09/24: 新城栄徳・編「伊波普猷年譜(抄)」
伊波普猷(1876年3月15日~1947年8月13日)に対して私は麦門冬・末吉安恭を通じてのみ関心があっただけであった。1997年8月、那覇市が「おもろと沖縄学の父 伊波普猷ー没後50年」展を開催したとき私も協力した。関連して伊波普猷の生家跡に表示板が設置されたが、その表示板の伊波の写真は私の本『古琉球』(1916年9月)から撮ったものである。伊波展の図録作成も手伝った。その間に沖縄県立図書館比嘉春潮文庫や比嘉晴二郎氏の蔵書、法政大学の伊波普猷資料に接し感無量であった。
1891年
4月ー沖縄県尋常中学校入学。学友に漢那憲和、照屋宏、真境名安興、当間重慎、渡久地政瑚、金城紀光、西銘五郎(徳太)
1900年
9月ー京都第三高等学校入学。入学保証人の一人、下国良之助(大阪在住)。この頃、西本願寺仏教青年会やキリスト教会に出入りする。
1903年
9月ー東京帝国大学文科大学入学。この頃、片山潜宅に出入りして田島利三郎の影響もあって英文の『社会主義小史』を共に読む。
1904年
7月ー鳥居龍蔵、伊波普猷を同行し来沖。
1905年
8月6日~8日ー伊波普猷、遠藤万川(出雲国生まれ)と富士登山。
1906年
7月ー千駄ヶ谷の下宿をたたんで帰沖。
1910年8月ー沖縄県立沖縄図書館創立
1910年7月31日『沖縄毎日新聞』
奈良県立図書館ー1908年に奈良公園内に建てられたもの。昭和43年に郡山城内に移築された。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館のモデルを奈良県立図書館に求めた。
湯浅半月京都図書館長。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館創設にあたって半月のアドバイスを受けている。京都図書館は1909年2月落成した。現在は外観だけ残して、後ろにガラス張りのビルが新築された。
1911年
4月1日ー河上肇来沖、伊波普猷と親交を結ぶ。
■河上肇の伊波普猷宛ハガキ(国吉真哲翁旧蔵。新城栄徳を介して現在、沖縄県立図書館・那覇市歴史博物館所蔵)
8月3日『沖縄毎日新聞』「昨今県下に於いて美術趣味が勃興しおれる折柄過般、県立図書館に於いても大枚を投じて雪舟山水帖及び大長巻、ミレー名画集等は何れも東京審美書院の発行に係り版刻鮮明にして美麗、殆ど原画の神韻を伝ぶるものあり・・・」
1911年10月 井上圓了『日本周遊奇談』博文館
1912年
4月ー岩崎卓爾『八重山民謡集』序文・伊波普猷□印刷・仙台国分町
1913年
3月ー伊波普猷、那覇西の自宅を開放し「子供の会」を始める。参加者・金城朝永、山里永吉、金城唯温、新垣美登子、知念芳子、永田千代
1913年
3月29日ー伊波普猷、来沖のエドモンド・シモンと歓談。
5月ー『民俗』第1年第1報□日本民俗会員・井上円了、巌谷小波、伊波普猷
井上円了
『貝寄風』の主宰者の中瀬喜陽氏は南方熊楠研究家、現在・南方熊楠顕彰館の館長である。『貝寄風』にも「南方熊楠と正岡子規」といった熊楠関連の資料を紹介しておられる。私も同誌にときおり「琉球の風」を書かせてもらっている。『天荒』36号にその抜粋が載っている。私は平成17年7月の『貝寄風』には井上円了と渋沢敬三について書いた。□1926年、渋沢栄一の孫・渋沢敬三が石黒忠篤と台湾から来沖。沖縄県沖縄図書館で仲吉朝助の『琉球産業資料』を複写、これは後に小野武夫によって『近世地方経済史料』に収録される。渋沢は案内役をつとめた沖縄県殖産課長・田村浩の著『琉球共産村落之研究』を岡書院から出版させた。同行した石黒は石黒忠悳の息子、妻は穂積重陳の娘で渋沢栄一の孫娘。渋沢敬三は南方同胞援護会(現・沖縄協会)の初代会長で、また東洋大学名誉学位第1号でもある。
大正14年7月『週刊朝日』伊東忠太□化けものー故井上円了博士は有名な妖怪学者であったが、博士は化け物の有無については徹底的に断案を下しておらない。
□井上円了
生年: 安政5.2.4 (1858.3.18)
没年: 大正8.6.5 (1919)
明治大正期,東西の思想を統合しようとした哲学者。新潟県の真宗大谷派慈光寺の井上円悟,いくの長男。京都東本願寺の教師学校の留学生として東京大学の哲学科に入学。明治17(1884)年に哲学会を発足させた。18年東大を卒業。20年に哲学書院をつくり,『哲学会雑誌』を創刊。さらに同年,哲学館(東洋大学)を創設し,哲学を中心とする高等教育を大衆が学ぶことができるようにした。また21年政教社をつくり,『日本人』を発行し,西洋の長所を認めながらも,日本固有のものを保存しようと主張した。著書は,哲学関係では諸学の基礎として純正哲学を説く『純正哲学講義』,それを集大成して宇宙の全体を示す『哲学新案』,宗教関係では進化論に基づいてキリスト教を批判し,仏教に西洋哲学からみた真理が真如という形で存在すると説く『真理金針』(1886~87),『仏教活論序論』『仏教活論本論』,心理関係では『心理摘要』,仏教の心理説を西欧の心理学の立場からまとめた『東洋心理学』『仏教心理学』,わが国最初の『心理療法』,また学際的な分野では民間の迷信をなくし,近代化をはかるための科学概論ともいうべき『妖怪学講義』(1894)がある。井上は多くの分野において先駆的な業績を開拓している。好奇心のきわめて強い人であり,学問を社会に役立てようとしたことは注目に値する。<参考文献>井上円了記念学術センター編『井上円了選集』全11巻
(恩田彰) →コトバンク
8月20日ー伊波普猷、久米島で1週間滞在。「三島問答」を発見。
9月ー『おきなは』第1巻題号□伊波普猷「私の子供の時分」、写真「許田普益」→1922年11月『龍文』伊波普猷「私の子供時分」
1916年
1月ー『沖縄毎日新報』伊波普猷「系図を調べて」(当間重慎家)
3月ー伊波普猷、比嘉賀秀らと共に沖縄組合教会を設立。参加者・比嘉賀盛、浦崎永錫ら
1917年7月8日『琉球新報』「亡祖母マウシ葬送御礼/孫・松村嘉實、曾孫・松村薫、孫・松村嘉昌、親戚・東恩納寛仁、伊波普猷」
1918年
3月ー『日本エスペラント』第13年題号□伊波普猷、比嘉春潮らの写真
1919年
7月ー島袋源一郎編『沖縄県国頭郡志』□伊波普猷「序文」
1920年
岩崎卓爾『ひるぎの一葉』□伊波普猷「序文」
1921年
5月27日ー伊波普猷、沖縄県立図書館長嘱託から図書館長。
1924年
3月23日ー『沖縄タイムス』伊波普猷「琉球文芸叢書に序す」
3月30日ー『沖縄タイムス』伊波普猷「『帆かげ』の序に代へて」→1924年6月『沖縄教育』伊波普猷「序文二則」
5月ー『沖縄教育』伊波普猷「琉球民族の精神分析」
12月ー『養秀』31号「図書館長伊波文学士中学時代の思出」→1934年7月『養秀』35号「在学時代の思い出」
1925年
2月ー上京し小石川戸崎町に真栄田冬子と同居。
7月ー『沖縄朝日新聞』伊波普猷「京太良詞曲集につきー比嘉盛章君に」
1926年
1月18日ー『琉球新報』伊波普猷「クワイナの語義その外」(1)~
1月30日ー『琉球新報』伊波普猷「南島の歌謡に現れた為朝の琉球落」~(31)
8月10日ー『琉球新報』伊波普猷「琉球古代の裸舞」(1)~
9月ー帰沖、那覇市教育部会にて「随書に現れたる琉球」と題して講演□後の写真家・山田實が同級生の伊波國男の家に遊びに行き2階で読書中の伊波普猷を見る。
1927年
4月ー嘉手かる信世の『学芸講演通信社パンフレット』№46に「南島の歌謡に就きて」
1928年
10月ー春洋丸でハワイ着
1929年
2月ー山城亀雄飛行士が操縦する飛行機でロサンゼルス上空を飛ぶ
8月ー『科学画報』13巻2号□伊波普猷「布哇の自然と人」、伊波普猷、帰沖(折口信夫と同行予定が折口体調不良のため伊波一人の帰沖となった)。10日ー真境名安興と共催で「琉球古典劇研究座談会」、19日『琉球新報』伊波普猷「孟蘭盆の新意義」、25日ー『琉球新報』伊波普猷「五ツ組の用語と詩形」、30日ー伊波普猷、上里朝秀ら台中丸で帰京(途次、喜界島で講演)。11月23日ー京浜沖縄県学生会秋季総会で「方言に現れたる土俗」と題し講演
