1917年 『沖縄新公論』5月号 末吉麦門冬「画聖自了」

宇宿捷が「画聖城間自了に就いて」(1937年7月『南国史叢』第2輯 薩藩史研究会)で「沖縄教育第64号の偉人伝『画伯自了と殷元良』の下に9人もの子供の名がある」ことを指摘しているが、麦門冬は1917年4月発行の『沖縄新公論』「画聖自了 (中)」で、「この誤説はどこから起こったかと云ふに護得久朝常翁の覚書に自了の子孫たる濱元家の家譜によるとして、世系図を掲出した。その世系図が翁の誤り見られたのに起因するのである。」と既に結論づけている。蛇足だが同誌には「尾類馬印象記」「演芸・多嘉良妙子(上里マツル)」も載っている。

1916年9月に長男・安慶を亡くした影響からか安恭は17年4月の『沖縄新公論』に画聖自了と題し、「ミケランジェロ曰く『予は吾が芸術に妻以上のものを有す』と彼は遂に妻を娶らなかった。(略)是等の人々には祖先もなければ後裔もなし彼等は己ひとりが家系すべてとなるのである。」と達観の境地で書いている。この年に安恭は熊楠も投稿している『日本及日本人』に投稿を始める。「劫の虫より經水」では「南方熊楠先生は襄に經水のことに関し仏典を引き御説明あり」と書き、18年には直接に熊楠と文通を始めている。


安恭は娘3人、息子、妹も病で亡くし弟も事故で亡くした。そのせいもあって墓は身近な存在だ。安恭は婦人の不毛に関連して沖縄の墓の絵葉書を熊楠に送り4月の書簡でも「横山健堂著『薩摩と琉球』の口絵に吉田博氏の写生せし琉球の墓がこれあり候」と記した。6月の書簡に「沖縄図書館にて琉球に関する書類を集めた中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明3年63才没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』とあり。御存知なきや」と記し相変わらず史料収集に余念がない。麦水というのは角川『俳文学大辞典』に俳諧師・稗史実録作者とある。



1934年9月7日『沖縄日報』



後列左から謝花佐和子さん、新城栄徳、粟国恭子さん。前列右が波照間永吉氏、自了の弟の末裔・浜元清満氏