09/05: 鎌倉芳太郎②
1954年11月14日『沖縄タイムス』「琉球藝術論を脱稿ー胡屋琉大学長と同大名義出版を約すー世に出るか、鎌倉芳太郎教授の著書(本文・千二百頁、図版五百頁)」
1955-8 日本橋高島屋「沖縄展」鎌倉芳太郎、型紙出品
8月ー東京日本橋高島屋で読売新聞主催「沖縄展」
1957-12-1 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「私と沖縄」□交友関係では末吉麦門冬(末吉安久氏の実兄)と意気投合。いろいろ啓発し、されたもの
1958-7-16 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「沖縄の美しいもの」(1)6-15川崎市沖縄文化同好会第8回沖縄文化講座で講演したもの。~7-26(10)
1960-1 鎌倉芳太郎『古琉球紅型型紙の研究』京都書院
1961年 琉球政府立博物館、鎌倉芳太郎から「円覚寺大雄殿壁画」(鎌倉芳太郎模写)、「大島祝女服装図」(鎌倉芳太郎模写)寄贈。鎌倉芳太郎から「ときさうし」「古代祝女衣裳カカン」「古代芭蕉地カカン」、鎌倉秀雄から「進貢船図」購入
1963-9月 鎌倉芳太郎『琉球の織物』京都書院
1964年 琉球政府立博物館、鎌倉芳太郎から「三平等兼題文言集」「呈禀文集」「寺社由来記」「琉球事件 上」「球陽外巻(遺老説伝)」「萬集」「覚世真経」「廃藩後旧例相変り候事件」「浦添御殿本 『王代記』」「大上感応篇大意の序」を寄贈。鎌倉秀雄から「琉球詩集」「琉球官生詩集」「琉球詩録」「毛世輝詩集」「東子祥先生詩集」「平敷屋朝敏文集」「中山王府相卿伝職年譜」「御書院並南風原御殿御床飾」「御座飾帳」「御書院御物帳」「琉球俗語 巻之一」購入
1966ー10 東京ひめゆり同窓会『戦後二十周年記念誌』(表紙・鎌倉芳太郎)□鎌倉芳太郎「回想記ー廃藩置県時代以前の琉球王国時代の美術研究に従事した。その関係で沖縄タイムス主筆 麦門冬末吉安恭氏と親交を続けた。またその縁戚の南村氏とも顔を合わせる機会が多く、したがって当時の沖縄における共産社会主義の猛者連中の思想運動にもふれた・・・」
1966年10月/1975年10月
1968年2月 鎌倉芳太郎『古琉球紅型』京都書院
1968-4 日本橋東急百貨店「沖縄展」図録 鎌倉芳太郎「琉球造形美術について」→名古屋の徳川美術館でも中日新聞社共催で開催された。
4月ー東急百貨店日本橋店7階で「沖縄展ー琉球の自然と文化」
1971-1 鎌倉芳太郎『古琉球紅型』上下 京都書院
1971 鎌倉芳太郎『古琉球型紙』京都書院
1972-2 上野松坂屋「琉球王家秘宝展」図録 鎌倉芳太郎「琉球の王統」
2月ー上野 松坂屋で毎日新聞社・琉球新報社主催「琉球王家秘宝展ー沖縄復帰記念・その文化と歴史」
2月6日 琉球政府立博物館「50年前の沖縄ー写真でみる失われた遺宝ー展」
1月29日~2月16日『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「五十年前の風物詩ー沖縄の失われた遺宝写真展にちなんで」
□那覇の松並み木<1>ーそのころ沖縄タイムス社の近くに主筆の麦門冬末吉安恭氏の書斎があって、時々遊びに行って、ちょっぴりお酒を飲んでから二人でよくこのあたりを散歩したものである。そこから見る松並み木は美しかった。麦門冬はどちらかというと無口で膚で感じあう人であった。秋のころ、この墓地のある丘のあたり、すすきが白い穂をなびかせ、ポツンと妻をもらうといってこちらを向いた大きな顔は今も忘れない。彼が海に落ちてこの世にいなくなってしまってからは、この松並み木にはその顔が二重写しになって、そんな気持ちでこの写真を撮った。(略)
1972-2 『50年前の沖縄・写真で見る失われた遺宝』図録
1972年2月5日の新報・タイムスに掲載されたもの
1972-2-9『琉球新報』
「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)
