今帰仁村歴史文化センターでー左が館長・仲原弘哲氏と新城栄徳(渚さん撮影)
本日、文化の杜の渚さん運転のクルマで今帰仁と本部を廻った。渚さんは本部生まれで北山高校出身。今帰仁村教育委員会で、今帰仁城発掘や『百按司墓木棺修理報告書』編集にも関わっていて今帰仁に詳しい。今帰仁村歴史文化センターで館長の仲原弘哲氏が出迎えた。仲原氏は渚さんとも旧知の間柄。2012年8月22日寄贈された仲宗根政善の資料・本(100箱余.り)が地下書架に並んでいた。ガラスケースにある『琉球国由来記』(「1946年、山城善光氏帰沖,伊波先生からの手紙と『琉球国由来記』の写本,服部四郎氏から米語辞典が届けられる」と略年譜にある)には仲宗根宛の伊波普猷の署名がある。東江長太郎『通俗琉球北山由来記』(1935年11月)もある。□→1989年3月、東江哲雄、金城善編により那覇出版社から『古琉球 三山由来記集』が刊行された。
全集類は『比嘉春潮全集』(新聞スクラップが貼りこまれている。)『宮良當壮全集』『仲原善忠全集』『琉球史料叢書』などが目についたが、とくに日本図書センターの『GHQ日本占領史』はかなりの巻数である。安良城盛昭『天皇制と地主制』上下もある。
今帰仁関係を始めとして国文学雑誌や、琉球大学関係資料、同僚であった大田昌秀の著書も多数。また伊波普猷との関連で那覇女トリオの新垣美登子、金城芳子、千原繁子の署名入りの贈呈本もある。平山良明の論文原稿①、仲程昌徳『お前のためのバラード』、我部政男、渡邊欣雄、池宮正治、比屋根照夫、野口武徳、川満信一などの本も署名入りが並んでいた。娘婿が編集した『島田寛平画文集 1898-1967」 寛平先生を語る会1994年11月も目についた。
① □□2012年6月 仲程昌徳『「ひめゆり」たちの声ー『手記』と「日記」を読み解く』出版舎Muɡen(装丁・真喜志勉/墨染織・真喜志民子/写真・真喜志奈美)
天皇関係、大学紛争を特集した雑誌もある。マクルーハン②の本もあった。マクルーハンは、もともとは文学研究者として出発したが、その後メディア論を論じる(挑発的にして示唆に富んだ)社会科学者として名を成した。60年代後半~80年代前半にかけて爆発的な影響力を誇った。「内容ではなく、むしろそのメディア自身の形式にこそ、人びとに多くをつたえているのだ」と訴えることをつうじて、それまでの活字文化と、ラジオ文化、テレビ文化 相互のあいだにかれが差異線をひいたことは、いまだに重要である。 (ウィキペディア)
②
沖縄言語研究センターの「仲宗根政善 略年譜」を見ながら今帰仁村歴史文化センター書架に並んでいる本を思いつくまま記していくことにする。()内・写真・□は新城追加。
1907年(明治40年4月26日)
沖縄県国頭郡今帰仁村字与那嶺にて,父仲宗根蒲二,母カナの長男として生まれる 。生家は農業を営む。母カナは,名護の町を一度見たいというのが夢であったが,終生ついにかなえられなかった。祖父政太郎は,謝花昇(1908年死亡)に私淑していた。謝花は近在まで出張してくる都度,仲宗根家に宿をとった。
□1913年
9月5日 今帰仁村字与那嶺715番地に、父島袋松次郎(教師)、母静子(教師)の長男として霜多正次生まれる。→書架には霜多作品もある。
1914年~1919年(大正3年~8年)
兼次尋常小学校(大正8年4月1日,高等科併置,校名を兼次尋常高等小学校と改名する)に入学。桃原良明校長(4代),安里萬蔵校長(5代),安冨祖松蔵校長(6代),上里堅蒲校長(7代),当山美津(正堅夫人)等から直接教えを受ける。32歳の若さで赴任してきた上里校長に出会ったことによって,生涯を決定される。伊波普猷「血液及び文化の負債」の民族衛生講演で兼次小を訪れる。
