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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


写真右から伊江隆人氏、伊江淳君


Category: 04-書の森
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写真ー初代西川扇一郎

初代西川扇一郎ニシカワ センイチロウ(市川錦彌)
職業奄美・琉球舞踊家
生年月日大正5年 4月13日、没年月日昭和40年 12月19日 (1965年) 昭和期の奄美・琉球舞踊家。
富田誠夫・貞松の長男として住用村見里に生まれる。本名富田盛勇
昭和10年 東城校高等科卒業
昭和11年 東洋活動写真俳優養成科卒業。西川嘉扇に師事する。
昭和13年 兵役にて中支那(出兵)
昭和15年 嘉野写真館①に勤める
①嘉(納)写真館(嘉納善七、龍郷村中勝出身)ー嘉納善七氏は、大正7年、名瀬市永田町大島病院の向かい角(現肥後プロパン付近)で開業。弟子に藤井セツ、平兼豊がいた。昭和18年ごろ廃業。若いころ東京にいて、その時分に写真術を修得したらしい。風景写真を好み、芸術家はだで、写真技術は優れていた。(名瀬・藤井セツ氏談) →1996年7月『改訂 名瀬市史』「2巻 歴史編」

昭和18年 嘉野ウメ(龍郷町中勝出身)と結婚
昭和19年 長男・穂積誕生(千葉市で獣医)
昭和22年 次男・竜馬誕生(鹿児島でNTT勤務)/奄美芸能協会中堅幹部として参加、日舞を担当。メンバーは鳥越義雄、内山一三、青山一郎(本名・安藤俊博)、橘馨、伊是名謙志(伊是名流家元)、英とし子らであった。
昭和24年 奄美芸能協会一行と那覇に渡り、好評を博した。那覇市壺屋で市川錦彌舞踊研究所を設立。
昭和26年 三男力弥誕生(二代目西川扇一郎)

二代目西川扇一郎

昭和29年 十世宗家西川扇蔵に師事、西川扇一郎を許名。
昭和30年 市川舞踊研究所を西川扇一郎舞踊道場に改める
昭和37年 ふるさと旗揚げ公演 奄美にて初代西川扇一郎舞踊道場(名瀬・住用村、古仁屋・喜界島)
昭和38年 南條舞踊賞受賞



1958年 「新人芸能祭」




1961年 「芸術祭」




1962年 「第9回芸術祭」
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2015年11月25日~12月27日 沖縄県立博物館・美術館「大嶺政寛 展」



写真左から上原誠勇氏、山田實さん(後が山田勉氏)、伊佐眞一氏

伊佐眞一
はいさい!
 ちゅーや いい ぬちぐすい やいびーたんやー。わんねー せいくゎんや でーじな ゐー描ちゃー やいびーんでぃ 思むとーん。フツーぬ 絵かき屋 興味や ねーんしが、せいくゎんや 見逃ぬがすくとー ないびらん。11時半までぃ よーんなー よーんなー、せいくゎんとぅ 話 そーたん。(せいくゎんが、グソーから 降りてぃっち、わん すばんかい ちょうーたんでー。 

12月30日 くねーだー にふぇーでーびたん。政寛 んーち、なー ちゅふぁーら なとーんでー。 いい そーぐゎち 迎ぇーん そーり。


写真左から上原徹氏、宮城篤正氏、尚子ポンテロさん、山田實さん、安里進氏


写真左から大嶺政寛の娘・尚子ポンテロ(アメリカ ウィスコンシン州在住)さんファミリー、山田實さん

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1935年4月「第一回沖縄洋画協会展」①大嶺政寛 ②大嶺政敏 ③大城皓也 ④大城皓也夫人 ⑤末吉安久 ⑥具志堅以徳 ⑦桃原思石 ⑧山田有昂 ⑨西銘生一 ⑩國吉眞喜 ⑪宮平清一⑫許田重勲 ⑬渡嘉敷唯盛 ⑭安仁屋政栄


1955年 第10回文部省芸術祭公演参加のメンバー(那覇・世界館)前列右から大嶺政寛、玉那覇正吉、國吉眞哲、山本義樹、豊平良顕、南風原朝光、末吉安久、田島清郷。後列右から宮里春行、識名盛人、眞境名由乃、眞境名由苗、牧志尚子、平良雄一、眞境名由康、勝連盛重、宮平敏子、屋嘉宗勝、眞境名佳子、喜納幸子、南風原逸子、仲嶺盛竹、嘉手苅静子、屋嘉澄子、仲嶺盛徳。

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Posted by: ryubun02
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1996年11月『治谷文夫の世界』



