04/22: 年譜・末吉麦門冬/1913(大正2)年
1913年1月1日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 牛の國」
1914年1月3日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 牛の國俳諧」「毎日二句」
1914年1月5日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「続俳諧 牛の国」「毎日二句」
1914年1月7日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「続俳諧 牛の国」「毎日二句」
1913年2月8日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟」
1913年2月11日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー章魚ゆでて爺は風呂を上けり」
1913年2月13日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー火事」
1913年2月15日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー火事 山火事」
1913年2月19日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー詠史 猪早太」
1913年2月20日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー居候」
1913年2月26日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー泥濘」
1913年3月2日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー巫女」
1913年3月5日『沖縄毎日新聞』玉代勢法雲「病室より」①
1913年3月6日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(1)」
○時節柄沖縄のユタとは少し異なれども本土の巫女一名神子それも我俳諧の畑に出てたるものを一寸紹介して見よう。序に注釈まで附け加えて置く
河内路や東風吹き送る巫女が袖 蕪村
河内路と云ふと何だか暖かい野道を連想する一望尽きざる長い道が通って所々にポッチリと菜の花が咲きこぼれている。野川の薄氷も漸う融けかかり一体の空気が裕ったりと落着いた気分で道行く人の足の歩みも自づと緩りになるこの背景を前にして芝居なら花道から白衣の長い袖をひるがえして若い巫女が東風に吹き送られて出て来る袖がひらひら裳裾がほらほら丁度土蜘の狂言に出る巫女のやうな装ひであらう薩張りした清い感じのする句振りである作者蕪村は巫女が好きだったと見えて此外にも二三種作ってある。
1913年3月7日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(2)」
○春風や廻廊下る巫女か袖 満米
今しも神楽堂で神すずしめの朝神楽が終わり古香人を襲ふて幽然たる社殿を廻りて更に続く廻廊を小忌衣の袖長う垂れシュツシュツと衣すれの音して下り来るみこの姿は端厳なるかなかかる時けにや彼女は人間の物にあらず白鳩のやうな神の使いのやうな思ひに人をして振り仰いて恍惚たらしむ春風吹いて普き洛陽の天地この境にこの景あり。
1913年3月8日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(3)」
○巫女町によき衣すます卯月かな 蕪村
卯月は旧暦の四月初夏の候である目に青葉山ほととぎす初鰹は江戸趣味であるがこれは京都の方邊の閑静なとある町この界隈はミコの住家が多いのでミコ町の称もある位夜は卯の花月夜にホゾンカケタカ杜鵑の聲も聞こえる所であろう。夜半亭蕪村●日この町をブラリと通りのけようとして兎ある門に逢着した卯の花の垣越しにフト見入るれば此処がミコの家であって丁度一人の女が着物を洗濯してまさに竿に通す所であったそれが清い感じのする綺麗な衣であった主の齢は五十許り打見にはまだ若い卯月の一日場所俳味津々として尽きず遂に村翁薬籠の物となった。
1913年7月5日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌ー煙草を吸い始めたのは確か16才の頃であったと記憶する・・・」
1913年7月8日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌ー中学での昼食時間は僕等喫煙党の最も楽しい1時間であった・・・」
1913年7月9日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌」
1913年7月10日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌」
1913年7月23日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(1)
1913年7月24日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(2)
1913年7月25日『琉球新報』松檮濤「菊栽培法に就いて」(3)
1913年7月27日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(4)
1913年7月29日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(5)
1913年8月1日『琉球新報』松檮濤「菊栽培法に就いて」(6)
1913年8月5日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(7)
1913年8月6日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(8)
1913年8月8日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(9)
1941年4月ー『最新沖縄民謡集』那覇・幸地書店
(発行日不明)『奄美の民謡』鹿児島県大島支庁
□奄美の民謡に就いてー此の地の民謡は、上の句八八、下の句八六の三十音から成って居ります。中には長詩型のものもあるし、又短いのもありますが、大体三十音を以って基本詩型となって居ります。曲の種類は現在行われているので凡そ四十種位、歌詞は一千近くうたわれて居ります。民謡をうたう方法は、普通三味線音楽(歌あそび)と、八月踊りになって居りまして、歌詞は多くの場合共通になって居ります。三味線あそびの場合は、男が三味線をひいて男女交互にうたうのが普通であり、八月踊りには女が太鼓を叩いて、之も男女交互にうたい合う仕組になって居ります。基本になる音譜がなくすべて口承によって伝統されている関係上、同じ曲でも島々によって異い又人々によってうたい方が異なって統一されて居りません
□普通民謡篇
朝ばな節、いきゆんにゃかな節、船のそとども節、黒だんど節、糸繰り節、徳の島ちゆつきやり節、らんかん節、俊良節、かんつめ節
