ウフンミー新城喜一氏と私(ニーブー新城栄徳)の粟国の実家は道を挟んでの隣家である。

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粟国島の民家

新城喜一/表紙絵 1965年7月『今日の琉球』93号「観光沖縄」/1964年9月『今日の琉球』83号「製糖工場」

新城喜一/表紙絵 1967年2月『今日の琉球』112号「県木に選ばれた琉球松」




粟国の村長室にある新城栄市氏の作品

「絵看板師の集い」(1970年)写真前列右端が新城栄市氏、3人目が外間善幸氏。左端が新城喜一氏、左から4人目が具志弘樹氏□2001年8月 山里将人『アンヤタサ!戦後・沖縄の映画 1945-1955』ニライ社




左が新城喜一氏


1983年5月18日『沖縄タイムス』/1984年8月 沖縄舞台技術家協会『舞台技術』弟4号「スポットライトー新城喜一」


1998年11月11日の『琉球新報』に「沖縄人国記ー粟国村」(料理人達の末えい)が掲載され、安里幸一郎(現代の名工)、安里信祐(伊勢海老料理「三郎」代表)、屋宜宗一(前那覇市選管委員長)、新城栄徳(沖縄関係資料収集)とともに新城喜一さんも紹介されている。/芝居に欠かせない書き割りや舞台装置。新城喜一(65)は、この道40年。沖縄芝居の舞台絵はたいてい新城の手による、父は戦前、西新町にあった「宝来館」という旅館の料理人をしていた。家が西本町にあり、近くに映画館「平和館」があった。中学校を卒業してすぐ軍作業に就き、基地内の表示板をかく仕事に。アルファベットの看板ばかりをかいていた。が、このままではいけないと思い、軍作業を辞めて、世界館、国映館の看板かきに。1965年に沖映演劇ができたあと、その専属となり同劇場が閉鎖した1977年に独立。コンベンション・センターのこけら落とし、第一回世界のウチナーンチュ大会で舞台美術を担当した。国映館の看板は弟の新城栄市(63)が引き継いだ。その弟の新城栄徳(60)も舞台美術の仕事をしている。末弟の新城征孝(55)は写実的な風景画で知られる画家。新城喜一さんは、2005年12月に新星出版から『新城喜一画集・失われた沖縄風景』、2009年6月に『新城喜一画・沖縄風景今昔』を出している。また2008年3月には(㈶)国立劇場おきなわ運営財団から『新城喜一 沖縄芝居大道具帳』も出た。

写真ー左から新城栄徳、安里信祐(伊勢海老料理「三郎」代表)、新城喜一氏


金城安太郎展でー左から金城安太郎さん次男・一夫氏、喜久村徳男氏、 新城喜一氏



写真上ー左から末吉保朝氏、星雅彦氏、山里善市氏、伊佐傳一氏(12代郷友会長)
写真中ー左から安里幸一郎氏、玉寄栄一氏、仲里正雄氏、新城栄徳
写真下ー左から山里善市氏、糸数信一氏(32代郷友会長)、末吉保朝氏(35代郷友会長)、不詳、新城喜一氏、伊良皆賢哲氏



旧役場の前

粟国の村長室にある新城栄市氏の作品


現在の役場の前


粟国の村長室にある新城喜一氏の作品

粟国の学校にある新城喜一氏の作品

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写真左から大城和喜氏、新城喜一氏、平良次子さん
2003年4月28日~5月15日 南風原文化センター「貧しくも楽しい『うちなー芝居』の時代」




写真左から新城喜一氏、森田豊一氏①、新城栄徳

2014年7月21日 『沖縄タイムス』
①森田豊一氏
 沖縄芝居役者で琉球歌劇保存会元会長の森田豊一氏が21日午前5時すぎ、敗血症のため那覇市内の病院で死去した。81歳。那覇市出身。告別式は24日午後2時から那覇市銘苅3の22、サンレー那覇北紫雲閣。喪主は長男の勝(まさる)氏。個性的で人情味あふれる演技で存在感を放った。「怪盗伝」(石川文一作)の「油喰」役などで人気を博す。1971年に結成した劇団「潮」で沖縄演劇の新境地を開拓した。1999年県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者、2010年沖縄タイムス芸術選賞功労賞、11年県文化功労者。


2013年12月27日 新城喜一氏宅で左から島袋百恵さん、新城栄徳、新城喜一氏




2014年9月14日ー新城喜一氏に聞き書きする金城美奈子さん

新城喜一氏自宅にある作品


2014年10月1日ー写真左から金城美奈子さん、新城喜一氏、國吉貴奈さん


2016年8月17日 写真左から新城喜一氏、新城敏子、新城