□1921年7月ー折口信夫、第1回沖縄採訪。折口はカメラを持参し写真を多く撮った。
折口信夫「組踊り以前」(青空文庫)
親友としての感情が、どうかすれば、先輩といふ敬意を凌ぎがちになつてゐる程睦しい、私の友伊波さんの「組み踊り」の研究に、口状役を勤めろ、勤めようと約束してから、やがて、足かけ三年になる。其間に、大分書き貯めた原稿すら、行き方知れずなる位、長い時の空費と、事の繁さが続いた。今日になつて、書きはじめる為のぷらんを立てゝ見ると、何もかも、他人の説でも受けつぐ様な気分がするばかり、興味の鈍つて了うてゐるのに気がついた。こんな無感興・認識未熟の文章が、友の本の情熱に水をさしはすまいか、と案じながら、ほんのぷらんを詞に綴つたと言ふだけの、組踊り成立案を書いて見る。さうせねば時間のない位、もう板行の時が迫つてゐるのを知り乍ら、うか/\してゐた事は、申し訣もない。
かうした解説文も、今六年以前なら、別に其仁があつたのである。亡くなつた麦門冬 末吉安恭さんである。大正十三年の末、那覇港大桟橋の下に吸ひつけられてゐた、なき骸を発見したとの知らせを聞いて、琉球芸能史を身を以て、実証研究する学者は、これで空に帰したのだ、と長大息した事であつた。此文章が、伊波さんの本の役に立つ傍、亡き南島第一の軟流文学・風俗史の組織者――たるべき――末吉さんの為の回向にもなれば、この上なく嬉しいと思ふ。

沖縄演劇史の探究の効果は、決して、東の海の波が西に越え、西の浪が東の磯にうち越える、と言つた孤島を出ないものではない。必、日本の歌舞妓芝居や、小唄類の発達過程を示すことになると言ふ自信だけは持つて居る。それでかうした文章も、この友の誂へをしほとして書いたのである。
南島における演劇関係の書物は、大抵、伊波館長時代の県立図書館の沖縄部屋とも称すべき室に、一週間籠つてゐる間に、そこに蒐められてゐたゞけの物は読んだ。だがもう、其記憶も薄れて来てゐる。それが、首里・那覇の学問の権威の、この本の為に、提供せられた資料の前には、星の光りにも値せぬ事を恥ぢるし、又沖縄人の嫌ふ、他府県人のいらざる世話やきにもなつて、島の彼方で苦笑する人々の、俤の浮ぶのも堪へられぬから、さうした引用や、伊波さんから貰うた、沢山の抜き書きなどは、勝手ながら下積みにさせて頂いて、今の場合、忙しい概念だけを綴る事にした。(以下略)



『折口信夫の世界ーその文学と学問』白根記念渋谷区郷土館・文学館、国学院大学学術フロンティア事業委員会・折口博士記念古代研究所
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1952年1月5日『琉球新報』釈迢空「千瀬の白波」


1957年10月 柳田國男編輯『民間傳承』<折口信夫博士還暦記念特輯>

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「千瀬の白波」原稿


折口博士父子の墓(島袋和幸 撮影)

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郷土研究会ー前列左より折口信夫、中山太郎、金田一京助


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1948年3月 折口信夫『遠やまびこ』好學社

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折口信夫歌碑、娘