10/29: みどり風通信「シャーラ トントン 琉球絣」
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これは、今年の2月に書いた「暮らしの中のフォルム」の最後部に載せた予告編「織り柄の進化」の発展型である。2月から半年余り5号に亘って色々書き連ねてきたが、そのテーマを忘れていたのではなかった。
暮らしの中のフォルム
3月に書いた「暮らしの中のフオルム(シーサー編)」の取材の為にカメラを持って街へ出るまで「織物」の事や、まして「織り柄」の事など、全く関心が無かったし、その知識も全く無かった。たまたま当蔵大通りの,左側の写真のビルのベランダの柵が目に飛び込んできた。 「ナンダコリャ!」写真でいうポジとネガの連続模様、その斬新なデザインが心に残った。しかもそれが沖縄伝統の織り柄のデザインを建築に転用するという新しい発想に喝采を浴びせたい気持ちの高まりを覚えたのだった。「そういえば、もう一つあったぞ!」とウチの墓近くの、瑞泉酒造裏手の崎山ハイツにある建物を思いだし、それもカメラに納めた(右の写真)これも同じ柄だが、色が付いたペンキ塗装である。ともに八重山のミンサー織りの柄であると知ったのは後日である。
この記事の冒頭にも書いたが「織物」や「織り柄」には全く興味を持たなかった僕だが「織物・織り柄」という切り口というか「視座」を持ってしまった以上「将来それに係わる事物に必ず出会うだろう」という、すごく悠長かつ楽観的な蓋然性(がいぜんせい)を信じて、このテーマは脇にほっておいたのだ。ところが、やっぱり「奴はやって来たのだ!」前触れもなく!
南風原町は「かすりの里」を標榜していて、町には「琉球かすり会館(琉球絣事業協同組合」があり、本部・照屋・喜屋武の各集落はそのメッカとなっている。さらに本部には「かすりロード」という散歩道があり、歩道に施された文様を頼りにたどっていくと、織物工房、織機制作所,湯のし屋(火のし、がアイロンなので湯の熱で絣はシワを伸ばすのか?)その他関連職の工場があったり、ビーマという柄の最小単位の図柄が名前と説明文とともにあちこちの塀や壁に据え付けてある。
そんな、不思議な空間に旅にでた。今号はその報告である。
絣の現状について
絣は現在でも日本各地で織られており、洋服、ネクタイ、鞄、タペストリーと装飾やその他小物にも利用されているが、生産に手間がかかるため、割高であるにもかかわらず、もともと普段着の素材のため高級品とは見なされず、需要は伸びていない。いずれも少数の織元が細々と生産するに留まっている・・・・・。とある。
現代の「ブランド指向」とは対局にあるのであろう『絣』は時代遅れなのかもしれない。『絣』との出会いは僕にとって新鮮なものであった。そういう『絣』を織り続ける人達が居る事を心強くおもった次第。
現在の僕もビジネスとは程遠い「生業」「稼業」の世界に生きているのだが、生き生きと仕事を続け、平凡な日々を積み重ね、それでいて「平凡」の中に埋もれず「平凡」の中の変化を見極めるシャープな感性を忘れない事・・・・それでいいのだ!・・・・・というのも今回の収穫かな??と思っている。
絣の事を調べている最中フッと旧首里市章の事が頭をかすめた。首里市の市制施行は1921年(大正10年)。1954年(昭和29年)に小禄村と共に那覇市に合併された。同年2月生まれの僕は旧首里市章を知らないが、その市章を首里市営バスから首里バス株式会社の社章として引き継ぎ、バス車体の前部や横に大きく描かれていたので僕は永く首里バスのマーク であると思っていて、それが旧首里市章と知ったのは遥か後年である。
父の幼馴染の上間長和氏が首里市会議員を経て首里バス株式会社の社長に就任するにあたり、その「よしみ」で回数券や定期券をウチが印刷していたので、そのマークの凸版は日々見慣れたものとなっていた。このマークへの愛着は幼い頃の思い出と重なっている。
