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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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1996年11月『治谷文夫の世界』



治谷文夫氏と新垣安雄氏




1998年1月『初代西川扇一郎三十三回忌追善 一本の扇』(表紙絵・治谷文夫)
○治谷平三氏が映画の活弁で活躍していた。画家の治谷文夫という方のお兄さんだよ。とても器用な人でね、社交ダンスの教師、手品、奇術、そして流行の艶歌までこなし先代の西川扇一郎と一緒に軍のクラブを回っていた。(識名五郎)


2015年9月11日 沖縄県立博物館・美術館入口で、治谷文夫氏

2015年11月3日 沖縄県立博物館・美術館講堂で治谷文夫氏、喜久村徳男氏


治谷 文夫 はるや ふみお HARUYA Fumio 1936(昭和11) 鹿児島県名瀬市生まれ
1957(昭和32) 首里高等学校卒業 /1960(昭和35) 第12回沖展初入選
1962(昭和37) 第14回沖展奨励賞/第47回二科展初入選(東京都美術館)
1968(昭和43)
第1回個展(沖縄タイムスホール/那覇市) 1984(昭和59) サロン・ドートンヌ入選 現代日本画家代表作家スペイン展、招待出品
1985(昭和60) 沖縄タイムス芸術選賞奨励賞 /1986(昭和61) 第5回個展(ギャラリー・ビジョン/那覇市)
1988(昭和63) 第24回国際亜細亜美術展奨励賞 /1991(平成3)島の道・美の交流展(奄美文化センター)
1992(平成4)
亜細亜現代美術展金沢(石川県立美術館) 沖縄タイムス芸術選賞大賞



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Posted by: ryubun02
null10月31日~12月23日 那覇市歴史博物館「石澤司コレクション展/郵便で見る沖縄史-琉球処分から日本復帰までの郵便物」


写真左から石澤司氏、真喜志康徳氏

米国からヘンリー・E・アモア宛の葉書


大東諸島の郵便物

尚順の手紙と、名刺封筒

新垣恒政宛の手紙と、新垣著『医療宣撫行』

真喜志康徳氏の郵便資料

昼のNHKニュースで那覇市歴史博物館「石澤司コレクション展/郵便で見る沖縄史-琉球処分から日本復帰までの郵便物」を報じる。


琉球切手のすべて

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Posted by: ryubun02
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田島利三郎 たじま-りさぶろう
1869-1931 明治-昭和時代前期の沖縄研究者。
明治2年生まれ。26年沖縄中学に国語教師として赴任,「おもろさうし」を中心に沖縄の言語文化を研究。28年解雇され,30年上京。36年研究資料を教え子の伊波普猷(いは-ふゆう)にゆずり,台湾,朝鮮などを放浪,昭和6年中国の漢口で客死した。63歳。新潟県出身。国学院卒。 →コトバンク

 明治44年刊行された伊波の「古琉球」は、沖縄史の全体像と文化の独自性を訴える書として9回にわたる改訂復刻がなされ人々に愛読されている。


1982年1月3版 那覇市『写真集・那覇百年のあゆみ』(琉球処分百年記念出版)

11月11日の『琉球新報』を見ると、福島県から沖縄へ避難してきた人は月平均50人になるという。沖縄にエイサーを伝えたとされる袋中上人は1603年に来琉しているが、現在の福島県いわき市出身である。著に『琉球神道記』がある。沖縄学の父・伊波普猷は袋中の琉球神道記を引いて「君真物」を書いている。
1936年5月『短歌研究』伊波普猷「君真物の来訪」
□あらゆる行事の時、祭を受ける神の火の神であることを見、聞得大君以下の神職の斎き持つ神の火の神であることを知った読者は、これに対して国つ神の影の薄いのを変に思うに違いないが、その理由は週期的に訪れる遠来神の事を述べた後に説明することにしよう。既に述べた如く、ニライ・カナイは不断は火の神を通じて祭っているが、そこからはまた時を定めて神がやって来ると考えられていた。そしてその神は「かないの君真物」(俗に「にらいの大ぬし」)といって、馬琴の弓張月にも取入れられたほど、人口に膾炙するものである。

