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大正8年 アナーキスト和田久太郎を囲んで、左から座安盛徳、砂川、和田、城田徳隆、泉正重、富永、伊是名朝義

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大正11年 アナ・ボルの合同研究会。前列右から城田徳隆、伊是名朝義、小橋川南村、東恩納寛敷、中列右から泉正重、城田徳明、比嘉良児、山田有幹、玉城オト、後列右から渡久地政憑、玻名城長好、比嘉栄、比嘉春潮、篠原勇、座安盛徳、辺野喜英長、城間康昌

□篠原勇
1934年6月14日『沖縄日報』篠原勇「滅びゆく琉球玩具の話」
1936年11月10日『沖縄日報』篠原勇「商工祭に於けるウィンドー競技会私観」
1965年3月30日『沖縄タイムス』「教え子たちが招待ー20年ぶり来沖の篠原氏」
1965年4月1日『沖縄タイムス』篠原勇「沖縄の土を踏んで」

○先頃彩管を握って丹青界の新淮として活躍した伊是名朝義君は首里工芸出の若い糸満美人を妻君に迎えて、町役場前に小じんまりした一軒を借り受け「いせや」と銘打った雑貨商を開いて朝義君は醤油行商に若い妻君は商売と針仕事に夫婦水入らずの労働生活を営んでいる。朝義君は仕事の傍ら「糸満労働組合」の主宰役も司って、労働者の為に奮闘を続けている。汗と塵に塗れた労働服姿の君は「糸満の労働者ほど惨めな者はありません、幼い頃五六十圓の端金で買われて来て十四五年間も労役を余儀なくされてそれは実に悲惨なものです。」と醤油樽を卓代わりに、鐵葉鑵を腰掛け代りに飽くまで徹底した労働運動者は大きい鼻を蠢かして語った。

○1924年8月2日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論ー琉球人が答ふ 神村弔魚氏へ」
○1924年8月6日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論ー正体を見よ」

○先頃行方不明にを伝えられた社会主義の座安盛徳君と呈さだ子は双方の親の許しを得て同棲の機を得たので、一二ヶ月前には東京方面へ両君手を携えて花見旅行と洒落れたが今は糸満の座安君の宅に同棲して、座安君は家業の支那そば屋の板場、さだ子は給仕人として甲斐甲斐しく家業を勤しんで共稼ぎの實を示している。

1931年7月 座安盛徳『通俗沖縄歴史』雑誌沖縄社(那覇市牧志町2丁目)
○何故これを書いたか?ー沖縄人は立派な大和民族である・・・・私はかつて南洋の某所で、この事を知らない多くの同胞のの、みじめな魂の成長をみました。更に其の父母に持つ第二世の不幸をまざまざとみせつけられました。これが動機となって、此の小冊子を編纂する使命を感じたのであります。勿論 私は歴史家で無く又文学者でもないから、一応は専門の方々に相談してみました、しかし不幸にして其人を得ませんでした。そこで蛮勇を鼓して禿筆をふるった次第であります。従って此の冊子の内容は、すべて、先輩の説を一個のビヂネスとして取り次いだにすぎません。殊に真境名、伊波両先生の著書に教わるところ多かったことを告げて、謹んで茲に感謝いたします。

目次
1、沖縄人の祖先と諸学者の・・・言葉の上から見た同祖説ーチェンバレー氏の同祖説ー亀田氏の沖縄語観ー金澤博士の同祖説ー人類学者の観た同祖説ー伊波氏の土俗的観察