1920年(大正9年)
沖縄県立第一中学校に入学。大宜見朝計(書架に1979年発行『大宜見朝計氏を偲ぶ』これに政善は「二人でたどった道」を書いている。川平朝申の文章もある。),島袋喜厚,上地清嗣等, 国頭郡から7名。中城御殿(現博物館)裏にあった駕籠屋新垣小に最初下宿。
母カナ死亡(享年40歳)。14歳になるまで,一晩中目がさえて一睡もできなかったということは一度もなかったが,虫のしらせか母の亡くなった夜だけは,蚊帳の上をぐるぐる飛んでいるホタルが妙に気になって,とうとう一睡もできなかったという経験をする。
泉崎橋の近くで,初めて伊波普猷の姿に接する。4年から5年にかけて,英語を担当していた胡屋朝賞先生の感化を受ける。
1926年(大正15,昭和元年)
福岡高等学校文科乙類に入学。沖縄から最初の入学者であった。級友から珍しがられ,親切にされる。翌27年には,大宜見朝計が入学。
伊波普猷著『孤島苦の琉球史』と『琉球古今記』を買い求め貧り読む。
安田喜代門教授から『万葉集』の講義を聞き,万葉の中に,日常用いている琉球方言がたくさん出て来るのに興味を覚える。また,考古学の玉泉大梁教授から,日本史の中ではじめて琉球史の概要を聞く。ドイツ語担当白川精一教授の感化を受け,ドイツ語に興味を持つ。
1929年(昭和4年)
東京帝国大学文学部国文学科入学。同年入学者に林和比古,永積安明, 吉田精一,犬養孝,岩佐正,西尾光雄等がいた。
本郷妻恋町に最初下宿。2年の時から国語学演習で,橋本進吉教授に厳しく鍛えられる。同ゼミに先輩の服部四郎,有坂秀世氏等がいた。服部氏が,今帰仁村字与那嶺方言のアクセントを調査し整理して,法則を示してくれたことによって, 郷里の方言に一層興味を持つようになる。金田一京助助教授のアイヌ語の講義,佐々木信綱講師の万葉集の講義を受ける。
伊波普猷先生宅に出入りするようになる。
1931(昭和6年)
第二回南島談話会で,はじめて柳田国男,比嘉春潮,仲原善忠, 金城朝永,宮良当壮に会う。
1932(昭和7年)
東京帝国大学文学部国文学科卒業。世は不況のどん底にあって,町にはルンペンがあふれていた。就職口もなく,朝日新聞に広告を出しても家庭教師の口すら年の暮れまで見つけることができないというような状況であった。
たまたま,県視学の幸地新蔵氏から,郷里の第三中学校に来ないかとの手紙があって,伊波普猷先生に相談。「東京でいくら待っても職はないし,2,3年資料でも集めて来てはどうか」と言われ,帰郷する気になる。
★「語頭母音の無声化」(『南島談話』第5号)。
★「今帰仁方言における語頭母音の無声化」(『旅と伝説』)。
1933年(昭和8年)
名護の沖縄県立第三中学校に教授嘱託として赴任。伊波普猷先生から,蚕蛹の方言を調査してほしい旨の手紙を受け,さっそく生徒126名を対象に,国頭郡の各部落の方言を調査し報告する。方言使用禁止の風潮の中で,方言を調べ研究するのを,生徒たちから不思議に思われる。伊礼正次,サイ夫妻の長女敏代と結婚。
1934年(昭和9年)
★「国頭方言の音韻」(『方言』第4巻第10号)。
1936年(昭和11年)
折口信夫先生を嶋袋全幸氏と共に案内。正月を名護で迎える。北山城趾見学の帰り,与那嶺の実家に立ち寄る。
三中から沖縄女子師範学校・沖縄県立第一高等女学校に転勤を命ぜられる。『姫百合のかおり』(沖縄県女子師範学校・沖縄県立第一高等女学校,30周年記念号)の編集委員を勤める。
