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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02

1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』6号 国吉真哲「貘さんの<沖縄の青春>」 


写真下は1925年8月16日、貘2度目の上京前に後列左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘
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写真ー1958年・前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、不詳、山之口貘

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1975年9月 ゆうなの会『ゆうなの花便り 第一回エイサーの夕べ』「神奈川ファミリー」
 1980年8月に沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、『青い海』にカットなどを手がけていた大城一史の風景画展も開催された。9月発行の『青い海』は特集「沖縄を出た島びと」で諸喜田太栄、仲里祥光、仲間宗一の略伝、大阪の映画館の沖縄人経営者たち、関西在住沖縄県人公共団体・企業リストが付いた。ある日、當間次長のところで雑談をしていると、『青い海』の公共団体・企業リストを見て、機を見ることには早い次長が県事務所でも作りたいといってきた。私も沖縄関係資料室や青い海出版社、青年会などから名簿を集めて提供した。そして出来たのが『関西沖縄出身者名簿』である。□後の話になるが、東京「ゆうなの会」の事務所でメンバーに、私の手帖を見せたことがある。それには「ゆうなの会」「がじゅまるの会」メンバーの自宅、連絡先まで記してある。某劇団の女性に、「これは絶対に活字(ネット)にしてはダメですよ」とクギをさされた。
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 大阪市大正区の千島公園では毎年9月に「エイサー祭り」を開催している。そこにいつも参加している団体の一つが東京沖縄青年会だ。1974年に結成された「ゆうなの会」が母体である。

真久田正氏
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1981年8月  沖縄の雑誌『青い海』真久田正「セイシカの花」
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写真左から大城立裕氏、真久田正氏/写真左から2番目が真久田正氏
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『関西沖縄県出身者名簿』沖縄県大阪事務所(1981年3月)

 『関西沖縄出身者名簿』の内容は、国会議員、沖縄県の機関職員、関西の沖縄県人会、在阪支社懇話会、琉球舞踊研究所、沖縄料理店、三味線レコード店、沖縄県物産振興会、がじゅまるの会、琉大機工同窓会、主要企業関係者、法律・会計・税務所関係、幼稚園・保育園関係、各県の沖縄県人会、関西養秀同窓会、北親睦会の名簿で構成されている。私の名前はその他のところ、下地玄信、大城一史、金城実の諸氏のところに並んでいる。この名簿は当然に東京の県事務所にもおくられた。東京のほうもこれにならい(財)沖縄協会に委託。82年に『関東沖縄県出身者名簿』が発行された。

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1971年1月13日ー在沖米軍「毒ガス移送」
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2011年1月13日ー『琉球新報』「毒ガス移送から40年ー復帰後も基地は依然として使用され続けており、沖縄は何も変わっていない。そればかりか、日米両政府による、名護市辺野古への新基地建設というさらなる過重負担が押しつけられようとしていて、問題はかえって拡大している。根元的には基地そのものを撤去させる以外に問題解決はない。だからこそ毒ガス撤去をなし得た島ぐるみの闘いの意義は計り知れない。平和を願い、40年前に発した沖縄県民の声は、基地が無くならない限り生き続けるのだから。」

 1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。立命館大卒業で元沖青友の会のメンバーが中国物産の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』特大号、『毛主席語録』と中国大地図などがある。中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。西平さんも大阪保育事業団理事として中国に保育事業の視察に行っている。お土産に毛沢東の詩を記した布の栞をもらった。真喜志康忠『沖縄芝居50年』に、17歳の大阪時代と昭和37年の関西公演のときの康忠の回想がある。その中に康忠が関西公演の折、京都の河井寛次郎宅に招かれた写真に、わが「資料室運動」の先達、西平守晴(大阪保育事業団常務理事)も写っている。西平は私に『八重山で康忠の芝居を見たとき、舞台から芝居を演じながら観客席の私を見つけ、舞台が終わると連絡してきた』と康忠のことを語ったことがある。康忠は儀間とも親交がある。
 1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 

1960年4月 村松寛『美術館散歩』「日本工芸館」河原書店

 
1981年6月 雑誌『青い海』104号「那覇市に”反戦版画〟がやってきた 平和運動に役立ててと儀間比呂志さん」


1982年6月 上江洲久『ここに榕樹あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史』儀間比呂志「扉及び見返し版画」