1930年
伊波普猷、冬子夫妻、右端にバクと肩組む伊波文雄(本名ー普哲)魚住惇吉、千代夫妻、金城朝永・芳子夫妻
小石川の伊波宅に甥の文雄、山之口貘が居候
1931年
6月ー伊波の母(知念)マツル死去
12月ー小石川の伊波宅に上原美津子が同居
比嘉美津子『素顔の伊波普猷』ニライ舎1997年8月/『沖縄タイムス』2019-10-10
写真。東急ホテルでー左から上里祐子さん、新城栄徳、大城道子さん、比嘉美津子さん、大峰林一氏、伊佐真一氏
平良次子さん、比嘉美津子さん、比嘉梨香さん
1932年
1月ー『沖縄朝日新聞』伊波普猷「蚕蛹の琉球語」(2)~
1932年6月『ドルメン』濱田青陵「ドルメン語」、伊波普猷「二位尼の煙管」
1934年5月『ドルメン』第3巻第5号東京人類学会創立50年記念大会
1933年
1月ー琉球新報で「航空大ページェントー瀬長島上空から関口飛行士操縦の複葉機から宮森美代子嬢がパラシュートで飛び降りた」記事を見て、伊波が飛行機と題しオモロ「紫の綾雲、おし分けて出じへたる、ふへの鳥の舞ひ、如何し来る鳥が、常世の大ぬしの御使者は有らにやー大和世は物事変て、殊に工学のひろましや、珍しや算知らぬー沖縄御間切心一つならば、苦世す甘世なさめ。直り世は実に是からど始まる」
1934年
7月ー金城朝永『異態習俗考』伊波普猷「序文」
1936年ー『沖縄日報』伊波普猷「塔の山よりー改姓のこと」(4)。この年ー1月29日『沖縄朝日新聞』第6989号/10月14日『琉球新報』第12779号/11月3日『沖縄日報』第1674号
1937年
1月ー『犯罪実話』第4巻第1号□伊波普猷「布哇日系移民の殺人事件ー天才日系市民の公判記録」、2月ー『犯罪実話』第4巻第2号□伊波普猷「布哇日系移民の殺人事件(完結編)
1939年
12月18日ー『沖縄日報』「若き日の琉球の友を探すー池田前蔵相の友情 今は亡き許田普益氏と推定ー伊波普猷談」
1941年
3月ー伊波普猷妻マウシ死去
2010年7月25日ー『琉球新報』「伊波普猷の卒論発見」□伊佐眞一氏が最近静かだと思ったら卒論を追い求めていた。コメントで鹿野政直早稲田大学名誉教授が「私自身も含め、伊波の卒論にこれまで誰も言及しなかった点で、今回の発見は伊波研究の不十分さも明らかにした。100年以上前の卒論の現物を発見したことは今後の伊波研究にとって実に画期的なことだ」と述べた。来月は物外忌、皇太子来沖で今月27日、28日は交通規制だということに合わせたわけではなかろうが伊波の「沖縄人は広い意味で日本人と根を同じくする民族である」に異議をとなえる伊佐氏らしく新聞を派手にさわがしている。
1891年
4月ー沖縄県尋常中学校入学。学友に漢那憲和、照屋宏、真境名安興、当間重慎、渡久地政瑚、金城紀光、西銘五郎(徳太)
1900年
9月ー京都第三高等学校入学。入学保証人の一人、下国良之助(大阪在住)。この頃、西本願寺仏教青年会やキリスト教会に出入りする。
1903年
9月ー東京帝国大学文科大学入学。この頃、片山潜宅に出入りして田島利三郎の影響もあって英文の『社会主義小史』を共に読む。
1904年
7月ー鳥居龍蔵、伊波普猷を同行し来沖。
1905年
8月6日~8日ー伊波普猷、遠藤万川(出雲国生まれ)と富士登山。
1906年
7月ー千駄ヶ谷の下宿をたたんで帰沖。
1910年8月ー沖縄県立沖縄図書館創立
1910年7月31日『沖縄毎日新聞』
奈良県立図書館ー1908年に奈良公園内に建てられたもの。昭和43年に郡山城内に移築された。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館のモデルを奈良県立図書館に求めた。
湯浅半月京都図書館長。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館創設にあたって半月のアドバイスを受けている。京都図書館は1909年2月落成した。現在は外観だけ残して、後ろにガラス張りのビルが新築された。
1911年
4月1日ー河上肇来沖、伊波普猷と親交を結ぶ。
■河上肇の伊波普猷宛ハガキ(国吉真哲翁旧蔵。新城栄徳を介して現在、沖縄県立図書館・那覇市歴史博物館所蔵)
8月3日『沖縄毎日新聞』「昨今県下に於いて美術趣味が勃興しおれる折柄過般、県立図書館に於いても大枚を投じて雪舟山水帖及び大長巻、ミレー名画集等は何れも東京審美書院の発行に係り版刻鮮明にして美麗、殆ど原画の神韻を伝ぶるものあり・・・」
1911年10月 井上圓了『日本周遊奇談』博文館
1912年
4月ー岩崎卓爾『八重山民謡集』序文・伊波普猷□印刷・仙台国分町
1913年
3月ー伊波普猷、那覇西の自宅を開放し「子供の会」を始める。参加者・金城朝永、山里永吉、金城唯温、新垣美登子、知念芳子、永田千代
1913年
3月29日ー伊波普猷、来沖のエドモンド・シモンと歓談。
5月ー『民俗』第1年第1報□日本民俗会員・井上円了、巌谷小波、伊波普猷
井上円了
『貝寄風』の主宰者の中瀬喜陽氏は南方熊楠研究家、現在・南方熊楠顕彰館の館長である。『貝寄風』にも「南方熊楠と正岡子規」といった熊楠関連の資料を紹介しておられる。私も同誌にときおり「琉球の風」を書かせてもらっている。『天荒』36号にその抜粋が載っている。私は平成17年7月の『貝寄風』には井上円了と渋沢敬三について書いた。□1926年、渋沢栄一の孫・渋沢敬三が石黒忠篤と台湾から来沖。沖縄県沖縄図書館で仲吉朝助の『琉球産業資料』を複写、これは後に小野武夫によって『近世地方経済史料』に収録される。渋沢は案内役をつとめた沖縄県殖産課長・田村浩の著『琉球共産村落之研究』を岡書院から出版させた。同行した石黒は石黒忠悳の息子、妻は穂積重陳の娘で渋沢栄一の孫娘。渋沢敬三は南方同胞援護会(現・沖縄協会)の初代会長で、また東洋大学名誉学位第1号でもある。
大正14年7月『週刊朝日』伊東忠太□化けものー故井上円了博士は有名な妖怪学者であったが、博士は化け物の有無については徹底的に断案を下しておらない。
□井上円了
生年: 安政5.2.4 (1858.3.18)
没年: 大正8.6.5 (1919)
明治大正期,東西の思想を統合しようとした哲学者。新潟県の真宗大谷派慈光寺の井上円悟,いくの長男。京都東本願寺の教師学校の留学生として東京大学の哲学科に入学。明治17(1884)年に哲学会を発足させた。18年東大を卒業。20年に哲学書院をつくり,『哲学会雑誌』を創刊。さらに同年,哲学館(東洋大学)を創設し,哲学を中心とする高等教育を大衆が学ぶことができるようにした。また21年政教社をつくり,『日本人』を発行し,西洋の長所を認めながらも,日本固有のものを保存しようと主張した。著書は,哲学関係では諸学の基礎として純正哲学を説く『純正哲学講義』,それを集大成して宇宙の全体を示す『哲学新案』,宗教関係では進化論に基づいてキリスト教を批判し,仏教に西洋哲学からみた真理が真如という形で存在すると説く『真理金針』(1886~87),『仏教活論序論』『仏教活論本論』,心理関係では『心理摘要』,仏教の心理説を西欧の心理学の立場からまとめた『東洋心理学』『仏教心理学』,わが国最初の『心理療法』,また学際的な分野では民間の迷信をなくし,近代化をはかるための科学概論ともいうべき『妖怪学講義』(1894)がある。井上は多くの分野において先駆的な業績を開拓している。好奇心のきわめて強い人であり,学問を社会に役立てようとしたことは注目に値する。<参考文献>井上円了記念学術センター編『井上円了選集』全11巻
(恩田彰) →コトバンク
8月20日ー伊波普猷、久米島で1週間滞在。「三島問答」を発見。