1972-3 『古美術』第36号 鎌倉芳太郎「砲弾下に失われた琉球の名画」
1972年5月19日『週刊朝日』「知られざる沖縄 初公開 100年前の八重山スケッチー鎌倉芳太郎氏のコレクションから 解説・鎌倉芳太郎、伊波南哲」
1972年7月 『琉球王家伝来衣裳』講談社
1972年9月 『佛教藝術』<沖縄の文化と美術特集>毎日新聞社□鎌倉芳太郎「琉球紅型」
1973-6 『古美術』第41号 鎌倉芳太郎「琉球紅型攷」
1972年5月11日~5月31日 サントリー美術館「50年前の沖縄ー写真でみる失われた文化財ー」→『図録』鎌倉芳太郎「失われた文化財ーせめて首里王宮だけでも復原再建したいというのが、心ある県民の切なる願いである。」
1972-7 『琉球王家伝来衣裳』講談社□鎌倉芳太郎「沖縄の自然と琉球王統」「解説 琉球の染織工」
1974年7月 鎌倉芳太郎『古琉球型紙』京都書院
1975-3 京都国立近代美術館『沖縄の工芸』講談社□鎌倉芳太郎「沖縄の工芸の歴史と特質」「沖縄の染織について」
1975-5 東京ひめゆり同窓会『東京支部35周年記念全国版』』(表紙・鎌倉芳太郎)□鎌倉芳太郎「満月ゆ、沖縄ゆ」
1975年5月『八重山ー東京・八重山郷友会創立50周年』に鎌倉芳太郎が「わが心のふるさと」と題し「さて、ひるがえって復帰後の沖縄をみるに、やれ開発だ、海洋博だと”数値”の支配する世の中になってしまった。資本主義の、利潤追求、カネ目当ての社会になっている。『田園まさに荒れなんとす』である。そこでわたくしは再び叫ばざるを得ない『自然にかえれ』『伝統を再認識せよ』と。産業を考えるにしても、沖縄の自然と伝統を無視しては考えられない。わたくしが地場産業の伝統工芸を強調するのもこのためである。地場産業とは、人間が住んでいるところの自然に則した産業のことである。」と記している。
1975ー6-15『琉球新報』□「琉球古美術の思い出ー鎌倉芳太郎氏を囲んでーきく人/大城立裕、中山良彦」
○私は、ここに来る前に、奈良の美術が好きで、美術史的な研究と、絵を描くのが好きだった。それで、唐招提寺で「東征伝」を見ると、鑑真和上が奈良朝以前に、阿児奈波島に来ているということが書いてある。(略)それから末吉麦門冬と知り合って、麦門冬に写真のうまい人を紹介してもらいたいといったらアメリカから帰っていた、小橋川朝重、小橋川南村という社会主義者がいたでしょうその兄なんです。その人に撮影を頼み、二人でぶらぶら歩きながら、麦門冬の所に寄ると、徳田球一なんかがいたりしてね。すると彼らは、僕にタルッチー(太郎兄)、マルクス、エンゲルスを読んだか、と言うんですね。
1976-2 鎌倉芳太郎『セレベス沖縄発掘古陶瓷』国書刊行会
1976年4月 鎌倉芳太郎『鎌倉芳太郎型絵染作品集』講談社
1977-6 荒川浩和・徳川義宣『琉球漆工藝』日本経済新聞□鎌倉芳太郎「『琉球漆工藝』刊行に寄せて」
1977年 鎌倉芳太郎、沖縄県立博物館に「安国山樹崋木記碑」(拓本)寄贈
①石沢正男宛の鎌倉芳太郎ハガキ
石澤兵吾(1853~1919)新潟出身。1882年、上杉沖縄県令のときの沖縄県庁に7等属で赴任。1888年、四等属で退官。福島県耶麻郡長の後、1901年から1905年まで新潟県刈羽郡長をつとめた。□→検索「蒔絵博物館」。『琉文手帖』4号「沖縄近代文化年表」によれば石沢兵吾は編著に『林政八書』(1885年)、『琉球漆器考』(1889年)、子息の①石沢正雄は大和文華館館長のとき『大和文華』(1978年8月)に「新収品紹介ー琉球黒漆桃樹文様沈金高台付盆」を執筆。
石澤兵吾(1853~1919)とその筆跡
木脇啓四郎画
琉球国王図
1889年ー石澤兵吾は琉球王府貝摺奉行所や絵図奉行所から沖縄県庁が引き継いだ図案・仕様帳等の書類を整理、画家の佐渡山安豊や沖縄県農業試験場雇の木脇啓四郎に琉球漆器図を写生せしめて東京の東陽堂から『琉球漆器考』として刊行した。この画家の一人・木脇啓四郎は鹿児島大学の原口泉さんらのまとめた『萬留』の著者と同一人物であった。木脇には沖縄滞在中に描いた『花草真写図』や沖縄風景画が沖縄県立図書館に、沖縄人物図が鹿児島県立図書館に残っている。