治谷文夫氏と新垣安雄氏




1998年1月『初代西川扇一郎三十三回忌追善 一本の扇』(表紙絵・治谷文夫)
○治谷平三氏が映画の活弁で活躍していた。画家の治谷文夫という方のお兄さんだよ。とても器用な人でね、社交ダンスの教師、手品、奇術、そして流行の艶歌までこなし先代の西川扇一郎と一緒に軍のクラブを回っていた。(識名五郎)


2015年9月11日 沖縄県立博物館・美術館入口で、治谷文夫氏

2015年11月3日 沖縄県立博物館・美術館講堂で治谷文夫氏、喜久村徳男氏


治谷 文夫 はるや ふみお HARUYA Fumio 1936(昭和11) 鹿児島県名瀬市生まれ
1957(昭和32) 首里高等学校卒業 /1960(昭和35) 第12回沖展初入選
1962(昭和37) 第14回沖展奨励賞/第47回二科展初入選(東京都美術館)
1968(昭和43)
第1回個展(沖縄タイムスホール/那覇市) 1984(昭和59) サロン・ドートンヌ入選 現代日本画家代表作家スペイン展、招待出品
1985(昭和60) 沖縄タイムス芸術選賞奨励賞 /1986(昭和61) 第5回個展(ギャラリー・ビジョン/那覇市)
1988(昭和63) 第24回国際亜細亜美術展奨励賞 /1991(平成3)島の道・美の交流展(奄美文化センター)
1992(平成4)
亜細亜現代美術展金沢(石川県立美術館) 沖縄タイムス芸術選賞大賞



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Posted by: ryubun02
null10月31日~12月23日 那覇市歴史博物館「石澤司コレクション展/郵便で見る沖縄史-琉球処分から日本復帰までの郵便物」


写真左から石澤司氏、真喜志康徳氏

米国からヘンリー・E・アモア宛の葉書


大東諸島の郵便物

尚順の手紙と、名刺封筒

新垣恒政宛の手紙と、新垣著『医療宣撫行』

真喜志康徳氏の郵便資料

昼のNHKニュースで那覇市歴史博物館「石澤司コレクション展/郵便で見る沖縄史-琉球処分から日本復帰までの郵便物」を報じる。

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Posted by: ryubun02
島倉伊平次、千代の二男として佐渡郡真野町新町で生まれる。小学校を卒業するとすぐ上京。あらゆる職業を転々としたのち働きながら東京法学院(中央大学の前身)に通う。1893年に卒業。94年、神奈川県人石渡かよと結婚。このころ島倉は東京向島言間付近に住んでいた。妻かよは東京女子職業学校を卒業していて毛糸の編み物、針仕事で生計を助けていた。島倉が勉学に必要な書物を上野図書館から借りだし人通りの少ない夜道を往復した。1900年、島倉は判検事試験に合格。司法官試補として若松、徳島などの裁判所勤務。05年、司法省嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄の制度を視察するため渡米。

1908年、検事として宇都宮、東京控訴院、千葉、浜松勤務。1921年、那覇裁判所検事正。29年、大審院判事。
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写真ー左は真境名安興に協力して日本大学に出版させた『沖縄一千年史』/右は島倉龍治

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田島利三郎 たじま-りさぶろう
1869-1931 明治-昭和時代前期の沖縄研究者。
明治2年生まれ。26年沖縄中学に国語教師として赴任,「おもろさうし」を中心に沖縄の言語文化を研究。28年解雇され,30年上京。36年研究資料を教え子の伊波普猷(いは-ふゆう)にゆずり,台湾,朝鮮などを放浪,昭和6年中国の漢口で客死した。63歳。新潟県出身。国学院卒。 →コトバンク

 明治44年刊行された伊波の「古琉球」は、沖縄史の全体像と文化の独自性を訴える書として9回にわたる改訂復刻がなされ人々に愛読されている。

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2015年11月16日 自宅で池宮城洋氏から沖縄満州会『沖縄それぞれの満州ー語り尽くせぬ記憶』を受けとる山田實さん