9月ー『おきなは』第1巻題号□伊波普猷「私の子供の時分」、写真「許田普益」→1922年11月『龍文』伊波普猷「私の子供時分」
1916年
1月ー『沖縄毎日新報』伊波普猷「系図を調べて」(当間重慎家)
3月ー伊波普猷、比嘉賀秀らと共に沖縄組合教会を設立。参加者・比嘉賀盛、浦崎永錫ら
1917年7月8日『琉球新報』「亡祖母マウシ葬送御礼/孫・松村嘉實、曾孫・松村薫、孫・松村嘉昌、親戚・東恩納寛仁、伊波普猷」
1918年
3月ー『日本エスペラント』第13年題号□伊波普猷、比嘉春潮らの写真
1919年
7月ー島袋源一郎編『沖縄県国頭郡志』□伊波普猷「序文」
1920年
岩崎卓爾『ひるぎの一葉』□伊波普猷「序文」
1921年
5月27日ー伊波普猷、沖縄県立図書館長嘱託から図書館長。
1924年
3月23日ー『沖縄タイムス』伊波普猷「琉球文芸叢書に序す」
3月30日ー『沖縄タイムス』伊波普猷「『帆かげ』の序に代へて」→1924年6月『沖縄教育』伊波普猷「序文二則」
5月ー『沖縄教育』伊波普猷「琉球民族の精神分析」
12月ー『養秀』31号「図書館長伊波文学士中学時代の思出」→1934年7月『養秀』35号「在学時代の思い出」
1925年
2月ー上京し小石川戸崎町に真栄田冬子と同居。
7月ー『沖縄朝日新聞』伊波普猷「京太良詞曲集につきー比嘉盛章君に」
1926年
1月18日ー『琉球新報』伊波普猷「クワイナの語義その外」(1)~
1月30日ー『琉球新報』伊波普猷「南島の歌謡に現れた為朝の琉球落」~(31)
8月10日ー『琉球新報』伊波普猷「琉球古代の裸舞」(1)~
9月ー帰沖、那覇市教育部会にて「随書に現れたる琉球」と題して講演□後の写真家・山田實が同級生の伊波國男の家に遊びに行き2階で読書中の伊波普猷を見る。
1927年
4月ー嘉手かる信世の『学芸講演通信社パンフレット』№46に「南島の歌謡に就きて」
1928年
10月ー春洋丸でハワイ着
1929年
2月ー山城亀雄飛行士が操縦する飛行機でロサンゼルス上空を飛ぶ
8月ー『科学画報』13巻2号□伊波普猷「布哇の自然と人」、伊波普猷、帰沖(折口信夫と同行予定が折口体調不良のため伊波一人の帰沖となった)。10日ー真境名安興と共催で「琉球古典劇研究座談会」、19日『琉球新報』伊波普猷「孟蘭盆の新意義」、25日ー『琉球新報』伊波普猷「五ツ組の用語と詩形」、30日ー伊波普猷、上里朝秀ら台中丸で帰京(途次、喜界島で講演)。11月23日ー京浜沖縄県学生会秋季総会で「方言に現れたる土俗」と題し講演
1930年
伊波普猷、冬子夫妻、右端にバクと肩組む伊波文雄(本名ー普哲)魚住惇吉、千代夫妻、金城朝永・芳子夫妻
小石川の伊波宅に甥の文雄、山之口貘が居候
1931年
6月ー伊波の母(知念)マツル死去
12月ー小石川の伊波宅に上原美津子が同居
比嘉美津子『素顔の伊波普猷』ニライ舎1997年8月/『沖縄タイムス』2019-10-10
写真。東急ホテルでー左から上里祐子さん、新城栄徳、大城道子さん、比嘉美津子さん、大峰林一氏、伊佐真一氏
平良次子さん、比嘉美津子さん、比嘉梨香さん
1932年
1月ー『沖縄朝日新聞』伊波普猷「蚕蛹の琉球語」(2)~
1932年6月『ドルメン』濱田青陵「ドルメン語」、伊波普猷「二位尼の煙管」
1934年5月『ドルメン』第3巻第5号東京人類学会創立50年記念大会
1933年
1月ー琉球新報で「航空大ページェントー瀬長島上空から関口飛行士操縦の複葉機から宮森美代子嬢がパラシュートで飛び降りた」記事を見て、伊波が飛行機と題しオモロ「紫の綾雲、おし分けて出じへたる、ふへの鳥の舞ひ、如何し来る鳥が、常世の大ぬしの御使者は有らにやー大和世は物事変て、殊に工学のひろましや、珍しや算知らぬー沖縄御間切心一つならば、苦世す甘世なさめ。直り世は実に是からど始まる」
1934年
7月ー金城朝永『異態習俗考』伊波普猷「序文」
1936年ー『沖縄日報』伊波普猷「塔の山よりー改姓のこと」(4)。この年ー1月29日『沖縄朝日新聞』第6989号/10月14日『琉球新報』第12779号/11月3日『沖縄日報』第1674号
1937年
1月ー『犯罪実話』第4巻第1号□伊波普猷「布哇日系移民の殺人事件ー天才日系市民の公判記録」、2月ー『犯罪実話』第4巻第2号□伊波普猷「布哇日系移民の殺人事件(完結編)
1939年
12月18日ー『沖縄日報』「若き日の琉球の友を探すー池田前蔵相の友情 今は亡き許田普益氏と推定ー伊波普猷談」
1941年
3月ー伊波普猷妻マウシ死去
2010年7月25日ー『琉球新報』「伊波普猷の卒論発見」□伊佐眞一氏が最近静かだと思ったら卒論を追い求めていた。コメントで鹿野政直早稲田大学名誉教授が「私自身も含め、伊波の卒論にこれまで誰も言及しなかった点で、今回の発見は伊波研究の不十分さも明らかにした。100年以上前の卒論の現物を発見したことは今後の伊波研究にとって実に画期的なことだ」と述べた。来月は物外忌、皇太子来沖で今月27日、28日は交通規制だということに合わせたわけではなかろうが伊波の「沖縄人は広い意味で日本人と根を同じくする民族である」に異議をとなえる伊佐氏らしく新聞を派手にさわがしている。
現代歌劇・愛の雨傘
1933年(昭和8)に、眞楽座の役者・上間昌成が創作し、大正劇場で初演した。前・中・後編の三部作。
1934年4月 那覇の眞楽座で「愛の雨傘(一名 赤い目の兎)」上演、新曲かたれ節(上間昌成作詞、多嘉良朝成作曲)挿入。
1940年2月 那覇の眞楽座で「愛の雨傘」上演
1988年11月18日『琉球新報』「舞台の顔ー北島角子(父は上間昌成)」
舞台美術・新城栄徳
1933年(昭和8)に、眞楽座の役者・上間昌成が創作し、大正劇場で初演した。前・中・後編の三部作。
1934年4月 那覇の眞楽座で「愛の雨傘(一名 赤い目の兎)」上演、新曲かたれ節(上間昌成作詞、多嘉良朝成作曲)挿入。
1940年2月 那覇の眞楽座で「愛の雨傘」上演
1988年11月18日『琉球新報』「舞台の顔ー北島角子(父は上間昌成)」
舞台美術・新城栄徳
2014年10月11日『琉球新報』新城栄徳「山城知佳子 新作上映会に寄せて」
2007年に沖縄県立美術館が博物館と同じ建物に開館した。その開館記念展図録『沖縄文化の軌跡1872-2007』に、私は「麦門冬の果たした役割」を書いたが、山城知佳子は出品作家として紹介されていた。また図録には鈴木勝雄が「映像と沖縄のダイアローグ」を書いている。鈴木はこの記念展と連動するように翌年、東京国立近代美術館で「沖縄・プリズム」展を開催、その図録には比嘉豊光らと共に山城も紹介されていた。
山城は今回のドキュメンタリー映画「うちなー芝居 舞台の美術」では60年以上も裏方としてうちなー芝居を支えてきた新城栄徳を追っている。うちなーの舞台美術の始まりは、沖縄の新聞を明治期から捲って『沖縄芝居とその周辺』という著に結実させた名古屋の大野道雄によれば「幕の使用が確認できる最初の記述は明治33年3月の『琉球新報』『矯風会の演劇を見る』という記事である。(略)まだ幕があがらない。理由は役者が大道具方や小道具方を兼ねており、しかも素人だから手際が悪く『故に幕の長びくのも当然なればあへてとがめず』と幕の使用にふれている。」と舞台美術にも触れている。戦後うちなーの舞台美術については製作者の草分けでもある新城の兄・喜一も18日のトークショーに参加するので当事者としての証言が聞けると思う。
18日には「現代歌劇・愛の雨傘」も上演される。愛の雨傘(一名 赤い目の兎)は1933年に真楽座の上間昌成が創作し、大正劇場で初演した。同時に上間作詞、多嘉良朝成作曲「新曲かたれ節」も挿入され唄とともに人気を呼んだ。「愛の雨傘」の唄は戦前のレコード(唄三味線・多嘉良朝成、多嘉良カナ子)解説によれば「美代子『庄さんやあらに実に気の毒ゆ、今ぬョーなりゆちや、庄さんよ、くりや我身ぬおばさんが、北海道にめんせーしが、札幌生りの白兎我身に送くて・・』この兎が愛の雨傘の別名ともなっている。