★「加行変格『来る』の国頭方言の活用に就いて」(『南島論叢』)。
1937年(昭和12年)
川平朝令校長から「国民精神文化研究所」に研修に行くことをすすめられ,あまり気のりがしなかったが, 東京へ転ずるきっかけをつかむことができるかも知れないとの希望があって,目黒長者丸にあった同研究所へ入所する。
伊波先生を塔の山の御宅に訪ね,入所報告をすると「紀平正美などが,『神ながらの』道を講じているようだが,あんなのを学問だと思っては大間違いだ。研究所に通うより,うちに来て勉強するがよい」と注意を受けて近くに宿を貸りる。先生に励まされ,研究意欲に燃えて,夏の終わりに帰省。
2012年9月9日 「綱・ちゅら・エイサー祭り~与那原大綱曳in大正区」同実行委員会(関西沖縄文庫☏FAX06-6552-6709)
2012年10月7日 沖縄県人会兵庫県本部機関紙『榕樹』
1970年6月 河出書房新社『日本歴史大辞典』平山敏治郎「綱引ー大綱を多数の人々が二手に分かれて引き合う行為は一般に競技となっているが、もとは神事であり、卜占の意義をもつものであった。このような宗教的な綱引は各地の祭や年中行事に伝わっている。その時期は東日本では小正月すなわち正月15日が多く、西日本では盆行事や8月15日に行うものが多かった。いずれも季節の変り目である。(略)沖縄でも6月の稲穂祭に綱引するが、2頭の蛇に擬した綱を合わせて用いる。まずこれを部落に持ちまわって魔を払い、そのあと競技した。」
本29日4時、大阪大正区の金城馨(関西沖縄文庫)氏の案内で筋原章博大阪市大正区長、同総務課の内山泰博課長が沖縄県立博物館を見学された。写真左から、新城栄徳、内山泰博課長、筋原章博大阪市大正区長、金城馨氏、上地兼恵文化の杜統括
☆筋原章博氏2023年10月現在 関西泡盛同好会会長
2012年1月30日[『沖縄タイムス』内間健「大阪大正区で『与那原大綱曳』を」
□大阪市大正区(筋原章博区長)は区制80周年と沖縄復帰40年の両方の節目に当たる今年、記念事業の目玉にと、与那原大綱曳(ひき)の招致に動きだしている。同区には県人が約100年前から移り住み、現在も人口約6万9000人のうち、4分の1が県関係者といわれる土地柄。筋原区長は「区の特色である『沖縄』をアピールし、活性化につなげたい」としている。
2012年1月31日[『沖縄タイムス』「与那原町『全面協力』大綱曳 大正区に派遣へ」
2012年10月7日 沖縄県人会兵庫県本部機関紙『榕樹』
1970年6月 河出書房新社『日本歴史大辞典』平山敏治郎「綱引ー大綱を多数の人々が二手に分かれて引き合う行為は一般に競技となっているが、もとは神事であり、卜占の意義をもつものであった。このような宗教的な綱引は各地の祭や年中行事に伝わっている。その時期は東日本では小正月すなわち正月15日が多く、西日本では盆行事や8月15日に行うものが多かった。いずれも季節の変り目である。(略)沖縄でも6月の稲穂祭に綱引するが、2頭の蛇に擬した綱を合わせて用いる。まずこれを部落に持ちまわって魔を払い、そのあと競技した。」
本29日4時、大阪大正区の金城馨(関西沖縄文庫)氏の案内で筋原章博大阪市大正区長、同総務課の内山泰博課長が沖縄県立博物館を見学された。写真左から、新城栄徳、内山泰博課長、筋原章博大阪市大正区長、金城馨氏、上地兼恵文化の杜統括
☆筋原章博氏2023年10月現在 関西泡盛同好会会長
2012年1月30日[『沖縄タイムス』内間健「大阪大正区で『与那原大綱曳』を」
