「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。


秋田県潟上市羽白目<烽・とぶひ>遺跡ー古代の烽火場として唯一とも言われる遺跡


上の遺跡は現在 大沢さんの持ち山で、奥さんの右手前には蘇鉄が鎮座している。

2013年6月 『沖縄の軌跡』第102号 「関東大震災虐殺事件 大正12年9月1日 秋田県人・三重県人・沖縄三県人殺害の<検見川事件>の真相」/2013年7月17日『秋田魁新報』■北斗星ーこの連休中、沖縄県生まれで東京都在住の島袋和幸さん(65)は横手市内を歩き回った。関東大震災の混乱の中で命を落とした『旧横手町の藤井さん』の手掛かりを探すためだこの連休中、沖縄県生まれで東京都在住の島袋(しまぶくろ)和幸さん(65)は横手市内を歩き回った。関東大震災の混乱の中で命を落とした「旧横手町の藤井さん」の手掛かりを探すためだ。当時26歳の藤井さんは地震4日後の1923年9月5日、現在の千葉市で自警団に捕らえられて殺され、川に捨てられた。手を下した数人は有罪となり、事件は一部新聞で報道されたが、遺体は海に消えたと思われる震災後、「朝鮮人暴動」の流言が広まり、不安に駆られた住民らの手で多くの朝鮮人が殺されたことは広く知られている。だが、言葉になまりのある地方出身者が朝鮮人と誤認され、犠牲になる事件が続発したことは、あまり知られていない藤井さんと一緒に沖縄県人と三重県人も犠牲になっている。仕事を持ちながら歴史の発掘に取り組んでいる島袋さんは、当時の新聞にある3人の出身地と名前を頼りに親類捜しを続ける。だが沖縄と三重では手繰った糸が途切れ、遺族にたどり着けなかった藤井さんは横手から稼ぎに出た東京で地震に遭い、避難途中に居合わせた2人と共に犠牲になった、というのが島袋さんの見立てだ。郷里の縁者たちは、藤井さんがなぜ亡くなったか、知ることができただろうか島袋さんは「朝鮮人も日本人も、犠牲者の多くは名前さえ分かっていません。そのうちの一人の遺族でも突き止めて供養ができれば、亡くなった人も浮かばれるはずです」と話す。今年は震災から90年である。





2013年9月 『沖縄の軌跡』第105号 島袋和幸〒124-0011葛飾区四つ木4-18-10



□土佐幡多郡下田浦への漂着ー1795年4月、福州から琉球を目指して出港したが、再び遭難して土佐の下田浦に漂着した。八重山グループの中の座波(35歳)が土佐での滞在中に急病死し、座波の遺骸は、南宗寺の後ろの山に葬られているという。-写真の座波の墓は南宗寺の住職様より贈られたもの。


2013年9月 『沖縄の軌跡』第107号<南信州狼煙リレー(3)> 島袋和幸〒124-0011葛飾区四つ木4-18-10

□『南信州新聞』[ 2013年 9月 10日 ]
南信州狼煙リレー 諏訪までの24地点結ぶ 
武田信玄が戦国時代にのろし台を配備したとされる飯田下伊那の地域が連携して行う「南信州狼煙(のろし)リレー」は7日午前、根羽村の杣路(そまじ)峠をスタートに、伊那谷の21地点をリレー点火した。2007年に神之峰でのろしを上げて7年。毎年参加地域は増え続けている。ことしは杣路峠での点火を皮切りに、飯田下伊那南部から北部へと12地点で順次のろしを上げ、中川村の人馬形や高遠城跡など上伊那郡につなげた。8日は諏訪市の3地点で点火された。このうち、同市上久堅地域の神之峰はかがり岩付近でのろしを上げた。ことしは上久堅小学校6年生2人が卒業記念として鎧兜(よろいかぶと)を身にまとい着火。午前9時3分に下條村の極楽峠からののろしを確認すると、同6分、児童2人が準備された点火材のわらに着火。スギが勢いよく燃え、煙が高々と空に上った。2人の児童は「鎧兜はちょっと重かったけど、昔の人の気持ちが体験できた」、「着る機会がない鎧兜で、とてもいい経験になった」と話した。信玄は根羽村の杣路峠から甲府までの間にのろし台を数多く配置して、三河の情報を伝達していたとされ、のろし台のあった飯伊の二十数カ所は強く結びついていたという。リレーイベントは、戦国時代の情報伝達網を通じて地域の密接な関係を再現し、郷土学習を重ねながら今後の地域づくりを考えることがねらい。上久堅のろし研究会の塩沢清吾会長は「参加は広がっているが、焦らず気長に続けたい。将来的には山梨県甲府市までつなげることができれば」と話した。


2012年6月29日『東京新聞』


2013年8月11日『東京新聞』