2003年7月13日 沖縄満州会第3回総会 上段右から8人目が山田實さん

左が山田實撮影の真山
2015年11月17日~2016年2月21日 沖縄県立博物館・美術館「巨匠 真山がみつめた平和のいろとかたち」

写真右から高安広子さん(理学博士)、山田實さん
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Posted by: ryubun02
○琉球の泡盛は何時の頃より醸造せしか記録の微すべきなけれども、薩摩に齎らされしは天正十三年四月なりとす。薩人伊地知季安①著南聘紀考に「二十九日琉使祖庭、導信房、訪観貞第、為尚永王饋織物二端、大平布十端、焼酒一器、己亦進織物十端、竹心香、蝋燭二十挺、焼酒一器」とあり、其の以前には焼酒の名なきのみならず、更に島津義久が諸臣を集め聯歌の会を催し「飲之焼酒莫不珍賞焉」と云ふことあればなり。泡盛の琉球にて醸造を創めたるもこれより遠き以前のことにあらざるべし。焼酒が今云ふ泡盛のことなるは勿論なり。

①伊地知季安 いじち-すえやす
1782-1867 江戸時代後期の武士。
天明2年4月11日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。文化5年藩の政変,近思録崩れで遠島となり,ゆるされたのち鹿児島で謹慎中に藩の史料を収集,おおくの著作をあらわした。嘉永(かえい)5年記録奉行,のち用人。その仕事は「薩藩旧記雑録」で有名。慶応3年8月3日死去。86歳。本姓は伊勢。初名は季彬(すえひで)。字(あざな)は子静。通称は小十郎。号は潜隠。 →コトバンク

  国立文楽劇場の資料展示室をのぞいたことがある。三味線の歴史の説明に「三味線は、永禄年間(1558-1570)琉球から大阪の堺港に渡来したといわれ、型は三弦の蛇皮胴のものであったと推定されます」とあった。近代以前の琉球ロマンはおいおい後述するとして、ここでは「さまよへる琉球人」のイメージがつきまとう近代における琉球人の歩みを抽象的ではなく具体的に述べることとする。

○1918年9月1日 『日本及日本人』麦生(末吉安恭)「琉球三味線に就いて」
東儀鐵笛氏は嘗て三味線が琉球より渡来せしといふ旧説は真っ赤な嘘にて、慶長の頃には琉球にてもまだ用をなさざりし様なりと云はれたり、(日本及日本人548号参照)非三味線渡来説には如何なる有力なる憑■あるや知らずと雖も、慶長の頃には琉球でもまだ用をなさざりとは真っ赤な嘘にて、定西法師伝、御先祖記(松屋筆記引抄)等にも明らかなるが、琉球の記録に依れば、喜安日記慶長十五年四月十六日川内新田八幡に参詣の條にて「静に法施参らせ人々三絃の秘曲を弾しかば、宮中もすみわたり、誠に面白かりければ、神明も感激に堪ずやおぼしけん」とあり、薩摩三界まで三味線を携へ行ける程なれば、本国に於いて今だ用をなさざりしとは云ひ雖し。・・・・


関西におけるウチナーンチュの歩み 

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。
 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。

 1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった。5月には沖縄県令として鍋島直彬が長崎出身官僚32人をともない着任した。前後して、琉球藩王・尚泰は東海丸で那覇港を出帆。6月4日には神戸で2泊。6月6日に新潟丸で東京に向けて神戸港を出帆。
 
 1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』には、「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。

 1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。

 1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮参詣。西村は中井弘滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。4月には大迫貞清が沖縄県令として赴任。11月、在京沖縄県学生会・勇進社が結成された。

 1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。

 1890年9月、東京で『沖縄青年雑誌』が創刊される。編集員は富川盛睦、仲吉朝助、謝花昇、諸見里朝鴻であった。1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

 琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

 同年9月22日、『大阪朝日新聞』は「琉球新報-廃藩置県の日浅く他県に比して一層の啓発を要するの地宜なる哉此新報の発刊を見るや新報は隔日刊にして初号には琉球年代記を附録せり」。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。

 同年9月23日、『読売新聞』は「琉球新報-かねて噂ありたる琉球新報は去十五日第一号を発兌せり吾人は之より琉球が社会上の問題として並びに経済上の問題として天下に紹介さるるを喜ぶ」と報じる。 同年9月26日、『朝野新聞』は「琉球に新報起れリ-昔は絶海の孤島、今は沖縄県の奔蒼裡に、喜ぶべし開明の一機関なる新聞は起これり。今や計画準備全く整頓して、琉球新報と題名し、去る十五日を以って第一号を発兌したりという。発起人は尚順氏の代表者、島按司護得久朝惟、商人芝原佐一、按司高嶺某、同親方豊見城某、宮井悦之助、野間五造の人々にて、発行兼印刷人は伊奈訓氏、編集人は太田朝敷氏、校正は諸見里朝鴻氏なり。印刷機械は従来沖縄県庁に備え付けありしものを七万圓にて払い下げ、維持費には同県庁の公布式を引き受けし年額二千圓余を充つるはずなりとぞ。因に記す、新聞の発行は当分隔日なる由」。27日の『国民新聞』は「琉球新報は去る十五日那覇西村琉球新報に由て発刊せられたり曾て慶応義塾に遊学しつつありたる琉球人の筆になる云ふ」と報じられた。

