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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


2015年4月 平敷武蕉『平敷武蕉評論集 文学批評の音域と思想』出版社Mugen
○・・・私たちは、大衆運動や労働運動・学生運動が壊滅し、労働者が貧困と絶対的窮乏にあえぐなか、他方で独立論やユートピア社会についての論議が賑わうという奇妙な現実に立ち会わされているわけだが、「沖縄独立論」を包摂しえる真正の思想を創出できてないことにその根拠があると、言えるのかも知れない。(『非世界』17号 2008年6月)


2016年5月 俳句同人誌『天荒』54号<特集 平敷武蕉評論集『南瞑の文学と思想』>

 俳句同人誌『天荒』54号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536
本成美和子「わたしの共鳴句<1月作品>」□辺野古埼竜神引っぱる初日の出 玉菜ひで子 大浦湾に朝日が届く。日の光」が竜神を引っ張ってくれるのなら、必ずよい方向にことが運ぶ。初日の出を拝む作者の気持ちが伝わってくる。辺野古問題に、今年こそは竜神が必要だと思う人は多いはずだ。 

編集後記
◆米軍の沖縄県民への弾圧が露骨になった。芥川賞作家の目取眞俊氏が辺野古の新基地建設阻止のカヌーでの抗議行動中に拘束、逮捕された。政府と沖縄県の「和解」で、基地建設が中断していることへの米軍の苛立ちなのか。警備員は目取眞氏の本名を口に」していたというので、明らかに狙い撃ちの言論弾圧である。氏は「まさに米軍基地は治外法権にある」と憤慨している。(建)

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Posted by: ryubun02
 出口王仁三郎は辛未 かのと ひつじ の1871年8月27日(明治4年旧7月12日)生まれ - 1948年(昭和23年)1月19日)。2015年の干支は「乙未(きのとひつじ)」。

1921年1月出口王仁三郎『瑞能神歌』大日本修斎会出版局
○りう球につづく台湾澎湖島、御国に遠きこの島に、心を配れ日本人(やまとびと)、外国魂のここかしこ、国売る曲(まが)の多くして、主人の留守の間鍋たき、柱を崩すカミ斗(ばか)り、ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを防ぐ由なし。
(略)
○むかしの神の仕組まれし、最も便利な世が参り、蒸気、電気の働きで、三千世界を近よせる、交通機関も完備して、千里万里も夢の間に、是も昔の神代から、神の御裔の奇魂、奇しき力の賜ぞ。艮金神①現れて、世界一つに統べ玉ふ、天の時節の来たものを、訳の分からぬ人民が、人智や科学の活きと、誤解して居る憐れさよ。
①「艮の金神」とは、日本に古くから伝わる陰陽道の言葉です。「金神」とは“祟り神”のことで、また「艮」(うしとら)とは東北の意味で、もっとも恐れられている“鬼門”(きもん)の方位です。したがって、「艮の金神」とは数ある金神の中でも、もっとも恐ろしい鬼門の方位にわだかまる“猛悪の祟り神”ということになります。→大本
王仁三郎が説くように、今では東洋も西洋もチャンポンの一つのネット世界である。

1928年ー辰年の元旦を琉球で迎える出口王仁三郎
1927年8月ー出口瑞月『道之大本』「先祖は昔の吾であり、吾は此の世の先祖である。子孫は未来の吾である。故に吾の身は独りのものではないから、祖先のためには道を守り力を尽くし、十分に善を尽くし徳を積まねばならぬ」

1927年12月28日ー出口王仁三郎一行、西表島船浮着。29日は宮古島。31日は那覇港。信者の謝花雲石ら62名が沖縄支部に集まる。慶留間知徳、志良堂清英琉球新報記者、豊平良顕沖縄朝日新聞記者、沖縄タイムス記者来訪。

1928年1月1日ー午前10時過ぎ人力車を列ねて波の上神社に参拝す。斎神は諾册二尊、速玉男命、事解男命にて、綾部の権現様と同祭神なり、元旦に正式参拝をされしも偶然に非ざるべし。(略)
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出口王仁三郎ー波上宮ちかくの岩にて

