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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2014年7月15日『沖縄タイムス』「学友の近況つづり25年 渡口彦邦さん、名護中6期結ぶ」

渡口彦邦(渡口萬年筆店)さんの見た「世界のウチナーンチュ大会」
2011年10月12日「前夜祭パレード」
渡口 彦邦 写真2

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
1971年5月22日『サンデーおきなわ』
□カメラルポー西平久子さんが大阪で保育園長にー関西沖縄関係資料室など、社会奉仕活動家として知られる西平守晴氏(大阪市都島区都島本通り5ノ23)の夫人、久子さんが、大阪にできた公設民営の保育園長に就任した。

4月19日、開園式をすませ現在百人の幼児を収容しているこの池島保育園は大阪保育事業団が施設を作り久子さんが園長として運営していく公設民営という新しいケースのもので各方面から注目をあびている。

久子さんは首里の出身で、満州育ち。昭和23年引揚げてから大阪に永住。この間関西主婦連比嘉正子会長の都島保育園で保母を続けてきた幼児教育のベテランで、関係者からその手腕が大いに期待されている。

開園式には大阪政界人、教育関係者など多数が列席、新しいケースに挑む久子園長を激励したが、東京からかけつけた西銘順治衆議院議員も「沖縄の幼児教育は本土より遅れているが、沖縄出身の西平久子さんが、大勢の中から選ばれて園長に就任したことは、沖縄の保育事業に一灯をともすことにもなり心強い」とお祝いの言葉を述べた。

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写真ー左・息子と西平久子さん、佳央さん

1989年12月6日『琉球新報』
□西平守晴(大阪・沖縄関係資料室主宰)ー落ち穂・秘めた可能性ー日ごろプロ野球にはあまり関心も興味ももっていない私でしたが、さる26日のプロ野球のドラフト会議には熱い思いでその成り行きをみていたものです。と言うのは新日鉄堺の野茂英雄投手の指名があると聞いたからでした。高校野球の大阪府予選で完全試合を記録したり、卒業後新日鉄堺の社会人野球でメキメキと腕をあげ、昨年7月のソウル五輪では日本代表チームのエースとして活躍した野茂英雄君の成長ぶりをわがことの様に見守ってきたものです。

ソウル五輪から帰国したある日「英雄です」と言って訪ねてきてくれ、オリンピックの銀メダルを私達老夫婦に喜んでもらおうという彼の優しい心遣いがうれしく感動したものでした。その彼が今や身長185㌢、体重85㌔の偉丈夫に成長し150㌔の剛速球投手の実力はついにドラフト会議で史上初の八球団が競い合って一位指名をしたと言うことをみて涙が出る程うれしく思ったものです。しかし、そのことよりも彼の記者会見であの謙虚な態度と素直な発言をみて、よくここまで成長してくれたものと保育者冥利にひたりながらうれしく思ったものです。

そもそも野茂英雄君とは池島保育園(園長西平久子)の第四期(昭和50年)の卒園児で彼の幼児期の保育にかかわってきたのですが、特別に目立つような児でもなく、ただ素直で気のやさしい児であったことが印象にあるのみです。この児のどこにこのようなすばらしい可能性が秘められていたのか今でも思いあたる節もないのですが、ただ何事も辛抱づよく最後までやりとげる根性が野球選手として彼を成長させたものだと思うのみです。

今日も保育園の園庭では黄声でしゃぎまわる園児たちの姿をみていると、この児たちもみんな素晴らしい可能性を秘めながら一日一日を成長していくのだと思うと、これからもこの児らの可能性を信じ、そして大切に「心づくりと体づくり」にはげんでいかねばと思う日々です。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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生年: 弘化4.4.15 (1847.5.29)
没年: 昭和1.2.20 (1926)
明治大正時代の俳人。本名素行。伊予松山藩士内藤同人の長男として江戸に生まれる。漢学を修めたのち,京都へ遊学。長州征討の従軍などを経て官吏となる。明治25(1892)年に正岡子規に俳句を学び,南塘,破焦の号で句作を始めた。和漢の学識と明治の情調にあふれた「初冬の竹緑なり詩仙堂」などの句は国民的に親しまれている。また,飄々乎として円満洒脱な人柄は万人から敬慕された。その死は,明治俳句の終焉を象徴するものであったともいえるであろう。著書に『鳴雪句集』(1909),『鳴雪自叙伝』(1922),『鳴雪俳句集』(1942)などがある。 →コトバンク(平石典子)

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
『阿波連本啓生誕110周年記念公演プログラム』作成中です。

