島袋百恵・画「玉城盛重」


1993年4月 矢野輝雄①『新訂増補 沖縄芸能史話』榕樹社〇玉城盛重の曽祖父は尚穆王の冠船(1756)で四つ竹踊りをつとめた首里四公子の1人、玉城盛昭(8世)で、三司官を出す家柄で、9世は盛林である。彼の父盛喜(10世)は、廃藩とともに盛寿、盛政、盛重の3兄弟を芝居に入れたという。
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1988年7月 矢野輝雄②『沖縄舞踊の歴史』築地書館/2001年8月 矢野輝雄③『組踊への招待』琉球新報社
②京大坂の念仏踊りは、時代とともに優美な竹枝(筑子)躍、松躍、花笠踊などがあらわれ、鉦太鼓のリズムを強調する踊りから、歌を聞かせることへの重点が移行する。飾り物を作り、仮装の見せ物を中心に据え、円形を作って踊る。なかでも有名なものは祇園祭で、本来非業の死による霊魂をなぐさめるための御霊信仰に基づくものであったが、盆の習俗と習合して、中世から近世にかけて最盛期を迎える。また慶長九年(1604)八月、豊太閤一周忌に行われた豊国神社の風流踊りは、屏風絵にも残された盛大なもので、祇園祭の中から生まれた風流踊りの集大成ともいうべきものであった。そこでは数百人の踊り子が繰り出し、円陣を作って乱舞する。女性による小町踊りなども生まれ、このような風流踊りの形は、新潟県黒姫の綾子舞や、東京都小河内の鹿島踊り、奈良県大塔の篠原踊りなど各地の芸能に残るところであり、その振りには沖縄の若衆踊りなどに似かよったものも見出せる。

③組踊を一口で説明するとなれば、歌三線(音楽)、唱え(せりふ)、踊り(舞踊)を総合した楽劇ということになろう。

1914年8月 中座で「ムンズル笠」上演

1925年3月 秩父宮、渡欧の途次来沖。中城御殿で組踊「二童敵討」(阿麻和利・玉城盛重、鶴松・嘉手納良芳、亀千代・田島清郷)を見る。

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1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

1929年10月 伊波普猷『校註 琉球戯曲集』春陽堂□本書の写真には玉城盛重の写真が2枚ある。

1、琉球古劇「二童敵討」阿麻和利に扮したる琉球最後の名優玉城盛重
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2,名優玉城盛重

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玉城盛重「高平良万才」/「伊野波節」
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玉城盛重「阿摩和利」

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□1923年2月24日『沖縄タイムス』田邉尚雄「音楽史上の参考資料ー琉球の琴八橋流 徳川初期のもので今は内地では消滅」
○玉城盛重氏は舞踊の外に八橋流の琴曲も奏せられたが私はここに此の八橋流の琴について一言したいと思ふ、八橋流と云ふのは勿論徳川の初めに京都で八橋検校が開いた箏であって、我が俗箏の開祖である。内地では八橋流は元禄時代に生田流が起こり文化文政時代に江戸で山田流が出たために今では生田や山田に圧倒されて八橋流は全く消えてしまった。然るに琉球には此の八橋流のみが伝わって生田流や山田流はあめり入って居ないのは頗る面白いことであると共に、又内地で滅びたものが琉球に残っていると云ふ点に於いて非常に音楽史上貴重なる材料であると云はなければならぬ。・・・

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中央が玉城盛重(山田有昴所蔵)

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写真集那覇百年のあゆみ/写真番号404/P107/裏書あり/地方文化が軽視、否定された昭和13年頃琉球芸能の抹殺を恐れた人々が、琉球舞踊の大家、玉城盛重の至芸を後世に残すため、その舞踊を16ミリにおさめた。写真は撮影の終わった日の記念撮影。/(1938頃)

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写真前列左より田代タカ子、玉城盛重、根路眼たま子 後列左よりー山田有邦、千原成悟、比嘉良篤


玉城盛重の墓→識名


玉城盛義
1949年6月 『芝居と映画』6月号□玉城盛義「玉城盛重翁追想ー叔父を語る」
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