新城栄徳(「琉文」主宰)
2012年9月 アジアの女性アーティスト展実行委員会『アジアをつなぐー境界に生きる女たち』沖縄県立博物館・美術館
山城知佳子は、米軍基地や第二次世界大戦中の沖縄戦といった沖縄固有の主題を、墓庭*や美しい海などを舞台に、映像や写真など多様なメディアを用いて作品制作します。
山城知佳子さん、新城栄徳
2014年9月14日ー写真左から新城栄徳、金城美奈子さん、山城知佳子さん、画家の新城栄徳氏
2014年9月14日ー浦添市図書館前の蘇鉄
2017年10月31日『しんぶん赤旗』「ひとー沖縄の歴史や現状を表現する美術家 山城知佳子さん」
本日の『沖縄タイムス』『琉球新報』は昨日の名護市辺野古での「新基地反対」の県民集会を報じていた。今まで、普天間から基地を「辺野古移設」と矮小化して表示したものが、はっきりと「新基地反対」と明記したのはいいが「反対」というのも矮小化である。日米両政府や仲井真県政は「賛成」で同列に扱っている。ここは自然破壊「地球破壊」に反対するものか、賛成かというふうに表現すべきであろう。
2012年9月 来間泰男『沖縄の米軍基地と軍用地料』(がじゅまるブックス4) 定価(本体900円+税)榕樹書林☏098-893-4076 FAX098-893-6708
□今日の沖縄の、最大の社会的経済的病根は、基地を維持し、米軍基地容認派を生成する為に、軍用地料を肥大化させてきたことに大きく起因する。ここから派生した社会的不平等の拡大は、今や沖縄特有の社会問題として様々な現象を生み出しているが、これまでこの問題は居酒屋談義で終わっていた。
著者は戦後日本における米軍基地建設から、米軍直接支配下の沖縄での基地建設、そして復帰後の日本政府による「思いやり予算」による米軍基地の維持政策とたどりながら、軍用地料の肥大化の変遷を見据え、それが社会にどの様な影響を与えてきたのかを、経済学的分析をもとに明らかにしていく。沖縄社会の内部から沖縄を変えていこうとする大きな挑戦の本である。
2014年12月 来間泰男『琉球王国の成立ー日本の中世後期と琉球中世前期』上・下 日本経済評論社
上巻
第1章 天皇権力の復活と内乱(14世紀)
第2章 「舜天王統」と「英祖王統」(12~14世紀)
第3章 倭寇の時代(14~15世紀)
第4章 三山の分立と抗争(14世紀)
下巻
第5章 琉球王国の成立(14世紀後半)
7 高良倉吉「画期的な琉球王国」論(1991年)
○高良は「古琉球期になると、王国形成という独自の主体的な息吹を反映して自前の記録を作成するようになり、同時にまた、海外諸国との外交・貿易活動の結果として外国側の文献にその姿が正確に記されるようになる」という。しかしながら、「自前の記録」のそれぞれの初出年代は、『おもろさうし』は1531年、『歴代宝案』は1424年、碑文は1427年、辞令書は1548年であり、これらに対して、「外国側の文献」である『明実録』『高麗史』『李朝実録』は「自前の記録」より先行している。平板に列挙することによって、前後関係を無視しているといえる。『おもろさうし』と辞令書は新しすぎるが、1420年代の、最古の碑文「安国山樹華木記碑」を建てたのは中国人の懐機であり、他方の『歴代宝案』も在沖中国人が記したものである。
○琉球王国なるものは、14世紀半ばに琉球に在住し、または琉球を一つの拠点として内外の交易に従事していた人びと(中国人、朝鮮人、日本人)が、したがってその中には倭寇的な人々も含むが、明の海禁政策に直面して、その対応策として立ち上げたものであった。その主体は、琉球人ではなく明国そのもの、ないしは中国人だと考えられる。そのために、初期の琉球王国の政治は中国人が主要な役割を果たしていたのである。それは、高良のいうような「主体的な息吹」とはほど遠いものであった。
来間泰男『稲作の起源・伝来と”海上の道”』日本経済評論社
本書で著者がいう「この本は、私の心意気としては、沖縄の歴史(通史)執筆の準備作業である」とし「私は、日本と沖縄、日本人と沖縄人という用語法を採用している。もちろん、沖縄は歴史のある時点から『日本国の一員』であり、今もそうであるが、そこに至る歴史はずいぶんと長い間、別々の道を歩んでいた。その一つとしての『沖縄史』を読み解こうというのであるから、沖縄/沖縄人となるのである」とする。
私は本書を観て1970年に出た新里恵二『沖縄史を考える』を思い出した。また1974年に大城立裕・新里恵二編集で出た雑誌『沖縄思潮』も思い出した。来間氏は同雑誌の編集委員でもあった。私も少ない知識を絞って本書を読み解きたいと思っている。
第6章 守護大名の成長(15世紀前半)
補章 沖縄の旧石器時代
2012年9月 来間泰男『沖縄の米軍基地と軍用地料』(がじゅまるブックス4) 定価(本体900円+税)榕樹書林☏098-893-4076 FAX098-893-6708
□今日の沖縄の、最大の社会的経済的病根は、基地を維持し、米軍基地容認派を生成する為に、軍用地料を肥大化させてきたことに大きく起因する。ここから派生した社会的不平等の拡大は、今や沖縄特有の社会問題として様々な現象を生み出しているが、これまでこの問題は居酒屋談義で終わっていた。
著者は戦後日本における米軍基地建設から、米軍直接支配下の沖縄での基地建設、そして復帰後の日本政府による「思いやり予算」による米軍基地の維持政策とたどりながら、軍用地料の肥大化の変遷を見据え、それが社会にどの様な影響を与えてきたのかを、経済学的分析をもとに明らかにしていく。沖縄社会の内部から沖縄を変えていこうとする大きな挑戦の本である。
2014年12月 来間泰男『琉球王国の成立ー日本の中世後期と琉球中世前期』上・下 日本経済評論社
上巻
第1章 天皇権力の復活と内乱(14世紀)
第2章 「舜天王統」と「英祖王統」(12~14世紀)
第3章 倭寇の時代(14~15世紀)
第4章 三山の分立と抗争(14世紀)
下巻
第5章 琉球王国の成立(14世紀後半)
7 高良倉吉「画期的な琉球王国」論(1991年)
○高良は「古琉球期になると、王国形成という独自の主体的な息吹を反映して自前の記録を作成するようになり、同時にまた、海外諸国との外交・貿易活動の結果として外国側の文献にその姿が正確に記されるようになる」という。しかしながら、「自前の記録」のそれぞれの初出年代は、『おもろさうし』は1531年、『歴代宝案』は1424年、碑文は1427年、辞令書は1548年であり、これらに対して、「外国側の文献」である『明実録』『高麗史』『李朝実録』は「自前の記録」より先行している。平板に列挙することによって、前後関係を無視しているといえる。『おもろさうし』と辞令書は新しすぎるが、1420年代の、最古の碑文「安国山樹華木記碑」を建てたのは中国人の懐機であり、他方の『歴代宝案』も在沖中国人が記したものである。
○琉球王国なるものは、14世紀半ばに琉球に在住し、または琉球を一つの拠点として内外の交易に従事していた人びと(中国人、朝鮮人、日本人)が、したがってその中には倭寇的な人々も含むが、明の海禁政策に直面して、その対応策として立ち上げたものであった。その主体は、琉球人ではなく明国そのもの、ないしは中国人だと考えられる。そのために、初期の琉球王国の政治は中国人が主要な役割を果たしていたのである。それは、高良のいうような「主体的な息吹」とはほど遠いものであった。
来間泰男『稲作の起源・伝来と”海上の道”』日本経済評論社
本書で著者がいう「この本は、私の心意気としては、沖縄の歴史(通史)執筆の準備作業である」とし「私は、日本と沖縄、日本人と沖縄人という用語法を採用している。もちろん、沖縄は歴史のある時点から『日本国の一員』であり、今もそうであるが、そこに至る歴史はずいぶんと長い間、別々の道を歩んでいた。その一つとしての『沖縄史』を読み解こうというのであるから、沖縄/沖縄人となるのである」とする。
