1971年1月13日ー在沖米軍「毒ガス移送」
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2011年1月13日ー『琉球新報』「毒ガス移送から40年ー復帰後も基地は依然として使用され続けており、沖縄は何も変わっていない。そればかりか、日米両政府による、名護市辺野古への新基地建設というさらなる過重負担が押しつけられようとしていて、問題はかえって拡大している。根元的には基地そのものを撤去させる以外に問題解決はない。だからこそ毒ガス撤去をなし得た島ぐるみの闘いの意義は計り知れない。平和を願い、40年前に発した沖縄県民の声は、基地が無くならない限り生き続けるのだから。」

 1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。立命館大卒業で元沖青友の会のメンバーが中国物産の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』特大号、『毛主席語録』と中国大地図などがある。中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。西平さんも大阪保育事業団理事として中国に保育事業の視察に行っている。お土産に毛沢東の詩を記した布の栞をもらった。真喜志康忠『沖縄芝居50年』に、17歳の大阪時代と昭和37年の関西公演のときの康忠の回想がある。その中に康忠が関西公演の折、京都の河井寛次郎宅に招かれた写真に、わが「資料室運動」の先達、西平守晴(大阪保育事業団常務理事)も写っている。西平は私に『八重山で康忠の芝居を見たとき、舞台から芝居を演じながら観客席の私を見つけ、舞台が終わると連絡してきた』と康忠のことを語ったことがある。康忠は儀間とも親交がある。
 1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 

1960年4月 村松寛『美術館散歩』「日本工芸館」河原書店

 
1981年6月 雑誌『青い海』104号「那覇市に”反戦版画〟がやってきた 平和運動に役立ててと儀間比呂志さん」


1982年6月 上江洲久『ここに榕樹あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史』儀間比呂志「扉及び見返し版画」

 儀間さんとは、いつのまにか沖縄での空間を共有することが増えていた。が、親族の話は聞いたことが無い。亡くなられた後に、那覇中学校の同級生(儀間さんの姪)に聞いた。儀間さんは長男、妹二人、弟二人の家族でターリーは沖縄戦で亡くなった。アヤーや亡くなって今年33年。

親族に囲まれた儀間さん

 2009年9月発行の儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』に儀間崇が、僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・、とあるように先祖は久米村の蔡氏と分かる。
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久米村蔡姓

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 <特集・久米三十六姓よ どこへゆく>

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 仲井眞元楷「蔡氏逸話集ー蔡氏物語・蔡氏の不思議ー」

仲井眞元楷の原稿

富島壮英「久米三十六姓とは何か」/神坂次郎氏と富島壮英氏(右)

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写真の『青い海』は沖縄県立図書館所蔵/私のは合本しているので表紙は広げられない。

 
1983年7月6日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/『青い海』創刊の頃」


 1971年4月 『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)
 表紙絵「舞姫」は儀間比呂志作、儀間は「この作品で云いたいのは、沖縄がどんな状況にあろうと、民族の誇りと、文化を守ろうとする若人のけがれのない瞳の美しさなのです。」と強調している。以後『青い海』表紙の儀間作品は2号、3号と続き、以後も3回、口絵も多数。
 1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。元沖青友の会のメンバーが中国関係の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』、『毛主席語録』と大中国地図などがある。
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『毛主席語録』/中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。
 立命館大卒業で元沖青友の会のメンバーが中国物産の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』特大号、『毛主席語録』と中国大地図などがある。中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。西平さんも大阪保育事業団理事として中国に保育事業の視察に行っている。お土産に毛沢東の詩を記した布の栞をもらった。真喜志康忠『沖縄芝居50年』に、17歳の大阪時代と昭和37年の関西公演のときの康忠の回想がある。その中に康忠が関西公演の折、京都の河井寛次郎宅に招かれた写真に、わが「資料室運動」の先達、西平守晴(大阪保育事業団常務理事)も写っている。西平は私に『八重山で康忠の芝居を見たとき、舞台から芝居を演じながら観客席の私を見つけ、舞台が終わると連絡してきた』と康忠のことを語ったことがある。康忠は儀間とも親交がある。
 
青い海文芸/祖慶美佐江「母校のナンキンハゼ」、宮城清子「短歌」、平良寿美子「青春て何だ」、宮城敏夫「生きる、大城悦子「ささやかでも尊い想い出」」(何れも『石の声』転載)
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右・1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』の『青い海』紹介。
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1983年7月6日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/『青い海』創刊の頃」/1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」


