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Category: 04-書の森
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上ー饒平名智太郎の本。 下ー饒平名(永丘)智太郎と甥の知念良秀。右ー知念良秀氏(佐倉市の知念宅前で/撮影・新城栄徳)

□→2004年2月28日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網ー沖縄物産に生きた知念氏」□→「琉文21」


□2005年5月『琉球弧の雑誌展』新城栄徳「饒平名智太郎と親泊康永」沖縄タイムス社

東京本郷にあった知念良秀氏経営の「沖縄民芸社」守礼門が印象的だ
□1970年3月『オキナワグラフ』ー知念良秀さん(千葉県佐倉市新町96番地)/わたしが扱っている品数は多いですよ。沖縄産のもの、沖縄に関するものなら何でも、と言ってもいいでしょう。レコード、切手、書籍、漆器、貝彫刻、bべっ甲、カツオ節、パインジュース、絵ハガキ、スライドなどなど。商社なみの取り揃えぶりです。東京郵便切手商協同組合に入っており、琉球郵便切手は沖縄でより安く売る店を自慢にしていますが、切手収集ブームは根強いものがあり、今後も収集家が減ることはないでしょう。復帰のあかつきには琉球郵便も当然廃止されることになるわけで、今のうちに集めておかれるよう宣伝している次第です。最近は発行部数が需要にくらべて少ないようです。またデザイン、色彩ももっと良くしてくれるよう琉球政府に働きかけています。世界には珍しい切手を発行することで国家財政を潤している国もあるほどで、積極的な売り込みに出てほしい。

レコードは20年も30年も昔に上京した人が懐かしがって買いに来たり、集団就職の青少年や学生などが故郷を思い出すよすがに買い求めていきます。沖縄にはいい民謡が数知れずあります。それらをどしどし吹き込んでレコード化させ、シリーズで出せば注目されるでしょう。沖縄物産を売ること、それは私の生きがいです。


知念良秀
2004年2月28日『沖縄タイムス』新城栄徳(うちなー書の森 人の網)ー那覇に住んでいると東京は遠くなる。2002年夏、琉球書院の大城精徳氏から電話があり、「千葉の佐倉におられる知念良秀氏から早めに来てほしいと君への連絡があった」という。台風が接近中だったので東大阪市の自宅に行き新幹線で上京。上野の西郷隆盛銅像に近い駅から佐倉市へ向かう。翌日、台風の風雨の中、みつい夫人運転の車で知念氏と子息宅に行き成田空港地域共生委員会伝承部会調査員の取材に応じた。伝承部会『2002年度調査報告書』に「永丘智太郎氏のご親類であることから、知念氏に昨年7月に聞き取り調査を行った。その際、永丘氏について研究されている新城栄徳氏(那覇市在住)も同席した」とある。知念氏と永丘については1998年5月の琉球新報「東京で活躍した出版人2人/饒平名(永丘)智太郎と親泊康永」で書いた。永丘は1914年、上海の東亜同文書院で学び北京の共同通信英文記者を経て改造記者となり孫文、片山潜らに知遇を得た。

知念良秀氏は沖縄戦で、球部隊の通信兵として激戦地をさまよった。港川で捕虜となりハワイの収容所へ。そして送還され胸を患い金武の保養院から国立佐倉療養所に入所。社会復帰を果たし、1965年、趣味の切手商を経て沖縄物産を手がけ東京本郷で沖縄民芸社を経営する。知念氏は歌誌『九年母』の古い同人。『松田守夫歌集』(1964年)に知念良秀兄と題し「朝明けてつばめ飛び交う街の空日本に君を今日発たしめむ」とある。帰る際に、知念氏は真新しい墓の写真を見せてくれた。それが2003年3月6日享年77歳で亡くなられた氏との別れとなった。氏からおくられた歌「下総に移りきてすでに30余年鉢の蘇鉄は枯れ果てにけり」「故里の梯梧の花の咲く頃に我は行きたし久茂地川辺に」。知念氏は「沖縄物産を売ることが生きがい」と常に語っていた。氏に言われた「東京の沖縄物産史を調べてほしい」が宿題に。最近、関東沖縄物産協会で知念氏と共に活躍した宮城三吉氏(沖東物産)に浦添のご自宅で話を伺った。