先頭写真は休日の朝早起きして作図したものだが、「首里バスモデル」に近い、首里バスモデルは菱形が正方形に近く、4つの「ユ」の横棒が太い、僕のはもう少し形をソロバン珠に近づけ横棒を少し細くしてある。カラカラに描かれたのは更に菱形の上下を詰め「ユ」の線も細く趣がある。これも、いわゆるロゴマークなのだが、当時のこととて著作権や形の規定や色の指定などが厳しくなく様々なバリエーションのものがあったと想像される。
今回、このマークをジーッと眺めていると、この意匠をデザインした人は「織り」や「織り柄」を身近に見て、知っていた人物なのではないか?デザインが織り柄っぽいと感じたのである。
4つの「ユ」に真ん中に「り」でシュリを菱形にまとめた物なのだが、4つの「ユ」がひとつのビーマでその中に「り」というビーマを織り込んだのではないか?「ユ」の縦棒が極端に右寄りである、菱形の輪郭を崩したくないという思いもあったとは思うが、首里の街の景観のバックボーンになり、人々の生活の隅々に根ざしていた、琉球松の松葉を「ユ」に図案化して織り込んだのでは?紺地に白でこの柄を浮き上がらせ展開すれば素敵な織物にならないかな~と思ったのだ。「それが何なのさ!」とツッコミが入れば二の句を告げることは出来ないが、想像の世界で遊ぶ事の好きな僕の思いをコッソリと発表してみたかったのだ。
シャーラ トントンってなに?
機(はた)の足元、踏み木を踏むと経糸(たて糸)が上下に分かれて、隙間が出来る、その間を小舟のような優雅な形をした杼(ひ)を投げ入れる、杼には緯糸(よこ糸)が巻き込まれていて経糸の表面を滑るときシャーラという音がする。
次に、筬(おさ)という2本の櫛(くし)を上下に合わせ櫛目に経糸が通っている形のものでトントンと糸目を詰める一連の作業を音で表したもののようだ。(説明がないので勝手に決める。)
『夕鶴』 日本昔話バージョン「つるのおんがえし」の(つう)が(与ひょう)のために機を織るシーンを思い出してみよう、確かにシャーラ トントン シャーラ トントンと聞こえてくる。
織物・織り柄 ターンタ タン タン(シャーラ トントン)
最後までお読み下さり有難うございました。今日はこれでお~しまい。
これは、今年の2月に書いた「暮らしの中のフォルム」の最後部に載せた予告編「織り柄の進化」の発展型である。2月から半年余り5号に亘って色々書き連ねてきたが、そのテーマを忘れていたのではなかった。
暮らしの中のフォルム
3月に書いた「暮らしの中のフオルム(シーサー編)」の取材の為にカメラを持って街へ出るまで「織物」の事や、まして「織り柄」の事など、全く関心が無かったし、その知識も全く無かった。たまたま当蔵大通りの,左側の写真のビルのベランダの柵が目に飛び込んできた。 「ナンダコリャ!」写真でいうポジとネガの連続模様、その斬新なデザインが心に残った。しかもそれが沖縄伝統の織り柄のデザインを建築に転用するという新しい発想に喝采を浴びせたい気持ちの高まりを覚えたのだった。「そういえば、もう一つあったぞ!」とウチの墓近くの、瑞泉酒造裏手の崎山ハイツにある建物を思いだし、それもカメラに納めた(右の写真)これも同じ柄だが、色が付いたペンキ塗装である。ともに八重山のミンサー織りの柄であると知ったのは後日である。
この記事の冒頭にも書いたが「織物」や「織り柄」には全く興味を持たなかった僕だが「織物・織り柄」という切り口というか「視座」を持ってしまった以上「将来それに係わる事物に必ず出会うだろう」という、すごく悠長かつ楽観的な蓋然性(がいぜんせい)を信じて、このテーマは脇にほっておいたのだ。ところが、やっぱり「奴はやって来たのだ!」前触れもなく!