私は本書を観て1970年に出た新里恵二『沖縄史を考える』を思い出した。また1974年に大城立裕・新里恵二編集で出た雑誌『沖縄思潮』も思い出した。来間氏は同雑誌の編集委員でもあった。私も少ない知識を絞って本書を読み解きたいと思っている。
第6章 守護大名の成長(15世紀前半)
補章 沖縄の旧石器時代
09/20: 1940年1月 伊藤喜久男「東京蒐集家番附」旅の趣味會
シンポジウム「消滅危機方言の持続的継承活動を考えるー地域・学校における取組」で宮里朝光氏(沖縄語普及協議会会長・しまくとぅばプロジェクトメンバー)「開会のあいさつ」
09/17: 上里勲
09/17: 1940年9月 那覇の旭館で「支那の夜」上映
1917年5月
1927年5月 那覇の平和館で「デグラスの海賊」上映
ダグラスの海賊
1926年製作のアメリカ映画。原題《The Black Pirate》。ダグラス・フェアバンクス主演の海賊活劇。監督:アルバート・パーカー、共演:ビリー・ダウ、アンダース・ランドルフほか。→コトバンク
1937年6月 那覇の平和館で「踊る海賊」上映
踊る海賊
原題: Dancing Pirate 製作国: アメリカ 製作年: 1936 配給: RKOラジオ映画
「虚栄の市(1935)」に次ぐパイオニア総天然色映画で、「クカラチャ」のロイド・コリガン監督、舞踏家チャールズ・コリンスと「邪神島」「クカラチャ」のステフィ・デューナが主演する。原作はエマ・リンゼイ・スクァイア作の小説で、「虚栄の市(1935)」のフランシス・エドワーズ・ファラゴーと「青春万歳」のレイ・ハリスが共同脚色した。色彩デザインは「虚栄の市(1935)」のロバート・E・ジョーンズ、撮影はウィリアム・V・スコールの担任。助演者は「巨星ジーグフェルド」のフランク・モーガンを始め、「ロバータ」のルイ・アルバーニ及びヴィクター・ヴァルコニ、「当り屋勘太」のジャック・ラルー、「邪神島」のミッチェル・ルイス等の面々である。→アマゾンコム
1939年8月 那覇の旭館で「暗黒街の弾痕」上映
『暗黒街の弾痕』(あんこくがいのだんこん、原題・英語: You Only Live Once)は、1937年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画である。(撮影は1936年)。オーストリア出身フリッツ・ラング監督の渡米2作目の映画であり、シルヴィア・シドニーとヘンリー・フォンダが主演した。→ウィキペディア
1939年9月 那覇の旭館で「平原児」上映
パラマウント 1936年製作、 監督セシル・B・デミル、 ゲイリー・クーパー、 ジーン・アーサー出演
ゲイリー・クーパー1901年5月7日出身地アメリカ/モンタナ州ヘレナ
略歴ー本名はFrank James Cooper。今なお多くのファンに愛されるハリウッド黄金時代を代表するビック・スター。両親がイギリス人であるということから9歳で渡英。父の故郷で3年間教育を受けた後、アメリカに戻りアイオワ州のグリネル大学で美術を専攻。新聞社でマンガを描いていた時期もあるとか。大学を中退後、父を頼りにLAに渡った時に、友人の勧めで映画のエキストラとして活動を開始。26年、サミュエル・ゴールドウィンのオーディションにより「夢想の楽園」で大役をうける。後はハリウッド大作スターとして数多くの作品に出演。41年「ヨーク軍曹」、53年「真昼の決闘」でアカデミー主演男優賞。61年にはアカデミー名誉賞を得る。しかし同年、前立腺ガンによりこの世を去った。33年、サンドラ・ショーと結婚。一女あり。→ヤフージャパン映画
1939年10月 那覇の旭館で「マルコポーロの冒険」上映
1939年11月 那覇の平和館で「海の魂」上映
1940年9月 那覇の旭館で「支那の夜」上映
東宝の看板スター・長谷川一夫と満洲映画協会(満映)の看板スター・李香蘭との共演による「大陸三部作」(『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』)の2作目。渡辺はま子の歌う「支那の夜」がヒットしていたことから、東宝映画(現在の東宝)が映画化を企画し、中華電影公司の上海ロケの撮影協力を得て制作された。→ウィキペディア
山口淑子 やまぐち-よしこ
1920- 昭和-平成時代の女優,政治家。
大正9年2月12日中国奉天(現瀋陽)生まれ。昭和13年満映にはいり,李香蘭(り-こうらん)の名でデビュー。「白蘭の歌」「支那の夜」などの映画に出演,劇中主題歌もうたって人気をえた。21年帰国して改名,「暁の脱走」などの映画に出演,歌手としても「夜来香(イエライシヤン)」をヒットさせた。33年引退。49年参議院議員(当選3回,自民党)。北京の翊教女学院卒。結婚して姓は大鷹。→コトバンク
09/15: あぐに/新城喜一
ウフンミー新城喜一氏と私(ニーブー新城栄徳)の粟国の実家は道を挟んでの隣家である。
2024-6-27 ながぶり大やーの山城さん、えいき
粟国島の民家
新城喜一/表紙絵 1965年7月『今日の琉球』93号「観光沖縄」/1964年9月『今日の琉球』83号「製糖工場」
新城喜一/表紙絵 1967年2月『今日の琉球』112号「県木に選ばれた琉球松」
粟国の村長室にある新城栄市氏の作品
「絵看板師の集い」(1970年)写真前列右端が新城栄市氏、3人目が外間善幸氏。左端が新城喜一氏、左から4人目が具志弘樹氏□2001年8月 山里将人『アンヤタサ!戦後・沖縄の映画 1945-1955』ニライ社
左が新城喜一氏
1983年5月18日『沖縄タイムス』/1984年8月 沖縄舞台技術家協会『舞台技術』弟4号「スポットライトー新城喜一」
1998年11月11日の『琉球新報』に「沖縄人国記ー粟国村」(料理人達の末えい)が掲載され、安里幸一郎(現代の名工)、安里信祐(伊勢海老料理「三郎」代表)、屋宜宗一(前那覇市選管委員長)、新城栄徳(沖縄関係資料収集)とともに新城喜一さんも紹介されている。/芝居に欠かせない書き割りや舞台装置。新城喜一(65)は、この道40年。沖縄芝居の舞台絵はたいてい新城の手による、父は戦前、西新町にあった「宝来館」という旅館の料理人をしていた。家が西本町にあり、近くに映画館「平和館」があった。中学校を卒業してすぐ軍作業に就き、基地内の表示板をかく仕事に。アルファベットの看板ばかりをかいていた。が、このままではいけないと思い、軍作業を辞めて、世界館、国映館の看板かきに。1965年に沖映演劇ができたあと、その専属となり同劇場が閉鎖した1977年に独立。コンベンション・センターのこけら落とし、第一回世界のウチナーンチュ大会で舞台美術を担当した。国映館の看板は弟の新城栄市(63)が引き継いだ。その弟の新城栄徳(60)も舞台美術の仕事をしている。末弟の新城征孝(55)は写実的な風景画で知られる画家。新城喜一さんは、2005年12月に新星出版から『新城喜一画集・失われた沖縄風景』、2009年6月に『新城喜一画・沖縄風景今昔』を出している。また2008年3月には(㈶)国立劇場おきなわ運営財団から『新城喜一 沖縄芝居大道具帳』も出た。
写真ー左から新城栄徳、安里信祐(伊勢海老料理「三郎」代表)、新城喜一氏
金城安太郎展でー左から金城安太郎さん次男・一夫氏、喜久村徳男氏、 新城喜一氏
写真上ー左から末吉保朝氏、星雅彦氏、山里善市氏、伊佐傳一氏(12代郷友会長)
写真中ー左から安里幸一郎氏、玉寄栄一氏、仲里正雄氏、新城栄徳
写真下ー左から山里善市氏、糸数信一氏(32代郷友会長)、末吉保朝氏(35代郷友会長)、不詳、新城喜一氏、伊良皆賢哲氏
旧役場の前
粟国の村長室にある新城栄市氏の作品
現在の役場の前
粟国の村長室にある新城喜一氏の作品
粟国の学校にある新城喜一氏の作品
写真左から大城和喜氏、新城喜一氏、平良次子さん