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写真右から糸数兼治氏、當眞嗣一氏ー2016年2月26日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第33回 東恩納寛惇賞 贈呈式」祝賀会


 2014年6月3日~8日 西村貞雄主催「復元のあゆみー琉球王朝造形文化の独自性を求めてー」 沖縄県立博物館・美術館
写真左が當眞嗣一氏(『沖縄のグスクめぐり』監修、2001年、むぎ社)と西村貞雄氏

右が當眞嗣一氏と西村貞雄氏

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写真左から村口彌生第一書房社長、富田詢一琉球新報社長、田里修沖縄大学教授「選考経過」、糸数兼治・貞子御夫妻


富田詢一琉球新報社長から賞状を受け取る糸数兼治氏(右)


糸数兼治氏「記念講演」

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写真左から豊見山和行氏、田名真之氏、當眞嗣一氏

写真左から安里進沖縄県立博物館・美術館館長、金城功氏(第22回東恩納寛惇賞)、糸数兼治氏


玉城流翔節会の平良恵子さん、安里タマ子さん

写真右から嵩元政秀氏(第32回東恩納寛惇賞)、新城栄徳、照屋善彦氏(第24回東恩納寛惇賞)

写真左から玉木園子さん、漢那敬子さん、石垣繁氏、糸数兼治氏


写真左から金城正篤氏(第30回東恩納寛惇賞)、松島弘明氏、上里賢一氏

写真左から金城正篤氏、當眞嗣一氏、松島弘明氏、武石和美氏(榕樹書林)

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1992年6月 『新生美術』10号<追慕・山元恵一・山田昌弘・浦崎永錫>
         □新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」

 1921年、浦崎永錫は上京し、川端画学校で藤島武二につき油絵を学びながら、検定で小学校教師の資格を取り、後に夜間の工業学校の美術教師となった。昼はヒマがあるので画学校や美術館に出入りした(田中穣『日本洋画の人脈』)。1931年、浦崎永錫は美術誌『美術界』を創刊する。これは後に大著『日本近代美術発達史ー明治編』として結実される。やがて図画教師を中心とする全国組織の美術団体「大潮会」を結成するなど、その一生は美を追求することに終始した。

 同号には古きよき美術放談として山里永吉と浦崎永錫の対談も転載されている。□浦崎永錫「ぼくが絵が好きになったのは、小さいころ若狭町の漆器屋の大見謝さんという人が、ランだとかタケだとかを実に美しく、どんどん描いているのをうっとり見とれていたもので、それが一つの刺戟になったのだと思うネ」、山里永吉「若狭町といえばそのころ沖縄の芸術家の出身地が実に多いんだ。比嘉華山、金城南海、親泊英繁、西銘生楽、渡嘉敷衣川、野津久保、渡嘉敷唯仁、それに浦崎永錫がそうだろう。古くは有名な彫刻家・田名宗経もそうだし、これは若狭町、漆器の影響だと思うな」、浦崎永錫「そうか、田名宗経も若狭町出身か、初耳だ。漆器の刺戟と、それに景色がいいことだろう。夕方になると、おとなも子供もいっぱい若狭町湾小に出て夕日に見とれていたものだ。ああいうことは若狭町以外にはあまりないヨ。西海岸だから夕日がことに美しい。-」



山岡萬之助監修『宇宙』4月号 浦島久(浦崎永錫)「奇蹟」□大正拾年三月。今上陛下が皇太子殿下の御時欧州御巡遊の砌り、南の孤島うるまの島にも其の御印跡を残された。丁度其の当時の出来事である。全島全県上へ下への大騒ぎで街道街道は修理せられ見苦しき建物は取り壊され、御巡道には綺麗な砂利が敷き積められた。要監視狂人には保護を加え、穏やかならざる思想の持主には相当の注意をすることを当局者は忘れなかった。狂犬は撲殺された。

(略)
その頃、私は組合教会に席を置いてあった。組合教会は県の思想界の権威であり、県立図書館長であった。文学士も居た。文学士の夢の研究を知って居たS医師は私に『文学士からそれを聞いたら姉の病気にも何か参考になるだろう』とのことだった。私には参考と言う言葉が直感的に姉の病をいやしてくれるものだとしか聞き取れなかった。夢の話は重に潜在意識に対する研究だった様に記憶して居る。

