07/04: 満州/2015年10月10日 松島弘明『遥かなる「満州」~父と母たちの昭和~』新星出版
2015年10月10日 松島弘明『遥かなる「満州」~父と母たちの昭和~』新星出版
松島 弘明 2019年6月21日ー親父が満百歳の生涯を閉じました。子、孫、ひ孫らに声を掛けられながらの大往生でした。2ヶ月前に誕生日祝いをしたばかりでした。天寿全うです。大正、昭和、平成、令和の四つの元号を生き抜きました。3カ年のシベリア抑留を体験しました。20日初七日を終えました。
沖縄満洲会
2004年1月24日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森・人の網ー『沖縄満州会』の周辺」
2010年8月11日、パレット市民劇場で沖縄満州会主催の「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子演出)を観た。ミニ講話として山田實、新城勝両氏の話があった。会場には琉球新報の宮城修、高良由加利の両記者や、玉城朋彦、松島弘明の諸氏も居た。映画は1931年の満州事変以後、日本政府の国策によって、中国大陸の旧満州、内蒙古に入植させられた日本人移民の開拓団約27万人、そのうち約8万数千人が、ソ連参戦、日本の敗戦によって、帰国できずに亡くなった。そこから「残留孤児」などの問題が生まれた。中国人の養父母らが孤児を育て、その後に帰国した孤児と養父母との交流ー。日中友好が如何に大事かを考えさせられる映画であった。
終わると名城政次郎氏が居られたので「先日の新聞記事は届いてますか」と聞くと届いていたと返事と同時に、劇場入口でパンフを配っている女性を「家内です」と紹介してくださった。名城氏の郁子夫人で尚学院事務部長、沖縄満州会事務局を見ておられる。
パレット市民劇場で、左・名城政次郎氏、新城栄徳(撮影・松島弘明氏)
1998年3月 比嘉政夫『沖縄を識るー琉球列島の神話と祭りー』財団法人・歴史民俗博物館振興会
写真右から上間常道氏、松島弘明氏、比嘉政夫氏、伊佐眞一氏
写真左から比嘉政夫氏、新城栄徳
2000年11月『宮良當壯記念論集』宮良當壯生誕百年記念事業期成会(石垣繁)比嘉政夫「八重山川平の親族と祭団の構造」
『琉球新報』2009年4月14日
比嘉政夫氏が死去 08年に東恩納寛惇賞
門中研究や村落祭祀(さいし)など沖縄・アジアの社会人類学的研究に取り組み、2008年2月に琉球新報社主催の第25回東恩納寛惇賞を受賞した比嘉政夫氏が13日深夜、入院先の病院で死去した。72歳。告別式の日程などは未定。
比嘉氏は門中と親族に関する研究をはじめ、村落祭祀の研究や、信仰体系の研究など多岐にわたる沖縄研究の成果を蓄積した。沖縄各地にある綱引きや沖縄島北部のウンジャミなどの調査研究を基に、神観念や世界観、他界観について独自の見解を提示した。調査対象は沖縄、中国、タイ、韓国など広く、沖縄とアジアとの「比較民俗学」の方法論については、先駆的役割を果たした。沖縄大学地域研究所長などを務めた。
まんしゅうこく【満州国】
日本が満州事変によって占領した中国東北部(現在の黒竜江省・吉林省・遼寧省・内モンゴル自治区北東部)につくりあげた傀儡(かいらい)国家。1932年(昭和7),もと清朝の宣統帝溥儀(ふぎ)を執政に迎え(34年には皇帝),中華民国から分離させて建国。首都は新京(長春)。翌年熱河省も加えた。政府の要職には満州人を起用したが,事実上は日本人官吏および関東軍の指導下にあった。45年8月,日本の第二次世界大戦敗北とともに消滅。 →コトバンク
1936年5月ー関東軍防疫部(満州第七三一部隊)発足
2004年10月 立花隆『シベリア鎮魂歌ー香月泰男の世界』文藝春秋(山田實所蔵)
シベリア抑留の「慰労金」と銀杯を手にする山田實さん
2024/04/08 大島満吉『流れ星のかなたー葛根廟事件からの生還』 ユニコ舎
◇葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満洲国興安総省の葛根廟付近において日本人避難民千数百人(一説には1,300名)が攻撃を受け、1,000名以上が虐殺され、あるいは自決した事件。葛根廟駅事件ともいう。避難民の約9割以上が女性や子供であった。ソ連軍が去った後に、生存者も自決したり[4]、その後の避難の途上で中国人暴民やソ連兵などの襲撃を再び受けるなどして、日本帰還を目指す多くの日本人居留民が犠牲となった。はっきり確認された生存者は百十数名、後に発見された残留孤児を入れても百数十名に過ぎないという。
8月14日の葛根廟事件、8月17日の東京荏原開拓団964名の遭難(双明子事件)、8月25日の仁義佛立講開拓団400名の遭難(洮南西方20キロ)とをあわせて、「総省三大遭難事件」、「興安三事件」、「興安省における三大遭難事件」と呼ばれる。また、この葛根廟事件を8月12日の麻山事件、8月27日の佐渡開拓団跡事件と合わせて「北満三大悲劇」ともされる。→ウィキ