1月2日ー雨は止みたれど風強く本日出帆すべき基隆丸朝の内入港せず。午前10時、自動車二台にて首里に行く。簡単んる塩田を左右に見ながら盆景式の纏まりたる小丘を廻り、首里城跡を見る。(略)棟の大龍神は台湾式よりも偉大にて、正面、左右にも奇形なる龍神の石柱を建てたり。→聖師様琉球大島御旅行記

出口王仁三郎「龍神の顎の玉の初日の出 球の島根に拝みけるかな」「龍の顎の玉をば取りて きみの土産にして見たい」


出口王仁三郎 書「龍」

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出口王仁三郎聖師『歌日記』

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出口王仁三郎聖師『歌日記』


1931年3月18日 天恩郷での王仁三郎、頭山満②、内田良平③
②頭山満
国家主義者。福岡県生。萩の乱に通謀して入獄。出獄後、向陽義塾を起して青年の教育に当たり、ついで玄洋社を創設、超国家主義を唱えて大陸進出を主張。以来黒龍会等の大陸浪人を支配し、国家主義運動の重鎮として政界の裏面に暗躍した。昭和19年(1944)歿、90才。 →コトバンク
③内田良平
国家主義運動家。福岡県生。黒龍会を組織し日露開戦を主張、また日韓合邦を推進し、辛亥革命に際しては孫文を助け、革命派を援助した。のち大日本生産党総裁に就任、常に国家主義の代表者として国民運動の中心的存在であった。昭和12年(1937)歿、64才。 →コトバンク
1957年8月ー出口王仁三郎『大本の道』「古今東西聖者の説をとりまとめ活かすは弥勒の働きなりけり」「画や歌に筆はしらせて天地の神のいさをわれはひらくも」

大本亀岡本部のエスペラント碑と蘇鉄

出口王仁三郎「まだ人の夢にも知らぬ神界の奥義を漏らす霊界聖談」「日地月をあわせてつくる串団子星のゴマかけ喰ふワニぐち」「日地月星のダンゴも食いあきて今や宇宙の天海をのむ」「主の神はあまつ月日を生みまして森羅万象を育てたまえる」

出口王仁三郎「登龍」(部分)


出口王仁三郎[拇印]
○王仁三郎の拇印は主神(スしん)の印をかたどっています。→愛善苑

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Posted by: ryubun02
 テレビのうたコンで田川寿美①が京都の恋を歌っていた。これは1970年5月に渚ゆう子がカバーし、シングルとして発売したもので発売元は東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)。渚ゆうこは、沖縄の雑誌『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、1971年4月の『青い海』創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。それには渚の本名は大江千鶴子。大阪市浪速区で父正雄、母幸子との間に2男2女の長女として生まれる。母は旧姓比嘉、嘉手納の出身。沖縄県人の多い大阪で育ったこと、母方の祖父が野村流古典音楽の師範をしていたことなどから、幼い頃から琉球民謡や舞踊のある生活環境に育った、とある。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代で検索すれば直ちに「渚画像」は過去から現在までなんぼでも出てくる。

①田川 寿美(たがわ としみ、1975年11月22日 - )は、日本の女性演歌歌手。和歌山県和歌山市出身。血液型はO型。堀越高等学校卒業。長良プロダクション所属。→Wikipedia
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 作家の戸川昌子さんは1969年3月に、第11回文春講演会で講師として近藤日出造①、五木寛之と共に来沖。

1969年3月2日『沖縄タイムス』「1日ー超満員の聴衆 文春講演 タイムスホールで1日ー好調なスタート切る」
1969年3月8日『沖縄タイムス』「第11回 文春講演ー五木寛之『漂流の思想』/近藤日出造『おかしな話』/戸川昌子『東西雑感』」
1969年3月10日『沖縄タイムス』「作家・戸川昌子さん沖縄見たまま(上)」
1969年3月11日『沖縄タイムス』「作家・戸川昌子さん沖縄見たまま(下)」

