2018年10月 『うらそえ文藝』第23号「特集・宮城篤正」


2019年1月6日『沖縄タイムス』「週刊沖縄空手第93号-宮城篤正さん(79)」

1913年
6月ー『琉球新報』大崎範一「琉球の陶器問題」連載

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昭和期ー沖縄県物産大連斡旋所主催「琉球古典焼漆器即売会」

1970年7月ー『ヤチムン研究会誌』創刊号□事務局・那覇市首里大中町1の1琉球政府立博物館内

1971年
8月ー『ヤチムン会誌』第2号□事務局・琉球政府立博物館内

1972年
3月ー『琉球の文化』<特集・琉球の焼物>創刊

8月ー『ヤチムン会誌』第3号□編集責任・宮城篤正(沖縄県立博物館)
10月ー大城精徳、宮城篤正『琉球の古陶ー古我知焼』琉球文化社


1973年
12月ー『やちむん』<特集・壺屋>□編集ヤチムン会(宮城篤正)発行・琉球文化社

1975年
4月ー『やちむん』第5号□編集責任・宮城篤正(沖縄県立博物館)
1977年
5月ー『やちむん』第6,7号<特集・沖永良部島>□沖縄県立博物館(宮城篤正)
1979年
10月ー『沖縄の名匠・金城次郎陶器作品集』沖縄タイムス社
10月ー『図録・沖縄の古窯』やちむん会□沖縄県立博物館内(宮城篤正)
1984年
10月ー『やちむん』<特集・浜比嘉島>第8号□事務局・琉球文化社内

1986年
7月ー『やちむん』第9号□事務局・琉球書院内
1987年
12月ー『企画展・現代沖縄の陶芸ー天野鉄夫コレクション』沖縄県立博物館
1989年
8月ー小渡清孝「沖縄の古窯」(第179回沖縄県立博物館文化講座)



1991年9月ー『企画展・壺屋陶工遺作展』沖縄県立博物館
1996年
11月ー『沖縄の古窯・古我知焼』名護博物館
1998年
2月ー『壺屋焼物博物館常設展ガイドブック』
2001年
1月ー『企画展・くらしの焼物』宜野湾市立博物館
2004年
9月ー宮城篤正監修『翁長良明コレクション・琉球の酒器』

1995年
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トシコ・タカエズ(Toshiko Takaezu、1922年7月17日 - 2011年3月9日)は、アメリカ合衆国の陶芸家。ハワイ州ペペーケオ出身。両親は沖縄県具志川市(現うるま市)出身の移民2世で、彼女が生まれる1922年にハワイへと移住している。ハワイ大学などで学んだ後、1951年よりミシガン州へと渡り、陶芸家マヤ・グローテルの元に師事した。→ウィキペディア
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写真ータカエズ・トシコさんと新城栄徳/タカエズ・トシコさんと大城立裕氏





2003年5月『うらそえ文藝』第8号ー船越義彰「解らないことを調べるー撃壌とウンラーギー/古資料収集家の新城栄徳氏から古い新聞紙のコピーが送られて来た。大正丙辰(大正5年、1916年)元旦の紙面で船越義珍翁の漢詩が掲載されている。義珍翁は空手普及の先達として知られているが、私にとっては従兄弟伯父にあたり、昭和15年から18年にかけて、雑司ヶ谷の松濤館に通い、その謦咳に接したのであるから、おおいに興味をそそられた。ただし私の松濤館通いは空手の稽古のためではなかったー」。(→グーグル/ヤフー画像「冨名腰(船越)義珍」)→琉文21「冨名腰(船越)義珍」
後田多敦さんのHP「海邦小国」に空手界を代表する人物・喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)の嘉手納でのシンポウムのことが記されている。朝徳の父親が琉球国末期に琉球国の外交などを担った喜屋武朝扶。後田多さんの人物研究テーマの一人である。下記の本の表紙に朝扶が写っている。
後田多敦『琉球救国運動ー抗日の思想と行動』出版社Mugen(電話FAX098-863-2562)
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表紙は維新慶賀使の写真である。前に後田多氏に貰った「外務省資料」(アジア歴史センター)に一行の動向が記されている。それによると写真は1872年「9月10日午前11時に三使(伊江王子・宜野湾親方・喜屋武親雲上)並びに安田親雲上、浅草内田九一宅へ行き像影を写す。堀江少録同伴」とある。内田は明治天皇の肖像写真で知られている。三使に隋行し上京したのは山里親雲上(長賢、那覇市泊小学校に頌徳碑がある)、翁長親雲上、與世田親雲上、上江洲親雲上、伊波親雲上、仲嶺親雲上、安田親雲上、比嘉親雲上、喜舎場筑登之、花城里之子、親泊里之子、真壁里之子、豊村里之子、當真筑登之、仲村渠筑登之、屋嘉比筑登之、松嶋子、仲宗根子、東恩納子、仲山子、東江、宮城、島袋、仲本、備瀬、嶋袋、金城、又吉、新垣、國吉、與那嶺、知念、宮城、仲宗根と記されている。

写真左から後田多敦さん、出版社社長、神坂次郎氏、新城栄徳

空手資料
1927年7月のハワイ邦字新聞に「屋部憲通は9年前に渡米。今回ホノルルに寄港しハワイ各島で唐手講習会を開いた」と報じられている。1933年8月には東恩納亀助(具志頭村出身)と陸奥瑞穂(青森県出身)がハワイで唐手指導。

1934年4月18日『琉球新報』「宮城長順氏 布哇へ唐手行脚 愈々けふ出発」 
1934年5月ー竜田丸で来布せし洋園時報社招聘の沖縄体育協会唐手師範、沖縄巡査養成所唐手師範講師・宮城長順、5日移民局より上陸、九州屋旅館に投宿。以来8か月、ハワイ各地で実演講習会を開いた宮城長順は1935年1月15日竜田丸で帰国。

空手家の金城裕氏が空手・武道資料を沖縄県立図書館に寄贈されている。私が金城氏の名前を知ったのは緑林堂の武石和美氏から写真と著作を見せて貰ったからである。その顔貌は舅に似て親しみを覚えた。姓も同じ金城である。資料寄贈過程で糸洲安恒の顔写真が確認された。1915年3月の琉球新報に「拳法大家逝くー糸洲安恒翁は1昨日85の高齢を以て逝去」と報じられていた。4月から琉球新報で「糸洲武勇伝」が連載された。1958年8月に沖縄空手道連盟の主催で金城裕氏を囲んで「空手座談会」が那覇市内の料亭新風荘であった。余談だがその料亭の料理長は私の父・新城三郎であった。



金城裕氏

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