1893年9月15日『琉球新報』創刊①


1917年9月24日『琉球新報』「本紙創刊第一號」

               
1893年9月15日『毎日新聞』                          『郵便報知新聞』

               
1893年9月15日『時事新報』                          『東京朝日新聞』


1893年9月22日『日出新聞』                 


1893年9月26日『朝野新聞』


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Posted by: ryubun02
○人間存在の何たるかを追求して止まぬ先生・・・・・・・・・・・・・川平成雄①
○松田賀孝教授略歴および業績一覧
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右ー松田賀孝氏(一橋大学経済学博士、琉球大学名誉教授)

①川平成雄

左端が川平成雄氏
2011年2月ー川平成雄(沖縄社会経済史)『沖縄 空白の一年 1945-1946』吉川弘文館□日本は「主権国家」とは名ばかりのアメリカの「属国」であり、この「属県」が沖縄であることを、今回の仲井真知事の訪米は知らしめてくれた。仲井真知事が、県民の「声」を代表して渡米したと釈明するのは、目に見えている。沖縄県民の意思を愚弄した知事も悪いが、この知事を選んだ沖縄県民はなお悪い。(略)管内閣はといえば、アメリカの顔色を伺い、先延ばし政策をとる。鳩山・管内閣は、「主権なき国家」のみじめな姿を教えてくれた。

2012年10月 川平成雄『沖縄 占領下を生き抜くー軍用地・通貨・毒ガス』吉川弘文館
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占領下を生きるープロローグ
アイスバーグ作戦と沖縄戦ーアイスバーグ作戦と住民/「鉄の嵐」「血の嵐」の沖縄戦朝鮮戦争・スクラップ・沖縄ー朝鮮特需と日本経済/スクラップと沖縄経済/生活の糧と事故の多発強制的軍用地接収と住民ー軍用地問題の発端/土地接収の本格化/軍用地料一括払い問題の波紋/「土地なき民」と軍雇用者/プライス勧告と土地闘争のうねり類をみない度重なる通貨交換ー無通貨時代/B型円軍票・新日本円から新日本円時代へ/B型円軍票時代/ドル時代/ドル時代から円へ

毒ガス貯蔵発覚からレッドハット作戦へー毒ガス貯蔵の発覚/アメリカ政府と日本政府の動き/毒ガス撤去闘争と琉球政府の苦悩/レッドハット作戦「見えぬ恐怖」との闘い沖縄返還から40年をへてーエピローグ


1919年6月15日 『日本及日本人』759号 麦生(末吉安恭)「経済」
エコノミーを経済と譯するの適否は知らず、會澤正志の新論に「或毛擧細故、唯貨利是談、自称経済之學」云々とあり、政治が今日謂ふ所の経済に重きを置くことが、近世的傾向たるにより、譯者をして此の語を選ばしめ、敢て不適常を感ぜしめざるに至りしやも知るべからず。又支那にも後世に至り経済を倹約の意に用ひしことありや。清朝の詩人舒位の詩に「一屋荘巌妻子佛、六時経済米盬花」とあり、猶ほ考ふばし。
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Posted by: ryubun02
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写真左から城間喜宏氏、赤嶺正則氏


写真左から赤嶺正則氏、城間喜宏氏
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Posted by: ryubun02
 <平和の俳句-東京新聞->紙の舌持つ漢(おとこ)アベ
秋暑し紙の舌持つ漢(おとこ)だの-2015年11月2日 久世しづえ(67) 岐阜県海津市
<いとうせいこう>夏が過ぎやらず、裏切られたような一日。二枚舌を平気で使う男への呆(あき)れと侮蔑が脳裏を離れない。「だの」の二文字がしたたかだ。

 近刊の週刊誌に作家の安倍譲二が「パンツ泥棒の高木毅復興大臣、森山裕農林水産大臣の暴力団スキャンダル」と書いているのでグーグルで検索してみた。○「パンツ泥棒」から「大臣」へと、 奇跡的な出世を遂げた人物がいる。 高木毅復興大臣(59)だ。 パンツ泥棒の父親は、高木孝一元敦賀市長。 父親の孝一は、敦賀市議を2期、福井県議を4期つとめた後、1979年から95年の長期に渡って敦賀市長として市政を牛耳った地元政界のドン。孝一氏はまさにこれを利用し、息子の下着ドロボーをその権力で揉み消したのである。
○鹿児島5区。森山裕農林水産大臣は 議会議長だった時に地元紙に“黒い交際”疑惑を書かれて辞任した。1988年7月、暴力団幹部2人が組事務所で当時30代の男性を竹刀などでメッタ打ちにした時、森山大臣が居合わせたのである。

