1941年4月 『月刊文化沖縄』「口絵写真」




戦時体制下の沖縄/1941年5月 『月刊文化沖縄』「口絵写真」






口絵写真 「井戸(西村菊雄)」「五月四題(黒壷子生・西村菊雄)」「墓と那覇娘(太田安敏)」

県人会再編制ー沖縄県人の存するところ、型の如くに存在するもの、之れ沖縄県人会である。併して此の県人会が、如何なる役割、如何なる実績をあげ居るやに、思ひを及ぼす時、取り立てて為すなきままの県人会を散見する。県人会は親睦機関たること勿論結構であるが、それだけでは県人会の存在意義は極めて薄い。過去の時代にあっても勿論であるが、殊更今日の時代にあっては県人会は更に50歩を進めて一段の飛躍再編成を必要とする。
県人会は多くの会員を抱擁する。その運用宜しきを得れば、団体的活動力を発揮し、個人の力で到底及ばない至難事をも易々成し遂げ得る能力を持つ。県人会を通しての臣道実践、体力強化、経済、文化国防其他凡ゆる運動に、訓育に、国家体制に副ふ県人個々の生活向上、修養等、県人会としての範疇に於いて活動的各部門の編成、改変に努めたいものである。





1941年7月 『月刊文化沖縄』「口絵写真」







特輯グラビア「壷の創作」「琉球は招く」「ある点描」カメラ 外山貞男

1941年1月 『月刊文化沖縄』「口絵写真」



右下 ①西銘生一・カメラ「甘藷の花、今を盛り」


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①西銘生一


大城道子さんから『赤ん坊たちの<記憶>ー1943年~1945年に生まれて』発行・牧歌舎(兵庫県)を恵まれたが、中に西銘生一家族の消息が触れられている。





戦時体制下の沖縄/琉球、朝日、日報合併『沖縄新報』創刊


戦時体制下の沖縄/1940年10月 『月刊文化沖縄』10月号

情脈叢書/短歌雑誌「情脈」発行所 情脈社 鳥取市中町44・・・・・・・表紙裏




右「那覇市の宣伝写真」外山貞男作

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1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「馬上太郎」







昭和15年10月19日『琉球新報』「生めよ殖やせ國の寳」


昭和15年11月17日『琉球新報』

昭和15年11月21日『琉球新報』

たいせいよくさんかい【大政翼賛会】
日中戦争および太平洋戦争期の官製国民統合団体。日中戦争の長期化にともない,権力による国民の画一的組織化と戦争体制への動員が緊急の課題となり,第2次近衛文麿内閣は1940年7月26日〈基本国策要綱〉を閣議で決定し,〈国防国家体制〉樹立の方針を確定した。そして新体制運動の結果,全政党が解散し,10月12日大政翼賛会が結成された。翼賛会は〈国防国家体制〉の政治的中心組織として位置づけられ,〈大政翼賛の臣道実践〉をスローガンに大政翼賛運動を推進した。→コトバンク