日本大学第3代総長
山岡 萬之助 (やまおか まんのすけ)1933.8〜46.1
明治9年(1876)長野県に生まれる。
明治32年(1899)日本法律学校を卒業し、判事検事登用試験に合格。
東京区裁判所判事などを経て、明治39年ドイツに留学。司法省行刑局長、内務省警保局長、
関東庁長官等を歴任。
昭和6年(1931)には東京弁護士会会長就任。
明治43年本学教授となり、その後、学監、理事、法文学部長、学長を経て昭和8年第3代総長、
12年には総裁就任。
大正から昭和への激動する時代の中で、社会の要請に対応して、人文・社会・芸術・工学・医学
・農学の多分野にわたる総合大学の基礎を確立した。
貴族院議員、法学博士。
昭和43年(1968)死去、92歳。

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画家の山元文子さんと新城栄徳


2016-11-29 山元文子さん、あけみ

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02/19: 宮平清一

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1935年4月「第一回沖縄洋画協会展」①大嶺政寛 ②大嶺政敏 ③大城皓也 ④大城皓也夫人 ⑤末吉安久 ⑥具志堅以徳 ⑦桃原思石 ⑧山田有昂 ⑨西銘生一 ⑩國吉眞喜 ⑪宮平清一⑫許田重勲 ⑬渡嘉敷唯盛 ⑭安仁屋政栄


1936年4月 第二回沖縄県洋画協会展
写真左から宮平清一、阿嘉良實、大嶺政寛、服部清、具志堅以徳、国吉真起、金城政栄、大城皓也、不詳2人 後列左から渡嘉敷唯盛、山田有昴、安次嶺勇、安仁屋政栄

1936年4月 1936年4月 第二回沖縄県洋画協会展
宮平清一「花」「新校舎」「国頭印象」/南風原朝光「静物」/山元恵一「横浜風景」「アネモネ」
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 兪氏 元祖は平安座親雲上重明7世川平親雲上惠直支流5子兪廷器川平筑登之親雲上惠孝。その9世惠英が山口姓。10世の惠典が山元姓になる。12世恵易の長男が惠孝で、次男の惠順が山元恵一の父。



1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「山元恵孝」「山元恵順」

大正2年 1913年 丑年 うし ー5月13日 那覇西村で山元恵一生まれる
1910年  山之口貘、那覇の甲辰尋常小学校入学

1918年 縄県立第二中学校卒業生ー島田寛平

1919年

1920年  山元恵一、那覇の甲辰尋常小学校入学
1922年  山之口貘、豊多摩郡戸塚町の諏訪神社裏に下宿し日本美術学校に入学。入学式のとき南風原朝光に会う。1ヵ月で同校退学。
1924年  沖縄県立第二中学校卒業生ー新垣金次郎、池宮城秀意、稲嶺一郎、大浜皓、𤘩宮城昇、比嘉賀秀、国場公憲、池間栄三、名渡山愛順
1925年  沖縄県立第二中学校卒業生ー宮城清市、永丘智行(饒平名)、冨名腰尚武、慶留間知高、山口重勲(許田)

1927年  山元恵一、沖縄県立第二中学校入学

二中樹緑会ー前列右3人目が山元恵一。後がOB、大嶺政寛、名渡山愛順らがいる。

1931年  山元恵一、沖縄県立第二中学校卒業 同期生ー西村菊雄、八木明徳、山田有勝、又吉康哉、南風原英佳、与那原良規

1933年  山元恵一、東京美術学校入学


1933年  

右側の下から2番目に山元恵一の名がある。
郡山市立美術館 展覧会:グループ〈貌〉とその時代展 会期:2000年11月11日~2001年1月14日
グループ「貌(ぼう)」は、1937年(昭和12年)東京美術学校油画科在籍中の学生が、国外のシュルレアリスム運動に触発されて結成した昭和8年入学の同期生中心のグループ。メンバーは、鎌田正蔵、杉全直、加藤太郎、高橋善八、杉原正巳、山本占太郎、福留五郎、日向裕、石原寿市、山元恵一、白瀧彰彦、若松光一郎→Weblio辞書


