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Category: 04-書の森
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仲里好孝氏「会長あいさつ」


議案審議


激励会ー左から仲里好孝会長、伊良皆賢哲氏、上原小一氏

激励会ー伊良皆賢哲氏/上原小一氏



糸数信一氏「乾杯の音頭」







左が末吉保朝先生と末吉良治氏/末吉保朝先生(2018-2-13没 87歳)と伊良皆賢哲氏

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〇書物は出会った時に迷ってはいけないー横山重『書物捜索』「六 富士の人穴」「本地物あれこれ」
 ☆富士の人穴:麦門冬も「富士の人穴草紙」を見ている。
 ☆本地物:御伽草子(おとぎぞうし)における、社寺の神仏の由来縁起を人間の物語として語る作品群の総称。その形式は経典類に載る本生譚(ほんしょうたん)・前生譚(ジャータカ)に似ている。本地垂迹(すいじゃく)説や和光同塵(どうじん)の宗教理念に支えられたもので、説経節(説経浄瑠璃(じょうるり))や古浄瑠璃にもよくみられる物語構造である。その先蹤(せんしょう)的なものは南北朝期の『神道集(しんとうしゅう)』所収の縁起物語にみられ、室町時代には多数の作品が生まれた。前代までの物語にはなかった形式のもので、御伽草子の代表的世界といってよく、また神仏の始源を宗教的、信仰的に物語るという意味で、古代神話の形態の中世的復活ともみなしうる物語類である。通常はその作品名に「本地」の語を付しているが、これに従わぬものもある。在地的な説話や民間伝承の諸モチーフを巧みに結合させたロマンあふれるものが多い。作品には『熊野の本地』『厳島(いつくしま)の本地』『阿弥陀(あみだ)の本地』『月日の本地』『七夕(たなばた)の本地』『竹生島(ちくぶじま)の本地』『天神の本地』『伊豆箱根の本地』『毘沙門(びしゃもん)の本地』『梵天国(ぼんてんごく)』『貴船(きぶね)の本地』『諏訪(すわ)の本地』などがあり、『浦島太郎』『物くさ太郎』なども末尾は本地物の形になっている。[徳田和夫]
 古文献を発掘し学界に提供する学風ー滝本誠一『日本経済大典』/学問の豪傑が勢揃いした時代の京都大学ー神田喜一郎『敦煌学五十年』/大学教授の身で国宝三点重文六点を蒐めたー内藤湖南/近世書誌学の基礎を築いたー水谷不倒/大学教授の職責ー藤村作/全国に響いた浪華の文化人ー木村蒹葭堂/人名録を愛好した近世人の志向ー諸家人名江戸方角分/西鶴は作家であり編集者であり企画者であったー森銑三『西鶴と西鶴本』/わが国の料理人は技術を公開して共同で進歩したー川上行蔵『料理文献解題』

1978年1月 河上行蔵『料理文献解題』柴田書店
日本一充実した古典籍図録ー反町茂雄『弘文荘善本図録』/古書価の変遷にあらわれた時代の嗜好ー水谷不倒『明治大正古書価之研究』/際限なく広範囲におよんだ蒐書家ー市島春城/研究資料の充実に徹した世界的コレクションーモリソンと東洋文庫/伊藤仁斎は日本に真正な学問の基礎を作ったー『童子間』/著作者の学問内容を呑みこんだ上での書誌学ー中村幸彦『古義堂文庫目録』/世界で最も醒めていた思考者の辛辣ー山片蟠桃『夢の代』/閨閥によって人事が決まる東京帝大ー大塚虎雄『学界異聞』/東大は日本文化の家元であるから国民を下に見て君臨するー『出身学校別現代紳士録』/主題を定めて書籍蒐集は精神衛生によいー社史についての文献一覧/図書館の参考事務は無意味であるー植村長三郎『図書館学・書誌学事典』/漢方は日本において再編成し直し高度になったー小曾戸洋『日本漢方典籍辞典』/遊んでばかり働くより儲けた骨董眼ー渡辺虹衣『骨董太平記』/仏教辞典を見分けるコツー岩本裕『日本仏教語辞典』/辞書は使い方で思わぬことを教えてくれるー薩摩辞書/文部省からも民間からも大出版が出たー杉村武『近代日本大出版事業史』/群書類従の欠を補う史籍集覧ー近藤瓶城/昔は博識謙虚なコワイ好事家がいたー三村竹清『本之話』/古典研究の究極は注釈であるー『徒然草諸抄大成』/日本近代書誌学の伝統と未来ー天野敬太郎『河上肇博士文献志』/このような時代に適した企画を見習って欲しいー『現代知性全集』/報恩に献身した出版事業ー野依秀市/雪嶺が古書展で買物をすると予定額にピタリであったー三宅美代子『雪嶺の思ひ出』