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Posted by: ryubun02
○琉球の泡盛は何時の頃より醸造せしか記録の微すべきなけれども、薩摩に齎らされしは天正十三年四月なりとす。薩人伊地知季安①著南聘紀考に「二十九日琉使祖庭、導信房、訪観貞第、為尚永王饋織物二端、大平布十端、焼酒一器、己亦進織物十端、竹心香、蝋燭二十挺、焼酒一器」とあり、其の以前には焼酒の名なきのみならず、更に島津義久が諸臣を集め聯歌の会を催し「飲之焼酒莫不珍賞焉」と云ふことあればなり。泡盛の琉球にて醸造を創めたるもこれより遠き以前のことにあらざるべし。焼酒が今云ふ泡盛のことなるは勿論なり。

①伊地知季安 いじち-すえやす
1782-1867 江戸時代後期の武士。
天明2年4月11日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。文化5年藩の政変,近思録崩れで遠島となり,ゆるされたのち鹿児島で謹慎中に藩の史料を収集,おおくの著作をあらわした。嘉永(かえい)5年記録奉行,のち用人。その仕事は「薩藩旧記雑録」で有名。慶応3年8月3日死去。86歳。本姓は伊勢。初名は季彬(すえひで)。字(あざな)は子静。通称は小十郎。号は潜隠。 →コトバンク

  国立文楽劇場の資料展示室をのぞいたことがある。三味線の歴史の説明に「三味線は、永禄年間(1558-1570)琉球から大阪の堺港に渡来したといわれ、型は三弦の蛇皮胴のものであったと推定されます」とあった。近代以前の琉球ロマンはおいおい後述するとして、ここでは「さまよへる琉球人」のイメージがつきまとう近代における琉球人の歩みを抽象的ではなく具体的に述べることとする。

○1918年9月1日 『日本及日本人』麦生(末吉安恭)「琉球三味線に就いて」
東儀鐵笛氏は嘗て三味線が琉球より渡来せしといふ旧説は真っ赤な嘘にて、慶長の頃には琉球にてもまだ用をなさざりし様なりと云はれたり、(日本及日本人548号参照)非三味線渡来説には如何なる有力なる憑■あるや知らずと雖も、慶長の頃には琉球でもまだ用をなさざりとは真っ赤な嘘にて、定西法師伝、御先祖記(松屋筆記引抄)等にも明らかなるが、琉球の記録に依れば、喜安日記慶長十五年四月十六日川内新田八幡に参詣の條にて「静に法施参らせ人々三絃の秘曲を弾しかば、宮中もすみわたり、誠に面白かりければ、神明も感激に堪ずやおぼしけん」とあり、薩摩三界まで三味線を携へ行ける程なれば、本国に於いて今だ用をなさざりしとは云ひ雖し。・・・・


写真ー小橋川朝重



1913年2月2日ー琉球新報記者だった富川盛睦(小橋川朝重撮影)
1922年9月15日『沖縄タイムス』広告「出張写真開業ー那覇市山下町1-22 小橋川朝重」

1924年2月 沖縄県立沖縄図書館『琉球史料目録』


麦門冬と南村・小橋川朝明



1921年6月18日『沖縄タイムス』小橋川南村(大阪)「黨弊打破と人物本位論 多数黨を監視するは県民の義務」

1933年4月『沖縄教育』沖縄県教育会(島袋源一郎)印刷・向春商会印刷部(小橋川朝明)
小橋川南村「春のこころ」
○われも、また/老にけるかや/つくろひて/人にもの言ふ/昨日今日かな□折々は、/子供のやうに屋根裏に/登りて空を/眺めたりする□神の子よ、生れずあらば/かくまでに/物思ふ身に/あらざらましを(乳児紀逝く)□大聲に、/わめき狂はば/このこころ/癒えなんと思ひ/海濱に行く