「鎌倉芳太郎ノート」那覇市歴史博物館所蔵
1955-8 日本橋高島屋「沖縄展」鎌倉芳太郎、型紙出品
8月ー東京日本橋高島屋で読売新聞主催「沖縄展」
1957-12-1 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「私と沖縄」□交友関係では末吉麦門冬(末吉安久氏の実兄)と意気投合。いろいろ啓発し、されたもの
1958-7-16 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「沖縄の美しいもの」(1)6-15川崎市沖縄文化同好会第8回沖縄文化講座で講演したもの。~7-26(10)
1960-1 鎌倉芳太郎『古琉球紅型型紙の研究』京都書院
1961年 琉球政府立博物館、鎌倉芳太郎から「円覚寺大雄殿壁画」(鎌倉芳太郎模写)、「大島祝女服装図」(鎌倉芳太郎模写)寄贈。鎌倉芳太郎から「ときさうし」「古代祝女衣裳カカン」「古代芭蕉地カカン」、鎌倉秀雄から「進貢船図」購入
1963-9月 鎌倉芳太郎『琉球の織物』京都書院
1964年 琉球政府立博物館、鎌倉芳太郎から「三平等兼題文言集」「呈禀文集」「寺社由来記」「琉球事件 上」「球陽外巻(遺老説伝)」「萬集」「覚世真経」「廃藩後旧例相変り候事件」「浦添御殿本 『王代記』」「大上感応篇大意の序」を寄贈。鎌倉秀雄から「琉球詩集」「琉球官生詩集」「琉球詩録」「毛世輝詩集」「東子祥先生詩集」「平敷屋朝敏文集」「中山王府相卿伝職年譜」「御書院並南風原御殿御床飾」「御座飾帳」「御書院御物帳」「琉球俗語 巻之一」購入
1966ー10 東京ひめゆり同窓会『戦後二十周年記念誌』(表紙・鎌倉芳太郎)□鎌倉芳太郎「回想記ー廃藩置県時代以前の琉球王国時代の美術研究に従事した。その関係で沖縄タイムス主筆 麦門冬末吉安恭氏と親交を続けた。またその縁戚の南村氏とも顔を合わせる機会が多く、したがって当時の沖縄における共産社会主義の猛者連中の思想運動にもふれた・・・」
1966年10月/1975年10月
1968年2月 鎌倉芳太郎『古琉球紅型』京都書院
1968-4 日本橋東急百貨店「沖縄展」図録 鎌倉芳太郎「琉球造形美術について」→名古屋の徳川美術館でも中日新聞社共催で開催された。
4月ー東急百貨店日本橋店7階で「沖縄展ー琉球の自然と文化」
1971-1 鎌倉芳太郎『古琉球紅型』上下 京都書院
1971 鎌倉芳太郎『古琉球型紙』京都書院
1972-2 上野松坂屋「琉球王家秘宝展」図録 鎌倉芳太郎「琉球の王統」
2月ー上野 松坂屋で毎日新聞社・琉球新報社主催「琉球王家秘宝展ー沖縄復帰記念・その文化と歴史」
2月6日 琉球政府立博物館「50年前の沖縄ー写真でみる失われた遺宝ー展」
1月29日~2月16日『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「五十年前の風物詩ー沖縄の失われた遺宝写真展にちなんで」
□那覇の松並み木<1>ーそのころ沖縄タイムス社の近くに主筆の麦門冬末吉安恭氏の書斎があって、時々遊びに行って、ちょっぴりお酒を飲んでから二人でよくこのあたりを散歩したものである。そこから見る松並み木は美しかった。麦門冬はどちらかというと無口で膚で感じあう人であった。秋のころ、この墓地のある丘のあたり、すすきが白い穂をなびかせ、ポツンと妻をもらうといってこちらを向いた大きな顔は今も忘れない。彼が海に落ちてこの世にいなくなってしまってからは、この松並み木にはその顔が二重写しになって、そんな気持ちでこの写真を撮った。(略)
1972-2 『50年前の沖縄・写真で見る失われた遺宝』図録
1972年2月5日の新報・タイムスに掲載されたもの
1972-2-9『琉球新報』
「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)
1972-3 『古美術』第36号 鎌倉芳太郎「砲弾下に失われた琉球の名画」