〇役に立たない本を使いこなして役に立たせる法ー増田渉『雑書雑談』/考証学の伝統を守って研究を維持する人々ー関良一『日本近代詩講義』/藝術というものは全く個人的な我れを標準とするー『脇本楽之軒の小伝と追憶』/日本人は如何なる方法によって納得させうるかー御成敗式目/大坂夏の陣のさなかに出た本ー『大坂物語』/水戸黄門ー『大日本史』/歴史は真実でありえないことを考証したー富永仲基『出定後語』/大石は人の情念に訴え感動させる劇を演出したー『仮名手本忠臣蔵』/日本史の斬新な時代区分ー伊達千広『大勢三転考』/福沢が書かざるをえなかった理由ー『瘦我慢の説』/伊藤博文が明治史の主役となった理由ー植松孝昭『明治史伝』/官僚制の形成まで明治政府の朝令暮改-星一『官吏学摘要』/徳富蘇峰の思想が形成された時ー『第十九世紀日本ノ青年及其教育』/大正四年各界名士を解剖するー『張子の虎』/給与の出し方にも心遣いが必要とされていたー前田一『サラリーマン物語』/江戸時代は全国が物産の競争をしていたー『江戸時代人づくり風土記』/出世名声のための戦働きは忠に非ずー『古典大系 日本の指導理念』 

右ー安田靫彦「豊臣秀吉と徳川家康」

穂積和夫「挿絵」

右ー大坂夏の陣に向かう徳川家康
1983年10月『古典体系 日本の指導理念5 創業の初心②築かれた太平の礎』第一法規出版

 文化は容易に変わらないが組織は急速に変動するー『日本の組織』金融も生産も激流に乗って構造変化しているのに、官僚帝国だけは、いまだに世襲が行われている現状を、労政協の『天下り白書』があきらかにしている/明治初年の新聞記者は社会的スターであったー『新聞記者奇行伝』/実力があって野心がなければ人を動かすのは容易であるー鵜崎鷺城『当世策士伝』/語学力の不足は小中学での国語教育軽視に拠るー向軍治『八当集』/事業家を描く伝記の名作ー岡野養之助『村山竜平伝』/日本の社会政策に模範を示した先見力ー『関市長小伝』/国家総動員計画の発端と進行ー石川準吉『国家総動員史』/昭和史の政治に関与した現場証人ー『岩淵辰雄選集』/政治家後援会が刊行した学術書ー下村治『経済成長実現のために』/戦後は誠心巧緻のコラムが時代を照らしたー『時のうごき』/進駐軍を相手にひるまず闘うー石橋湛山の弁駁と資料/明治最初の文士録ー『現代文学者小伝』/アカデミズムを凌いだ独創ー折口信夫『口訳万葉集』/気迫を欠けば漢文は読めないー田岡嶺雲『和訳漢文叢書』/明治文壇を展望した唯一の評判記ー吉田香雨『当世作者評判記』