1934年 東京神田の東京堂「沖縄美術協会」展ー後列左から渡嘉敷唯信(?)・新川唯盛・仲嶺康輝・西村菊雄 前列左から 兼城賢章・南風原朝光・大城皓也・山元恵一

山元恵一1935年


1938年  山元恵一、東京美術学校卒業。宮森俊三の紹介で東宝映画(トーキーシステムの開発を行う写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCLは、1937年関連会社JOと合併)にて円谷栄二の下でしばらくアルバイト。同年12月、東京市役所勤務の大浜信恭(大浜信泉弟で作家志望)の紹介で東京市厚生局勤務。これ以降、東京では殆ど絵を描く時間がなかった。


1939年

1941年  山元恵一、沖縄県立第二中学校美術教師
1944年  渡嘉敷唯信、東宝撮影所特撮合成美術部入所
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山田有登①郁子夫妻(写真家・山田實さん両親)、山元恵一宅を訪ねる


①1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「山田有登」

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「南風原朝保」関連記事
1938年
12月1日ー『大阪球陽新報』「台北沖縄県人会(会長・名嘉山安忠医師)の伊禮参与官歓迎会/台北蓬莱閣で」(写真)
1939年
4月1日ー『大阪球陽新報』「南風原朝保氏/医学博士に/血液型に関する研究」
8月20日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「素晴らしい琉球の芸術と誇るべき人情美/18年振りに帰省した郷里の印象」
11月1日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「医者と絵画」/「台北沖縄県人会の新陣容/会長に南風原博士、幹事に川平朝申」
1940年
1月15日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「台北だより」
2月1日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「余は沖縄人を誇りとする」
12月1日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「沖縄風俗画に就いてー今年の総督府展よりー」






南風原朝保の娘りり

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1904年2月6日、父朝佐(球陽丸船員) 母(屋我)オトの次男として真和志村字安里に生れる。兄に南風原朝保。

1918年 嘉手納の沖縄県立第二中学校に入学(1919年4月 退学)台北の兄朝保のところに引取られる。
1920年  春、兄の知人で彫刻家の横江嘉純宅に寄寓
1922年  小石川の明正塾に有銘興昭、大嶺詮雄が居たのでよく訪問する。
1923年  5月、有銘興昭の紹介で、青山学院近くの桑田医院に薬局生として住み込む。9月、関東大震災に会う
1924年  夏、有銘興昭、阿波根朝松らと築地小劇場、歌舞伎座などを見てあるく
1926年  日本美術学校入学
1929年  日本美術学校卒業。夏帰省し東京美術学校在学の名度山愛順と、那覇の円山号で「二人展」。東中野の大城皓也の下宿を訪ね、宿泊す。

1940年  豊島区椎名町に居住。


1959年2月21日ー南風原朝保三周年忌(琉球料理・美栄)右端に國吉眞哲、左端立っているのが平良進医師、前に安里積千代、金城清松、末吉安久、南風原朝光、写真中央上に川平朝申。南風原朝保の遺影を持っているのが登美夫人


作「ランプを配せる静物」(第一回台湾美術展覧会出品)/加治屋隆二作「H君像」(南風原朝光モデル)

写真上ー南風原朝光作品「野菜と果物」(紀元二千六百年奉祝美術展覧会出品)/下は当時の那覇市内


1968年4月 『南風原朝光遺作画集』同刊行会(豊平良顕 代表)
交遊記
緒方昇「双眼の色」/里見勝蔵「朝光君と琉球歌」/佐藤英男「朝光の想い出」/具志堅聖児「南風原朝光さんの思い出」/檜山義夫「南風原朝光と沖縄」/桑原実「南風原朝光君を憶う」/木内岬「先輩」/里見陽文「南風原朝光氏を憶う」/今井滋「空白の時代」

彼のひとがら
比嘉良篤「故南風原朝光君の憶い出」/内堀勉「珍しく純粋な人」/大城皓也「南風原朝光という人」/松本三益「南風原君をおもう」/国吉景祉「南風原朝光追憶記」/阿波根朝松「あの時代の南風原君」/池原清子「朝光様の思い出」

彼と沖縄文化
本田安次「南風原氏を思う」/新崎盛敏「朝光さんの思い出」/山之口貘「縁の下の文化功労者」/伊波南哲「懐しい思い出」/古田重郎「朝光さんの想い出」/比嘉春潮「幸福な芸術家」