 儀間さんとは、いつのまにか沖縄での空間を共有することが増えていた。が、親族の話は聞いたことが無い。亡くなられた後に、那覇中学校の同級生(儀間さんの姪)に聞いた。儀間さんは長男、妹二人、弟二人の家族でターリーは沖縄戦で亡くなった。アヤーや亡くなって今年33年。

親族に囲まれた儀間さん

 2009年9月発行の儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』に儀間崇が、僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・、とあるように先祖は久米村の蔡氏と分かる。
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久米村蔡姓

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 <特集・久米三十六姓よ どこへゆく>

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 仲井眞元楷「蔡氏逸話集ー蔡氏物語・蔡氏の不思議ー」

仲井眞元楷の原稿

富島壮英「久米三十六姓とは何か」/神坂次郎氏と富島壮英氏(右)

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写真の『青い海』は沖縄県立図書館所蔵/私のは合本しているので表紙は広げられない。

 
1983年7月6日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/『青い海』創刊の頃」


 1971年4月 『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)
 表紙絵「舞姫」は儀間比呂志作、儀間は「この作品で云いたいのは、沖縄がどんな状況にあろうと、民族の誇りと、文化を守ろうとする若人のけがれのない瞳の美しさなのです。」と強調している。以後『青い海』表紙の儀間作品は2号、3号と続き、以後も3回、口絵も多数。
 1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。元沖青友の会のメンバーが中国関係の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』、『毛主席語録』と大中国地図などがある。
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『毛主席語録』/中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。
 立命館大卒業で元沖青友の会のメンバーが中国物産の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』特大号、『毛主席語録』と中国大地図などがある。中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。西平さんも大阪保育事業団理事として中国に保育事業の視察に行っている。お土産に毛沢東の詩を記した布の栞をもらった。真喜志康忠『沖縄芝居50年』に、17歳の大阪時代と昭和37年の関西公演のときの康忠の回想がある。その中に康忠が関西公演の折、京都の河井寛次郎宅に招かれた写真に、わが「資料室運動」の先達、西平守晴(大阪保育事業団常務理事)も写っている。西平は私に『八重山で康忠の芝居を見たとき、舞台から芝居を演じながら観客席の私を見つけ、舞台が終わると連絡してきた』と康忠のことを語ったことがある。康忠は儀間とも親交がある。
 
青い海文芸/祖慶美佐江「母校のナンキンハゼ」、宮城清子「短歌」、平良寿美子「青春て何だ」、宮城敏夫「生きる、大城悦子「ささやかでも尊い想い出」」(何れも『石の声』転載)
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右・1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』の『青い海』紹介。
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1983年7月6日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/『青い海』創刊の頃」/1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1974年5月20日『おきなわ海洋博だより』第2号


1975年6月15日『琉球新報』「鎌倉芳太郎氏を囲んでー大城立裕氏、中山良彦氏」





1985年6月 沖縄の雑誌『青い海』142号 中山良彦「語り部とは何なのか」/左からー翁長良明氏、河合民子さん、新城栄徳


1961年11月10日~12日 沖縄タイムスホール「第五回 ぴよぴよ会展ー中山良彦」 

1965年6月、中山良彦に宛てた芥川也寸志の手紙(也寸志 [生]1925.7.12. 東京[没]1989.1.31. 作曲家。小説家芥川龍之介の三男として生まれる。兄は俳優の芥川比呂志)




右ー中山良彦「目次原案メモ」
1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 そこに語りこめられたふるさとびとたちの生々しい体験と、記憶の奥ではげしく燃えつづけている戦争への憎しみの思念には、強く胸をうたれました。そこを出発点に、わたしの”沖縄戦〟への歩みは始まったのです。このとき、沖縄では戦没者の三十三回忌の法要が行われました。わたしは、戦記を読み、証言に耳をかたむけました。戦跡にもなんべんとなく足をはこび、ガマ(住民が避難した自然洞窟)にも入って、当時の人たちの凄絶なイメージを、わがものにしました。作画にあたっては、友軍とよばれた日本兵の、住民への残虐行為、ウジ虫を涌かした負傷者、集団自殺、腐乱死体の山など、酸鼻だからといって避けて通るようなことはしませんでした。それが沖縄戦の実相だからです。わたしは祈りをこめて版を彫り、バレンを押しました。
 こうして今ここに、二十五点の大版の木版画が完成したのです。この仕事はライフワークとして、つづけていくつもりですが、一区切りついたところで公にし、きびしいご批判を賜りながら、内容のより充実をはかっていきたいと思います。
 本に編むことにつきましては、畏友中山良彦氏に解説をお願いして共著として出版することにしました。各作品に付された氏の文章は、平易だが重厚な内容をそなえ、すぐれた平和論として、読者に感銘をあたえずにはおかないでしょう。
 表題の「戦がやってきた」は、わたしが証言者のことばから借用しました。これは、このシリーズの創作上の基本姿勢が、住民視点にあることをずばりと、いいあらわしているように思ったからです。
 さて、この戦争版画集。沖縄の生き証人たちが、どう受けとめて下さるか、大いに気になるところです。とくに、あのお婆さんの目がこわい・・・・・。 1979年9月