〇作家は妬まれおとしめられるー尾崎紅葉/二葉亭の翻訳短篇が明治文学の神経に響いたー高松茅村『明治文学言文一致』/代作者助作者加筆者が想定される時代ー東海散士『佳人之奇遇』/俗界を下に見て校風論争ー第一高等学校『文藝部』/ヴァレリー全集ー佐藤正昭/日本で一番大きい豪華版ー寿岳文章編『ヰルヤム・ブレイク書誌』天野敬太郎は昭和22年という早い時期に、「目録の時代を経て今や索引の時代に進んでいる」と喝破した。その索引も人名や書名に非ず、事項索引でなければならぬのである/江戸川乱歩はまた評論家でもあったー『悪人志願』/『智恵子』の生まれた土壌と環境ー室生犀星『我が愛する詩人の伝記』/近代文藝家三百七十五名の研究資料叢書ー昭和女子大学『近代文学研究叢書』/書誌の目で見るー堀口大学『月下の一群』/『田舎教師』のモデルの詩集ー小林秀三遺稿/雑誌『近代文学』発刊時の決意と苦労ー『近代文学』発刊挨拶状/若き日の山本周五郎が耽読した唯一の本ーストリンドベリー『青巻』/思いこんだらとことんやる人たちー斎藤昌三『三十六人の好色家』/エロ・グロ・ナンセンスー『匂へる園』ほか/ウソをつかない限定本ー集古洞人編『奇書輯覧』/自分を売りこむためには何事につけても手練手管が必要であるー相馬健作『文壇太平記』/同時代の誠実な観察者ー小牧近江『プロレタリア文学手引』/悪口は人とのつき合いに不可欠のエチケットであるー河盛好蔵『人とつき合う法』/日本人の性情が洗練されるよう願った作家ー大仏次郎『帰郷』/早稲田の人材が背伸びして文藝百科を作ったー『文藝百科全書』/短歌とその注釈が響き合って豊かな感動を呼ぶー吉野秀雄『鹿鳴集歌解』/シェークスピア全集推敲転々ー坪内逍遥/芭蕉にお近づきになるためならこの一冊ー柴田宵曲『芭蕉言行録』/日本人は悪評を軽率に信じ易いー田口掬汀『文壇照魔境』/文士のゴジップを集めたら本になる時代ー『文壇失敗談』/何よりも先ず古本屋を利用すべきであるー田中菊雄『現代読書法』カズオ書店、津田喜代獅、天牛書店の尾上政太郎、広島の黒木書店が元町へ/書誌学の新次元ー宮崎芳三ほか『日本における英国小説研究書誌』/軽評論家と呼ばれて意地を見せたー『十返肇著作集』/批評を論理と錯覚する文壇を訂すー『北原武夫文学全集』/作家に推参してその肝を味わって堪能する批評ー開高健『人とこの世界』/小林秀雄が人をたぶらかす手口を解剖するー向井敏『文章読本』/徹底的な批判は必要であるが余裕を忘れてはならないー三好十郎『斬られの仙太』
谷沢永一『書物耽溺 』(講談社) 2002/08

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2004年6月30日ー川西能勢口駅から蔵書家・谷沢永一氏の自宅に行く。沖縄から来たということで何か警戒されていたようで話をすると快くサインしてくれた。近くにフローレンス ナイチンゲール(救苦観世音)像がある。

1994年3月 谷沢永一『大国・日本の「正体」』講談社〇芥川龍之介が『レーニン』という題で、「最も民衆を愛した君は、最も民衆を軽蔑した君だ」という詩のようなものを遺している。これは芥川ならではの名文句で、「知的傲慢さ」というものは、日本の風土に合わないようだ。(略)抽象的な理念だけに閉じこもっている日本においてだけ、社会党と共産党はごく小人数残るだろう。もっと言わせてもらえば日本の社会党・共産党は恐らく最後に「世界の珍品」として日本に残るのではないか。

谷沢永一 たにざわ-えいいち
1929-2011 昭和後期-平成時代の書誌学者,文芸評論家。
昭和4年6月27日生まれ。関西大在学中から同人雑誌「えんぴつ」を主宰し,開高健(たけし),向井敏(さとし)らと知りあう。昭和44年から平成3年まで母校の教授。近代文学の分析と論評,書誌研究で知られ,昭和55年「完本―紙つぶて」でサントリー学芸賞。平成16年「文豪たちの大喧嘩」で読売文学賞。平成23年3月8日死去。81歳。大阪出身。著作はほかに「谷沢永一書誌学研叢」「書物耽溺」など。(→コトバンク)


1979年4月『特選街』4月創刊号 谷沢永一「蒐書の極意第一条」

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1943年1月 今野賢三『前田正名』新潮社出版/1973年1月 祖田修『前田正名』吉川弘文館

前田正名  生年:嘉永3.3.12(1850.4.23) 没年:大正10.8.11(1921)
明治前期の経済官僚,地方産業振興運動指導者。鹿児島藩医前田善安の6男。慶応年間(1865~68)長崎留学,明治2(1869)年フランスに渡り,フランス農商務省で行財政を学び,10年に内務省御用掛として帰国。のち「大隈財政」下の大蔵省にあって直輸出論を提唱,大隈ブレーンのひとりとなる。14年農商務・大蔵大書記官となり欧州経済事情調査に出張。16年帰国後は品川弥二郎らと組み経済政策を構想,17年3月より農商務省で『興業意見』編纂に取り組み,8月未定稿30巻を完成,「松方財政」を批判し,殖産興業資金の追加供給による強力な産業保護主義を主張して松方正義大蔵卿と対立した。このため内容の大幅変更を余儀なくされた『興業意見』の刊行となった。18年7月より不況下の地方に出張し,勤勉,節倹,貯蓄の「三要点」を強調して農民の自力更生を説くが,同年12月非職。21年山梨県知事を経て22年農商務省工務局長,農務局長に復帰,23年農商務次官,元老院議官,貴族院勅選議員となるが,政府中枢の政策に同調できず官界を去り,25年以降地方産業振興運動を指導。地方実業団体,全国農事会を系統組織化,政府,議会にそれら団体の要求を建議する活動を行った。30年代には農村調査計画である町村是運動に挺身したが,晩年は不遇に終わった。<参考文献>祖田修『前田正名』,同『地方産業の思想と運動』 →コトバンク参照

