10/25: 浮世絵①
歌川(安藤)広重「東海道五十三次ー赤阪」/浄泉寺を訪ねると銀杏の集荷と葉っぱの清掃をしていた祖父江住職と話をする機会があった。正法寺にも大蘇鉄があったこと、大橋屋の中庭にあった大蘇鉄がなぜ道路拡張に支障があるのか疑問だという話を向けると「旅籠屋の清須屋(後に廃業)、村木屋(後に新城へ移転)にも蘇鉄があった」となぜか大蘇鉄がそこかしこにあったようなのだ。安藤広重は赤坂宿には泊まっていないとか聞いたが、安藤広重にとって当時賑わっていた赤坂宿の旅籠、飯盛女と大蘇鉄は、切っても切れない題材だったのだろう。(→温泉マニアの巡浴紀行)
豊原国周 とよはら-くにちか
1835-1900 幕末-明治時代の浮世絵師。
天保(てんぽう)6年6月5日生まれ。豊原周信(ちかのぶ),初代歌川国貞にまなぶ。役者絵とくに大首絵(おおくびえ)にすぐれた。83回ひっこし,妻も40回以上かえたという奇行の持ち主。門人に橋本周延(ちかのぶ)がいる。明治33年7月1日死去。66歳。江戸出身。本姓は荒川。通称は八十八。別号に一鶯斎,華蝶楼。(→コトバンク)
『月岡芳年ー衝撃の絵師』(新人物往来社2011・6)
□妙国寺境内の大蘇鉄(そてつ)は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)である。樹齢1100年余と云う。織田信長は、その権力を以って、天正7年、この蘇鉄を安土城に移植させた。しかし、毎夜「堺妙國寺に帰ろう」と怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄を切りつけたところ、鮮血切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く、さしもの信長も怖れ即座に妙國寺に返したと言う。枯れ死寸前の蘇鉄を、哀れにおもわれた日珖上人は法華経一千部を誦したところ、夢枕に、人面蛇身神が現れ「報恩のため、女には産みの苦しみを和らげ、苦難には災厄を逃れ、乏しき者には福寿を授ける」と三つの誓願をした。御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀られています。(ウィキペディア)
月岡芳年【つきおか・よしとし】
生年: 天保10.3.17 (1839.4.30)
没年: 明治25.6.9 (1892)
幕末明治期の浮世絵師。本姓吉岡,俗称米次郎。画号に玉桜,大蘇,魁斎などがある。住居は江戸の中橋,南金六町,本所藤代町など。歌川国芳に師事し,また葛飾北斎,菊池容斎にも私淑したと伝える。嘉永6(1853)年の錦絵初作を皮切りに,武者・役者・美人の錦絵を陸続と発表,また血みどろ絵と呼ばれる残酷な描写の錦絵も周辺絵師と競作した。明治以降は新聞錦絵や新聞・小説の挿絵なども盛んに描くかたわら,上下二枚続きなど新趣向の版画を上梓した。精神に異常をきたし,病没したと伝える。なお,門人からは近代美人画家の雄①を多数輩出した。(→コトバンク) ①芳年の弟子の年方からは鏑木清方、伊東深水を経て岩田専太郎や志村立美らの画家が育っている。同じく弟子の右田年英からは鰭﨑英朋や河合英忠、伊藤彦造が育ち、鰭﨑の弟子には神保朋世もいる。→『月岡芳年ー衝撃の絵師』(新人物往来社2011・6)
『琉球新報百年史』
那覇市歴史博物館「横内家資料」の浮世絵
尾形月耕 【おがた・げっこう】
生年: 安政6.9.15 (1859.10.10) 没年: 大正9.10.1 (1920)
明治大正期の日本画家。江戸京橋生まれ。本名鏡正之助。のち尾形光哉の養子となり,尾形姓となる。谷文晁,菊池容斎,河鍋暁斎らに私淑し,独学で絵を学んだ。明治初年に絵ビラや人力車の蒔絵,輸出用陶器の下絵などを描き,また『絵入朝野新聞』の挿絵や春陽堂,博文館などの雑誌口絵,錦絵『月耕漫画』などを制作する。明治20年代以降,日本青年絵画協会,日本画会の設立に参加,31(1898)年には日本美術院創立に参加し正員となるなど新派系の有力作家として活躍した。大正1(1912)年第6回文展で「山王祭」(東京国立博物館蔵)が3等賞受賞。 →コトバンク
歌川豊国 【うたがわ・とよくに】
生年: 明和6 (1769) 没年: 文政8.1.7 (1825.2.24)
