10/28: 那覇市歴史博物館「沖縄のシンボル 守礼門」展
2016年11月15日、年賀状を書いている渡口彦邦氏
2016年11月28日、渡口彦邦氏とあけみ、ひより
2016年12月5日 城谷一草「印」を捺す渡口彦邦氏
2017年2月28日 沖縄県立博物館・美術館で渡口彦邦氏(左)と田名真之館長
那覇市歴史博物館「沖縄のシンボル 守礼門」展
2010年7月28日ーギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」/写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏、大城宗憲氏、那覇市民文化部の島田さん。
写真上は泊高橋近くの安里川沿岸の渡口萬年筆店の広告/下ー毎年発行の手帳の巻頭に記されている。
1955年3月 大林天洞 筆「渡口商店々訓」
「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)
渡口ファミリー
2010年11月ー渡口彦信『我が人生に悔いなし』比謝川ガス株式会社
本部半島の先端に位置する備瀬集落は八つの班から成っていて、一班から七班までが道筋によって分けられ、集落の主要部を占めて本字と呼ばれていた。八班はタカラバル(高良原)と称され、やや離れて東側にある小集落である。渡口家は備瀬集落の最南端にあって、屋号「イチャラヤー」と呼ばれていた。集落の入口に位置し、最初に行き合う家(イチャラヤー)であるところから新愛の意味を込めてつけられた屋号であろう。
渡口家の遠い祖先は、250年ほども前に、本部間切の健堅より備瀬に移り住んだようである。元家(ムートゥヤー)の屋号である「キンキンヤー」からもそのことが十分にうかがえる。系図によれば、元家の5男が分家して家建てをし「いち渡久地」を名乗り、私どもの直接の祖先となっている。そして「いち渡久地」の長男が渡久地孫一郎で、その子孫の一人として祖父の彦蔵が出生しているのである。彦蔵の長男が彦榮で、私は彦榮の二男として生を受けたことになる。
沖縄日傘愛好会
先日、NHKの全国ニュースによると猛暑で「日傘」の売り上げが2割伸びているという。沖縄には数年前か沖縄日傘愛好会が話題になっていた。日傘はもともと19世紀のフランスで文化として花開いた。フランスの印象派の画家、クロード・モネも、日傘の女性を描いている。現代のヨーロッパではなぜかその習慣が廃れ、日本で定着している。
渡口氏は沖縄日傘愛好会会長である。
麦夢忌/田原煙波
1924年12月14日『沖縄タイムス』/田原煙波①「俳友麦門冬を痛む」
○今まで障子に明るかった冬の日陰に失 したように薄れ行くを見つめて滅入るような淋しさを覚えている矢先君の死を聞かされた私は、物語る人の顔と口元とを見比べて、ただボンヤリと耳を傾けるより外はなかった。気の毒な事をした、惜しい事をしたといふ思が、それからそれへとひっきりなしに胸に湧いて来る。●●れ、やがて君のありし日の面影や、どん底からの表情が私の印象に蘇生へって来るのであった。君と相知ったのはたしか、明治四十●年の夏の頃、紅梯梧君の宅で亡三念③君の紹介によってであったと覚えている。其の年の秋亡柴舟君の宅で沖縄で初めての子規忌句会を催した時に君は「糸瓜忌や叱咤に洩れし人ばかり」といふ句を吐いて、私をして君の俳想凡ならずと感せしめたのであった。これより先、紅梯梧、(山下)紫海、私とが相合して沖縄俳界の革命者として自認し、三念其他の同志を糾合して在来の月並派に反旗を翻したのであったが其後更に亡楽山④と共に蘇鉄吟社を結んで、月並派を駆逐したのであった。然し私等の進みは遅れた。
君はやがて第二の革命者として名乗りをあげたのである。それは私等が子規派の句にたるみを感じて、碧梧桐先生一派の新傾向の句を研究せむとする頃、たまたま碧梧桐先生が来県せられた時、君は「潮ガボと吸ふ磯田 蘭刈●す」といふ句を発表して先生の賛辞を得たので私等は茲に目醒めざるを得なかったのである。私等は覚めた、そして連夜新傾向の句を批評し、感味した、やがて今迄の日本派が去って新傾向派として立つようになったのは慥かに君によって啓発された或物を感じたからであったのである。其後三念去り、楽山逝き、同人相離れて、いつの間にか君も私も俳界を遠ざかる様になったが、最近君の研究は学者として史家として世の造詣を深くするに至り、詩才は更に延びて漢詩に及び 優に一家をなすまでに心境を見たのであったが、惜しい事をした、もうこの世の人ではない。手元に遺っている君の旧作を漁りつつあり●昔の追憶に耽る時、北荒れの強い風と浪の音にまじって千鳥が寂しげに啼いている。君の魂は定めて君自身の道に躍進しつつあるであらふ、嗚呼