1894年4月16日『大阪毎日新聞』「五品(織物、陶磁器、金属器、製紙器、雑貨)大会の開会式は、いよいよ昨日を以て京都府庁に開かれたり。会頭に前田正名『京都は我が国の美術工芸に取りて保姆の地位に在り。すなわち美術工芸上、京都は決して京都人の私有にあらず。日本人の京都なること、正名確信して疑わざる所なり。』」
1894年4月16日 前田正名(京都祇園清々館 五種大会出張所)→奈良原繁沖縄県知事
「拝啓陳ハ今回開設ノ五品大会ヘ 御懸下ヨリ當業者参会相成候儀ハ各業者ノ熱心ニ因ル 儀ニモ可有之候得共全ク御庁ニ於テ非常ニ御尽力被下候 結果ト深ク感謝之至リニ奉存候尚報告書ハ追テ差上可申候先ハ不取敢御禮申上度如此ニ御座候敬具」→那覇市歴史博物館「横内家文書」

1894年4月17日『大阪毎日新聞』「五品(織物、陶磁器、金属器、製紙器、雑貨)大会閉会式 五品大会は五二(織物、彫刻を追加)会と改称し閉会・・・」

1913年5月25日『琉球新報』「本日来県の前田翁ー其産業に関する意見」
1913年5月26日『琉球新報』「前田翁来着ー旅装解かずして講演会に臨む。鹿児島に生まれながら今日まで当地を訪ふに至らざりしは深く之を謝す・・・」「前田翁一行」
1913年5月26日『沖縄毎日新聞』「前田翁一行の人名ー貴族院議員前田正名▲金剛寺住職暉峻普瑞▲陸軍中佐花田仲之助▲鹿児島商業会議所書記長安田武彦▲鹿児島郵船会社書記長坂元徳二▲実業家小牧藤兵衛▲仝慶田政太郎▲岡崎商業会議所常務議員千田千太郎▲実業家加藤敬太郎▲社会教育者志方楽山▲実業家大山幸太郎」
1913年5月27日『琉球新報』「真教寺 本社主催 講演会/前田正名翁、暉峻普瑞師、花田中佐、志方楽山氏」
1913年5月28日『琉球新報』「前田翁の講話」「一昨晩の前田翁歓迎会」 
1913年5月28日『沖縄毎日新聞』「前田翁一行の歓迎会」
1913年5月29日『琉球新報』「前田翁本日出発」
1913年6月3日『沖縄毎日新聞』「前田翁の一歩園」
1913年6月8日『沖縄毎日新聞』高里次郎「前田翁一行より得たる教訓(上)」
1913年6月10日『沖縄毎日新聞』高里次郎「前田翁一行より得たる教訓(下)」

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賀茂川


近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 /右ー寮は南区

寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅
  

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1973年、上の沖縄タイムスの記事をみて、京都駅近鉄名店街の「紅屋」に石川氏が訪ねてきた。後日、一燈園に石川氏を訪ねて歓談した。

左が石川洋氏、新城榮徳
一燈園同人
石川 洋 (いしかわよう)
昭和5年、栃木県生まれ。17才のとき、一燈園創始者、西田天香師と出会い、入園を決意。托鉢者として今日にいたる。かたわら、沖縄への奉仕活動「仏桑会(ぶっそうげ)の会」事務局長、順教尼遺弟会「この花会」相談役、国際宗教同志会常任委員、世界宗教者平和会議日本委員、人権・難民委員として活躍。国内では、教育・福祉・企業内教育の講師として東奔西走。海外では、カンボジアなどで、幾多の危険な場面に直面しながら難民救援にあたっている。
《著書》
『捨てなければ得られない』(柏樹祉)
『一人には一人の光がある』(柏樹社)
『ベスト・ライフ』(実業の日本)…他。

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4月12日『沖縄タイムス』『琉球新報』の儀間比呂志さん追悼記事