日刊ゲンダイ 2015年11月6日暴力団幹部が「アイちゃん」と…島尻沖縄相に“黒い交際”疑惑
地元では「島“喰い”安伊子」のあだ名が「島“喰い”安伊子(アイコー=アリのこと)」――地元ではこんなあだ名で呼ばれている。かつて普天間基地の「県外移設」を掲げながら、百八十度方針を転換した島尻安伊子沖縄・北方担当大臣(50)。今や、辺野古基地前で「移設反対」の声を上げる市民らを「規制すべき」とまで断じているが、実は今、官邸内は彼女の“黒い人脈”に危機感を抱き始めているというのだ。真相を確かめるべく、本紙記者は沖縄へと飛んだ。

「島尻さんは、以前から反社会的勢力と深い関係にあるようだ」こう話すのは沖縄・那覇市の自民党関係者だ。保革の差を問わず、沖縄政界では同様の噂が飛び交っている。地元紙記者が、その噂を裏付けるようにこう言う。「島尻さんは那覇市議として初当選した2004年ごろ、当時、指定暴力団・東声会の下部組織の幹部を務めたA氏に可愛がられていました。現在60代のA氏は、島尻さんの選挙資金の工面をよく面倒みていた。地元の大手不動産会社の社長との間を取り持ったり、スポンサーを紹介していたようです。島尻さんのことを『アイちゃん』と親しげに呼んでいたのが印象的です」


 島尻大臣がA氏と付き合うようになったのは、夫で現地の学校法人の理事長を務める昇氏(57)が関係しているようだ。「昇氏とA氏は同じ宮古島出身で、古くから付き合いがあるそうです。仙台市生まれの島尻さんは89年に結婚し、沖縄で暮らすようになってから、A氏と知り合ったのでしょう」(前出の地元紙記者)島尻大臣との関係について、現在は組を離れたA氏に電話で問い合わせたが、「その話はしたくない」と口を閉ざした。さらに、昇氏にも黒い交際疑惑が浮上している。10月16日号の「週刊金曜日」が昇氏についてこう報じた。〈02年8月に、民主党が『自主・独立』を軸に据えた『ビジョン沖縄』を策定し、県庁で発表した。その際、詰めかけた右翼の街宣車を妨害したのが、指定暴力団・沖縄旭琉会の二次団体『功揚一家』だった〉 当時、民主党の県連代表を務めていたのが、昇氏なのだ。

 これには、チョット説明が必要で、昇氏はもともと、さきがけ沖縄の代表を務めていたが、97年に離党。民主党沖縄の結成に尽力し、初代代表を務めた。さきがけ時代も含め、これまで4度、衆院選に出馬、落選している。3度目の挑戦となった03年衆院選の惨敗で、「『あまりにも不甲斐ない』と民主党本部に見捨てられた」(地元事情通)という。市議だった妻と共に05年に民主党を離党。無所属で衆院選に出馬したが、やはり惨敗した。「ビジョン沖縄策定の際、暴力団に右翼の妨害を要請したのは、民主党県連だったと聞いています。誰が判断を下したのかは分かりませんが、当時、県連代表だった昇さんが無関係だったとは言い切れません」(05~14年、民主党県連代表を務めていた喜納昌吉氏)島尻大臣は甲斐なしのダンナを通じて“黒い人脈”をつくり上げたのだろうか。島尻大臣の事務所に暴力団との関係について問い合わせたが、締め切りまでに回答はなかった。

 政治献金問題で揺れている下村文科相が、自身の息子をイギリスの学校に通わせていた事が分かりました。下村氏は道徳教育の大幅な見直しや嘘である「江戸しぐさ」、コラム問題の曽野綾子を教育に取り入れる方針を打ち出しています。また、愛国心を強化する教育方針を示唆していますが、肝心の自分の息子を日本に学校に通わせていないというのは違和感があると謂えるでしょう。下村博文氏は著書の「下村博文の教育立国論」にも、息子がイギリスの学校に通学していることを書いています。小学校4年のときに息子がディスレクシア(学習障害)であることが判明すると、学習障害の問題に取り組んでいるイギリスの学校に入学させる方針を決めたようです。

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