「もうたくさんだ」(部分)


1980年8月 中山良彦『人間でなくなる日ー沖縄戦住民証言集』集英社


2011年12月 中山良彦『戦後沖縄をプロデュースー文化としての「民主化」をめざしてー』「沖縄のアマ絵画グループ(ぴよぴよ会) こうして誕生」


浦添市美術館
「儀間比呂志・中山良彦 沖縄戦版画集『戦がやってきた』原画展」会期:2015年6月23日(火)慰霊の日~2015年6月28日(日)/2016年6月16日(木) ~ 2016年6月26日(日)/会期:2017年6月14日(水)~2017年7月2日(日)

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 
1972年  石野朝季『沖縄と南西の島々』山と渓谷社
1974年  津野創一『沖縄』山と渓谷社
1990年  石野朝季『沖縄近海の島々』日地出版


1974年12月 斉藤三郎『詩誌やみくも』第4号
1975年7月  『青い海』44号 石野朝季(琉球新報大阪支社長)「京のゆめ大阪のゆめ」
1976年1月  『青い海』49号「渡嘉敷守良翁遺稿『わが自叙伝』」連載
1976年6月  『青い海』55号「版画絵本『鉄の子カナヒル』(岩波書店)でサンケイ児童出版文化賞を受賞した儀間比呂志氏が帰郷、沖縄物産センターで原画展。8月7日、八汐荘で『儀間比呂志を囲む会』、司会・新川明、海勢頭豊のギター演奏。中今信琉大教授らが参加。



1983年10月 沖縄物産センター「儀間比呂志 版の世界展」

1985年8月 『小説推理』津野創一「手遅れの死」双葉社
1986年1月 『小説推理』津野創一「十五年目の形見分け」双葉社
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1987年5月 津野創一『群れ星なみだ色』双葉社
1989年2月 津野創一『遺書を持つ女』双葉社
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1989年12月津野創一『碧の殺意』双葉社



1998年6月



2004年5月 浦添市美術館「儀間比呂志 沖縄の戦争と平和展」

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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
    
2017年8月10日 ひより首里城見物/左の「中山世土」は清朝第4代皇帝康熙帝の扁額(復元)。「中山は代々、琉球国王の国である」と書かれている。


2017年8月8日 沖縄県立博物館・美術館『水族館でも出会えない!海のビックリ生物展』入場者1万人達成

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2017年8月8日~13日 那覇市民ギャラリー「翁長盛武写真展ー『海人の島』ー」/翁長盛武氏(右),古堅希亜氏


2014年7月22日~27日 那覇市民ギャラリー「第50回 写真展  ニッコールクラブ沖縄支部」 翁長盛武氏と作品「アギャー」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1985年7月『青い海』143号 陳寶來「おきなわの留学生たち①沖縄の女性は逞しく、そして美しい」


桑江良健氏 作品「大田昌秀肖像」ー会場で陳宝来さん(国際俳句交流会会員)と桑江純子さんが歓談していた。陳さんを那覇市歴史博物館に案内した。


写真左が桑江純子さん、陳宝来さん


那覇市歴史博物館で左が陳宝来さん、真栄里泰山氏


2016年6月13日『沖縄タイムス』辺野喜(陳)宝来「沖縄と台湾 交流へ同好会発足」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


上原よしさん 作品「太一」「未来へ」/仲里安広氏 作品「ウガン」「リゾーム」「ディ・コンストラクション」


西村貞雄氏 作品「岩上祈願」「祈るひと」/上原博紀氏 作品「あぐら」「トルソ」「チャコと一緒に」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02