守礼門
小峯和明立教大学教授の『今昔物語集の世界』に「ある人は個人の屋敷の門やお寺の三門を想像するでしょうし、ある人はパリの凱旋門や都市の有名な門を連想するかもしれません」と門の話から始まり羅城門(羅生門)で話がはじまっている。ここに出てくる「守礼の門」は扁額が「守礼之邦」となっているところからそう呼ぶのであるが、中には「守礼門」と書いて「しゅれいのもん」と呼ぶのもいる。

大阪「沖縄関係資料室」(西平守晴主宰)には守礼門の扁額の拓本が軸装である。これは1972年に「豊川忠進先生の長寿を祝う会」のため那覇市の又吉真三氏から借用し寄贈されたものである。拓本の先駆者は久場政用。久場には『琉球金石総覧』『琉球列島之文化史料と植物史料』がある。また1926年の『沖縄タイムス』には「久場政用事業広告ー琉球植物園、科学知識普及ノ講話」がある。

新川明氏は『沖縄・統合と反逆』の中で「『守礼門』新札をどう読むか」と題し「扁額の『守禮之邦』という語句は、琉球王国が対外的に礼節を重んずる国であることを内外に宣言した意味を持つ。おのずからその国民は『守礼の民』であるという自己規定が生じる。『守礼門』は、そのような自己規定を媒介する『記号』として共有されてきたのである」とし、続けて「このような伝統は直ちに統治者によって逆手に取られ、支配目的を遂行するために利用されるのが常である。たとえば米軍統治下の沖縄に『守礼の光』と題する雑誌があった」としその側面にも触れている。
守礼門は、首里城が復元されるまでは「沖縄のシンボル」であった。最近は無用の長物の扱いを受け、沖縄教育委員会発行の『概説・沖縄の歴史と文化』の索引にも独立した項目としては無い。首里城に一括りされ冷たい扱いとなっている。1853年6月6日にペリー提督一行が首里城を訪れた。その遠征記には守礼門の版画が掲載されている。扁額の字は「中山府」としか見えないがとにかくもアメリカ史に守礼門が登場した最初のものであろう。

1952年発行の琉球郵便切手に「正殿唐破風」「琉大開学記念」(正殿が描かれている)、53年発行の「ぺルリ来琉百年記念」がある。58年には守礼門復元記念切手が発行された。62年には「国際マラリア防遏事業記念」切手に守礼門が図案化され、65年の「オリンピック東京大会沖縄聖火リレー記念」切手にも守礼門が使われた。復帰のときは守礼門が紅型模様とともに記念切手に使われ、時代の節目には必ず守礼門が使われた。合計6枚もある。スタンプにも数種がある。

丹羽文雄の小説集に『守禮の門』(1948年)がある。ちなみに手元の沖縄の旅行ガイドブックを見ると、1963刊の実業之日本社『沖縄』は口絵カラー写真に「守礼の門」がある。68年の主婦と生活社『カラ―旅・沖縄』はカバーと中扉に守礼門の写真がある。70年の日本旅行研究所『沖縄』には「守礼の門」のカラー写真、72年の山と渓谷社『沖縄と南西の島々』は「夕日の守礼門(しゅれいのもん)」の写真がある。

『おきなわキーワードコラムブック』に小野まさこさんが守礼門を「琉球王国時代には中国使節を迎え、現代においては観光客を迎えている首里王城の一門。観光客も必ず立ち寄る沖縄観光の記念写真の撮影場所となっている。夕日の中の『守礼之門』等、堂々たるシルエットの絵葉書も何枚かある。(略)東急ホテル前のイミテーション守礼門を本物だとカンチガイする人がけっこういるので、ご注意を」と簡潔に説明している。

東恩納寛惇は「首里王府の第一号坊としては中山門があり、王城の門としては、歓会門がある。第二坊が守礼門」と守礼門考に記している。寛惇は続けて「守礼門は尚清王時代の創建で、其頃は待賢門と言うて居たが、中頃になって首里と言う扁額を掲げ、これを首里門と称えて居た」とあるから呼び方も時代によって変遷している。




2010年7月3日から那覇市歴史博物館で「守礼門」展が開かれる。『球陽』の尚巴志7年(1428年)に「国門を創建す。曰く中山」とあるのは中山門で、尚貞13年(1681年)に板葺きが瓦葺に改められた。ちなみに正門の歓会門は尚眞代の建立。守礼門は尚清代の創建とされ、はじめ「待賢門」、のち「首里」の2字の額を掲げていた。尚永代に「守礼之邦」の額を冊封使来流のときにだけ掲げたが、1663年からは常に掲げられるようになった。



『新沖縄文学』
『沖縄を深く知る事典』(日外アソシエーツ2003ー2)に私が「『青い海』を通して」、屋嘉比収氏が「『新沖縄文学』を通して」を書いた。ここでは『新沖縄文学』についてふれる。周知のように沖縄タイムスは1949年2月に『月刊タイムス』を創刊している。この創刊号は1981年に月刊沖縄社が復刻しているので入手しやすい。創刊号の編集発行人は上地一史。中の記事は「アメリカの年中行事」、牧港篤三「市民の合唱」、上間正諭が「怪物でなかった霊御殿の怪物ー首里博物館創設物語」を書き豊平良顕の文化活動を紹介した。松田賀哲「慣性の法則」もある。うるま新報は1949年12月に『うるま春秋』を創刊している。『月刊タイムス』は1951年7月発行の第30号で休刊した。

沖縄タイムスは1966年4月に『新沖縄文学』を創刊した。編集発行人は牧港篤三である。牧港によれば誌名は『新日本文学』をヒントに命名したという。創刊号は文学3人男の嘉陽安男、船越義彰、大城立裕と、矢野野暮、長堂英吉、池田和、野ざらし延男、宮城阿峰①(宜野湾市長田2-2-1)らが登場している。女性は平みさを、桃原邑子で、表紙は岸本一夫、目次カットは安谷屋正義である。1966年7月に2号が発行されている。掲載にあたっての選考委員は嘉陽安男、桃原邑子、池田和、船越義彰、矢野野暮である。詩は山口恒二、あしみねえいいち、仲程昌徳で、創作が星雅彦。表紙は安谷屋正義、扉絵は安次富長昭である。


①1987年3月 宮城阿峰『句集 壺』あけぼの出版社□六車井耳ー序に代えて/阿峰君は昭和36年9月初めて本土へ旅行し、同月17日第60回子規忌(第二室戸台風一過の翌日。大阪府箕面市西江寺)にご一緒した。次の一句はその席吟である。 沖縄ゆ来てこの寺に子規祀る 阿峰
阿峰君は旬日拙宅に逗留され、洛東(京都)金福寺の月斗先生の奥津城を掃苔した。金福寺には蕪村の墓があり、芭蕉庵や翁の<うき我をさびしがらせよかんこ鳥>の句碑もある。山妻が案内して畿内の名勝旧跡を探った。9月23日名残りを惜しみつつ沖縄へ帰る阿峰君を神戸港中突堤波止場に山妻と見送ったが、風の白い秋の午後であった。