阿波連本啓氏が死去/琉舞の伝承・創作に功績 2001年1月14日 『琉球新報』
戦前戦後を通じて精力的に琉球舞踊の保存伝承と創作に情熱を傾けた阿波連本流啓扇会家元、阿波連本啓(あはれん・ほんけい)氏が13日午後4時37分、虚血性心疾患のため那覇市立病院で死去した。97歳。那覇市首里出身。自宅は那覇市首里山川町一ノ17。告別式は16日午後3時から4時、那覇市首里寒川町一ノ二、安国寺で。喪主は長男本勇(ほんゆう)氏。

本啓さんは13歳の時、御冠船踊りの伝承者・川平里之子親雲上朝美に師事。以来、80年余にわたって琉舞の道を歩んできた。創作舞踊の分野で大きな功績を残した。作品数は50演目を超える。戦前の無声映画時代、松竹の専属役者として活動した時期もある。

出身地の首里をこよなく愛し、首里の庶民の古い風俗も創作の主題にした。
1996年、93歳の高齢で芸歴75周年記念公演を開催。軽快な動きで八つの創作を上演し、大勢のファンを魅了した。主な作品に「築城」「郷土子守歌」「桃売り乙女」「鏡」「綱引き」などがある。92年県文化功労賞、96年に第32回新報賞を受賞した。

□新城栄徳「みどり印刷で来年用の名刺。琉文21の下方に『琉球から地球へ』の文字を小さく入れている。」


Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
 沖縄の伝統的な陶器に嘉瓶というのがあります。胴体が瓢箪型で、首の部分がやや長く、福よかな形をしている酒器です。現在も陶工たちがよく造っていて、壷屋焼のお店でもよくみかける、沖縄を代表する陶器の一つです。

さて、ここで話題にしようとするのは、その嘉瓶では無く、渡名喜瓶のことです。嘉瓶の兄弟分のような酒壷で、形態は嘉瓶にやや似ていますが下部の瓢箪型の丸みの中程から角ができラインが内側に入り込み上の丸みのラインにつながります。ラインはそのまま細長の首に続き、頂点の小さな口の返しで終わります。なかなかシャープな感じを受ける壷で、用途としては酒を入れる器ですが、まれには墓からの副葬品として小さな渡名喜瓶のビン付け油入れが出てきます。嘉瓶ほどではないにしても壷屋の陶工たちによって昔から造られてきました。

その渡名喜瓶ですが、なぜ渡名喜瓶と呼ばれるのか?、名前の由来が謎とされてきました。沖縄本島の西海岸に浮かぶ渡名喜島に関係していると思われますが、渡名喜島の人がその昔、壷屋の陶工に大量に注文したとか、渡名喜島のノロが使ったとかの諸説がありますが、どれも確証のあるものではありません。調査をされた方によりますと渡名喜島に特に渡名喜瓶がたくさんあるということでもないようです。では、なぜ渡名喜瓶と呼ばれているのか?。ここで私の仮説を述べてみたいと思います。
(下の図参照)
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上の図は渡名喜瓶を横にした図で、真ん中に一本線を引いてあります。この線を海の水平線としますと、上半分の黒く塗った胴体部分が、海上に浮かぶ渡名喜島の島の形に似ていることに気が付きます。
そうなんです。渡名喜瓶の名前の由来は、渡名喜瓶を横にした上半分が、渡名喜島の島の形に似ていることから、昔の人は、酒を酌み交わしながら親しみを込めて「トゥナチー」と、呼んでいたのではないでしょうか。

沖縄の昔の人々が、地形の特徴を、わかりやすい身近な物にたとえることは、よくあることでした。
たとえば、首里台地の東側、崎山町から南風原に向つて、地形が大きく落ち込みます。その場所は
ウフカクジャー(大きなあご)と呼ばれていて、人の顔のとんがったあごに、たとえています。
又、波の上宮は岬の突端の岩山にありますが、昔は、その岩山を花城(ハナグシク)と呼んでいました。花城は当て字で、本来は鼻グシクだと思われます。顔の真ん中で尖がって存在する鼻を、海岸線の尖がった岬にたとえたもので、文字があまり普及していない時代には、伝達の手段として、より解りやすく目に見える具体的な物や地形、又は身体の特徴などにたとえる、言語感覚があったようです。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02















Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
中学時代、大田朝敷、仲吉朝助とともに又吉全道に漢学を学ぶ。中学を中退し上京。慶応義塾で学ぶ。1887年旧藩王尚泰の長女と結婚。89年帰郷。93年5月『琉球新報』を義兄弟の尚順を発起人代表にし、奈良原県知事から「目付」として送りこまれた野間五造を主筆に発足。専従の編集人には護得久一門の大田朝敷をすえた。野間が退社すると自ら主筆となって経営し、公同会(愛国協会)運動を展開する。その挫折後は尚家の財政的支柱である丸一商店、広運会社の経営に専念。1914年衆議院議員。


Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
琉球王府最後の三司官富川盛奎(1882年中国亡命し90年没す)の4男として首里儀保に生まれる。1886年17歳で慶応義塾に学び、帰郷して『琉球新報』記者。1911年に渡口政成、仲里朝敦らと共同経営する丸三活版所から『古今琉歌集』を再刊。12年ごろ琉球新報社を退社。41歳で妻と5人の子供を残して渡米。皿洗いなどで生活しながら毎月家族に送金。ロサンゼルスでは邦字新聞記者の仲吉良光に会い、ニューヨークでは小橋川朝重に写真を撮ってもらっている。アメリカで死去。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
別名ー草秋、朝久
実父上間正富は松山王子尚順の守役であった。後に那覇上之蔵の亀山朝奉の養子となる。沖縄県立中学校在学中から詩や歌を作り、1910年に同人誌『雑草園』を発行。同年上京。帰郷して樗花、夏鳥、梅泉、正敏のペンネームで新聞雑誌に文芸・美術・芸能の評論や創作を発表する。特に12年に『三田文学』に発表した「ペルリの船」は注目された。14年琉球新報歌壇選者、16年琉球新報記者、19年沖縄時事新報記者、20年沖縄タイムス編集長。
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
真和志村天久(現那覇市)で生まれる。金沢医学専門学校卒業。1908年那覇泊で医院開業。33年『沖縄日日新聞』を引き受け、『沖縄日報』と改題して発刊。社員や記者の中には、のちに東京で活躍した古波蔵保好、宮良高夫や『琉球新報』社長になった親泊政博、同じく社長になった池宮城秀意がいた。
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null木脇啓四郎画(粟国恭子さん情報)

1889年ー石澤兵吾は琉球王府貝摺奉行所や絵図奉行所から沖縄県庁が引き継いだ図案・仕様帳等の書類を整理、画家の佐渡山安豊や沖縄県農業試験場雇の木脇啓四郎に琉球漆器図を写生せしめて東京の東陽堂から『琉球漆器考』として刊行した。この画家の一人・木脇啓四郎は鹿児島大学の原口泉さんらのまとめた『萬留』の著者と同一人物であった。木脇には沖縄滞在中に描いた『花草真写図』や沖縄風景画が沖縄県立図書館に、沖縄人物図が鹿児島県立図書館に残っている。

10/04: 唐手誌

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
2003年5月『うらそえ文藝』第8号ー船越義彰「解らないことを調べるー撃壌とウンラーギー/古資料収集家の新城栄徳氏から古い新聞紙のコピーが送られて来た。大正丙辰(大正5年、1916年)元旦の紙面で船越義珍翁の漢詩が掲載されている。義珍翁は空手普及の先達として知られているが、私にとっては従兄弟伯父にあたり、昭和15年から18年にかけて、雑司ヶ谷の松濤館に通い、その謦咳に接したのであるから、おおいに興味をそそられた。ただし私の松濤館通いは空手の稽古のためではなかったー」。(→グーグル/ヤフー画像「冨名腰(船越)義珍」)→琉文21「冨名腰(船越)義珍」

後田多敦さんのHP「海邦小国」に空手界を代表する人物・喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)の嘉手納でのシンポウムのことが記されている。朝徳の父親が琉球国末期に琉球国の外交などを担った喜屋武朝扶。後田多さんの人物研究テーマの一人である。下記の本の表紙に朝扶が写っている。

後田多敦『琉球救国運動ー抗日の思想と行動』出版社Mugen(電話FAX098-863-2562)
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表紙は維新慶賀使の写真である。前に後田多氏に貰った「外務省資料」(アジア歴史センター)に一行の動向が記されている。それによると写真は1872年「9月10日午前11時に三使(伊江王子・宜野湾親方・喜屋武親雲上)並びに安田親雲上、浅草内田九一宅へ行き像影を写す。堀江少録同伴」とある。内田は明治天皇の肖像写真で知られている。三使に隋行し上京したのは山里親雲上(長賢、那覇市泊小学校に頌徳碑がある)、翁長親雲上、與世田親雲上、上江洲親雲上、伊波親雲上、仲嶺親雲上、安田親雲上、比嘉親雲上、喜舎場筑登之、花城里之子、親泊里之子、真壁里之子、豊村里之子、當真筑登之、仲村渠筑登之、屋嘉比筑登之、松嶋子、仲宗根子、東恩納子、仲山子、東江、宮城、島袋、仲本、備瀬、嶋袋、金城、又吉、新垣、國吉、與那嶺、知念、宮城、仲宗根と記されている。


写真左から後田多敦さん、出版社社長、神坂次郎氏、新城栄徳

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