□大阪市大正区(筋原章博区長)は区制80周年と沖縄復帰40年の両方の節目に当たる今年、記念事業の目玉にと、与那原大綱曳(ひき)の招致に動きだしている。同区には県人が約100年前から移り住み、現在も人口約6万9000人のうち、4分の1が県関係者といわれる土地柄。筋原区長は「区の特色である『沖縄』をアピールし、活性化につなげたい」としている。
2012年1月31日[『沖縄タイムス』「与那原町『全面協力』大綱曳 大正区に派遣へ」
09/09: 9月9日 オスプレイ阻止 島ぐるみ9・9県民大会
2012年9月11日『琉球新報』に県民大会を3紙が一面報道とある。以前、全国紙は沖縄問題よりは読売巨人軍オーナーが大きく扱われていた。一面掲載の新聞は朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、高知新聞であった。他の新聞は相変わらず沖縄問題を矮小化する傾向が続いている。
左ダグラスさん親子/小橋川共男氏
□C・ダグラス・ラミス
1936年、サンフランシスコ生まれ。政治学者。元津田塾大学教授。著書に『憲法と戦争』(晶文社)『経済成長が無ければ私たちは豊かになれないのだろうか』『憲法は政府に対する命令である』(以上平凡社)『普通の国になりましょう』(大月書店)他多数
□2008年2月23日、開催された国際ボランティア学会沖縄大会において写真家の小橋川共男氏(泡瀬干潟を守る連絡会の共同代表)は隅谷三喜男賞を受賞。白保の新石垣空港埋め立て問題から沖縄本島の泡瀬干潟埋め立て問題まで、写真家として、一市民として長年の地道な環境保護活動の実践が評価された。
真喜志好一氏/比屋根照夫氏
1979年7月 『小橋川共男写真集 御万人の心』那覇出版社
真喜志好一
1972年6月『建築評論』<沖縄海洋博の証言>建築評論社(大阪市西区北堀江通1)
1940年8月 『南島』第1輯 編集兼発行者・野田裕康(台北市兒玉町3ノ9野田書房内)南島発行所目次カット・川平朝申
□編集顧問・浅井恵倫、移川子之蔵、上原景爾、江崎梯三、小葉田淳、大島廣、金関丈夫、喜舎場永珣、島袋源一郎、島袋全発、豊川博雅、南風原朝保、東恩納寛惇、比嘉春潮、萬造寺龍、山中樵
□編集係・川平朝申、須藤利一、比嘉盛章、宮良賢貞
□口絵ー八重山の御嶽と拝殿・西表の節祭とアンガマ踊/進貢船の図/弘化年間来琉の英国船(表紙の地図は中山伝信録より)
□比嘉盛章「西表島の節祭とアンガマ踊」/喜舎場永珣「爬龍船の神事」(黒島)/宮良賢貞「黒島船造りののりと・小濱島のニロー神」/瀬名波長宣「進貢船接貢竝朝鮮船異国船日本他領の船漂着破損等の在番役役公事」/正木任「サマラン號八重山来航事記録」/須藤利一「サマラン號航海記附記」/須藤利一「アダムスの那覇見聞録」/付録ー八重山島由来記・八重山島大阿母由来記・八重山島諸記帳・慶来慶田城由来記・・・解説並びに語句解(比嘉盛章)
1942年3月 『南島』第2輯 編集兼発行者・野田裕康(台北市兒玉町3ノ9)目次カット・川平朝申
□編集顧問・浅井恵倫、伊波普猷、移川子之蔵、上原景爾、江崎梯三、小葉田淳、大島廣、金関丈夫、川平朝令、喜舎場永珣、志喜屋孝信、玉城尚秀、島袋源一郎、島袋全発、豊川博雅、南風原朝保、東恩納寛惇、比嘉春潮、萬造寺龍、柳田国男、山中樵
□編集係・川平朝申、須藤利一、中村忠行、三島格①、宮良賢貞
口絵ーバジル・ホール肖像/日本国古地図(海東諸国記所載)
李朝実録・中世琉球史料・・・・・小葉田淳
久米島おもろに就いて・・・・・・・世禮国男