2003年4月28日~5月15日 南風原文化センター「貧しくも楽しい『うちなー芝居』の時代」
写真左から新城喜一氏、森田豊一氏①、新城栄徳
2014年7月21日 『沖縄タイムス』
①森田豊一氏
沖縄芝居役者で琉球歌劇保存会元会長の森田豊一氏が21日午前5時すぎ、敗血症のため那覇市内の病院で死去した。81歳。那覇市出身。告別式は24日午後2時から那覇市銘苅3の22、サンレー那覇北紫雲閣。喪主は長男の勝(まさる)氏。個性的で人情味あふれる演技で存在感を放った。「怪盗伝」(石川文一作)の「油喰」役などで人気を博す。1971年に結成した劇団「潮」で沖縄演劇の新境地を開拓した。1999年県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者、2010年沖縄タイムス芸術選賞功労賞、11年県文化功労者。
2013年12月27日 新城喜一氏宅で左から島袋百恵さん、新城栄徳、新城喜一氏
09/15: 沖縄県立博物館・美術館ミュージアムショップ「ゆいむい」
ミュージアムショップ「ゆいむい」
博物館・美術館の収蔵品をもとにしたオリジナルグッズ(ポストカード・クリアファイル等)や伝統工芸品の販売、常設展・企画展の図録その他多数の書籍を取り揃えております。 ぜひご利用ください。
営業時間 09:00-18:00
休館日 毎週月曜日(ただし、月曜日が祝日または振替休日となる場合は翌日)
電話:098-941-0749 FAX:098-941-0884
2014年3月28日 星雅彦(元沖縄文化協会長)夫妻と池宮城啓子さん
ミュージアムショップ「ゆいむい」
ひより「ゆいむい」で遊ぶ
博物館・美術館の収蔵品をもとにしたオリジナルグッズ(ポストカード・クリアファイル等)や伝統工芸品の販売、常設展・企画展の図録その他多数の書籍を取り揃えております。 ぜひご利用ください。
営業時間 09:00-18:00
休館日 毎週月曜日(ただし、月曜日が祝日または振替休日となる場合は翌日)
電話:098-941-0749 FAX:098-941-0884
2014年3月28日 星雅彦(元沖縄文化協会長)夫妻と池宮城啓子さん
ミュージアムショップ「ゆいむい」
ひより「ゆいむい」で遊ぶ
09/15: 舞台美術家・新城栄徳
1998年11月11日の『琉球新報』に「沖縄人国記ー粟国村」(料理人達の末えい)で新城喜一さんが紹介されている。/芝居に欠かせない書き割りや舞台装置。新城喜一(65)は、この道40年。沖縄芝居の舞台絵はたいてい新城の手による、父は戦前、西新町にあった「宝来館」という旅館の料理人をしていた。家が西本町にあり、近くに映画館「平和館」があった。中学校を卒業してすぐ軍作業に就き、基地内の表示板をかく仕事に。アルファベットの看板ばかりをかいていた。が、このままではいけないと思い、軍作業を辞めて、世界館、国映館の看板かきに。1965年に沖映演劇ができたあと、その専属となり同劇場が閉鎖した1977年に独立。コンベンション・センターのこけら落とし、第一回世界のウチナーンチュ大会で舞台美術を担当した。国映館の看板は弟の新城栄市(63)が引き継いだ。その弟の新城栄徳(60)も舞台美術の仕事をしている。末弟の新城征孝(55)は写実的な風景画で知られる画家。新城喜一さんは、2005年12月に新星出版から『新城喜一画集・失われた沖縄風景』、2009年6月に『新城喜一画・沖縄風景今昔』を出している。また2008年3月には(㈶)国立劇場おきなわ運営財団から『新城喜一 沖縄芝居大道具帳』も出た。
新城栄徳/表紙絵 1969年6月『今日の琉球』139号「鶏」
1973年9月 『沖俳協』パンフレット第1号 「護佐丸と阿麻和利」(舞台美術・新城栄徳)
1977年4月『沖縄タイムス』/12月『新沖縄文学』№37表紙絵・新城栄徳氏
写真左から儀間比呂志さん、新城征孝氏、新川明氏、新城栄徳、その前が舞台美術家・新城栄徳氏
新聞紙上で顔写真を取り違えられた新城栄徳
写真左から新城栄徳、平良進氏①、不詳、久高将吉氏②、画家の新城栄徳氏
①"沖縄県出身の俳優、演出家。1997年、劇団「綾船」結成。沖縄芝居の舞台作品多数に出演、映画『うみ・そら・さんごのいいつたえ』『BEAT』『ナビィの恋』『真夏の夜の夢』、NHK『ちゅらさん』『純と愛』にも出演。また1970年〜1983年の間、沖縄歌謡舞団として『太陽燃える島』で日本全国・世界各地で公演。沖縄指定無形文化財""琉球歌劇保持者""でもある。→コトバンク
②1948年 振興劇団に入団。・1949年 大伸座に入座。・1956年 ともえ座を経営・1957年 みつわ座と合併
・1958年 みつわ座から分離、演技座と合併・1959年 演技座から分離、劇団俳優座を創立。→沖縄俳優協会
2014年9月14日ー写真左から新城栄徳、金城美奈子さん、山城知佳子さん、舞台美術家の新城栄徳氏
新城栄徳/表紙絵 1969年6月『今日の琉球』139号「鶏」
1973年9月 『沖俳協』パンフレット第1号 「護佐丸と阿麻和利」(舞台美術・新城栄徳)
1977年4月『沖縄タイムス』/12月『新沖縄文学』№37表紙絵・新城栄徳氏
写真左から儀間比呂志さん、新城征孝氏、新川明氏、新城栄徳、その前が舞台美術家・新城栄徳氏
新聞紙上で顔写真を取り違えられた新城栄徳
写真左から新城栄徳、平良進氏①、不詳、久高将吉氏②、画家の新城栄徳氏
①"沖縄県出身の俳優、演出家。1997年、劇団「綾船」結成。沖縄芝居の舞台作品多数に出演、映画『うみ・そら・さんごのいいつたえ』『BEAT』『ナビィの恋』『真夏の夜の夢』、NHK『ちゅらさん』『純と愛』にも出演。また1970年〜1983年の間、沖縄歌謡舞団として『太陽燃える島』で日本全国・世界各地で公演。沖縄指定無形文化財""琉球歌劇保持者""でもある。→コトバンク
②1948年 振興劇団に入団。・1949年 大伸座に入座。・1956年 ともえ座を経営・1957年 みつわ座と合併
・1958年 みつわ座から分離、演技座と合併・1959年 演技座から分離、劇団俳優座を創立。→沖縄俳優協会
2014年9月14日ー写真左から新城栄徳、金城美奈子さん、山城知佳子さん、舞台美術家の新城栄徳氏
大正区の「エイサー祭り」に行くため、午前10時に新城あけみと東大阪の自宅を出て地下鉄で難波。南海ナンバのキタムラで「写ルン」を買う。難波バス停から大正区行きのバスに乗る。大正区役所前に着いたのが11時であった。千島公園グランドでは正午から開催だが、すでに大勢の人が参集していた。グランド周辺にはもう大勢の見物人がつめかけ、バザー出店も多くが店開きをしていた。
会場の一角「ところで沖縄広場」は私の息子も展示に関わっている。関西沖縄県人会(県人会リーダー真栄田三益の写真)の歴史や、エイサーの第一回からのパネル、「慰安婦」問題の資料や「国際人権法から見た沖縄基地」、普天間、辺野古の米軍基地などが展示されていた。また沖縄の「なるみ堂」の絵はがき(むかし沖縄)パネルも展示していた。今回エイサーは「東日本大震災復興祈念」と銘打っている。
エイサーの演舞は地元の大正沖縄子どもエイサー団、西成でいごの会、宝塚のレキオ、大阪沖縄かりゆし会、関西やいまー会、京都琉球ゆう遊会、名古屋から愛知琉球エイサー太鼓連、沖縄から名桜エイサー、平敷屋エイサーたもつ会ら多くの団体が参加していた。、会場の周辺には旧友たちも居た。諸見里宗博、芳美夫妻、その息子の太志君もいて伯母さんや玉城利則夫妻のところに案内され再会をした。屋良朝光、金城勇、フジコ、垣花ら諸氏とも久しぶりに会った。
屋良朝光さん
会場の一角「ところで沖縄広場」は私の息子も展示に関わっている。関西沖縄県人会(県人会リーダー真栄田三益の写真)の歴史や、エイサーの第一回からのパネル、「慰安婦」問題の資料や「国際人権法から見た沖縄基地」、普天間、辺野古の米軍基地などが展示されていた。また沖縄の「なるみ堂」の絵はがき(むかし沖縄)パネルも展示していた。今回エイサーは「東日本大震災復興祈念」と銘打っている。
