1972年5月 沖縄の雑誌『青い海』13号 「兵庫・沖縄友愛運動ーインタビュー比屋根毅エーデルワイス社長」ー2014年2月11日ー本日の沖縄地元2紙に比屋根毅氏の記事がでている。新報は「洋菓子製造大手エーデルワイス、2016年に沖縄出店」、タイムスは「ずばり答える明言深聞本音を探るー比屋根毅氏エーデルワイス会長」と、いずれも比屋根毅氏の顔写真がある。私は大阪の沖縄関係資料室主宰の西平守晴さんから同郷の比屋根氏の話をいろいろ聞いたことがある。また西平さんの依頼で何か忘れたがエーデルワイス本社に届けたこともある。また琉球大学八重山芸能研究会の記念誌を届けたこともあるが、比屋根氏はいつも不在で会えなかった。『青い海』津野創一編集長は八重山で、関西には1961年8月に、琉球新報中部支局から転勤しているから同郷の比屋根氏の活躍は新報記者時代から知っていたので兵庫・沖縄友愛運動関連の話題にふさわしいということでインタビューしたのであろう。
株式会社エーデルワイス(EDELWEISS Co.Ltd)は、兵庫県神戸市中央区三宮に本社を置く日本の洋菓子・パンの製造・販売会社。
1966年に兵庫県尼崎市で、洋菓子店「純フランス菓子 エーデルワイス」を創業。1969年に株式会社へ改組すると、1976年に本社を現在地へ移転した。ただし、尼崎市にも、工場や研究所などを併設した「本部センター」などが現存する。また、1971年から2003年までは、フランチャイズ方式で「エーデルワイス」ブランドの店舗を運営。1990年には、ベルギーの高級洋菓子店・ヴィタメールと業務提携を結んだうえで、日本法人の「ヴィタメール・ジャポン」を設立した。現在は、「エーデルワイス」を会社と工場直営店の名称にとどめる一方で、「ヴィタメール」「アンテノール」「ル ビアン」「マルクト」「ノワ・ドゥ・ブール」「メンヒェングラードバッハ」「フェルツ」「ブルトンヌ」「ビスキュイテリエ ブルトンヌ」といったブランド単位で店舗を展開している。→Wikipedia
2015年2月25日 エーデルワイス(神戸市) 那覇市久茂地タイムスビルに「エーデルワイス沖縄」開店
2月25日「エーデルワイス沖縄」前に比屋根毅エーデルワイス会長
2月26日 昼ごろ 「エーデルワイス沖縄」に行くと比屋根毅エーデルワイス会長が居られたので、西平守晴さん、津野創一さん憶えておられますか、と聞くと憶えているとのこと。
2016年9月 比屋根毅『人生無一事』致知出版社
02/22: 画家・真喜志勉
このたび多摩美術大学美術館では、沖縄を拠点に活動した美術家・真喜志勉(1941-2015)の足跡を辿る展覧会を開催いたします。真喜志はネオ・ダダやポップ・アートの手法も織り交ぜながら、沖縄の同時代を写し出す作風を切りひらきました。美術団体等には所属せず、1970年代以降ほぼ毎年個展を開催し、およそ50年にわたり新作を発表し続けました。
長い戦後を歩んできた沖縄において、真喜志の作品から沖縄が基地の島として晒されてきた社会背景を読み解くことができます。一方で、ジャズをこよなく愛した真喜志は、アメリカ文化への憧れも隠しませんでした。様々な要因がもたらす「複雑さ」も内包する表現は、時に飄々としたユーモアを持って、時にあふれんばかりの感情と緊張感を持って、見る人の心を揺さぶります。本展ではその膨大な画業のなかから作家旧蔵の約90点を紹介します。沖縄県外で真喜志の作品をまとめて見ることのできる初めての機会となります。
真喜志勉 (1941年~2015年2月20日)
沖縄県那覇市生まれ。多摩美術大学洋画科(現絵画科)卒。復帰を前に1972年ニューヨークで当時の現代美術に触れる。以後アメリカ戦後美術の、特にポップアートに影響を受けた作品を制作する。初期の頃は前衛的な展示もするが、平面の仕事に入り、漆喰で塗固めたモノクロの壁シリーズを展開する。90年代半ばからは沖縄の基地問題や社会的な批判を盛り込んだ作品にとり組む。最近はオスプレイ問題等をポップ的なスタイルで展示している。団体やグループに所属せず、現在にいたるまで個展を毎年開催している。
『新沖縄文学』に描いた挿絵、カット
1990年7月 『大琉球写真帖』(装丁・真喜志勉)