与那国島の童謡・・・・・・・・・・前新加太郎
孤島武富覚書(八重山)・・・・・・宮良賢貞
岩崎翁のことども・・・・・・・・・・・瀬名波長宜
「沖縄の文化を語る」(座談会)・小葉田、金関、比嘉、須藤、南風原、松村、三島、川平
親雲上の音義に就て・・・・・・・・比嘉盛章
おもろさうし研究(第1回)・・・・・小葉田、金関、松村、木藤、川平、中村、比嘉、須藤、三島
口絵解説(バジル・ホール略傳)中村忠行
新刊紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・須藤利一
沖縄関係最近文献資料(2)
写真ー1998年10月18日うりずん 左から新城亘氏、①三島格・肥後考古学会会長、新城栄徳、佐藤善五郎氏(那覇市文化協会)
1944年9月 『南島』第3輯 編集者・南島発行所(台北市表町1丁目11番地)発行所・台湾出版文化株式会社目次カット・川平朝申
□編集顧問・浅井恵倫、伊波普猷、移川子之蔵、上原景爾、川平朝令、志喜屋孝信、玉城尚秀、江崎梯三、小葉田淳、大島廣、金関丈夫、喜舎場永珣、島袋源一郎、島袋全発、豊川博雅、南風原朝保、東恩納寛惇、比嘉盛章、柳田国男、比嘉春潮、萬造寺龍、山中樵
□編集・須藤利一、川平朝申、木藤才蔵、中村忠行、松村一雄、三島格、宮良賢貞
□口絵ーロベルト・ゾーン號遭難救助の記念碑・海上から見た同碑のスケッチ・独逸皇帝より贈られた記念品の数々・西郷提督・保力庄の楊友旺・宮古島民遭害の山地・石門の険・墓碑・水野遵氏書簡
□江崎梯三「宮古島のドイツ商船遭難救助記念碑」/石本岩根「独帝謝恩記念品その他」、下地馨「宮古曲玉の研究」、山中樵(台湾総督府図書館長)「宮古島民の台湾遭害」、川平朝健(沖縄新報社員)「宮古の民謡について」、垣花良香「多良間島雑記」
□おもろさうし研究(第2回)・・・・・小葉田、金関、松村、木藤、川平、中村、比嘉、須藤、三島、小山
前列左からー比嘉春潮、川平朝申、柳田国男
□1947年9月7日 アーニパイル國際劇場落成
1947年9月5日 『うるま新報』「”國際劇場”那覇に設立ー那覇市牧志町に今回アーニーパイル國際劇場と称する劇場が新設されたが、鉄骨張りの堂々たる建物で収容人員三千五百人とされ9月7日1時より落成式を挙行、沖縄文化連盟主催で西洋音楽、古典舞踊を上演する筈」
1948年2月27日『うるま新報』「映画常設館那覇に出現ーアーニパイル國際劇場は今回映画常設館として娯楽に飢えた那覇っ子を喜ばすことになったが1月21日には文化部主催で盛大な開館式を挙行、当日は軍政府より・・」
□MG会副会長で米軍政府経済部の翻訳官の大城つる女史が、『宗教雑誌を出版したいという人がいるが許可できますか』と訪ねてきた。数日後、本人から出版申請書が出された。終戦直後糸満で壕から這い出した虚脱状態の同胞に希望と笑いをとりもどさせる働きをした与那城勇氏『ゴスペル』(福音)という神の国建設への啓蒙雑誌であり、聖書の解説や迷信の解明など政治色のない編集内容だったので私は喜んで許可した。この月刊誌も『月刊タイムス』と同じ謄写版刷り四六判の30頁、与那城氏が糸満教会に勤務している数年間、根気強く発行した。与那城氏はのち糸満教会を辞し、小禄で歯科医院を開業したが、『ゴスペル』の中jから抜粋した主張や随筆、解説など集めた単行本『琉球エデンの物語』を上梓した。
『ゴスペル』