南風原町は「かすりの里」を標榜していて、町には「琉球かすり会館(琉球絣事業協同組合」があり、本部・照屋・喜屋武の各集落はそのメッカとなっている。さらに本部には「かすりロード」という散歩道があり、歩道に施された文様を頼りにたどっていくと、織物工房、織機制作所,湯のし屋(火のし、がアイロンなので湯の熱で絣はシワを伸ばすのか?)その他関連職の工場があったり、ビーマという柄の最小単位の図柄が名前と説明文とともにあちこちの塀や壁に据え付けてある。
そんな、不思議な空間に旅にでた。今号はその報告である。
絣の現状について
絣は現在でも日本各地で織られており、洋服、ネクタイ、鞄、タペストリーと装飾やその他小物にも利用されているが、生産に手間がかかるため、割高であるにもかかわらず、もともと普段着の素材のため高級品とは見なされず、需要は伸びていない。いずれも少数の織元が細々と生産するに留まっている・・・・・。とある。
現代の「ブランド指向」とは対局にあるのであろう『絣』は時代遅れなのかもしれない。『絣』との出会いは僕にとって新鮮なものであった。そういう『絣』を織り続ける人達が居る事を心強くおもった次第。
現在の僕もビジネスとは程遠い「生業」「稼業」の世界に生きているのだが、生き生きと仕事を続け、平凡な日々を積み重ね、それでいて「平凡」の中に埋もれず「平凡」の中の変化を見極めるシャープな感性を忘れない事・・・・それでいいのだ!・・・・・というのも今回の収穫かな??と思っている。
絣の事を調べている最中フッと旧首里市章の事が頭をかすめた。首里市の市制施行は1921年(大正10年)。1954年(昭和29年)に小禄村と共に那覇市に合併された。同年2月生まれの僕は旧首里市章を知らないが、その市章を首里市営バスから首里バス株式会社の社章として引き継ぎ、バス車体の前部や横に大きく描かれていたので僕は永く首里バスのマーク であると思っていて、それが旧首里市章と知ったのは遥か後年である。
父の幼馴染の上間長和氏が首里市会議員を経て首里バス株式会社の社長に就任するにあたり、その「よしみ」で回数券や定期券をウチが印刷していたので、そのマークの凸版は日々見慣れたものとなっていた。このマークへの愛着は幼い頃の思い出と重なっている。
先頭写真は休日の朝早起きして作図したものだが、「首里バスモデル」に近い、首里バスモデルは菱形が正方形に近く、4つの「ユ」の横棒が太い、僕のはもう少し形をソロバン珠に近づけ横棒を少し細くしてある。カラカラに描かれたのは更に菱形の上下を詰め「ユ」の線も細く趣がある。これも、いわゆるロゴマークなのだが、当時のこととて著作権や形の規定や色の指定などが厳しくなく様々なバリエーションのものがあったと想像される。
今回、このマークをジーッと眺めていると、この意匠をデザインした人は「織り」や「織り柄」を身近に見て、知っていた人物なのではないか?デザインが織り柄っぽいと感じたのである。
4つの「ユ」に真ん中に「り」でシュリを菱形にまとめた物なのだが、4つの「ユ」がひとつのビーマでその中に「り」というビーマを織り込んだのではないか?「ユ」の縦棒が極端に右寄りである、菱形の輪郭を崩したくないという思いもあったとは思うが、首里の街の景観のバックボーンになり、人々の生活の隅々に根ざしていた、琉球松の松葉を「ユ」に図案化して織り込んだのでは?紺地に白でこの柄を浮き上がらせ展開すれば素敵な織物にならないかな~と思ったのだ。「それが何なのさ!」とツッコミが入れば二の句を告げることは出来ないが、想像の世界で遊ぶ事の好きな僕の思いをコッソリと発表してみたかったのだ。
シャーラ トントンってなに?
機(はた)の足元、踏み木を踏むと経糸(たて糸)が上下に分かれて、隙間が出来る、その間を小舟のような優雅な形をした杼(ひ)を投げ入れる、杼には緯糸(よこ糸)が巻き込まれていて経糸の表面を滑るときシャーラという音がする。
次に、筬(おさ)という2本の櫛(くし)を上下に合わせ櫛目に経糸が通っている形のものでトントンと糸目を詰める一連の作業を音で表したもののようだ。(説明がないので勝手に決める。)
『夕鶴』 日本昔話バージョン「つるのおんがえし」の(つう)が(与ひょう)のために機を織るシーンを思い出してみよう、確かにシャーラ トントン シャーラ トントンと聞こえてくる。
織物・織り柄 ターンタ タン タン(シャーラ トントン)
最後までお読み下さり有難うございました。今日はこれでお~しまい。