悼句 「君逝くと聞く薄るる冬日」「独りはぐれて野冬行く人」「遺句拾ひ偲ぶ千鳥啼く夜なり」「寒さしみじみと浪の音荒れて」
①田原煙波
1882年8月5日~1934年11月7日 本名・法馨。俳人・星佛、白水居。真教寺住職。那覇西村生まれ。1906年(明治39)東京真宗大学卒業。翌年、西新町において真教寺幼稚園創設、初代園長となる。
那覇の眞教寺
③三念・髙江洲康健
『琉文手帖』「歌人 山城正忠」
□私が入営中に高輪中学に髙江洲康健という人がいて、今、球陽座の髙江洲紅矢君の父で俳号を三念と言っていた。(『琉球新報』1932年5月)
④楽山・薬師吾吉
1924年12月14日『沖縄タイムス』/田原煙波①「俳友麦門冬を痛む」
○今まで障子に明るかった冬の日陰に失 したように薄れ行くを見つめて滅入るような淋しさを覚えている矢先君の死を聞かされた私は、物語る人の顔と口元とを見比べて、ただボンヤリと耳を傾けるより外はなかった。気の毒な事をした、惜しい事をしたといふ思が、それからそれへとひっきりなしに胸に湧いて来る。●●れ、やがて君のありし日の面影や、どん底からの表情が私の印象に蘇生へって来るのであった。君と相知ったのはたしか、明治四十●年の夏の頃、紅梯梧君の宅で亡三念③君の紹介によってであったと覚えている。其の年の秋亡柴舟君の宅で沖縄で初めての子規忌句会を催した時に君は「糸瓜忌や叱咤に洩れし人ばかり」といふ句を吐いて、私をして君の俳想凡ならずと感せしめたのであった。これより先、紅梯梧、(山下)紫海、私とが相合して沖縄俳界の革命者として自認し、三念其他の同志を糾合して在来の月並派に反旗を翻したのであったが其後更に亡楽山④と共に蘇鉄吟社を結んで、月並派を駆逐したのであった。然し私等の進みは遅れた。
君はやがて第二の革命者として名乗りをあげたのである。それは私等が子規派の句にたるみを感じて、碧梧桐先生一派の新傾向の句を研究せむとする頃、たまたま碧梧桐先生が来県せられた時、君は「潮ガボと吸ふ磯田 蘭刈●す」といふ句を発表して先生の賛辞を得たので私等は茲に目醒めざるを得なかったのである。私等は覚めた、そして連夜新傾向の句を批評し、感味した、やがて今迄の日本派が去って新傾向派として立つようになったのは慥かに君によって啓発された或物を感じたからであったのである。其後三念去り、楽山逝き、同人相離れて、いつの間にか君も私も俳界を遠ざかる様になったが、最近君の研究は学者として史家として世の造詣を深くするに至り、詩才は更に延びて漢詩に及び 優に一家をなすまでに心境を見たのであったが、惜しい事をした、もうこの世の人ではない。手元に遺っている君の旧作を漁りつつあり●昔の追憶に耽る時、北荒れの強い風と浪の音にまじって千鳥が寂しげに啼いている。君の魂は定めて君自身の道に躍進しつつあるであらふ、嗚呼
悼句 「君逝くと聞く薄るる冬日」「独りはぐれて野冬行く人」「遺句拾ひ偲ぶ千鳥啼く夜なり」「寒さしみじみと浪の音荒れて」
①田原煙波
1882年8月5日~1934年11月7日 本名・法馨。俳人・星佛、白水居。真教寺住職。那覇西村生まれ。1906年(明治39)東京真宗大学卒業。翌年、西新町において真教寺幼稚園創設、初代園長となる。
那覇の眞教寺
③三念・髙江洲康健
『琉文手帖』「歌人 山城正忠」
□私が入営中に高輪中学に髙江洲康健という人がいて、今、球陽座の髙江洲紅矢君の父で俳号を三念と言っていた。(『琉球新報』1932年5月)
④楽山・薬師吾吉
10/26: 獅子造り陶工の独り言 「渡名喜瓶考」
沖縄の伝統的な陶器に嘉瓶というのがあります。胴体が瓢箪型で、首の部分がやや長く、福よかな形をしている酒器です。現在も陶工たちがよく造っていて、壷屋焼のお店でもよくみかける、沖縄を代表する陶器の一つです。
