ『思いがけない涙』文藝春秋□魚住速人(三菱鉱業セメント副社長)「漱石と隻腕の父ー(略)実をいうと、私の父が、その左手のない学生である。名前は惇吉という。(略)私の父は東大を卒業したあと、中学の英語教師になり、沖縄県立第二中学校の校長を最期に、台湾旅行のとき罹ったマラリアの持病もあって、42歳で早々と引退、自適の生活に入った。ふたたび東大に通い、英文学やラテン語の研究をしていたことを覚えている。(略)私の息子が東大野球部に入り、法政の江川投手を4打数3安打で打ち破ったことがあるのを父が知ったら、さぞかし喜んだことであろう。」


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島袋源七

島袋源七 略年譜
1897年(明治30年)
  6月11日、沖縄県国頭郡今帰仁間切(村)勢理客に生まれる。
1917年(大正6年)20才
  3月、沖縄県立師範学校卒業
  4月、北玉尋常小学校を皮切りに、辺野喜、喜如嘉、稲嶺各校を歴任する。
1921年(大正10年)24才
  折口信夫が来県したさいに国頭地方を案内。このとき折口に啓発され、以後、精力的に山原(国頭地方)の民俗調査を行う。ウンジャミ・シヌグなどの祭祀習俗を詳細に記録。
1922年(大正11年)25才
  柳田国男が組織し多くの民俗・民族・言語学者が参加した南島談話会が創立。創立当初からの会員となる。他に折口信夫、伊波普猷、比嘉春潮、仲原善忠、金城朝永、宮良当壮、仲宗根政善らが会員として名をつらねており、多くの会員との親交・知遇を受ける。
1925年(大正14年)28才
  『山原の土俗』と題して民俗誌をまとめる。
1927年(昭和2年)30才
  上京、杜松小学校に勤務するかたわら立正大学高等師範部地歴科に学ぶ。
1929年(昭和4年)32才
  『山原の土俗』が炉辺叢書の1冊として郷土研究社から出版される。
1931年(昭和6年)34才
  3月、立正大学高等師範部地歴科卒業
1934年(昭和9年)37才
  立正中学校(旧制)に勤務。
1937年(昭和12年)40才
  『今帰仁を中心とした地名の1考察』(「南島論叢)」 
1947年(昭和22年)50才
  立正高等学校(新制)兼任。その後、教頭として勤務する。   
  8月、沖縄人連盟内に沖縄文化協会成立。仲原善忠、宮良当壮、比嘉春潮、金城朝永、島袋盛敏、崎濱秀明氏らとおもろ研究会を持つ(戦前からの研究会の復活)。
  12月、「阿児奈波の人々」(「沖縄文化叢説」)
1948年(昭和23年)51才
  9月、沖縄文化協会が組織再編成し、新たに発足。   11月、会報「沖縄文化」創刊。  
1950年(昭和25年)53才
  『沖縄の民俗と信仰』(「民族学研究」15巻2号)  
1952年(昭和27)55才
  ウイーンの世界民俗研究学会より発表の招待を受く。
  8月、『沖縄の古神道』を集大成するため、50日余沖縄本島を始め離島各地を踏査する。その折りの疲労が重なり病床に伏す。
1953年(昭和28年)55才
  1月15日、昭和医大病院にて気管支喘息心臓麻痺のため逝去。
  1月28日、立正大学にて学校葬  (→琉大図書館)