2014年5月23日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー奈良原繁」
奈良原繁
生年: 天保5.5.23 (1834.6.29) 没年: 大正7.8.13 (1918)
幕末明治期の地方行政官僚,政治家。鹿児島城下高麗町に生まれる。幼名三次,長じて喜八郎,幸五郎。鹿児島閥をバックに活躍し,明治の「琉球王」の異名を持つ。幕末には,薩摩藩士として国事に奔走する。3歳上の兄喜左衛門が生麦(神奈川県)で英国人に斬りつけ(生麦事件),その処理をめぐって薩英戦争が起きた。奈良原は西郷隆盛,大久保利通らの討幕路線に反対したため,戊辰戦争前後は失脚の状態にあった。明治11(1878)年,内務省御用掛,その後,内務権大書記官,農商務大書記官,静岡県令,工部大書記官,日本鉄道会社初代社長,元老院議官,貴族院勅選議員,宮中顧問官,錦鶏間祗候などを歴任。25年7月に沖縄県知事に任命され,以後41年4月まで,15年10カ月にわたり沖縄県政を独占した。松方正義,伊藤博文の支持もあった。奈良原は,あらゆる面で急速に沖縄地方の本土化即ち一体化を推進し,教育(皇民化),土地整理,港湾施設の整備の3大事業を重点施政として,沖縄開発を専制的に推し進めた。新聞の果たす役割も認識し,『琉球新報』の発行にも協力,産業振興のための沖縄県農工銀行設立も支援した。奈良原は土地整理事業によって土地私有制の確立を図り,共同体農村社会を解体にもちこみ,共同体総有の山林(杣山,入会地)を士族救済名目で払い下げたり,農民の利益を無視した県政を強引にすすめた。県庁人事も鹿児島閥を中心として,本土出身者で占められた。このような奈良原県政への最初の批判者となったのが国政参加を主張した謝花昇であった。また,沖縄の地域文化の独自性,固有姓を主張する伊波普猷の「沖縄学」は,奈良原の推進した一体化策によって,沖縄の個性が崩壊していくことへのレジスタンスがこめられていた。
<参考文献>秦蔵吉『南島夜話』(我部政男)





上図単衣は木綿にして奈良原男爵が寺田屋騒動の時着用せられしもの、右肩の白みたる処は血のにじみ付きしものにて五六寸の刀痕あるものなり。/刀ー上段は寺田屋事件の時に用いたもの、下は兄喜左衛門が生麦事件に用いたもの









土地整理の測量風景/男爵奈良原繁君之銅像並改組記念碑 (絵葉書)

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前列中央・奈良原繁、左端・佐々木笑受郎、後列右より2番目・横内扶、左から2番目・金城清松