①近藤 日出造 (コンドウ ヒデゾウ)
昭和期の漫画家  生年明治41(1908)年2月15日 没年昭和54(1979)年3月23日
出生地長野県稲荷山町(現・更埴市) 本名近藤 秀蔵
経歴ー家業の洋品店の手伝いなどを経て、大正15年上京、昭和3年岡本一平の門下となる。以後九州日報の嘱託をして政治漫画を描き、7年杉浦幸雄、横山隆一らとプロダクション“新漫画派集団(のち漫画集団)”を結成、8年から「読売新聞」に得意の似顔絵を生かした時事漫画を描く。15年“新日本漫画家協会”が結成され、機関誌「漫画」の主筆となり、毎号表紙の時局漫画を描き、ルーズベルトやチャーチルを“鬼畜”にたとえたりもしたが、大政翼賛会から漫画集団への援助を断わるなど漫画への理想論に忠実に生きた。戦後20年10月新漫画派集団が“漫画集団”として新生、その中心人物として後進を育てた。また「読売新聞」に政治漫画の連載をつづけた。39年日本漫画家協会初代理事長に就任し、同協会の発展に尽力。また、テレビ「春夏秋冬」の司会や週刊誌の対談などでも軽妙な味をみせた。著書に「にっぽん人物画」(正続)など。→コトバンク

 デイリースポーツ2016年4月26日ー作家で歌手の戸川昌子さんが26日午前5時47分、胃がんのため静岡県内の病院で死去した。85歳。東京都出身。長男で歌手のNERO(年齢非公表)がフェイスブックで公表した。1962年にはミステリー小説「大いなる幻影」を発表して作家としてデビューし、江戸川乱歩賞を受賞。64年、直木賞候補となった自作を日活で映画化した「猟人日記」で女優デビュー。コメンテーターとしても「三時のあなた」「11PM」「ライオンのいただきます」などで活躍した。46歳で長男を出産した際には、当時の有名人による“最高齢出産記録”として話題になった。67年、東京・渋谷にシャンソンバー「青い部屋」を開店。三島由紀夫、川端康成、野坂昭如、岡本太郎、なかにし礼、太地喜和子ら多くの文化人、芸能人らと交流した。
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総会
玉寄貞一郎副会長「開会のことば」


与那城昭広会長「会長あいさつ」
議案審議


写真左から濱川栄優氏①、新垣徳子さん、上江洲裕寿氏
激励会
激励者の紹介「上江洲裕寿、新垣徳子、濱川栄優」濱川栄優①ー粟国村字浜出身。1988年、糸満の高嶺小学校、1992年度から本部小学校の教員。2013年に大宜味村立塩屋小学校校長、今年度ー粟国小中学校校長


太田眞助「乾杯の音頭」


新城静喜粟国村村長「来賓あいさつ」







古典音楽同好会、新城清弘「幕開」


上地千恵子、山城敏子「かぎやで風」


太田勝子、仲程貴美子「むんじゅるー」


新垣優子「大漁宝船」


太田勝子、仲程貴美子、平田マサ子「草戸節」


伊佐ミサ子、上原初枝「島尻千鳥」


上地千恵子、山城敏子「梅の香り」


新垣優子「護身の舞」

全員「カチャーシー」

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Posted by: ryubun02
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与儀公園2016年3月4日


 環境省は22日、生物多様性条約に伴う科学技術助言補助機関会合(SBSTTA)の作業部会を開き、海の生物多様性を守るため、日本の排他的経済水域内(EEZ)で選定した「重要海域」の区域図を初公表した。有識者会議の議論を受けたもので、開発などを法的に規制する海洋保護区の指定に向けた基礎資料になる。県内は、絶滅の恐れが極めて高いジュゴンの主要生息地で、新基地建設工事の予定される名護市辺野古沖を含め、大半の沿岸部が重要海域になった。