2002年9月27日~10月2日 画廊サロン・ド・ミツ「真喜志勉個展 MAX as MONK 復帰から30年 沖縄は変わらず不協和音に満ち キャンプハンセン(反戦)なるブラックジョークすらある」
左から真喜志勉氏、喜久村徳男氏、屋良文雄氏、 平敷兼七氏
左から真喜志勉氏、 喜久村徳男氏、平敷兼七氏
2008年7月18日 『沖縄タイムス』真喜志勉「追悼 洲鎌朝夫ー朝夫のいない娑婆なんて」
2008年7月18日 「洲鎌朝夫お別れ会」で左から真喜志勉氏、山田實氏、中里友豪氏、喜久村徳男氏
02/19: 真栄里 泰山[2015年うちなーそーがち年賀状]
辺野古新基地NO
[うちなーそーがち旧暦年賀状]を差し上げます。
来る2月19日は、旧暦の正月元旦 春節です。中国、韓国、台湾、ベトナムなどでは、春節を祝いますが沖縄でも旧暦で正月を祝います。沖縄ではその昔、新暦正月を、新正、大和正月などと呼んで来ましたが戦後の新生活運動の結果、今では新暦正月が定着しています。それでも、沖縄南部の糸満市などでは、今なお旧暦正月がほとんどで、
こんな門松の話題もあります。また、宮古、八重山、本島北部では、旧暦1月16日には、じゅーろくにちー(十六日)、ぐそうのそーがち(あの世の正月) ともいいますがお墓の前で親族がそろってご先祖とともに正月を祝います。宮古・八重山に帰れない方は、那覇の三重城などで、島のお墓に、おとうし{遥拝)をします。那覇や首里ではじゅーろくにちーはやらず、4月から5月にかけて清明祭をやります。
沖縄では、旧暦による行事が多く、沖縄のカレンダーは旧暦がないと役に立ちません。また旧暦本の「琉球暦」が隠れたベストセラーであることは意外と知られていません。お正月が2回もあるというのは子どもたちには嬉しいことですよ。
賀状の「 楽歳之豊 悦民之和 」 は 「安国山樹華木記碑 」の語句の引用です。尚巴志が三山統一を成し遂げ、首里を首都として整備した時の歓びと琉球王国成立の一時期の平和を楽しんだ碑文。琉球・沖縄の歴史上、初出の「平和」の「和」です.島ぐるみ会議、うちなーうまんちゅの会など辺野古新基地建設反対など沖縄基地問題解決のため県民が保革をとわず統一した今の沖縄に重なります。
また、賀状の漢詩は 「聯句」 というもの。その昔は、久米村、首里、八重山で、新年やお祝いのとき内門、床の間、仏壇に掲げて歓びや祝意を表したものです。今の人は忘れてしまっていますが、中国、台湾、韓国ではなお一般的ですが、日本ではお寺や書道に用います。含意をお汲み取りいただければ幸いです。
ジュゴンは、哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン属に分類される哺乳類。本種のみでジュゴン属を構成し、現生種では本種のみでジュゴン科を構成する。 ウィキペディア
サンゴ
サンゴ礁ーサンゴは、刺胞動物門花虫綱に属する動物のうち、固い骨格を発達させるものである。宝石になるものや、サンゴ礁を形成するものなどがある。英語からコーラル とも。鉱物ではない。 ウィキペディア
本日10日の地元紙は一面トップに「防衛局の20トンブロックによる大浦湾サンゴ破壊」が載っている。思い出したのが朝日新聞のサンゴ捏造事件①である。あのときも右翼が騒いで大きな社会問題となったが、今回は辺野古新基地粛々強行テロを市民運動に仕かける過激派「日本国」(安倍麻生自公政権)によるものだ。この政権を国営放送(全国放送)は連日世論調査として支持が50パーセントと宣伝する。民放は当然辺野古のトラブルを放送しているが、国営放送の全国放送はどう展開するのだろうか。
①朝日新聞珊瑚記事捏造事件(あさひしんぶんさんごきじねつぞうじけん)とは、1989年(平成元年)に沖縄県西表島において、朝日新聞社のカメラマンが自作自演で珊瑚に落書きによる傷をつけ、その写真をもとに新聞記事を捏造した虚報事件である]。落書きの文言「K・Y」を取って、KY事件とも呼ばれる。→Wikipedia
辺野古新基地NO
1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』9号 山里永吉「沖縄の史跡 護佐丸と中ぐすく」
1982年(昭和57) 9月 「山里永吉瞥見」『新沖縄文学』第53号 沖縄タイムス社