■2012年8月8日、平和通りで我が古里・粟国島に縁故がある玉寄哲永氏と出会い話を聞いた。この与那城勇氏も粟国島と縁故がある。本人が『南歯の歩み』に記した経歴に「14才の時から洋服屋の丁稚、16才で大阪に渡り、回覧雑誌(貸本)の配達をしながら独力で学費を稼いで夜間中学に通っていた私の様な貧しい少年にとってはまさに希望の灯火そのものでありました。私はその頃から『救世軍』という名のキリスト教の一派に加わっていましたが、ゆくゆくは伝道者になろうと心に決めておりました。その計画遂行には独り立ちできる生活力を身につける事が先決だと考えたのですが、たまたま書生として住み込んでいた歯科医院の先生の影響もあって歯科の道を志したのでした。」として猛勉強して朝鮮総督府の歯科医師検定試験に合格した。
川平朝申の歴史書/下右の1959年7月発行の『今日の琉球』から始まった川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史ー」が私に琉球史へ関心を持たせたもの。②では「人間のおこり」から始まっていた。
2012年9月3日 『沖縄タイムス』斎木喜美子「川平朝申の児童文学①」
□編集顧問・浅井恵倫、移川子之蔵、上原景爾、江崎梯三、小葉田淳、大島廣、金関丈夫、喜舎場永珣、島袋源一郎、島袋全発、豊川博雅、南風原朝保、東恩納寛惇、比嘉春潮、萬造寺龍、山中樵
□編集係・川平朝申、須藤利一、比嘉盛章、宮良賢貞
□口絵ー八重山の御嶽と拝殿・西表の節祭とアンガマ踊/進貢船の図/弘化年間来琉の英国船(表紙の地図は中山伝信録より)
□比嘉盛章「西表島の節祭とアンガマ踊」/喜舎場永珣「爬龍船の神事」(黒島)/宮良賢貞「黒島船造りののりと・小濱島のニロー神」/瀬名波長宣「進貢船接貢竝朝鮮船異国船日本他領の船漂着破損等の在番役役公事」/正木任「サマラン號八重山来航事記録」/須藤利一「サマラン號航海記附記」/須藤利一「アダムスの那覇見聞録」/付録ー八重山島由来記・八重山島大阿母由来記・八重山島諸記帳・慶来慶田城由来記・・・解説並びに語句解(比嘉盛章)
1942年3月 『南島』第2輯 編集兼発行者・野田裕康(台北市兒玉町3ノ9)目次カット・川平朝申
□編集顧問・浅井恵倫、伊波普猷、移川子之蔵、上原景爾、江崎梯三、小葉田淳、大島廣、金関丈夫、川平朝令、喜舎場永珣、志喜屋孝信、玉城尚秀、島袋源一郎、島袋全発、豊川博雅、南風原朝保、東恩納寛惇、比嘉春潮、萬造寺龍、柳田国男、山中樵
□編集係・川平朝申、須藤利一、中村忠行、三島格①、宮良賢貞
口絵ーバジル・ホール肖像/日本国古地図(海東諸国記所載)
李朝実録・中世琉球史料・・・・・小葉田淳
久米島おもろに就いて・・・・・・・世禮国男
与那国島の童謡・・・・・・・・・・前新加太郎
孤島武富覚書(八重山)・・・・・・宮良賢貞
岩崎翁のことども・・・・・・・・・・・瀬名波長宜
「沖縄の文化を語る」(座談会)・小葉田、金関、比嘉、須藤、南風原、松村、三島、川平
親雲上の音義に就て・・・・・・・・比嘉盛章
おもろさうし研究(第1回)・・・・・小葉田、金関、松村、木藤、川平、中村、比嘉、須藤、三島
口絵解説(バジル・ホール略傳)中村忠行
新刊紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・須藤利一
沖縄関係最近文献資料(2)
写真ー1998年10月18日うりずん 左から新城亘氏、①三島格・肥後考古学会会長、新城栄徳、佐藤善五郎氏(那覇市文化協会)
1944年9月 『南島』第3輯 編集者・南島発行所(台北市表町1丁目11番地)発行所・台湾出版文化株式会社目次カット・川平朝申