 沖縄でたくましく生きる人々の姿を力強いタッチで刻み続けてきた、沖縄を代表する版画家・絵本作家の儀間比呂志(ぎま・ひろし)さんが11日午前3時15分、肺炎のため大阪府河内長野市の病院で死去した。94歳。沖縄戦や沖縄の風景、女性の姿を大型の版画作品で描いたほか、多数の創作絵本を出した。自宅は大阪府大阪狭山市茱萸木(ぐみのき)4丁目1162の4。通夜は14日午後7時、葬儀は15日正午からいずれも大阪府大阪狭山市茱萸木1丁目277の1、セレモ大山で。喪主は長男修(おさむ)さん。
 儀間さんは1923年那覇市生まれ。青年時代を過ごした旧南洋群島のテニアンで版画の手ほどきを受けた。戦後、大阪市立美術研究所で絵を学び、70年から版画に専念し、上野誠に学んだ。「ふなひき太良」(毎日出版文化賞)以来、多くの創作絵本を手掛け、「鉄の子カナヒル」などで多くの賞を受けた。版画集「戦がやってきた」「沖縄戦-朝鮮人軍夫と従軍慰安婦」など、戦争を告発する作品を世に問うてきた。
 2006年には83歳で豊見城市にアトリエを構え、大阪と行き来をしながら琉球新報に連載した「みのかさ部隊」などの制作に打ち込んだ。若い世代とのコラボレーションにも積極的に取り組み、県出身ロックバンド、モンゴル800と詩画集「琉球愛歌」を作った。12年に琉球新報賞。90歳を過ぎて大阪に戻っていた。【琉球新報電子版 2017年4月11日】





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1930年1月 新屋敷幸繁『古事記の鑑賞』大同館書店〇第二章 黄泉国と琉球の後生

1932年6月 新屋敷幸繫・峯岸義秋『日本文学概論』大明堂



1972年4月 沖縄の雑誌『青い海』5月号 新屋敷幸繁「民話の沖縄/七つの男の子と九つの女の子の約束』

新屋敷幸繁
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新屋敷幸繁 (しんやしき・こうはん)1899~1985(明治32.4.15~昭和60.7.15) 詩人、教育者。与那城町生まれ。沖縄大学学長などを務める。詩集『生活の挽歌』『野心ある花』、詩誌『南方樂園』、史書『新講沖縄1000年史』『コザ市史』など。(沖縄コンパクト事典)





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写真ー仲原善徳とバゴボ族の酋長

1933年6月ー仲原善徳『大南洋評論』第1巻第2巻(仲原善徳編集)□金城朝永「南洋関係図書目録」
1936年11月 『訓練』仲原善徳「フィリッピン観光記(上)」
1937年3月ー仲原善徳『南洋千一夜一夜物語』日本書房
1937年3月ー『国際パンフレット通信』第998号 仲原善徳「蘭領ニューギニアの実相」
1937年4月ー『改造』仲原善徳「蘭領ニューギニア」
1938年12月ー『比律賓年鑑』仲原善徳「比律賓群島の諸民族」


1942年2月ー仲原善徳『比律賓紀行』河出書房


1942年7月ー仲原善徳『比律賓群島の民族と生活』南方出版社


1942年7月ー仲原善徳『ボルネオとセレベス』寶雲社
1942年7月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓雑誌」
1942年10月ー『海を越えて』仲原善徳「新比律賓の面貌」


1942年11月ー仲原善徳『ミンダナオ島物語』興亜書房(寺内萬治郎・画) 
寺内萬治郎ー洋画家生年明治23(1890)年11月25日
没年昭和39(1964)年12月14日 出生地大阪府大阪市
学歴〔年〕東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科本科〔大正5年〕卒
主な受賞名〔年〕帝展特選(第6回)〔大正14年〕「裸婦」,帝展特選(第8回)〔昭和2年〕「インコと女」,日本芸術院賞〔昭和26年〕
経歴明治42年白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事。東京美術学校では藤島武二の指導を受ける。大正7年文展に初入選。11年耳野卯三郎らと金塔社を結成。14年第6回帝展で「裸婦」が、昭和2年第8回帝展で「インコと女」が、それぞれ特選となる。昭和初期から埼玉県浦和に住む。4年光風会会員となり、同会をはじめ帝展、新文展の審査員を歴任。戦後は23年ころより裸婦制作一筋に打ち込み、26年第6回日展出品の「横臥裸婦」および一連の裸婦作品によって日本芸術院賞を受賞した。35年日本芸術院会員、日展理事。東京美術学校などの講師として後進の指導にも当たった。「コドモノクニ」「幼年倶楽部」の挿絵画家としても親しまれた。→ コトバンク

