04/13: 久場政用(1872年12月22日~1947年3月27日)
那覇区泉崎の士族・久場政敦(漢学者)の長男として首里区桃原町で生まれる。弟に政盛、政和が居る。
1896年 沖縄県師範学校卒業。台湾で小学校訓導として8カ年勤務、上京
1909年 朝鮮に渡り、学校教育に専念する一方、金石文の拓本の研究を積む。
1923年
植村正久を囲んで/上の木の枝間から見える左が久場政用。前列右2人目ー新垣信一牧師(子供二人の後)、3列目右から4人目ー大城カメ姉(元玉城ノロ職)
植村正久【うえむら・まさひさ】.
生年: 安政4.12.1 (1858.1.15)
没年: 大正14.1.8 (1925)
明治大正期のキリスト教思想家,牧師。幼名道太郎。謙堂,桔梗生などと号した。家禄1500石の旗本の長男として上総国山辺郡武射田村(千葉県東金市)に生まれる(一説に江戸芝露月町)。大政奉還により生家が窮し,貧困の中で幼年期を過ごす。明治1(1868)年,一家で横浜に移った。この地で宣教師J.H.バラの私塾などに学ぶうちキリスト教にふれ,同6年,日本最初のプロテスタント教会横浜公会で受洗。伝道を志して東京一致神学校(明治学院)に学び,按手礼を受け,同13年に下谷一致(日本基督教団豊島岡)教会の牧師となる。同20年,番町一致(日本基督教団富士見町)教会を設立,終生その牧師を務めた。関東大震災(1923)で被災した教会や神学校の復旧に奔走する中で健康を害し,東京柏木の自宅で急逝した。 植村の事績は以下の3点にまとめられよう。①日本におけるプロテスタント・キリスト教の草創期にあって教会の育成に尽力し,特に日本基督教会と称する主要教派の形成発展に指導的役割を果たした。②日本における正統的プロテスタント信仰の神学的基礎を固め,神学校の東京神学社を創設(明治37年)して自ら神学校育と伝道者の養成に当たった。③『日本評論』,『福音週報』(のち『福音新報』と改題)などの定期刊行物を発刊し,キリスト教のみならず国家社会の諸問題をめぐって幅広い評論活動を行った。また,聖書の翻訳や讃美歌の編纂事業にもかかわり,旧約聖書の詩篇などに名訳を残した。島崎藤村の詩「逃げ水」(『若菜集』)は植村の訳した讃美歌の書き替えであることは名高い。また文学評論や英文学紹介の業績も評価されている。 植村はキリスト教の根本義を,罪ある人間がイエス・キリストの十字架の死と復活に贖われ神との和を回復することにあるとした。その罪意識の背後には,志を天の高みに向ける武士の克己の精神をみることができる。『植村正久著作集』全7巻がある。<参考文献>藤田治芽『植村正久の福音理解』,京極純一『植村正久』 (鵜沼裕子)→コトバンク
1926年5月23日『沖縄タイムス』
1932年8月31日 久場政用『琉球金石総覧』(鹿児島県立図書館所蔵)
□近頃郷土研究熱の勃興と相俟って金石文及其の拓本の蒐集に努力する人々が多くなりました。東京に於いては早稲田大学生の一団が展覧会を開いて金石文の拓本趣味を盛んに宣伝しております。関西では京都大学生が目覚ましい働きをしているようです。
久場政用 1934年調査『琉球列島之文化史料と博物資料』
1935年4月 『沖縄教育』第224号 島袋源一郎「蓬莱島琉球と黄金の島大琉球ー(略)偖て之が裏書をなすべき郷土の文献とは過般久場政用氏に依嘱して県下に於ける金石文の拓本をとって貰ったら、『中山國王殿前に懸けし巨鐘の銘』に、琉球國者南海勝地(略)」
1896年 沖縄県師範学校卒業。台湾で小学校訓導として8カ年勤務、上京
1909年 朝鮮に渡り、学校教育に専念する一方、金石文の拓本の研究を積む。
1923年
植村正久を囲んで/上の木の枝間から見える左が久場政用。前列右2人目ー新垣信一牧師(子供二人の後)、3列目右から4人目ー大城カメ姉(元玉城ノロ職)
植村正久【うえむら・まさひさ】.
生年: 安政4.12.1 (1858.1.15)
没年: 大正14.1.8 (1925)
明治大正期のキリスト教思想家,牧師。幼名道太郎。謙堂,桔梗生などと号した。家禄1500石の旗本の長男として上総国山辺郡武射田村(千葉県東金市)に生まれる(一説に江戸芝露月町)。大政奉還により生家が窮し,貧困の中で幼年期を過ごす。明治1(1868)年,一家で横浜に移った。この地で宣教師J.H.バラの私塾などに学ぶうちキリスト教にふれ,同6年,日本最初のプロテスタント教会横浜公会で受洗。伝道を志して東京一致神学校(明治学院)に学び,按手礼を受け,同13年に下谷一致(日本基督教団豊島岡)教会の牧師となる。同20年,番町一致(日本基督教団富士見町)教会を設立,終生その牧師を務めた。関東大震災(1923)で被災した教会や神学校の復旧に奔走する中で健康を害し,東京柏木の自宅で急逝した。 植村の事績は以下の3点にまとめられよう。①日本におけるプロテスタント・キリスト教の草創期にあって教会の育成に尽力し,特に日本基督教会と称する主要教派の形成発展に指導的役割を果たした。②日本における正統的プロテスタント信仰の神学的基礎を固め,神学校の東京神学社を創設(明治37年)して自ら神学校育と伝道者の養成に当たった。③『日本評論』,『福音週報』(のち『福音新報』と改題)などの定期刊行物を発刊し,キリスト教のみならず国家社会の諸問題をめぐって幅広い評論活動を行った。また,聖書の翻訳や讃美歌の編纂事業にもかかわり,旧約聖書の詩篇などに名訳を残した。島崎藤村の詩「逃げ水」(『若菜集』)は植村の訳した讃美歌の書き替えであることは名高い。また文学評論や英文学紹介の業績も評価されている。 植村はキリスト教の根本義を,罪ある人間がイエス・キリストの十字架の死と復活に贖われ神との和を回復することにあるとした。その罪意識の背後には,志を天の高みに向ける武士の克己の精神をみることができる。『植村正久著作集』全7巻がある。<参考文献>藤田治芽『植村正久の福音理解』,京極純一『植村正久』 (鵜沼裕子)→コトバンク
1926年5月23日『沖縄タイムス』
1932年8月31日 久場政用『琉球金石総覧』(鹿児島県立図書館所蔵)
□近頃郷土研究熱の勃興と相俟って金石文及其の拓本の蒐集に努力する人々が多くなりました。東京に於いては早稲田大学生の一団が展覧会を開いて金石文の拓本趣味を盛んに宣伝しております。関西では京都大学生が目覚ましい働きをしているようです。
久場政用 1934年調査『琉球列島之文化史料と博物資料』
1935年4月 『沖縄教育』第224号 島袋源一郎「蓬莱島琉球と黄金の島大琉球ー(略)偖て之が裏書をなすべき郷土の文献とは過般久場政用氏に依嘱して県下に於ける金石文の拓本をとって貰ったら、『中山國王殿前に懸けし巨鐘の銘』に、琉球國者南海勝地(略)」