 県内はこのほか、国の埋め立て工事が進む沖縄市泡瀬干潟、那覇空港沖の第2滑走路建設予定地も重要海域に選定された。環境省は「社会的観点は含まず、生物学や生態学の観点で客観的に選んだ」とし「開発計画の有無は考慮していない」とした。重要海域は2013年までのデータで選定され、23年を目安に見直される。

 重要海域の選定を受け、環境省は20年をめどに海洋保護区を選ぶ方針。保護区に指定されれば、開発などに法的規制をかけることになり、選定や規制のあり方の検討を進めている。一方で重要海域図の公表は、予定の14年夏から大幅に遅れた。環境省は「水産資源などの公開範囲に時間を要したため」とした。重要海域図は環境省ホームページで確認できる
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 2016年4月29日の新報の友寄貞丸『かちゃいほーちゃい週刊誌時評』□熊本地震を巡る主要週刊誌の論調は、<川内原発停止を言い出した野党「便乗政治家」の見識>を掲げた週刊新潮(4月28日号)以外は、原発稼働を続ける政府に警鐘を鳴らすものが目立つ。(略)「(地元2紙は)左翼に乗っ取られている。」と発言した長尾敬衆院議員①は、与党の「ヘイト対策法案」で、基地反対運動の規制を示唆。沖縄叩きに共感する土壌が安倍政権の゛言論統制チーム〟を勢いづかせる。

①2014年(平成26年)12月14日の第47回衆議院議員総選挙に自民党公認で大阪14区から出馬し、維新の党の谷畑に再び敗れるも比例復活で当選。当選後、首相の安倍から直接誘いを受け、清和政策研究会に入会し]。自由民主党所属議員による「文化芸術懇話会」の結成に参画しており、2015年6月25日の会合にも出席していた。2013年4月、沖縄の状況について、「沖縄のいびつなマスコミ、後押しする左翼勢力、バックにある中国共産党の工作員の存在」と演説。2015年7月には沖縄の名護市辺野古を視察し、新基地建設に反対する市民運動について「反社会的行動」であり周辺住民は困り果てていると自身のTwitterで主張した。→Wikipedia

 琉球新報2016年4月28日-【東京】沖縄の人々を「先住民族」とし、日本政府に琉球・沖縄の言語や文化、歴史の保護などを求めた国連勧告について、木原誠二外務副大臣②は27日の衆院内閣委員会で「事実上の撤回、修正を働き掛けたい」と述べた。国連は、琉球王国があった事実を基に勧告しているが、日本政府はこれまでその判断を回避してきた。琉球・沖縄を巡る政府と国連の歴史認識などに隔たりが大きいことがあらためて浮き彫りとなった。宮崎政久氏(自民)の質問に答えた。

②東京大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。2011年6月より大樹総研(シンクタンク、「戦略コンサル」や「フェロー派遣」による講演者派遣や「地方自治体」向けのコンサルなど)特別研究員に就任。2012年の第46回衆議院議員総選挙に自民党公認で再び出馬し当選、国政に復帰した。2013年9月、第2次安倍内閣で外務大臣政務官に就任(2014年9月、退任)。同年12月の第47回衆議院議員総選挙で3選。2015年10月、外務副大臣に就任。→Wikipedia

沖縄タイムス2016年4月27日-国会での質疑を聞いていて耳を疑った。26日の衆院沖縄北方特別委員会で、堂故茂・文科政務官④が在沖米軍基地と沖縄関係予算を巡り、事実誤認に基づいた帝国書院教科書のコラム記述内容を肯定する答弁をしたからだ。 コラムでは「日本政府も、事実上は基地の存在とひきかえに、ばくだいな振興資金を沖縄県に支出しており、県内の経済が基地に依存している度合いはきわめて高い」とあった。県民や識者らの指摘を受け、同社は「誤解される表現については反省している」とし、今月上旬に文科省に訂正申請、大幅に訂正・削除した内容に書き換えた。 こうした経緯にもかかわらず、教科書検定を所管する文科省の政務官が「修正を求める内容ではなかった」と答弁をしたのは、事実誤認の記述に“お墨付き”を与え、誤解の流布に拍車がかかるおそれがある。