1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」
○ぼくの、風変わりな友人の一人である新城栄徳君が、例によってひょっこりやってきて「これ、あげます」と言って、一冊の雑誌を置いてひょう然と帰って行った。ザラ紙の、30ペ-ジほどの冊子「おきなわ」創刊号である。昭和25年4月の発行だから、24年ほども前の、紙の事情もまだわるいころのものだ。発行所が東京になっていて、広告が、当時の在京県人の経済活動を問わず語りに語る。
巻頭言には、講和前の沖縄の帰属問題を憂う在京県人の気持ちをうつして「その時が、来るまで、県人の心の立ち直りに資する」ために発行した、とはっこうの趣旨がうたってある。その時は、翌年9月にやってきて、対日平和条約は沖縄を日本から切り離すことを明文化して調印された。残念ながら、その時の周辺の「おきなわ」は手元にない。しかし、おそらくは在京県人を中心として、郷土沖縄をうれう声が全ページに盛られているだろう、と想像する。
数日後、再びひょっこりやってきた新城君は、「おきなわ」が30号ほど続いたこと、したがって「青い海」が沖縄の月刊誌としてやっとのことで最長不倒記録?をつくったことを伝えて、ひょう然と帰っていった。ぼくたちが、ささやかな月刊雑誌の発行を思いたったのが70年の暮れだった。以来、いくつかの危機と分裂と業務不振などの曲折を経て、いま沖縄の郷土月刊誌「青い海」は8月号で35号を数える。「その時」にそなえたものではなかったが、復帰というその時を境に、編集の方向も少しずつ変わっている。「こころの立ち直りに資する」ほどの自信はないけれども、沖縄をともに語らい続けようというのが、発行人の山城賢孝とぼくと、スタッフの心意気である。
「それにしても、24年前に『おきなわ』をつくった先輩たちを、何ほどものりこえてはいませんね」。ひょっこりやって来た新城君のひょう然と帰る前の捨てゼリフである。ナイーブなぼくは、著しく傷つき、そのことばの鉄ついにうちひしがれて、気恥ずかしさから、沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る”いちむどぅやー人生”に埋没する。新城君はぼくの友人である。新城君は「ぼくは『青い海』の友人」なのだ、という。
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雑誌『おきなわ』

1997年8月ー『敍説』新城栄徳「雑誌『おきなわ』総目次」



1981年8月 『創刊10周年 青い海文化まつり』淀川長治「十年を迎えられて」/西町の「青い海」編集室



1977年4月 『青い海』62号 <特集 33年目の沖縄戦と集団自決>いれいたかし「鎮魂にはまだ早い戦争の死」、中山良彦「”沖縄戦〟をどう展示するか」、照喜名朝儀「昭和八年生」、金津正格「学童疎開船 対馬丸遭難の悲劇」、宮城晴美「生き続ける痛恨の日々」、向井孝「砂糖黍の中の黒い碑」、嶋津与志「慶良間諸島の惨劇ー集団自決事件の意味するもの」、石川洋「沖縄に愛の連帯を」「女人登場 沖縄の子供たちのために 石野桂子さん」(石野朝季夫人)、「”儀間版画〟の秀作展ー6月18日から宮城陶房ギャラリーで」


1978年11月  那覇カルチュアクラブ『東西南北』津野創一「土着から普遍へ。『青い海』のモノローグ」

1979年3月 金城共同法律事務所『沖縄の現代と課題』津野創一「今なお模索の中でー『青い海』八年目の自戒」
1979年10月 「第一回青い海児童文学賞」
1981年2月 『青い海』「青い海バックナンバー №1~№99」
1981年9月 『第三文明』田村紀雄「十年目の『青い海』と山城賢孝」
1989年2月 津野創一『遺書を持つ女』双葉社
1989年12月 津野創一『碧の殺意』双葉社

1985年10月 『琉球新報』に連載された津野創一「碧の殺意」に沖縄関係資料室が南島資料室として出てくる。
1993年8月 『青い海の彼方へー津野創一の世界 遺稿&追悼文集』ニライ社(電話098-867-9111)

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最近、沖縄の雑誌『青い海』を卒論のテーマにする大学生が増えてきたので、参考として掲載す。



1979年3月 「青い海媒体資料」


津野創一さん(東大寺)
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琉球新報記者・津野創一さん

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1963年 京都名所遊覧・知恩院ー左から3人目が津野創一さん□知恩院の国宝の山門(高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大)が見えるので立ち寄る。知恩院は、全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれた寺という。江戸時代、元和7年(1621)、二代将軍徳川家忠が三門を建立、また寛永16年(1639)に徳川家光公が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられている。


写真左端が津野創一さん


津野創一さん(道頓堀)

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津野創一資料(動画)

1978年11月10日 那覇カルチャークラブ『東西南北』津野創一「LOVEの復活を!」
○・・・これは、今年の5月にNHKの仕事で宮崎県の詩人・南邦和氏と対談した時に感じたことだが、地方の中央志向、ないしは”リトル東京化〟は、ことの他すすんでいる。朝日新聞の天声人語を担当した、今は亡き深代惇郎氏は、そんな状況をLOVEの関係からLIKEへ、と書いた。つまり、LOVEは異質なものへの愛で、LIKEを同質なものへの愛とする。日本のそれぞれの地域が、異質であった時代の愛は影をひそめ、同質化されていくことへの寂寥と、深いきづながときほぐされることの不幸を指摘していた・・・



船越義彰氏、大城立裕氏らと/新島正子さんと


愛さんと儀間比呂志作品/津野創一の婿(豊見山和行琉球大学 法文学部 教授)と儀間比呂志作品