慰霊の日で翁長沖縄県知事が「平和宣言」
(略)それは、私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶しているからであり、戦争の犠牲になられた方々の安らかであることを心から願い、恒久平和を切望しているからです。戦後、私たちは、この思いを忘れることなく、復興と発展の道を力強く歩んでまいりました。しかしながら、国土面積の0・6%にすぎない本県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8%が集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や本県の振興開発に様々な影響を与え続けています。米軍再編に基づく普天間飛行場の辺野古への移設をはじめ、嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合はわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります。

 沖縄の米軍基地問題は、我が国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題であります。特に、普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で反対の民意が示されており、辺野古に新基地を建設することは困難であります。そもそも、私たち県民の思いとは全く別に、強制接収された世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化は許されず、「その危険性除去のため辺野古に移設する」「嫌なら沖縄が代替案を出しなさい」との考えは、到底県民には許容できるものではありません。国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎を築くことはできないのであります。政府においては、固定観念に縛られず、普天間基地を辺野古へ移設する作業の中止を決断され、沖縄の基地負担を軽減する政策を再度見直されることを強く求めます。翁長沖縄県知事の宣言に会場からひときわ大きな拍手が沸き起こったが、安倍首相が登壇すると空気が一変。「帰れ」「戦争屋は出て行け」とブーイング。

 知事の父・翁長助静が沖縄戦にふれている文章がある。
 1944年4月  南風原青年学校長としての転勤命令が来た。若手教員抜てきの美名の下、大山朝常氏、長嶺秋夫氏ら多数も青年学校長に回された。着任当時はまだ週3回、教練だけでなく学科も教えていた。しかし戦局の悪化につれて毎日授業に広げられ、次第に陣地構築、壕堀りの作業が日課に。まさに”壕堀り隊長〝だ。同校では約1年の在任。8月、今や戦場必至の情勢と見た私は妻子4人を台湾に疎開させ、単身で学校長を続けた。翌年4月になると生徒も登校できない状態となり自然解散の状態。3月、田端一村先生が訪ねてこられ「沖縄翼賛会に来て加勢してくれ給え」。師範学校で編成した鉄血勤皇隊千早隊の十数人を部下とする情報宣伝部長が私の役目。翼賛会での私は国民服に戦闘帽、日本刀のいでたち。(略)途中、当時那覇署長をしておられた具志堅宗精氏、山川泰邦署僚などが、兼城の墓の中で署員の指揮をとっており、いまのひめゆりの塔近くでは金城増太郎三和村長が墓地に避難している。こうした人たちに「ここは戦場になるから早く避難して方がいい」と指示したが、行政も警察ももはや指揮系統はめちゃくちゃの状態。そんな所に妹の夫、国吉真政君と出会ったところ「負け戦にになっているのに親を放ったらかして何をしている」という。早速付近をうろうろしている父を見つけ、その日はヤギ小屋で一泊。翌日夕方摩文仁に移動しながら喜屋武岬近くで簡単な壕をつくって小休止。このとき突然米軍の砲撃を受け、目前で父助信が戦死した。同じ壕にいた十数人の避難民のなかで、父だけに破片が命中したのだから悲運としか言いようがない。日本の勝利を信じ命をかけて行動した私にも敗戦思想が強まってきた。敗残兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景も何度も見てきている。→沖縄タイムス社『私の戦後史 第5集』「翁長助静」
 
翁長助静(1907年8月25日、真和志村真嘉比生まれ~1983年2月6日)
1925年、沖縄県立第一中学校卒業。一中在学中、高江洲朝和(石野径一郎)、平良良松(那覇市長)らとガリ版の同人誌『はるがん』を発行。1926年、沖縄県師範学校本科二部卒業。第一豊見城、安里、本部、瀬底、の各尋常高等小学校訓導、南風原青年学校長を経て、戦後は大道小学校長、真和志村長、真和志市長、移民金庫専務理事、倉庫公社専務理事、立法院議員などを歴任。のち沖縄都市建設株式会社取締役社長となる。妻・和子(1914年生)、長男・助裕(1936年生)、二男・健二(1947年生)、三男・雄志(1950年生)。

歌人・原神青醉
 1930年6月6日『沖縄朝日新聞』原神青醉「『新しさ』の否定ー旧概念で腐食した/生活から/生れ出た型!/そンにほんとうの/新しさがあらうか×トップを切る!/尖端を行く!要するに/旧生活からのつながりはないか ×明日への新しさは/先づ地球の引力から/すばらしい跳躍をしなければ/ならない/先づ旧生活を根本から/破壊しつくさねばならない×やがてそこから/生れて来る/何らかの型!/それこそほんとうの/新しさである  5・31 」