作品について
原精一「南風原君のこと」/上野維信「南風原さんの思い出」/中村哲「南風原朝光の生地」/立石鉄臣「遺作に輝く」/喜多村知「南風原朝光について」

座談会ー南風原朝光・人と作品  国吉真哲/末吉安久/大嶺政寛/伊波広定/新垣盛市/司会 真栄城玄裕
作品目録 年譜 刊行のことばー豊平良顕、崎原当保 経過報告・後記ー佐田勝

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1908年9月4日~14日ー沖縄美術運動の夜明・丹青協会第一回絵画展覧会

出品者 山口瑞雨(沖縄師範学校教諭心得)、岸畑久吉(沖縄県立中学校教諭心得)、國友朝次郎(首里区立工業徒弟学校助教諭 日本画ー四條派 岡田玉翠に学ぶ)、長嶺華國、比嘉華山、兼城恵園、川平恵昌、渡嘉敷唯選、金城唯貞、大湾政正、神山元享、親泊英繁、玉城次郎、国吉真義(刑務所職員)


 瑞雨・山口辰吉はその名が示すごとく1868年(明治元年/戊辰)10月21日に生まれた。辰は、十二支の中で唯一「実在しない生き物」で、これは、或る種のカリスマ性の要因となると云われている。





1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会ー真ん中の柱の中列右が瑞雨。瑞雨の上が瑞雨の息子の山口清。左端が比嘉崋山、右へ一人おいて兼城昌興

1908年、沖縄最初の美術団体「丹青協会」が結成されその会長に瑞雨が就いた。11年、2年かがりの「程順則肖像図」の模写が完成。12年の1月、太平洋画会の吉田博、中川八郎、石川寅治が沖縄写生旅行のときの写真には瑞雨や丹青協会メンバーが写っている。

私は山口米庵のひ孫で、善丸と申します。 昨年 12月7日に父 順造が92歳で他界し、山口家のことは今私が記録を残さなければ子孫には皆目わからずじまいになりかねないと、初代、米庵について調べたところ、琉文21に沖縄時代の記録を見ることが出来ました。心より感謝申し上げます。山口家の墓は都営多磨霊園にあります。初代、米庵 瑞雨院米庵智堂居士。 以来代々が埋葬されています。 30年前に母が亡くなった時、墓には地下室が無く、お骨壷を直に埋めていましたが、すべてのお骨壷を掘りあげて一箇所に収納出来るように改修しました。その時、米庵の骨壷はすごく小さいものしか有りませんでした。 なお、家に残っている米庵の掛け軸の写真を添付いたします。

写真左から山口善丸氏、島袋和幸氏

  




山口瑞雨次女 山口まさ(明治29年9月2日生まれ。大正9年6月21日 浅草にて海上晴①と婚姻)

1959年10月12日『琉球新報』□40年ぶりに帰郷 天崇教の海上さんーもと新劇女優で、そのかみの文豪坪内逍遥博士の愛弟子だったという海上美乃さん(62)=首里当蔵出身=が、11日午後4時 泊入港の沖縄丸で帰郷した。海上さんは19歳の時上京、大正10年ごろ旧姓山口真瑳の名で新劇入りしてから坪内逍遥のもとに「人間親鸞」でデビューした人で日本画家山口瑞雨夫人(ママ)である。現在、東京で新宗連東京都支部副会長などをつとめ、もっぱら天崇教の普及活動に余生をささげているという。海上さんは沖縄は40年ぶりで、この日は女学校時代の同級生の千原繁子さん(女医)ら多数が出迎え、再会を喜びあっていた。→1933年5月『沖縄県立第一高等女学校同窓会』に1913年 第10回卒業生に林まさ 旧姓 山口 東京市中野/第12回卒業生に千原繁子 旧姓 渡嘉敷 那覇市上之蔵1ノ18千原医院。

①海上晴
1894年(明治27年)、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる。旧制・早稲田実業学校(現在の早稲田大学系属早稲田実業学校高等部)を中途退学したが、早稲田大学の坪内逍遥に入門し、文学を学ぶ。島村抱月、沢田正二郎ら演劇人と親交を結び、新劇の世界に入る。「創生劇」を主宰、日比谷野外音楽堂で公演を行った。1920年(大正9年)、日活向島撮影所の革新運動に参加し、同撮影所第三部が製作した田中栄三監督の『朝日さす前』に主演する。以降、同部の消滅まで出演をつづけた。関東大震災以降の1925年(大正14年)、兵庫県西宮市の東亜キネマ甲陽撮影所で映画出演する。1928年(昭和3年)6月、加藤精一、佐々木積とともに帝国劇場専属俳優となる。