□編集顧問・浅井恵倫、伊波普猷、移川子之蔵、上原景爾、川平朝令、志喜屋孝信、玉城尚秀、江崎梯三、小葉田淳、大島廣、金関丈夫、喜舎場永珣、島袋源一郎、島袋全発、豊川博雅、南風原朝保、東恩納寛惇、比嘉盛章、柳田国男、比嘉春潮、萬造寺龍、山中樵
□編集・須藤利一、川平朝申、木藤才蔵、中村忠行、松村一雄、三島格、宮良賢貞
□口絵ーロベルト・ゾーン號遭難救助の記念碑・海上から見た同碑のスケッチ・独逸皇帝より贈られた記念品の数々・西郷提督・保力庄の楊友旺・宮古島民遭害の山地・石門の険・墓碑・水野遵氏書簡
□江崎梯三「宮古島のドイツ商船遭難救助記念碑」/石本岩根「独帝謝恩記念品その他」、下地馨「宮古曲玉の研究」、山中樵(台湾総督府図書館長)「宮古島民の台湾遭害」、川平朝健(沖縄新報社員)「宮古の民謡について」、垣花良香「多良間島雑記」
□おもろさうし研究(第2回)・・・・・小葉田、金関、松村、木藤、川平、中村、比嘉、須藤、三島、小山
前列左からー比嘉春潮、川平朝申、柳田国男
□1947年9月7日 アーニパイル國際劇場落成
1947年9月5日 『うるま新報』「”國際劇場”那覇に設立ー那覇市牧志町に今回アーニーパイル國際劇場と称する劇場が新設されたが、鉄骨張りの堂々たる建物で収容人員三千五百人とされ9月7日1時より落成式を挙行、沖縄文化連盟主催で西洋音楽、古典舞踊を上演する筈」
1948年2月27日『うるま新報』「映画常設館那覇に出現ーアーニパイル國際劇場は今回映画常設館として娯楽に飢えた那覇っ子を喜ばすことになったが1月21日には文化部主催で盛大な開館式を挙行、当日は軍政府より・・」
□MG会副会長で米軍政府経済部の翻訳官の大城つる女史が、『宗教雑誌を出版したいという人がいるが許可できますか』と訪ねてきた。数日後、本人から出版申請書が出された。終戦直後糸満で壕から這い出した虚脱状態の同胞に希望と笑いをとりもどさせる働きをした与那城勇氏『ゴスペル』(福音)という神の国建設への啓蒙雑誌であり、聖書の解説や迷信の解明など政治色のない編集内容だったので私は喜んで許可した。この月刊誌も『月刊タイムス』と同じ謄写版刷り四六判の30頁、与那城氏が糸満教会に勤務している数年間、根気強く発行した。与那城氏はのち糸満教会を辞し、小禄で歯科医院を開業したが、『ゴスペル』の中jから抜粋した主張や随筆、解説など集めた単行本『琉球エデンの物語』を上梓した。
『ゴスペル』
■2012年8月8日、平和通りで我が古里・粟国島に縁故がある玉寄哲永氏と出会い話を聞いた。この与那城勇氏も粟国島と縁故がある。本人が『南歯の歩み』に記した経歴に「14才の時から洋服屋の丁稚、16才で大阪に渡り、回覧雑誌(貸本)の配達をしながら独力で学費を稼いで夜間中学に通っていた私の様な貧しい少年にとってはまさに希望の灯火そのものでありました。私はその頃から『救世軍』という名のキリスト教の一派に加わっていましたが、ゆくゆくは伝道者になろうと心に決めておりました。その計画遂行には独り立ちできる生活力を身につける事が先決だと考えたのですが、たまたま書生として住み込んでいた歯科医院の先生の影響もあって歯科の道を志したのでした。」として猛勉強して朝鮮総督府の歯科医師検定試験に合格した。
川平朝申の歴史書/下右の1959年7月発行の『今日の琉球』から始まった川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史ー」が私に琉球史へ関心を持たせたもの。②では「人間のおこり」から始まっていた。
2012年9月3日 『沖縄タイムス』斎木喜美子「川平朝申の児童文学①」