江戸後期の浮世絵師。江戸生まれ。姓は倉橋氏で俗称熊吉。歌川豊春に入門し,天明(1781~89)末ごろから,草双紙挿絵や美人画に筆を執る。寛政6(1794)年から刊行の『役者舞台之姿絵』の揃物で,役者絵の人気絵師の地位を確立。同じころ,「風流七小町略姿絵」など,美人画においても独自の画風を確立し,以後没するまで,錦絵,草双紙・読本などの挿絵の分野で活躍。享和2(1802)年刊の『絵本時世粧』,同3年の『役者此手嘉志和』など,絵本の作例も多い。化政期(1804~30)の浮世絵画壇では第一人者となり,門下から国貞,国芳らの有力な絵師も輩出。この期は浮世絵界でも大衆化が急速に進むが,文化14(1817)年の『役者似顔画早稽古』では自身の典型化した役者絵の画法を一般向けに解説する。豊国は作風変遷の大きさからも窺えるように,浮世絵を取り巻く環境と世の嗜好の変化に応じて,自己の様式を柔軟に対応させられる器用な絵師であった。のち門人豊重が2代豊国を称した。<参考文献>鈴木重三「豊国」(『浮世絵大系』9巻) →コトバンク
橋本周延 はしもと-ちかのぶ
1838-1912 幕末-明治時代の浮世絵師。
天保(てんぽう)9年8月8日生まれ。歌川国芳(くによし),3代歌川豊国,ついで豊原国周(くにちか)にまなぶ。美人画にすぐれ,江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などで知られる。大正元年9月29日死去。75歳。越後(えちご)(新潟県)出身。名は直義。別号に楊洲。作品に「真美人」36図,「大川渡し舟」など。→コトバンク
小林清親/宮川 春汀
小林清親 【こばやし・きよちか】
生年: 弘化4.8.1 (1847.9.10) 没年: 大正4.11.28 (1915)
明治期の浮世絵師。本所御蔵屋敷頭取小林茂兵衛を父に知加子を母に,江戸で生まれる。15歳で父を亡くし家督を継いで御蔵に勤める。幕末には将軍徳川家茂に従って大坂に赴き,伏見の戦に参加するが,江戸開城に伴い御蔵を官軍に渡し,のち静岡一帯を転々とする。明治7(1874)年上京して画学に専念。一時『絵入りロンドン・ニュース』紙の特派画家チャールズ・ワーグマンに師事したとされる。9年,「東京江戸橋之真景」などを出版して洋風浮世絵師としてデビュー。10年より西洋の遠近法や陰影法を取り入れた東京名所図を出版。これらは「光線画」と呼ばれ,江戸から東京へと移りゆく風景を新しい画風で描いて評判となった。14年,両国の大火が起こると写生に出,その間に自宅を焼失。この折の写生に基づく火災シリーズは大好評だった。同年,東京名所図に終止符を打ち,以後,同じ画風を示すことはなかった。この年から新聞『団団珍聞』に鋭い社会諷刺を含むポンチ絵(漫画)を描くほか,新聞挿絵などで活躍する。17年,安藤広重の影響が強い「武蔵百景」を出版するが不評のため中止。26年二六社に入社し,27年,団団社を退く。日清・日露戦争時には戦争錦絵で好評を博した。以後,浮世絵自体が衰退したため,清親は最後の浮世絵師ともいわれ,その作品は永井荷風ら江戸趣味の人々に深く愛好された。<参考文献>吉田漱編『最後の浮世絵師/小林清親』,酒井忠康『時の橋』 →コトバンク
宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11月11日 - 大正3年〈1914年〉7月26日)
富岡永洗の門人。三河国(現・愛知県)渥美郡畠村(現・田原市福江町)に廻船業と薬種問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉。明治11年に母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る。
明治23年(1890年)幼少から得意としていた画業を志し上京、富岡永洗について絵を学んだ。春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・渡辺小華に憧れたからとする説がある。以来、写生を専らにして浮世人物を究め、特に好んで柔らかいタッチの子供絵を描いた。最初は師から「蓬斎洗圭」の名を与えられるが、明治28年(1895年)に「宮川春汀」に改名した。作画期は明治25年(1892年)代から亡くなる年までで、明治20年から明治30年代にかけて「風俗通」、「美人十二ヶ月」、「風俗錦絵雑帖」などの風俗画の他、雑誌口絵、新聞挿絵を描いている。こうした画業の傍ら、柳田国男、田山花袋、国木田独歩、徳田秋声、桐生悠々ら多くの若い文人たちと交流を重ねていった。また作家・巌谷小波と知り合い、明治31年5月小波が主催する「木曜会」に入会し、彼らと作品を批評したり句会を開いた。→ウィキペディア