1943年1月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓を巡る島々」
1943年2月ー仲原善徳『日本人ミンダナオ島開拓略史』南洋経済研究所
1943年4月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓の諸問題」
1943年10月ー『海を越えて』仲原善徳「フィリッピン史上の二人物」


1943年10月ー仲原善徳『バコボ族覚書』改造社

1943年11月ー『海を越えて』仲原善徳「フィリッピン在留邦人気質」


本間雅晴「序文」、葛生能久「序文」/右ー頭山満「題字」

写真中央ー犬養毅、頭山満
1944年9月ー仲原善徳『フィリピン独立正史』中文館書店

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1964年10月8日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」
神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして
1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。

 
10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)
怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」

奥里将建(1888年5月18日~1963年12月29日)
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写真ー奥里将建
1940年1月1日ー『沖縄朝日新聞』奥里将建「砂糖よりも有利な・・・うこん栽培と産業教育」

1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店
1943年9月ー奥里将建『古代語新論』三省堂
1949年5月ー奥里将建『沖縄昔話集』瑞泉会
1954年10月ー奥里将建『院政貴族語と文化の南展』三協社

1966年11月ー奥里将建『沖縄に君臨した平家』大同印刷工業
□仲宗根政善(琉球大学教授)ー1963年4月から64年の6月まで、私はハワイ大学の東西文化センターにいて、ホーレー文庫にとじこもって、日々を幸福感にみちて過ごしていた。書架に並べられた3千余冊の琉球関係文献を見て、如何に多くの先輩が琉球研究に従事して来たかを知り、自分の研究の微々たることがかえりみられて、これら先輩の業績に対し敬けんの念がわき頭がさがった。奥里先生に感謝の意をこめて御手紙を差上げたら、さっそく御返事があり、激励の御言葉にそえて、こんなことが書いてあった。『頑強な東恩納先生さえなくなられた。私のようなものは風前の灯火同然だ。』と。あれっきりだった。しばらくして、奥様から先生がなくなられたお知らせがあり、私は全く暗然とした。
 あの頃、先生はもう余命いくばくもないことを予感しておられたのであろうか。ものにとりつかれたように、南走平家についての原稿を書きつづけて生命を刻んでおられたようである。ところがその原稿も完成するには至らず、一字また二字と余白になったまま残された。この遺稿を渡口真清氏と名嘉正八郎君が、先輩への敬愛と、文化に対する熱愛から出版を企てられた。私は深く心をうたれた。先生もどんなに喜んでおられることであろうか。
先生は、大正15年に『琉球人の見た古事記と万葉』を著された。最初は上代の古事記・万葉集の研究が中心であったが、平安朝、院政、鎌倉、室町と研究領域をひろげ、一方、琉球方言から、瀬戸内海方言・四国方言・近畿方言へと研究を進めて行かれた。時代的にも方処的にも、幅ひろく、国語の研究をせられ、多くのすぐれた論文を残された。さらに、朝鮮語・満州語・蒙古語と日本語とを比較され、昭和32年に、『日本語系統論』を出された戦後、院政時代の口語資料を詳しく調査されるに至って、院政貴族語が首里方言と近似していることに気がつき、『院政貴族語と文化の南展』を著わし、先生の研究は言語・文学から次第に歴史へと展開したのである。
 沖縄の地名、沖縄の古典芸能、南宋との貿易関係などを深く究明し、これを論拠として、平家一門は長門の壇の浦で全滅したのではなく、沖縄にわたり舜天王統を打ち樹てたと論ぜられた。先生はこの稿を最後のものとして、心血をそそがれたのであった。先生の進まれた跡を辿って見ると、言語・文学・芸能・地理・歴史と実に広範にわたり、絶えず進展しつづけられた。78才で生涯を終えられたが、みずみずしい想がつぎつぎと湧き、旺盛な研究意欲は少しも衰えを見せなかった。先生の学説は、射程の遠い目標をねらったため、飛躍もあったが、独創にみち、新しい問題を提起した。広い分野を開拓されて残された業績は実に大きい。  
 先生の蔵書は、奥様の御好意によって、歴史関係約200冊は沖縄県史編集室に、言語文学関係2,300余冊は、琉球大学図書館に奥里文庫として保管されている。文庫を一覧しても、いかにその学問が広く深かったかということがわかる。一冊一冊熟読されたあとがあり、端正な文字でメモをとった紙切がはさまれたままである。文庫の前に立つと、先生のおもかげがほうふつとする。先生の学問はきっと後輩に継承され、さらに発展して行くにちがいない。