【内容】 石鼓 教科書問題の本質 (特集)沖縄にこだわる -独立論の系譜 独立論の位相 川満信一著. 沖縄人連盟 新崎盛暉著.沖縄民主同盟 仲宗根勇著. 宮古社会党 平良好児著. 不発の独立論 大田静男著. 琉球国民党 島袋邦著. 琉球独立党 平良良昭著. ふたば会 太田良博著. 琉球巴邦・永世中立国構想の挫折 仲程昌徳著. 山里永吉暼見 岡本恵徳著.コラム 帰属問題めぐり街の声を聴く/ /反映させよ住民の希望 沖縄自立・独立論関係図書目録 潮流 私学問題と官尊民卑(教育) 「一坪反戦地主会」の発足(住民運動) 多様化する反戦運動(社会) 検定に対する検定を(文化) 沖縄史そぞろある記(10) 嘉手納宗徳著. 動物の鳴き声 儀間進著. 日本人の沖縄人像 親泊寛信著. 琉球の地頭性(3) 宮城栄昌著. 海外ジャーナル 話題ふたつ(アメリカ) 宮城悦二郎著. 新聞とのつきあい(フランス) 大下祥枝著. 香港の漁村にて(東南アジア) 比嘉政夫著. 書評 「地図の風景」 「蝶の島」 「聞書西表炭坑」 「ある二世の轍」 「石扇回想録」 「ふるさとばんざい」 「沖縄の悲哭」 「瞳詩篇」「芝憲子詩集」 「沖縄-戦争と平和」 「沖縄の戦記」 「対馬丸」 「句集琉球切手」 「わが沖縄ノート」 「琉球文学小見」 「琉球の言語と文化」 「沖縄行政機構変遷史料」 「生贄は今」 「沖縄資料センター目録」 第8回「新沖縄文学賞」予選発表 詩 赤土の恋 与那覇幹夫著※与那覇幹男1939年11月26日~2020年1月20日。『赤土の恋』で1983年、第七回山之口貘賞。与那嶺さんは新報でよく出会ったが、2019年に初めての長い電話をくれた。お別れのつもりだっただろう。晶子夫人から僕のことを聞いていたからであろうか。亡くなられたのを知ったのは森口豁さんのFacebook2020-9であった。
1924年7月18日『沖縄タイムス』
山里永吉が1924年、那覇の波之上軒で開いた個展には「村山知義によって踊られたるワルツ」「インペコーフェンの踊り」もあった。山里永吉自伝□東京では『マヴォ』の雑誌が発売禁止になり、同人は全員、警察の身元調査を受けていて、警視庁からの連絡で私の家にも那覇署員がやってきた。息子の身元調査に親父はびっくりしたらしい。幸い私はその時東京に帰っており行きちがいであった。そんなことがあって親父は東京にいた山田真山先生へ手紙を出し息子を預かってくれと依頼した。真山先生は那覇で展覧会を開いたとき、私の家に泊まっていたので父とは旧知の間柄だった。早速、使いがきて、私は荻窪の先生の家へ引き取られ、お預けの身になった。一年そこら御世話になったが、父が死んで、東京にいてもつまらないので、沖縄へ引き揚げた。昭和2年4月のことである。
1926年9月 『沖縄教育』156号 山里永吉「小説ゆめ」
1933年5月 『沖縄教育』201号 山里永吉「明治神宮壁画『琉球藩設置』」
大火で辻にあった貸家は全部まる焼け、保険金は一文もかけていない。それで父は農工銀行を辞めて生前、漆器店(丸山漆器店ー那覇市上ノ蔵町・電話441番)を始めており、兄貴は勧業銀行の那覇支店に勤めて高給をとっているので辞めようとしない。「お前店番をしろ」というわけで東京から帰った私に申しつけたが、私はそういう仕事は向かない。店のことはいい加減にして、脚本や評論などを新聞に発表したりしていた。
丸山漆器
それからしばらくして伊良波尹吉、真境名由康、島袋光裕の俳優3人が、顔をそろえてやってきて「芝居の脚本を書いてくれ」と懇請された。沖縄芝居はそのころ衰退気味で、新聞を読むほどの人なら芝居を見にいかない。「これじゃ、どうにもならん、ひとつ協力してくれ」と持ちかけてきたものである。最初に書いたのが「一向宗法難記」だった。2作目が「首里城明け渡し」で大当たりに当たった。
1960年3月30日ー崇元寺調査、黒板、杢、中央の顔が隠れているのが山里永吉
□1960年3月28日ー琉球文化財保護のため文部省文保委会「第一次琉球文化財調査団」の黒板昌夫調査官、杢正夫技官が来沖。
写真左から具志堅宗精復旧期成会長、真栄田義見、川平朝申、不詳、山里永吉
1968年11月『今日の琉球』真栄田義見「弁財天堂の復元なるー474年前の宝形作りを再現」
1971年1月6日『琉球新報』山里永吉「尚真王の武器撤廃と百浦添欄干之銘ー中央集権とも関連 半世紀の内乱にこりる」<上>