エイサーの演舞は地元の大正沖縄子どもエイサー団、西成でいごの会、宝塚のレキオ、大阪沖縄かりゆし会、関西やいまー会、京都琉球ゆう遊会、名古屋から愛知琉球エイサー太鼓連、沖縄から名桜エイサー、平敷屋エイサーたもつ会ら多くの団体が参加していた。、会場の周辺には旧友たちも居た。諸見里宗博、芳美夫妻、その息子の太志君もいて伯母さんや玉城利則夫妻のところに案内され再会をした。屋良朝光、金城勇、フジコ、垣花ら諸氏とも久しぶりに会った。
屋良朝光さん
○版画ー儀間比呂志
2014年9月14日(日) 大正区千島公園グランド「第40回エイサー祭り」問合せ・関西沖縄文庫☏FAXー06-6552-6709
今年は、エイサー祭りを実施して40年を迎える記念すべき年です。
2004年9月12日 大正区千島公園グランド「第30回記念エイサー祭り」
「みどり印刷」ここをクリック
ミルクウンケー(琉球語 うちなーぐち)直訳すれば「弥勒様のお迎え」とすればいいのだろうか?今年は8月17日(日)午後4時30分、赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)跡の赤田クラブから弥勒様御一行がお出ましになる、僕もバイクに飛び乗り駆けつけた。「ミルクウンケー」については『沖縄タイムス大百科』から以下転載する。
弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化生といわれる中国唐代の禅僧、布袋和尚(ほていおしょう)が、七福神の一つとして京都の祭礼の行列〈風流〉に登場したのは室町時代といわれる。
首里では350年程前、石川門中の祖、求道 〈ぐどう〉長老により、赤田首里殿内に弥勒面が祀られ、7月14日に泰安所を開き、16日に門中を中心に道ジュネー(行列)があった。赤田マチグチ(赤田市場口、今のウフカクジャー交差点から南に100メートル足らずの路肩一帯は赤田市の跡で沖縄戦まで、食肉、豆腐、野菜、雑穀など、主として食料品の相対売り市場であった。←久手堅憲夫著『首里の地名』より)突き当たり右に直角に曲がるあたりに舞台を設け、その中央に面や胴、衣装一式を安置し、まわりには弥勒御愛子(ミルクウミングヮ、ミルクングヮ)が並び大香炉に香を焚き、東に向かって(←ここ重要)世界風
ユガフ、豊作、健康を祈願した後、祭主の本家、大石川(ウフイシチャー、首里石川の宗家)の家長が面と作り物の胴をつけ、ドゥジン・袴をつけ胸をはだけて大団扇(うちわ)で豊年を招き寄せながら、舞台をしずしずと一周する。
弥勒面は戦災で焼失したが、平成6年に復元された。 行列は高張提灯一対を持ち、先頭に警護役、弥勒、路次楽隊(ろじがくたい)、ミルクングヮ、赤田の村人の順に、首里殿内跡の赤田クラブを出発して、弥勒節を歌い、且つ奏でながら赤田マチグチに向かう。(赤田市のない今では、赤田クラブの庭に舞台を設え、赤田クラブを出て赤田町の外周を1時間ほどかけて、マチマーイ(街廻り)をした後、クラブの舞台でのウトゥイムチとなる。 転載ここまで。( )の解説は筆者。
通り沿いには大人に混じって小さな子を抱いた人や、ベビーカーの赤ちゃんが詰めかけ弥勒の団扇の洗礼を待ち受けていた。2~3歳くらいの子等は弥勒様の大きな顔にビックリして泣き出したり、逃げだす子もいて、見ていて楽しい。今回見ていて、「時代だよなぁ~」と思ったのは、ペットの犬や猫を抱いて待ち受ける人達がいたことだ。でも心優しい吾ら弥勒加那志(ミルクガナシー〈ガナシーは尊称〉は人畜の分け隔てなく、その福の風を送るのでした。
ミルクのゆったりとした行列が移動するにつれて、笑顔や歓声の波が移って行く、それがやがて赤田町全体を包み込んでいく・・・・・極楽浄土の風が吹いているんだ!この光景を見ながら僕は例によって「俺は今、天の御国にいる!」と呟いたのだった。
ミルクングヮと チャンチャンと ピーラルラー
ミルクングヮはンカジバタ(百足旗)ムカデの足のようなヒラヒラの付いた三角旗を持っている。保育園児から小学校中学年(3~4年生)の児童からなる。僕のオヤジも2回でたと言っていた。(左写真)路次楽隊の端のメガネをかけた女子中学生が持っているのが「チャンチャン」中華シンバルと名付けておく。 (写真右) 主旋律を奏でるピーラルラー(確かにそのような音色がするが、チャンチャンといい、このピーラルラーといい、琉球の先人達の音色をそのままに、その楽器の名称にするセンスには笑っちゃうのだ)ピーラルラーはチャルメラともいうらしい。思わずインスタントラーメンの外装に描かれた屋台のオジサンを思い出した。「夜鳴きソバ屋」のない沖縄でも、あの「ソラシーラソ・ソラシラソラー」の旋律を思い出す。 チャルメラとあの旋律については面白いので調べて『番外編』を後付けする。
ウトゥイムチ
赤田町を一周して赤田クラブに帰ってくると、クラブの庭に設えたバンクと呼ばれるステージでのウトゥイムチ(ミルク様への お・も・て・な・し タイムです)歌や踊り、空手の演武などで、ミルク様と下界の衆生との年に一度の邂逅(かいこう)を供に歓び、その幸せを皆で分かち合うのです。直会(なおらい)、沖縄でいうウサンデーです。喜びも悲しみも、そして食べ物も供に分かち合い戴く、そしてその歓びを確認していく事はとても大切な事です・・・・ここをクリック
弥勒菩薩と布袋さん
今回、友人の一人と「赤田のミルクウンケー」の話しをしている中、「あれは、弥勒菩薩ではなく、布袋さんだぜ!」と意見が一致した。10歳を過ぎた頃から(もの心の付いた頃)から、ミルクの話は父から何度となく聴かされてきたが、布袋だの弥勒だのという話題になった事は無く石川門中でも「肥満体のジーチャンイコール 「ミルク様」と言う考えが固定化されているのだと思う。(ミルク様悪口じゃないのですゴメンナサイ!) とても新鮮な気付きであった。
弥勒菩薩といえば、京都広隆寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)が有名である。(写真左、郵便切手にもなった)。修学旅行で半跏思惟像に初めて出会った時は、その美しさ、静けさに、しばし、動くのもためらわれた記憶がある。それにしても大きなお腹で明るく、豪放磊落な熱血漢、たくさんの子供たちを引き連れて旅をしていた布袋さんと、慈愛に満ちて思慮深そうな弥勒菩薩ではイメージのギャップは甚だしい。
そこで、この謎を解明しようと弥勒菩薩と布袋さんとの関係をネットで調べてみた。
インドで生まれ、中国を経て日本に伝来した仏教は、その時代や地域と複雑に絡み合い、変化し、日本の神仏習合まで併せると、とても僕のような凡人には他人に説明などできないと思い知った。そこで、おもいきりハショリ、平ベッタク云えば。弥勒菩薩が一般の衆生を救済する時には垂迹して(本地垂迹説の垂迹)布袋さんの姿を借りて人間世界に現れる化生としての布袋さん・・・というところに辿りついた。布袋和尚は800年代後半に生まれ、916年に没した実在の禅僧である。(神とキリストの関係に少し似ている。)
弥勒菩薩が七福神の一人となった今、そのご利益は、夢を育て、人格を磨き、円満な家庭を築いて、金運を招福するということで、慈恵(いつくしみ)と和合の神様、予知と金運の神様として信仰されているようである。
そういえば、七福神のなかの紅一点、弁財天も龍潭の東に、天女橋とともに弁財天堂として県民に親しまれている。
ミルクウンケー(琉球語 うちなーぐち)直訳すれば「弥勒様のお迎え」とすればいいのだろうか?今年は8月17日(日)午後4時30分、赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)跡の赤田クラブから弥勒様御一行がお出ましになる、僕もバイクに飛び乗り駆けつけた。「ミルクウンケー」については『沖縄タイムス大百科』から以下転載する。
弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化生といわれる中国唐代の禅僧、布袋和尚(ほていおしょう)が、七福神の一つとして京都の祭礼の行列〈風流〉に登場したのは室町時代といわれる。
首里では350年程前、石川門中の祖、求道 〈ぐどう〉長老により、赤田首里殿内に弥勒面が祀られ、7月14日に泰安所を開き、16日に門中を中心に道ジュネー(行列)があった。赤田マチグチ(赤田市場口、今のウフカクジャー交差点から南に100メートル足らずの路肩一帯は赤田市の跡で沖縄戦まで、食肉、豆腐、野菜、雑穀など、主として食料品の相対売り市場であった。←久手堅憲夫著『首里の地名』より)突き当たり右に直角に曲がるあたりに舞台を設け、その中央に面や胴、衣装一式を安置し、まわりには弥勒御愛子(ミルクウミングヮ、ミルクングヮ)が並び大香炉に香を焚き、東に向かって(←ここ重要)世界風
ユガフ、豊作、健康を祈願した後、祭主の本家、大石川(ウフイシチャー、首里石川の宗家)の家長が面と作り物の胴をつけ、ドゥジン・袴をつけ胸をはだけて大団扇(うちわ)で豊年を招き寄せながら、舞台をしずしずと一周する。
弥勒面は戦災で焼失したが、平成6年に復元された。 行列は高張提灯一対を持ち、先頭に警護役、弥勒、路次楽隊(ろじがくたい)、ミルクングヮ、赤田の村人の順に、首里殿内跡の赤田クラブを出発して、弥勒節を歌い、且つ奏でながら赤田マチグチに向かう。(赤田市のない今では、赤田クラブの庭に舞台を設え、赤田クラブを出て赤田町の外周を1時間ほどかけて、マチマーイ(街廻り)をした後、クラブの舞台でのウトゥイムチとなる。 転載ここまで。( )の解説は筆者。
通り沿いには大人に混じって小さな子を抱いた人や、ベビーカーの赤ちゃんが詰めかけ弥勒の団扇の洗礼を待ち受けていた。2~3歳くらいの子等は弥勒様の大きな顔にビックリして泣き出したり、逃げだす子もいて、見ていて楽しい。今回見ていて、「時代だよなぁ~」と思ったのは、ペットの犬や猫を抱いて待ち受ける人達がいたことだ。でも心優しい吾ら弥勒加那志(ミルクガナシー〈ガナシーは尊称〉は人畜の分け隔てなく、その福の風を送るのでした。
ミルクのゆったりとした行列が移動するにつれて、笑顔や歓声の波が移って行く、それがやがて赤田町全体を包み込んでいく・・・・・極楽浄土の風が吹いているんだ!この光景を見ながら僕は例によって「俺は今、天の御国にいる!」と呟いたのだった。
ミルクングヮと チャンチャンと ピーラルラー
ミルクングヮはンカジバタ(百足旗)ムカデの足のようなヒラヒラの付いた三角旗を持っている。保育園児から小学校中学年(3~4年生)の児童からなる。僕のオヤジも2回でたと言っていた。(左写真)路次楽隊の端のメガネをかけた女子中学生が持っているのが「チャンチャン」中華シンバルと名付けておく。 (写真右) 主旋律を奏でるピーラルラー(確かにそのような音色がするが、チャンチャンといい、このピーラルラーといい、琉球の先人達の音色をそのままに、その楽器の名称にするセンスには笑っちゃうのだ)ピーラルラーはチャルメラともいうらしい。思わずインスタントラーメンの外装に描かれた屋台のオジサンを思い出した。「夜鳴きソバ屋」のない沖縄でも、あの「ソラシーラソ・ソラシラソラー」の旋律を思い出す。 チャルメラとあの旋律については面白いので調べて『番外編』を後付けする。
ウトゥイムチ
赤田町を一周して赤田クラブに帰ってくると、クラブの庭に設えたバンクと呼ばれるステージでのウトゥイムチ(ミルク様への お・も・て・な・し タイムです)歌や踊り、空手の演武などで、ミルク様と下界の衆生との年に一度の邂逅(かいこう)を供に歓び、その幸せを皆で分かち合うのです。直会(なおらい)、沖縄でいうウサンデーです。喜びも悲しみも、そして食べ物も供に分かち合い戴く、そしてその歓びを確認していく事はとても大切な事です・・・・ここをクリック
弥勒菩薩と布袋さん
今回、友人の一人と「赤田のミルクウンケー」の話しをしている中、「あれは、弥勒菩薩ではなく、布袋さんだぜ!」と意見が一致した。10歳を過ぎた頃から(もの心の付いた頃)から、ミルクの話は父から何度となく聴かされてきたが、布袋だの弥勒だのという話題になった事は無く石川門中でも「肥満体のジーチャンイコール 「ミルク様」と言う考えが固定化されているのだと思う。(ミルク様悪口じゃないのですゴメンナサイ!) とても新鮮な気付きであった。
弥勒菩薩といえば、京都広隆寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)が有名である。(写真左、郵便切手にもなった)。修学旅行で半跏思惟像に初めて出会った時は、その美しさ、静けさに、しばし、動くのもためらわれた記憶がある。それにしても大きなお腹で明るく、豪放磊落な熱血漢、たくさんの子供たちを引き連れて旅をしていた布袋さんと、慈愛に満ちて思慮深そうな弥勒菩薩ではイメージのギャップは甚だしい。
そこで、この謎を解明しようと弥勒菩薩と布袋さんとの関係をネットで調べてみた。
インドで生まれ、中国を経て日本に伝来した仏教は、その時代や地域と複雑に絡み合い、変化し、日本の神仏習合まで併せると、とても僕のような凡人には他人に説明などできないと思い知った。そこで、おもいきりハショリ、平ベッタク云えば。弥勒菩薩が一般の衆生を救済する時には垂迹して(本地垂迹説の垂迹)布袋さんの姿を借りて人間世界に現れる化生としての布袋さん・・・というところに辿りついた。布袋和尚は800年代後半に生まれ、916年に没した実在の禅僧である。(神とキリストの関係に少し似ている。)
弥勒菩薩が七福神の一人となった今、そのご利益は、夢を育て、人格を磨き、円満な家庭を築いて、金運を招福するということで、慈恵(いつくしみ)と和合の神様、予知と金運の神様として信仰されているようである。
そういえば、七福神のなかの紅一点、弁財天も龍潭の東に、天女橋とともに弁財天堂として県民に親しまれている。
09/03: あぐに/沖縄海塩研究所「いのちは海から 粟国の塩」
2024-6-27 沖縄海塩研究所で創業者の娘さんの川原康枝さん,弟に粟国の塩について説明する。事務所で創業者の娘さんの佐久間美代子さん、川原康枝さん
あぐに/沖縄海塩研究所「いのちは海から 粟国の塩」
小渡幸信・沖縄海塩研究所所長(1937年、サイパンに生まれサイパンにて敗戦を迎える。)
◇1946年 小学校(タラホホ)2年時に終戦を迎え、帰国
◇1950年 沖縄県北中城小学校を卒業
◇1953年 同中学校を卒業後、米軍施設(瑞慶覧軍司令部)に2年間勤務
◇1958年 北中城の貸家をヤマトからきたタイル職人に貸す縁で弟子入り。タイル業に従事
◇1970年頃 健康を損ね、ヨガ道場に通い、健康食・自然食を学ぶ
◇1974年 自然塩運動の谷克彦氏①(日本食用塩研究会)と出会い、読谷村で共同で自然塩作りの研究を始める
◇1978年 (有)小渡タイル工業を起業
◇1994年 タイル業を廃業。9月、粟国島に立体式塩田タワー建設、本格的に塩づくりを始める。
◇1998年4月 ㈱沖縄海塩研究所に法人化 現在に至る
①谷克彦 たに-かつひこ
1937-1985 昭和時代後期の自然塩研究家。
昭和12年4月2日生まれ。46年の塩田式製塩の廃止後,太陽熱と潮風だけを利用した独自の「タワー式製塩法」を開発,自然塩の製造に成功。54年日本食用塩研究会を結成,自然塩復活運動をすすめた。昭和60年2月2日死去。47歳。東京出身。立命館大卒。著作に「塩―いのちは海から」。(コトバンク)
1994年1998年4月、(株)沖縄海塩研究所として法人化。
2013年5月4日ー戸澤裕司写真展入口で小渡幸信氏
2013年5月5日ー戸澤裕司写真展で宮里榮弘氏夫妻、小渡氏
「粟国の塩カレンダー2012」