1931年1月26日『琉球新報』原神青醉「みちしほ短歌会」
1931年4月12日『琉球新報』原神青醉「さびしい反逆」

1933年9月『沖縄教育』
原神青醉「文苑ー車中行抄」
夜汽車
ふかぶかといねしづもれる大牟田のまちを/つらぬき汽車はゆくなり/をとこ二人何やら動きゐたりけりいねしづもれる街並みの一つ家に/ふなごやの駅にて乗りし男のめ つめたそうにもわれ見てありき/くらやみの果てのひかげのよびさます 旅愁にひたりて汽車窓にあり/汽車窓ごし見しは一つの燈なりけりくらやみの果てにともりてありき/呼びなれし久留米ときけば親しかりしまどをひらきて夜の街をみる/午前四時うすむらさきの空のもと久留米の街はただありけるも/漸くに暁けになりたるうれしさに座りなほりて煙草を吸ひける/朝あけのみどりうつるガラス戸に煙草のけむりふきかけて居り/博多駅近くの踏切番の四人まで姙婦にてありしは忘れ得られず/ささやかなみづき駅かもみづみづしき早稲のみのりのゆたかなるあたり/刑事ならむ 肩つつきざま職間ふなり/教員といへば笑ひて去りぬ

1933年5月14日『琉球新報』原神青醉「みちしほ短歌会」
1936年2月  『琉球新報』翁長助静「話方教育の一部分ー島尻郡第一区域童話会印象記」連載

  
沖縄県立博物館・美術館横にある翁長助静、真栄城守行/真和志村立安里尋常高等小学校(現在の安謝小学校)跡の碑



真喜志好一氏らと「立法院棟保存」を自民党の翁長雄志県議会議員に要望する。
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沖縄県公文書館入口に保存されている立法院棟柱

 仲村顕さんの調べによると、1932年の「婦人公論」に「滅びゆく琉球女の手記」を書いた作家の久志芙沙子(1903―86年)の父は久志助保(?―1915年)、祖父は久志助法(1835―1900年)でいずれも漢詩人。助法は「顧国柱(ここくちゅう)詩稿」などを書き、漢詩人の森槐南(もりかいなん)とも交流があった。また、琉球王国の評定所で中国や日本への文書を作成する「筆者主取」を廃藩置県(1879年)まで務めた最後の人。那覇市歴史博物館収蔵の尚家関係資料に助法直筆文書が残る。氏集によると、顧氏は大宗顧保安比嘉筑登之親雲上助輝。その四世が久志親方助豊支流二子顧天祐久志里之子助眞が翁長家の祖となっている。他に普天間、名嘉山、津波古などがある。


 翁長助静(1907年8月25日、真和志村真嘉比生まれ~1983年2月6日)
1925年、沖縄県立第一中学校卒業。一中在学中、高江洲朝和(石野径一郎)、平良良松(那覇市長)らとガリ版の同人誌『はるがん』を発行。1926年、沖縄県師範学校本科二部卒業。第一豊見城、安里、本部、瀬底、の各尋常高等小学校訓導、南風原青年学校長を経て、戦後は大道小学校長、真和志村長、真和志市長、移民金庫専務理事、倉庫公社専務理事、立法院議員などを歴任。のち沖縄都市建設株式会社取締役社長となる。妻・和子(1914年生)、長男・助裕(1936年生)、二男・健二(1947年生)、三男・雄志(1950年生)。

渡口善明氏子息の結婚式で右から翁長助裕氏、前田孝允氏、新城栄徳
翁長助裕氏が死去 西銘県政副知事、沖縄振興に尽力2011年1月16日 『琉球新報』
 元沖縄県副知事で県議会議員や県教育委員会委員長などを歴任し、沖縄の振興開発や教育行政の向上に尽くした翁長助裕(おなが・すけひろ)氏=国際ビル産業会長=が15日午前6時35分、間質性肺炎のため、那覇市立病院で死去した。74歳。翁長雄志那覇市長の兄。告別式は17日午後3時から5時、那覇市松山1の9の1、大典寺で。喪主は妻孝枝(たかえ)さん。前県知事の稲嶺恵一氏が葬儀委員長を務める。
 翁長氏は1936年3月、那覇市古島の生まれ。62年に琉球政府計画局に入った。72年から県議会議員2期、84年から県教育委員長を3期務めた。西銘順治知事時代の87年には県出納長に就任。89年から90年までは西銘知事の下で副知事を務めた。副知事退任後は那覇空港ビルディング会長、県環境科学センター会長などを務めた。

沖縄戦史
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1958年4月 山川泰邦『秘録 沖縄戦史』沖縄グラフ社
□赤松隊投降すーあれほど自分の口で玉砕を叫びながら、自らは壕の中に避難して住民には集団自決を命令、あるいはスパイの濡衣をかぶせて斬殺、暴虐の限りをつくした彼、赤松大尉は今や平然として降伏文に調印し、恥じる色もなく住民の前にその大きな面を現したのだ。
□射殺された照屋忠英本部国民学校長/久米島の惨話ー分遣隊長は鹿山という兵曹長であったが、彼は次に記すように何十名という無辜の住民を斬殺して悪名を轟かせ、「鬼畜の鹿山」と今でも恨みを買っている。
□慰安婦も兵力