2015年1月『月刊琉球』12・1月合併号 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16  ☎098-943-6945 FAX098-943-6947



新城栄徳「麦門冬の周辺」


國吉眞哲翁から、そのころ貘と一緒に末吉麦門冬の家に遊びに行った話を伺った。玄関から書斎まで本が積んであって、麦門冬が本を広げている上を鶏が糞を垂れ流しながら走りまわっていたのが印象に残っているとの話であった。思うに貘はそのとき麦門冬の旧号・獏を夢を喰う意味での「獏夢道人」をいくぶん意識に植えつけたのではなかろうか。
 
又吉康和は一九二三年に『沖縄教育』編集主任になると、麦門冬に「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」を書かせている。二五年九月発行『沖縄教育』には、表紙題字を山城正忠に依頼、カット「獅子」を山口重三郎(貘)に依頼し、貘の詩「まひる」「人生と食後」も載せている。編集後記に「山之口貘氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ他三篇入選しました之より琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます。救世者は政治家ではなく、それは詩人と哲人であります」と記して、甥にあたる國吉眞哲と共に上京の旅費を集め貘を東京に送りだしている。
写真上は1925年8月16日、貘2度目の上京前に上左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘。写真下は貘が戦後帰郷の時。
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 与謝蕪村[1716~1783]江戸中期の俳人・画家。摂津の人。本姓は谷口、のち与謝と改める。蕪村は俳号。別号、宰鳥・紫狐庵。画号、四明・長庚・謝寅など。江戸に出て俳人早野巴人(はやのはじん)(夜半亭宋阿)に入門。諸国放浪後、京都に定住、のち夜半亭2世を名のった。浪漫的、絵画的な俳風を示し、「春風馬堤曲」などの新体の詩も創作、中興俳諧の中心的役割を果たした。絵画では、池大雅(いけのたいが)とともに日本南画の大成者とされる。著「新花摘(しんはなつみ)」「夜半楽」「蕪村句集」など。→コトバンク

  1783年(天明三年)12月25日未明、永眠。享年68歳。「しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり」の辞世句を残し、新春の白梅を心に抱きつつ死んでいった。蕪村の墓は、芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)の境内にある。毛馬閘門近くの淀川堤防上に、蕪村の句碑と生誕地の碑がある。句碑には有名な「春風馬堤曲」の中の『春風や 堤長うして 家遠し』の句が、蕪村の自筆を拡大して刻まれている。かつてこの句を刻んだ小さな碑が近くに建てられていたが、淀川改修工事で一時的に取り除かざるを得なくなった。淀川改修百周年記念事業の一つとして、句碑の復活が取り上げられ、地元では有志による蕪村顕彰碑保存会が結成され、建設省(当時)・大阪府・大阪市に働きかけ、この四者の協力により昭和53年2月、現在の堂々とした立派な句碑が建立されたのである。初代の句碑は昭和28年にやはり地元の有志によって設置されていたもので、今は国土交通省毛馬出張所敷地内の桜の木の下にひっそりと置かれている。生誕地の碑は昭和54年3月大阪市が建てている。→都島区


鎌倉芳太郎が1975年11月、八重山に遊び麦門冬の娘・初枝さんと感激の再会。翌年の元旦に詠んだものを書いて石垣市の初枝さんに贈ったもの。

左から折口信夫(複製)短冊ー麦門冬の娘・初枝さんに贈ったもの。/山城正忠/鎌倉芳太郎短冊ー麦門冬のことを聞いた新城栄徳に鎌倉氏が贈ったもの。娘の嫁ぐ日に詠んだ歌だが、その娘の名が恭子さんであるのは偶然なのか。

『月刊琉球』Ryukyu企画 〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16 
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2014年5月15日 『月刊琉球』Ryukyu企画 〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16 ℡098-943-6945

仲村渠克「軍産学連携と大学院大学(下)ー公害のデパート/魑魅魍魎の世界・いま世間を賑わせているSTAP細胞問題は、日本が世界に誇る理化学研究所・米ハーバード大という名立たる機関が舞台だ。恐ろしいのは、米軍病院・軍関連新薬研究所で異変があっても、宜野湾市民が情報を知ろうとしただけで、特定秘密保護法が適用される可能性があることだ。こんな魑魅魍魎な米軍・学会・研究者らにウチナーンチュの命を無防備に預けるわけにはいかない。」



『月刊琉球』編集室、右が元「沖縄青年同盟」の一人、本村紀夫(もとむら・のりお)さん。2024年3月11日午前8時54分、大腸がんのため那覇市の病院で死去した。75歳。宮古島市出身。
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