1936年(昭和11年)、お告げを受け、天崇教を創立する[1]。教祖としての名は「海上晴帆」である。第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)に宗教法人登録を行う。1952年(昭和27年)、黒澤明監督の『生きる』で映画界に復帰、以降、東宝作品を中心に出演する。初期の岡本喜八監督作品の常連で、体格がよく貫禄のある役どころが多かった。→林幹 - Wikipedia

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2016年2月7日(日) 15:00〜ジュンク堂書店那覇店地下1階「出版記念トーク&サイン会」
七つ森書館刊『安倍政権は、どうして沖縄をいじめるのか!』出版記念トーク&サイン会

 7月16日に沖縄県第三者委員会が、翁長沖縄県知事に対して「検証結果報告書」を提出ました。辺野古の埋立承認手続に瑕疵があると報告したのです。沖縄の民意をまったく理解しない安倍首相・菅官房長官など日本政府との長い闘いに打ち勝つために、本書ではこの報告書をわかりやすく解説して、「辺野古新基地をつくらせない」という沖縄県民の民意を広く伝えます。

挨拶する中里英章氏





写真左から三宅俊司氏、森本浩平ジュンク堂那覇店長、花輪伸一氏、真喜志好一氏、中里英章氏
花輪伸一(はなわ・しんいち)沖縄環境ネットワーク世話人。
1949年、仙台市生まれ。東北大学理学部生物学科卒業、東京農工大学農学研究科修了後、日本野鳥の会、WWFジャパンに勤務。退職後も、沖縄の自然保護と軍事基地問題、各地の湿地保護に取り組む。

真喜志好一(まきし・よしかず)沖縄平和市民連絡会・共同代表。建築家。
1943年、沖縄県那覇市生まれ。1991年、沖縄キリスト教短期大学の設計で日本建築学会作品賞受賞。シュガーホール、壺屋焼物博物館、沖縄大学、佐喜眞美術館などを設計。一坪反戦地主会、白保の海と暮らしを守る会、SACOを究明する会、沖縄環境ネットワー クなどの市民運動に深く関わる。

三宅俊司(みやけ・しゅんじ)日本弁護士連合会人権擁護委員・沖縄弁護士会人権擁護委員会委員長・辺野古アセス訴訟弁護団・辺野古埋立承認取消訴訟弁護団・一坪反戦地主会共同代表
1951年、広島市生まれ、被爆二世。
1984年、沖縄弁護士会登録し、以後弁護士として活動
2008年、沖縄弁護士会会長

☆七つ森書館の中里です。 8月に電子書籍を2冊発行しましたが、“ランディング・ページ”を作りました。“ランディング・ページ”とは、「ネット広告にリンク元を設定し、1ページで問合せ・資料請求・購入を促す、独立したページ」のことです。書籍の営業活動と、電子書籍のそれとでは、ずいぶん違いますが、“ランディング・ページ”もその一つ。インターネット上の広告サイトです。
【72点の実技動画が見れる電子書籍】
『難聴・耳鳴り・めまい改善 接経気功術』
 パソコン用: http://nanatsumari.sakura.ne.jp/miminari/
 スマホ用 : http://nanatsumari.sakura.ne.jp/miminari/sp/

【66点の実技動画が見れる電子書籍】
『妊活・不妊治療マッサージ』
 パソコン用: http://nanatsumari.sakura.ne.jp/ninkatsu/
 スマホ用 : http://nanatsumari.sakura.ne.jp/ninkatsu/sp/

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2016年2月5日 ジュンク堂那覇店「豊里友行『オキナワンブルー抗う海と集魂の唄』発売記念トークイベント/豊里友行・金城実・仲里効」