□新民謡篇
ちんだら節、えらぶ百合の花節、奄美小唄、島育ち、農村小唄、島影、そてつの実、
1914年1月3日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 牛の國俳諧」「毎日二句」
1914年1月5日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「続俳諧 牛の国」「毎日二句」
1914年1月7日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「続俳諧 牛の国」「毎日二句」
1913年2月8日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟」
1913年2月11日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー章魚ゆでて爺は風呂を上けり」
1913年2月13日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー火事」
1913年2月15日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー火事 山火事」
1913年2月19日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー詠史 猪早太」
1913年2月20日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー居候」
1913年2月26日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー泥濘」
1913年3月2日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー巫女」
1913年3月5日『沖縄毎日新聞』玉代勢法雲「病室より」①
1913年3月6日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(1)」
○時節柄沖縄のユタとは少し異なれども本土の巫女一名神子それも我俳諧の畑に出てたるものを一寸紹介して見よう。序に注釈まで附け加えて置く
河内路や東風吹き送る巫女が袖 蕪村
河内路と云ふと何だか暖かい野道を連想する一望尽きざる長い道が通って所々にポッチリと菜の花が咲きこぼれている。野川の薄氷も漸う融けかかり一体の空気が裕ったりと落着いた気分で道行く人の足の歩みも自づと緩りになるこの背景を前にして芝居なら花道から白衣の長い袖をひるがえして若い巫女が東風に吹き送られて出て来る袖がひらひら裳裾がほらほら丁度土蜘の狂言に出る巫女のやうな装ひであらう薩張りした清い感じのする句振りである作者蕪村は巫女が好きだったと見えて此外にも二三種作ってある。
1913年3月7日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(2)」
○春風や廻廊下る巫女か袖 満米
今しも神楽堂で神すずしめの朝神楽が終わり古香人を襲ふて幽然たる社殿を廻りて更に続く廻廊を小忌衣の袖長う垂れシュツシュツと衣すれの音して下り来るみこの姿は端厳なるかなかかる時けにや彼女は人間の物にあらず白鳩のやうな神の使いのやうな思ひに人をして振り仰いて恍惚たらしむ春風吹いて普き洛陽の天地この境にこの景あり。
1913年3月8日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(3)」
○巫女町によき衣すます卯月かな 蕪村
卯月は旧暦の四月初夏の候である目に青葉山ほととぎす初鰹は江戸趣味であるがこれは京都の方邊の閑静なとある町この界隈はミコの住家が多いのでミコ町の称もある位夜は卯の花月夜にホゾンカケタカ杜鵑の聲も聞こえる所であろう。夜半亭蕪村●日この町をブラリと通りのけようとして兎ある門に逢着した卯の花の垣越しにフト見入るれば此処がミコの家であって丁度一人の女が着物を洗濯してまさに竿に通す所であったそれが清い感じのする綺麗な衣であった主の齢は五十許り打見にはまだ若い卯月の一日場所俳味津々として尽きず遂に村翁薬籠の物となった。
1913年7月5日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌ー煙草を吸い始めたのは確か16才の頃であったと記憶する・・・」
1913年7月8日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌ー中学での昼食時間は僕等喫煙党の最も楽しい1時間であった・・・」
1913年7月9日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌」
1913年7月10日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌」
1913年7月23日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(1)
1913年7月24日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(2)
1913年7月25日『琉球新報』松檮濤「菊栽培法に就いて」(3)
1913年7月27日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(4)
1913年7月29日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(5)
1913年8月1日『琉球新報』松檮濤「菊栽培法に就いて」(6)
1913年8月5日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(7)
1913年8月6日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(8)
1913年8月8日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(9)
1941年4月ー『最新沖縄民謡集』那覇・幸地書店
(発行日不明)『奄美の民謡』鹿児島県大島支庁
□奄美の民謡に就いてー此の地の民謡は、上の句八八、下の句八六の三十音から成って居ります。中には長詩型のものもあるし、又短いのもありますが、大体三十音を以って基本詩型となって居ります。曲の種類は現在行われているので凡そ四十種位、歌詞は一千近くうたわれて居ります。民謡をうたう方法は、普通三味線音楽(歌あそび)と、八月踊りになって居りまして、歌詞は多くの場合共通になって居ります。三味線あそびの場合は、男が三味線をひいて男女交互にうたうのが普通であり、八月踊りには女が太鼓を叩いて、之も男女交互にうたい合う仕組になって居ります。基本になる音譜がなくすべて口承によって伝統されている関係上、同じ曲でも島々によって異い又人々によってうたい方が異なって統一されて居りません
□普通民謡篇
朝ばな節、いきゆんにゃかな節、船のそとども節、黒だんど節、糸繰り節、徳の島ちゆつきやり節、らんかん節、俊良節、かんつめ節
□新民謡篇
ちんだら節、えらぶ百合の花節、奄美小唄、島育ち、農村小唄、島影、そてつの実、