1972年5月19日『週刊朝日』「知られざる沖縄 初公開 100年前の八重山スケッチー鎌倉芳太郎氏のコレクションから 解説・鎌倉芳太郎、伊波南哲」
1972年7月 『琉球王家伝来衣裳』講談社
1972年9月 『佛教藝術』<沖縄の文化と美術特集>毎日新聞社□鎌倉芳太郎「琉球紅型」
1973-6 『古美術』第41号 鎌倉芳太郎「琉球紅型攷」
1972年5月11日~5月31日 サントリー美術館「50年前の沖縄ー写真でみる失われた文化財ー」→『図録』鎌倉芳太郎「失われた文化財ーせめて首里王宮だけでも復原再建したいというのが、心ある県民の切なる願いである。」
1972-7 『琉球王家伝来衣裳』講談社□鎌倉芳太郎「沖縄の自然と琉球王統」「解説 琉球の染織工」
1974年7月 鎌倉芳太郎『古琉球型紙』京都書院
1975-3 京都国立近代美術館『沖縄の工芸』講談社□鎌倉芳太郎「沖縄の工芸の歴史と特質」「沖縄の染織について」
1975-5 東京ひめゆり同窓会『東京支部35周年記念全国版』』(表紙・鎌倉芳太郎)□鎌倉芳太郎「満月ゆ、沖縄ゆ」
1975年5月『八重山ー東京・八重山郷友会創立50周年』に鎌倉芳太郎が「わが心のふるさと」と題し「さて、ひるがえって復帰後の沖縄をみるに、やれ開発だ、海洋博だと”数値”の支配する世の中になってしまった。資本主義の、利潤追求、カネ目当ての社会になっている。『田園まさに荒れなんとす』である。そこでわたくしは再び叫ばざるを得ない『自然にかえれ』『伝統を再認識せよ』と。産業を考えるにしても、沖縄の自然と伝統を無視しては考えられない。わたくしが地場産業の伝統工芸を強調するのもこのためである。地場産業とは、人間が住んでいるところの自然に則した産業のことである。」と記している。
1975ー6-15『琉球新報』□「琉球古美術の思い出ー鎌倉芳太郎氏を囲んでーきく人/大城立裕、中山良彦」
○私は、ここに来る前に、奈良の美術が好きで、美術史的な研究と、絵を描くのが好きだった。それで、唐招提寺で「東征伝」を見ると、鑑真和上が奈良朝以前に、阿児奈波島に来ているということが書いてある。(略)それから末吉麦門冬と知り合って、麦門冬に写真のうまい人を紹介してもらいたいといったらアメリカから帰っていた、小橋川朝重、小橋川南村という社会主義者がいたでしょうその兄なんです。その人に撮影を頼み、二人でぶらぶら歩きながら、麦門冬の所に寄ると、徳田球一なんかがいたりしてね。すると彼らは、僕にタルッチー(太郎兄)、マルクス、エンゲルスを読んだか、と言うんですね。
1976-2 鎌倉芳太郎『セレベス沖縄発掘古陶瓷』国書刊行会
1976年4月 鎌倉芳太郎『鎌倉芳太郎型絵染作品集』講談社
1977-6 荒川浩和・徳川義宣『琉球漆工藝』日本経済新聞□鎌倉芳太郎「『琉球漆工藝』刊行に寄せて」
1977年 鎌倉芳太郎、沖縄県立博物館に「安国山樹崋木記碑」(拓本)寄贈
①石沢正男宛の鎌倉芳太郎ハガキ
石澤兵吾(1853~1919)新潟出身。1882年、上杉沖縄県令のときの沖縄県庁に7等属で赴任。1888年、四等属で退官。福島県耶麻郡長の後、1901年から1905年まで新潟県刈羽郡長をつとめた。□→検索「蒔絵博物館」。『琉文手帖』4号「沖縄近代文化年表」によれば石沢兵吾は編著に『林政八書』(1885年)、『琉球漆器考』(1889年)、子息の①石沢正雄は大和文華館館長のとき『大和文華』(1978年8月)に「新収品紹介ー琉球黒漆桃樹文様沈金高台付盆」を執筆。
石澤兵吾(1853~1919)とその筆跡
木脇啓四郎画
琉球国王図
1889年ー石澤兵吾は琉球王府貝摺奉行所や絵図奉行所から沖縄県庁が引き継いだ図案・仕様帳等の書類を整理、画家の佐渡山安豊や沖縄県農業試験場雇の木脇啓四郎に琉球漆器図を写生せしめて東京の東陽堂から『琉球漆器考』として刊行した。この画家の一人・木脇啓四郎は鹿児島大学の原口泉さんらのまとめた『萬留』の著者と同一人物であった。木脇には沖縄滞在中に描いた『花草真写図』や沖縄風景画が沖縄県立図書館に、沖縄人物図が鹿児島県立図書館に残っている。
「鎌倉芳太郎ノート」那覇市歴史博物館所蔵