1937年3月ー『沖縄教育』島袋源一郎「薩南列島に於ける平家の遺跡」


雑誌『おきなわ』/渡口眞清


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1929(昭和4)年
     『世界美術全集』第21巻 平凡社「琉球美術各論」
           □伊東忠太「琉球芸術総論」 鎌倉芳太郎「琉球美術各論」
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2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻□鎌倉芳太郎ー(彫)天尊像、(絵)尚円王御後絵、尚貞王御後絵、尚純公御後絵、金剛法会図細部、渡海観音像(自了)、高士逍遥図(自了)、(工)放生池石橋欄羽目、観蓮橋石欄羽目、瑞泉門石獅、歓会門石獅、正殿唐破風前石龍柱、御盃及御酒台並浮彫金箔磨大御菓子盆及小御菓子盆、美花御小飯並浮彫金箔磨大御菓子盆、あしやげこむね橙紅色 子地雲龍鳳文綵繍牡丹雉子文綵繍□伊東忠太ー(建)守礼門・冕ヶ嶽石門、沖宮、天久宮、円覚寺仏殿、円覚寺三門、崇元寺石門、霊御殿(玉陵)
1929-3    『世界美術全集』第22巻 平凡社 


沖縄大学図書館所蔵
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1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社






目次 
琉球列島ー概説
地形ー列島と海溝/三列の地質構成/珊瑚礁の発達/古生層と珊瑚礁/宮古諸島と八重山諸島
気候と生物ー気温/降水量と風速/季節風/ハブとマングース/亜熱帯性植物
沿革ー開闢伝説/内地との交通/支那との交渉/明治以後
生産ー概説
甘蔗糖/水産物/甘蔗/穀物/林産物/牧場/その他の生産物
薩南諸島ー大隅諸島/土噶喇諸島/大島諸島/島の産物/大島の気温
沖縄諸島ー沖縄島/国頭山岳地域/中頭、島尻丘陵地域/那覇首里の都会地域/人口の減少/属島/大東諸島/先島諸島/八重山群島/尖閣諸島
琉球婦人の黥ー伝説に現れた起原/古文書中の入墨/記事の有無/他島との比較/その宗教的意義
墓ー風葬の俗/古代と風葬/墓の発達/その中間物/板が門/近代式墳墓/その起原
グラヴィアー守礼門/首里附近の聚落状態/奥武山公園/首里附近の民家/野生の蘇鉄/沖縄県庁/沖縄測候所/測候所附近より那覇を望む/天水甕/ハブの毒素採集/ハブ捕り/ハブ/芭蕉の花の咲く頃/辨岳の御願所/識名園の泉水/首里城の正殿/亀甲形の墳墓/尚家の門/波上神社と石筍崖/真玉橋の風光/護国寺の仁王門/聖廟/護国寺境内/末吉神社/辨財天堂と観蓮橋/ベッテルハイム記念碑/識名園/琉球の刳舟/爬龍船競漕図/琉球の甘蔗畑/盆の甘蔗市/農家の製糖小屋/パナマ帽の制作  


蘇鉄林/パパイヤの樹/辻町の遊女/機を巻く首里の婦人/屋久の杉森/杉の巨木/大島の闘牛/シャリンパイ/大島名瀬港/大島紬工場/奄美大島の蘇鉄林/奄美大島の百合園/那覇港の入口/那覇港第一桟橋/先原崎の灯台/波上神社の石段/首里市内の民屋/那覇市全景/琉球美人
屋上の唐獅子/壺屋町/壺作り/泥藍の紺屋/藍の香高い琉球絣/泡盛製造所/諸味貯蔵場/豚肉販売所/甘蔗売の集り/独特の武術唐手/郷土スポーツ唐手/ズリ馬行列/歓会門/円覚寺本殿/龍潭池附近/円覚寺境内放生池橋/琉球の民家/那覇市附近の露店/那覇旧市街/崇元寺の門/那覇一の商店街/那覇辻遊廓/真玉橋の石橋/沖縄測候所/円覚寺の山門/熱帯植物榕樹/漁村糸満の浜/名物朱塗りの漆器/芭蕉の実り/萬歳舞踊/舞踊/婦人の黥/綱曳遊戯/湧田の旗頭/壮麗な旗頭/浜の賑ひ/野国総官の墓/久志村の山中にあった墓/久高島の墓/破風式の墓/亀の子式の墓/墓と死者の交会/墳墓のストリート/墓のにぎはい/玉陵/墓の平面図/壺屋産の霊置甕/英祖陵

守礼門がカラーで載っている。この本を1987年に安良城盛昭(大阪府立大学教授)氏が沖縄県立博物館に寄贈された。氏のものは父盛英が東京で教師をしていたとき購入したもので氏も愛読し親しんできたものであった。□1929年2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」