2004年『沖縄県図書館協会誌』弟8号 新城栄徳
○私は南村・小橋川朝明の子息・朝二氏から話を聞き『近代日本社会運動史人物大事典』(1997年)の小橋川朝明について「琉球王府絵師・向元瑚や、琉歌人・小橋川朝昇を祖に持つだけあって、『沖縄毎日新聞』記者の時、『スバル』『創作』などに歌を投稿し文芸・美術評論もやる」と記した。麦門冬は南村に対し親友以上の関係を作ろうと、その兄・小橋川朝重の息子と自分の妹を結婚させた。が、この若い夫婦、我が儘育ちゆえ喧嘩ばかり。すぐ別れた。慌てた麦門冬、南村に「こんなことで僕らの友情は変わらない」と念を押した。麦門冬が水死したときの追悼式案内に南村は名を連ねているが、追悼文は書いていない。それだけ悲痛に暮れた。後に家族に「親友は持つものではない」と云うたという。


写真左からー麦門冬・末吉安恭、儀間泉南、小橋川朝重、真境名安興

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 日置昌一 ひおき-しょういち 1904-1960 大正-昭和時代の日本文化史研究家。明治37年10月27日生まれ。小学校卒業後東京にでてはたらきながら,17年間上野の帝国図書館にかよいつづけて膨大な書物を読破。その博覧強記ぶりから「ものしり博士」といわれ,「国史大年表」「日本系譜綜覧」「ものしり事典」などおおくの著書を刊行。昭和35年6月9日死去。55歳。岐阜県出身。→コトバンク

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Posted by: ryubun02
○人間存在の何たるかを追求して止まぬ先生・・・・・・・・・・・・・川平成雄①
○松田賀孝教授略歴および業績一覧
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右ー松田賀孝氏(一橋大学経済学博士、琉球大学名誉教授)

①川平成雄
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左端が川平成雄氏
2011年2月ー川平成雄(沖縄社会経済史)『沖縄 空白の一年 1945-1946』吉川弘文館□日本は「主権国家」とは名ばかりのアメリカの「属国」であり、この「属県」が沖縄であることを、今回の仲井真知事の訪米は知らしめてくれた。仲井真知事が、県民の「声」を代表して渡米したと釈明するのは、目に見えている。沖縄県民の意思を愚弄した知事も悪いが、この知事を選んだ沖縄県民はなお悪い。(略)管内閣はといえば、アメリカの顔色を伺い、先延ばし政策をとる。鳩山・管内閣は、「主権なき国家」のみじめな姿を教えてくれた。

2012年10月 川平成雄『沖縄 占領下を生き抜くー軍用地・通貨・毒ガス』吉川弘文館
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占領下を生きるープロローグ
アイスバーグ作戦と沖縄戦ーアイスバーグ作戦と住民/「鉄の嵐」「血の嵐」の沖縄戦朝鮮戦争・スクラップ・沖縄ー朝鮮特需と日本経済/スクラップと沖縄経済/生活の糧と事故の多発強制的軍用地接収と住民ー軍用地問題の発端/土地接収の本格化/軍用地料一括払い問題の波紋/「土地なき民」と軍雇用者/プライス勧告と土地闘争のうねり類をみない度重なる通貨交換ー無通貨時代/B型円軍票・新日本円から新日本円時代へ/B型円軍票時代/ドル時代/ドル時代から円へ

毒ガス貯蔵発覚からレッドハット作戦へー毒ガス貯蔵の発覚/アメリカ政府と日本政府の動き/毒ガス撤去闘争と琉球政府の苦悩/レッドハット作戦「見えぬ恐怖」との闘い沖縄返還から40年をへてーエピローグ


1919年6月15日 『日本及日本人』759号 麦生(末吉安恭)「経済」
エコノミーを経済と譯するの適否は知らず、會澤正志の新論に「或毛擧細故、唯貨利是談、自称経済之學」云々とあり、政治が今日謂ふ所の経済に重きを置くことが、近世的傾向たるにより、譯者をして此の語を選ばしめ、敢て不適常を感ぜしめざるに至りしやも知るべからず。又支那にも後世に至り経済を倹約の意に用ひしことありや。清朝の詩人舒位の詩に「一屋荘巌妻子佛、六時経済米盬花」とあり、猶ほ考ふばし。

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