1971年1月7日『琉球新報』山里永吉「尚真王の武器撤廃と百浦添欄干之銘ー撤廃は歴史家の定説 『反戦平和』の思想思い起こせ」<下>
□1972年9月ー『佛教藝術』88<沖縄の文化と美術特集> 毎日新聞社
沖縄の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新屋敷幸繁
沖縄文化史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉 春潮
沖縄の宗教・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・源 武雄
おもろ十首・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・外間 守善
沖縄の梵鐘と金石文・・・・・・・・・・・・・外間 正幸
琉球漆器・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡田 譲
沖縄の陶芸史・・・・・・・・・・・・・・・・・・山里 永吉
琉球紅型・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鎌倉芳太郎
沖縄の舞踊と楽器・・・・・・・・・・・・・・・仲井真元楷
琉球の建築・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田辺 泰
沖縄文化財建造物等の復旧事業・・・杢 正夫
口絵解説・殷元良筆「鶉図」・・・・・・・・真保 亨
沖縄の重要文化財
1960年6月6日 伊野波節石くびれ 左より池宮喜輝、国吉真哲(山里永吉文化財保護委員長・撮影)
石くびりと山里永吉
1989年5月8日『琉球新報』川平朝申「山里永吉氏の逝去を悼む」
1989年5月8日『沖縄タイムス』船越義彰「追悼ー那覇人に徹した山里氏」
原田桃香「沖縄における『神の声を聞く人』の受容」
02/05: 池城もえ「東京2015-1」
SKYMARKから
○曽祖父・麦門冬は1917年『日本及日本人』「劫の虫より経水」に、富士の人穴草紙を引いて随筆を書いています。□『吾妻鏡』に影響を受けた御伽草子「富士人穴草子」には「富士のせんげんとはわが事なり」とある。これら流布されていた信仰的要素から、角行が修行したと言われている。人穴(ひとあな)は静岡県富士宮市にある富士山の噴火でできた溶岩洞穴である。□2014年9月 『富士山ーその景観と信仰・芸術ー』國學院大學博物館
100年前の開業当時の姿に復元された「東京駅丸の内駅舎のドーム屋根」。復元工事が終わり、2012年10月1日に公開された。駅本屋は、辰野金吾と葛西萬司が設計した深谷市産の鉄筋レンガ造り3階建て総建坪9,545m²・長さ330mの豪壮華麗な洋式建築。1914年の開業年は第一次世界大戦の開戦の年。□麦門冬の上京が今から113年前の1902年ですから、この東京駅舎は見ていないはずですが、新聞、雑誌では見ていると思います。
□辰野隆(辰野金吾の長男)『凡愚春秋』(角川新書1957年)にテレビ余談として「ーとにかく、ロシアのハッタリ外交とアメリカの腕まくり外交の板挟みで、当分苦しみ抜くのでしょうね・-わしは近ごろ考えているのだが、南千島や沖縄から一切の軍備施設を撤去して、世界の人々が国籍のいかんを問わず、来り愉しむ、北の楽園とする計画は可能ではなかろうか。領土の争いとなれば、必ず軍備が伴うのは判りきった話だが、楽園の建設なら、一旦決意すれば、たちどころに相談がまとまるのではないか、と思っているのだがね。-」と書いている。基地を国民や沖縄に押しつける自公政府には関係ねー話ではある。支那事変・太平洋戦争以前には、「東洋に日本なく、西欧に独逸なくば、世界はいかに平和ならまし」というのが、日独以外の邦々の通念であったが、地球の両反面でこの二邦が勢力を失った今日、「我等は、人類の住む世界に、米ソの狂暴無慚な軍備の競争がなかったら、全世界の人類はいかばかり幸福であろうか」と堂々と叫ぶ資格があるのみならず、その声はいかに強くとも、強すぎることはない、と我々は断言し得るだろう。
東京ステーションギャラリー