さて、ここで話題にしようとするのは、その嘉瓶では無く、渡名喜瓶のことです。嘉瓶の兄弟分のような酒壷で、形態は嘉瓶にやや似ていますが下部の瓢箪型の丸みの中程から角ができラインが内側に入り込み上の丸みのラインにつながります。ラインはそのまま細長の首に続き、頂点の小さな口の返しで終わります。なかなかシャープな感じを受ける壷で、用途としては酒を入れる器ですが、まれには墓からの副葬品として小さな渡名喜瓶のビン付け油入れが出てきます。嘉瓶ほどではないにしても壷屋の陶工たちによって昔から造られてきました。
その渡名喜瓶ですが、なぜ渡名喜瓶と呼ばれるのか?、名前の由来が謎とされてきました。沖縄本島の西海岸に浮かぶ渡名喜島に関係していると思われますが、渡名喜島の人がその昔、壷屋の陶工に大量に注文したとか、渡名喜島のノロが使ったとかの諸説がありますが、どれも確証のあるものではありません。調査をされた方によりますと渡名喜島に特に渡名喜瓶がたくさんあるということでもないようです。では、なぜ渡名喜瓶と呼ばれているのか?。ここで私の仮説を述べてみたいと思います。
(下の図参照)
上の図は渡名喜瓶を横にした図で、真ん中に一本線を引いてあります。この線を海の水平線としますと、上半分の黒く塗った胴体部分が、海上に浮かぶ渡名喜島の島の形に似ていることに気が付きます。
そうなんです。渡名喜瓶の名前の由来は、渡名喜瓶を横にした上半分が、渡名喜島の島の形に似ていることから、昔の人は、酒を酌み交わしながら親しみを込めて「トゥナチー」と、呼んでいたのではないでしょうか。
沖縄の昔の人々が、地形の特徴を、わかりやすい身近な物にたとえることは、よくあることでした。
たとえば、首里台地の東側、崎山町から南風原に向つて、地形が大きく落ち込みます。その場所は
ウフカクジャー(大きなあご)と呼ばれていて、人の顔のとんがったあごに、たとえています。
又、波の上宮は岬の突端の岩山にありますが、昔は、その岩山を花城(ハナグシク)と呼んでいました。花城は当て字で、本来は鼻グシクだと思われます。顔の真ん中で尖がって存在する鼻を、海岸線の尖がった岬にたとえたもので、文字があまり普及していない時代には、伝達の手段として、より解りやすく目に見える具体的な物や地形、又は身体の特徴などにたとえる、言語感覚があったようです。
さて、ここで話題にしようとするのは、その嘉瓶では無く、渡名喜瓶のことです。嘉瓶の兄弟分のような酒壷で、形態は嘉瓶にやや似ていますが下部の瓢箪型の丸みの中程から角ができラインが内側に入り込み上の丸みのラインにつながります。ラインはそのまま細長の首に続き、頂点の小さな口の返しで終わります。なかなかシャープな感じを受ける壷で、用途としては酒を入れる器ですが、まれには墓からの副葬品として小さな渡名喜瓶のビン付け油入れが出てきます。嘉瓶ほどではないにしても壷屋の陶工たちによって昔から造られてきました。
その渡名喜瓶ですが、なぜ渡名喜瓶と呼ばれるのか?、名前の由来が謎とされてきました。沖縄本島の西海岸に浮かぶ渡名喜島に関係していると思われますが、渡名喜島の人がその昔、壷屋の陶工に大量に注文したとか、渡名喜島のノロが使ったとかの諸説がありますが、どれも確証のあるものではありません。調査をされた方によりますと渡名喜島に特に渡名喜瓶がたくさんあるということでもないようです。では、なぜ渡名喜瓶と呼ばれているのか?。ここで私の仮説を述べてみたいと思います。
(下の図参照)
上の図は渡名喜瓶を横にした図で、真ん中に一本線を引いてあります。この線を海の水平線としますと、上半分の黒く塗った胴体部分が、海上に浮かぶ渡名喜島の島の形に似ていることに気が付きます。
そうなんです。渡名喜瓶の名前の由来は、渡名喜瓶を横にした上半分が、渡名喜島の島の形に似ていることから、昔の人は、酒を酌み交わしながら親しみを込めて「トゥナチー」と、呼んでいたのではないでしょうか。
沖縄の昔の人々が、地形の特徴を、わかりやすい身近な物にたとえることは、よくあることでした。
たとえば、首里台地の東側、崎山町から南風原に向つて、地形が大きく落ち込みます。その場所は
ウフカクジャー(大きなあご)と呼ばれていて、人の顔のとんがったあごに、たとえています。
又、波の上宮は岬の突端の岩山にありますが、昔は、その岩山を花城(ハナグシク)と呼んでいました。花城は当て字で、本来は鼻グシクだと思われます。顔の真ん中で尖がって存在する鼻を、海岸線の尖がった岬にたとえたもので、文字があまり普及していない時代には、伝達の手段として、より解りやすく目に見える具体的な物や地形、又は身体の特徴などにたとえる、言語感覚があったようです。