豊里友行写真集

写真左から金城実氏・豊里友行氏・仲里効氏



写真左から豊里友行氏・仲里効氏


金城実氏


金城実氏と森本浩平ジュンク堂那覇店長
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『球陽』
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1974年3月 球陽研究会(島尻勝太郎・嘉手納宗徳・渡口真清・名嘉順一・糸数兼治・外間守善)『球陽』角川書店
□はしがき・・比嘉春潮先生から、球陽の校訂に是非崎濱秀明氏所蔵の球陽を参照するようにお便りがあった。それによると、崎濱氏所蔵の球陽は、明治年間琉球新報社が、出版のために用意された原稿で、その後、末吉麥門冬→伊波普猷→冬子夫人→崎濱秀明とわってきた本で、記事もよく訓點も正確で、宮里本に缺けた記事もあるとのことであった。早速外間守善先生を通し崎濱氏に交渉したところ、崎濱氏も快く承諾され、その複冩本を入手することができた。崎濱本は、比嘉春潮先生のお便りにあったように、記事も訓點も立派である。特によいのは正附巻とも尚泰二十九年の記事まで収録されていることである。
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崎濱本(麦門冬原稿)

1990年5月16日『沖縄タイムス』

1995年

写真左から新城栄徳、糸数兼治・沖縄県立博物館館長

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1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂
 正殿の建築は、中国の宮廷建築と日本の建築様式を基本にしながら琉球独特の意匠(いしょう)にまとめられている。正面の石階段の両脇に龍の彫刻があるが、これを「大龍柱(だいりゅうちゅう)」と言い、手すりの奥にはもう一対「小龍柱(しょうりゅうちゅう)」がある。その他柱や梁(はり)等にも龍の彫刻が多数施されている。龍は国王の象徴であり、たくさんの龍が首里城には棲んでいる。→首里城公園


瑞泉酒造ー住所: 〒903-0814 沖縄県那覇市首里崎山町1丁目35 電話:098-884-1968

首里城のお膝元で、世紀をわたり泡盛をつくり続ける老舗。
「瑞泉」その名は、首里城の第二の門「瑞泉門」に湧き出るゆたかな泉から命名した。琉球王朝時代、首里の赤田、崎山、鳥堀の三村のみ泡盛つくりを許可されていた。創業1887年、瑞泉は今もその地で伝統の味を継承し、豊富な古酒貯蔵量を誇っている。奇跡的に発見された戦前の黒麹菌を使った「御酒(うさき)」は、沖縄の宝ともいうべき泡盛である
→「おきなわ物語|沖縄観光情報WEBサイト」

瑞穂酒造ー住所: 〒903-0801 沖縄県那覇市首里末吉町4丁目5−16 電話:098-885-0121


沖縄県内最大の地下タンクで、「古酒の瑞穂」の伝統を育む。
1848年に創業にした歴史ある酒造所で、琉球王朝時代、泡盛の製造を許された首里三箇(しゅりさんか)の歴史を受け継いでいます。1969年に完成された「天龍蔵」は、酒蔵へ龍が舞い降り、あまりの泡盛の美味しさにすべてを飲み干したという夢を見た先代が名付けました。この蔵には、沖縄県内最大の64万リットルの地下タンクがあり、低温を保ち良質な古酒を貯蔵し、出荷しています。「古酒の瑞穂」と称されるほど、その味には定評があり、こだわりの古酒づくりをおこなっています。 →「おきなわ物語|沖縄観光情報WEBサイト」


(有)金武酒造「龍」


1962年12月 愛楽園・梯梧琉歌会『竜の都』

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
  2月1日の地元2紙はアメリカ作家ジョージ・ファイファー山口栄鉄訳「これがわが米国の沖縄への対し方か」を連載している。これらの良識派と連携するのは「オール沖縄」が急務で早急に着手すべきものだ。「オール沖縄」の保守派も革新票をあてにせず自分の人脈を本気で駆使すべきだろう。あるルポライターは「今回の現職勝利の背景には、若い保守系政治家の活発な組織化活動の成功もあったのではないか、逆にいえばそれに匹敵する若年層の活発な運動をオール沖縄側が構築できなかったのではないか」、と書く。1月30日の新報の友寄貞丸「かちゃいほーちゃい 週刊誌時評」に、1月12日の衆院予算委員会でアベ総理が「アサコール」を3錠飲んでいるところをカメラがとらえた。この薬は脳がストレスを受けて神経質になったり、鬱になることもある、と記す。同日のタイムス大弦小弦はSTAP細胞の論文著者だった小保方晴子の著書にふれている。同日、沖縄県立博物館・美術館で島尻科学技術政策担当も参加して「理工系女子の未来を考えようin沖縄」があった。これなどは保守系政治家の活発な組織化の一環だろう。