1914年創建の東京駅丸の内駅舎の歴史を体現するレンガ壁の展示室で親しまれてきた美術館。1988年に開館し、東京駅の復原工事に伴い一時休館後、2012年秋に装いを新たに再開館。東京駅舎内という利便性の高さを活かし、時代もジャンルも多様な展覧会を開催。
数寄屋橋公園 岡本太郎「若い時計台」□時計の文字盤は顔で、胴の部分にはツノのようなものがニョキニョキと生えています。夜になると、顔やツノは様々な色で光りだします。岡本太郎はこの作品について八方に意欲をつきだし情熱をほとばしらせて生きるべき人間の本来の姿、若々しく、のびきった姿をうちだしたといっています。さらにそれは、のびていく日本の、そして東京の象徴であるともいうのです。
東京スカイツリー 東京都墨田区押上一丁目にある電波塔
02/01: 企業研究/< 野村総合研究所 >
野村美術館は、野村證券・野村銀行など金融財閥を一代にして築き上げた2代目野村徳七(のむらとくしち)〈1878-1945〉のコレクションをもとに、昭和59(1984)年に京都東山山麓南禅寺畔に開館致しました。 2代目野村徳七は、得庵(とくあん)と号してさまざまな趣味に親しみましたが、 そのなかでも茶の湯」と「能楽」に深く傾倒しました。そのため、そのコレクションは「茶の湯」と「能楽」に関する美術工芸品が主体となっています。現在美術館では、得庵のコレクションであった茶道具・能面・能装束をはじめ、得庵の遺作も含めて約1500点を所蔵しています。そのなかには、重要文化財7点(「伝紀貫之筆寸松庵色紙」・「佐竹本三十六歌仙・紀友則」・「清拙正澄筆秋来偈頌」・「宗峰妙超筆 白雲偈頌」・「雪村周継筆風濤図」・「千鳥蒔絵面箱」・「藤原定家筆讃岐入道集」)や、 重要美術品9点(「藤原基俊筆多賀切」「伝藤原行成・藤原公任筆法華経断簡」・「後水尾天皇筆消息」・「村田珠光筆山水図」・「文茄茶入」・「ノンコウ作赤楽茶碗 銘 若山」・「与謝蕪村筆草廬三顧・蕭何追韓信図屏風」・「能面 早苗尉」・「能面 竜女」)など指定美術品も含まれています。
野村徳七書簡(新城栄徳所蔵)
野村総合研究所 (NRI)
1965年(昭和40年)、野村證券株式会社 調査部が分離独立し、株式会社野村総合研究所が発足した。
現在のリサーチ・コンサルティング部門の母体であり、日本最大規模のコンサルティングファームである。官公庁・産業界のトップ企業をほぼ網羅して、サービスを提供してきている。米国のStanford Research Institute(現在のSRI International)をモデルに、日本初の本格的な民間シンクタンクとして設立された。
株式の上場をきっかけに、経営の効率化を目的として、リサーチ部門の在り方を変化させた。証券・経済研究等を行う部門は、証券調査・市場調査などの一部を野村グループにインハウス化し、残る一部は研究創発センターに移管され、政策・金融・経済研究などを引き続き行っている。また、社会・産業研究等の部門はコンサルティング機能を強化し、「〜研究部」から「〜コンサルティング部」へ名称を変え、現在に至っている。コンサルティング部門としてリサーチ機能・コンサルティング機能を併せ持つ。→ウィキ
野村徳七書簡(新城栄徳所蔵)
野村総合研究所 (NRI)
1965年(昭和40年)、野村證券株式会社 調査部が分離独立し、株式会社野村総合研究所が発足した。
現在のリサーチ・コンサルティング部門の母体であり、日本最大規模のコンサルティングファームである。官公庁・産業界のトップ企業をほぼ網羅して、サービスを提供してきている。米国のStanford Research Institute(現在のSRI International)をモデルに、日本初の本格的な民間シンクタンクとして設立された。
株式の上場をきっかけに、経営の効率化を目的として、リサーチ部門の在り方を変化させた。証券・経済研究等を行う部門は、証券調査・市場調査などの一部を野村グループにインハウス化し、残る一部は研究創発センターに移管され、政策・金融・経済研究などを引き続き行っている。また、社会・産業研究等の部門はコンサルティング機能を強化し、「〜研究部」から「〜コンサルティング部」へ名称を変え、現在に至っている。コンサルティング部門としてリサーチ機能・コンサルティング機能を併せ持つ。→ウィキ