1924年3月21日 『沖縄タイムス』末吉麦門冬「序に代へて」


○私達の要求する所の郷土文学は一体どうあらねばならぬのかと云ふことは、私も考へないではありませんでした。一口に云ふとそれは私達この郷土に生まれたのでなければ感じ得ない、把握し得ない、創造し得ない、表現し得ない内容でなければならぬと思ひます。本當の沖縄と本當の沖縄人が出て来なくてはなりません。(略)鏡に向かって多くの人々は不満を抱きます。憤ほろしくなります。美しいと見惚れることはありません。私達の創造しやうとする郷土文学もこの厭やな思ひのする鏡裏の映像ではありませんか。けれどこの厭であっても、自分達の姿には、私達はどうしても逃げもかくれも出来ぬものがあります。・・・・


null
1924年12月17日『沖縄タイムス』寂泡生「末吉安恭君を悼む」



池宮城積宝
1910年3月19日、沖縄県立第一中学校で卒業生送別会が行われ池宮城積宝が送別の詞を読みあげた。主な卒業生は、兼島由明、護得久朝章、柴田米三、山田有功、新嘉喜倫篤であった。5月14日には河東碧梧洞、岡本月村ら大阪、鹿児島の新聞記者団が平壌丸で来沖。

null
写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝


1931年6月 池宮城積寶『琉球歴史物語』新星堂書房
□序ーわたし達の祖先はどんな生活をたどって来たのだろうか、わたし達の住んで居る此の郷土の山川にはどんな物語がひそんで居るであろうか、そう云ふことは誰しも知り度いことです。殊に此の小さい島々は一千年の間一つの独立した國家の形を持って居ましたが。或時は三山に分裂して互ひに覇を争っていました。その時代時代に依って実におかしみに富んだ物語、小さい國相応な悲劇が次々に展開されて来ます。これらの物語から如何なる興味がよび起こされ、如何なる教訓を受け入れるかは読者の個性に依って相違もありませうが、兎に角、ひろびろとした海原の中にまきちらされた数十個の青螺の上にこれだけの文化史があったことは何人にとっても一つの驚異でなければなりませぬ。チェンバレン、エドモンド・シーモン、バジル・ホール、ペルリ・・・さう云ふ遠い外国の人々さへ深い興味を以て此の島の面影を書き遺して呉れました。わたし達が此の郷土に生まれて、不思議なこれらの物語を知らずには過ごして行けません。著者はなるべく平易に沖縄の歴史を書き綴りました。此の本の特徴は平易であることと民間の伝説を重視して民俗の歴史を編まうとした所にあります。