1930年5月 国吉真善『群衆の処女』






1930年8月 改造社『日本地理大系・九州篇 沖縄県』
目次
沖縄県扉「古地図」
沖縄県概説
ダブルトーン版ー筆架山より見たる那覇港 那覇市街/隆起珊瑚礁と波上神社/琉球焼製造所 那覇青物市場/おてんだの水取舟 崇元寺/金石文と真玉橋/守礼門 歓会門 首里城正殿/首里市 泡盛 首里三個/識名園 首里市/運天港 糸満 糸満町/パパヤ売 金武大川/七島藺の刈取 砂糖の製造 八重山鰹節製造所/久米島(新村 支那式の家屋 久米島の男女 久米島具志川村 仲村渠)/久米島(裾野の景観 紙の製造 豚小屋と豚肉市場 久米島紬)/琉球の墳墓/那覇市郊外の墓 国主より功臣に賜りたる御拝領の墓/田舎の墓 首里郊外貴族の墓/ヤツチのがま 石垣島より竹富島を望む屋我地ヲフルギの純林 甘蔗の栽培 ガジュマル/琉球の舞踊と演劇ー波平大主 萬歳一段 同二段 同三段 女笠踊 諸純節 二童敵討 同二 同三 同四/琉球の年中行事ー八重山の民族舞踊 祭式舞踊 那覇市の綱引行列
綜合解説

1930年8月5日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(1)凡そ神秘的な共産の久高島 島民総出で原始的な出迎 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月6日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(2)凡そ神秘的な共産の久高島 島の由来記と名所旧蹟 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月7日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(3)凡そ神秘的な共産の久高島 原始共産制の名残を観る 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月8日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(4)どこ探しても無い久高島の奇習 珍しい風葬と婦人の貞操試験 『グショウ』見物の巻」

 




1933年7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』

1934年4月17日『琉球新報』広告□那覇市東町 明視堂写真部ー佐和九郎『正則写真術』『密着と引伸』『現像の実際』『露出の秘訣』『整色写真の研究』『整色写真術』/三宅克巳『写真随筆 籠の中より』『写真のうつし方』『私の写真』『趣味の写真術』/高桑勝雄『フイルム写真術』『写真術五十講』『写真問答』/宇高久敬『写真の新技法』/霜田静志『写真の構図』/南實『原板の手入』/加藤直三郎『中級写真術』/石田喜一郎『プロモイル印画法』/小池晩人『山岳写真の研究』/金丸重嶺『新興写真の作り方』、金丸重嶺・鈴木八郎『商業写真術』/勝田康雄『人物写真のうつし方』/中島謙吉『芸術写真の知識』/吉川速男『写真術の第一歩』『小形カメラの第一歩』『図解写真術初歩』『私のライカ』『十六ミリの第一歩』/鈴木八郎『写真の失敗と其原因』『写真処方集』『整色写真のうつし方』『引伸の実際』/中戸川秀一『写真百科辞典』/寺岡徳二『印画修整の実際』/斎藤こう兒『撮影第一課』『引伸写真の作り方』『芸術写真の作り方』/額田敏『山岳写真のうつし方』/眞継不二夫『芸術写真作画の実際』『アマチュア写真の修整』/山崎悦三郎『修整の実際』/高山正隆『芸術写真入門』『ベストコダック写真術』/石動弘『小形活動フイルム現像法』

1934年5月5日『大阪朝日新聞 九州朝日』「外人の眼に映じた”ハブの國„ クルート女史の興味を晙る視察談」


1934年5月8日『琉球新報』?
4月、欧州経由でアメリカに帰途、来沖したミス・アン・クルート(大阪東淀川区ミード社会館)が新聞記者に「那覇の児童がスペイン語、英語を知っているのに驚いた、これは海外雄飛の諸産物で若い者がハワイ・ブラジルらに出稼ぎ、そこで生まれた子を故郷沖縄の学校に送り帰すためです」と答える。


1934年11月 神村朝儀『便覧 琉球國王代記』神村朝忠/1937年3月 神村朝儀『第一尚姓 尚巴志王統早分解り』神村朝忠薬店
○雑誌『おきなわ』復刻版解説に酒井直子さんが「回想ー父 神村朝堅」を書かれていて、「向氏神村家家系図」も添えられていた。13世 朝睦の子供たちが省略されていたので詳しく記入してもらった。その結果、上記の著者・朝儀は叔父で、発行人の朝忠は朝堅氏の父と判明した。

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