 宜野湾市長選挙が終わり、全国の新聞社説は宜野湾市長選挙についてアベ派読売の「普天間固定を避ける一歩に」、アベ派産経は「基地移設を着実に進めよう」とアベ政治讃美派だが、沖縄に理解が深い東京、朝日は「辺野古容認ではない」、と明言。毎日も「アベ政権が総力戦を展開する中で志村氏が一定の票を得たのは、市民の間に、普天間の返還自体は、当然としながらも、同じ沖縄に基地を移転することへの抵抗感があったことを物語っている。」と見る。選挙が終わった途端、那覇空港過密化となる航空自衛隊員が300人増えるという(1月27日 『琉球新報』)。地元商業2紙が肝心のアメリカの暗躍は無視し「伊波さんの責任」とオール沖縄の保守派の企業人に言わしめている。今度の志村氏の票は前回の伊波洋一さんの得た票なみで保守票が全く取れなかった。逆にアメリカの指示によるアベ政権の総力戦で保守票がきり崩された結果であろう。伊波さんは真面目すぎるイメージがあるので保守派からは頼りないと見られているのだろう。現在は「ちょい悪」の石原元東京知事やハシシタ元大阪市長みたいのが人気があるので保守票向けに「野蛮人」イメージも必要かと思われる。しかしアメリカ・アベ国家権力を相手によくやったという感じだ。この選挙で学習したことはアメリカの平和団体や環境保護団体と強力に連携することだろう。


写真左から新城栄徳、伊波洋一氏①
①沖縄県宜野湾市生まれ。沖縄県立普天間高等学校、琉球大学理工学部物理学科卒業。1974年、宜野湾市役所に就職。在任中、当時全国でもまれであった自治体業務の電算化を手がけた。1996年、宜野湾市役所を退職して沖縄県議会議員選挙に出馬し、初当選。2000年に再選。2003年、2期目の任期途中で辞職し、宜野湾市長選挙に出馬して当選する。2007年、宜野湾市長再選。市長在職中、沖縄県内の地方自治体で初めて中学生までの病院への入院費の無料化を実現した。→Wikipedia


地元紙の『琉球新報』「天下り14社 辺野古受注」と中谷元・防衛相の答弁を報じている。同紙と『沖縄タイムス』は甘利明経済再生担当相の金銭授受疑惑も報じている。何に使ったか分からないが、政党助成金では足らないのか。(2016年1月22日『琉球新報』「天下り14社 辺野古受注」)

遣等を含む日米間調整の検討」を挙げた。 自衛隊は、いつ「軍」になったのだろうか。国会では度々、自衛隊が「軍」ではないと確認されてきた。 安倍晋三首相は3月の衆院予算委員会で、その自衛隊を「わが軍」と呼んだ。野党の追及を受け「(今後は)使わない」(首相)とした。その後作成された資料に軍と記された事実は、自衛隊を「軍」であると認めないことで専守防衛に徹してきた歯止めが、法案が成立すれば取り除かれることを表している。三つ目、法案の性質を最も端的に示したのが資料冒頭で詳細に記述された日米ガイドラインだ。県選出の国会議員・赤嶺政賢氏(共産党)は「法案はガイドラインを実行するための手段」とみる。 安倍首相が今春、国会で審議を尽くすより先に、米議会で法案成立を約束したのもうなずけよう。 法案によって日米の軍事一体化は進み、自衛隊は米軍の「下請け」機関となる。減少傾向とはいえ国防費年60兆円、世界の軍事費の3分の1を占める巨大な軍の前に、文民統制が揺らいでいる。


2014年12月12日ー国場候補の応援に甘利経済再生担当相が来ているが周辺は閑散としている。甘利 明は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員、内閣府特命担当大臣、さいこう日本代表。 自由民主党政務調査会長、労働大臣、経済産業大臣、内閣府特命担当大臣等を歴任した。 戦国時代の武田氏の重臣で知られる甘利虎泰の子孫である。元衆議院議員の甘利正は父。 ウィキペディア