『琉球新報』2015年12月6日

③2013年、4期目の任期途中で氷見市長を辞職。自由民主党公認で第23回参議院議員通常選挙に富山県選挙区から出馬し、当選した。2015年10月9日、第3次安倍改造内閣の文部科学大臣政務官に就任した。担当は、教育と文化 。→Wikipedia

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Posted by: ryubun02
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左が桃原邑子さんより贈られたネクタイ

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熊本県田浦町・御立岬公園にある「桃原邑子歌碑」の前で桃原邑子さん(前列左から4番目)、歌の仲間たち

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1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』「桃原思石」

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Posted by: ryubun02
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息子。小学校入学前に、左は法政大学沖縄文化研究所玄関で、右は渋谷区の早川図書前。

なかのよしお【中野好夫】
1903‐85(明治36‐昭和60)
昭和期の評論家,英文学者,平和運動にも貢献。愛媛県松山市生れ。1926年東大英文科卒業。中学教師などを経て35年東大助教授,48年教授に就任。敗戦直後みずから〈戦犯第1号〉を名のり,以後一貫して民主主義と平和のために,〈知こそ力〉という姿勢を律義に貫いた。53年〈官学〉を辞し,著作活動に専念する。著作は多岐にわたり,モームの《雨》,シェークスピアの《ベニスの商人》など精細な原文分析による達意の翻訳をはじめ,専門の《シェイクスピアの面白さ》(1967),《スウィフト考》(1969),また人間の内面への飽くなき好奇心と歴史への関心に支えられた《アラビアのロレンス》(1940),《蘆花徳冨健次郎》(全3冊,1972‐74)などの評伝は,伝記文学に新生面を開いた。(→コトバンク)

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2005年1月『世界』中野利子「漢那憲和のこと」

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新星出版で左上から新城栄徳、松島弘明社長、下左・松居州子さん(漢那憲和の孫)、中野利子さん


中野利子
1938年東京生、慶應義塾大学文学部卒。父は中野好夫、母方の祖父は土井晩翠。私立高校教員、公立中学校教員、定時制高校教員、産休補助教員等を経て、フリーライター。著書は「君が代通信」「教育が生まれる-<草の根>の教師像」「教師たちの悩み唄-10の人生ドキュメント」「H・ノーマン-あるデモクラットのたどった運命」等。93年「父中野好夫のこと」により日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。

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原爆ー1969年11月ー沖青友の会機関誌『石の声』第1号□[もしも沖縄で爆発したらこのようになる]
原爆ー1969年11月ー沖青友の会機関誌『石の声』第1号□真栄田義秀「日本国憲法第九条」/「沖縄にあるB52は24メガトンの水爆を積むことができる(広島の1,200倍) もしも沖縄で爆発したらこのようになる。!▲150~570キロ以内の住民半分が即死し、生き残った人も4カ月以内にはほとんど死亡する。▲爆発にともなう地震津波がおしよせてくる。▲水や食物も多量の放射能を浴びて生き残っても奇型児や発育不能な人間が生まれてくる。▲北は奄美大島、鹿児島迄も被害は及ぶ。-沖縄の住民は今日も原爆をかかえて生活をしている。」
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1975年9月ー関西沖縄青少年の集い・がじゅまるの会機関誌『がじゅまる』創刊号
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玉城利則は関西でのエイサーやウチナー芸能には欠かせない人物である。

1974年7月ー『青い海』35号□玉城利則「誇れる沖縄文化の明日に向けて」
1975年9月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』
創刊号□玉城利則「第1回沖縄青年の祭りにあたって」
1976年2月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』第2号□「玉城利則会長あいさつ」、3月『青い海』51号□玉城利則「沖縄の舟・サバニ考ーとくに語源とデザインをめぐって」
1977年9月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第4号□玉城利則「『祭り』は団結への確かな道」
1978年6月ー『青い海』74号□長峰眞名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会」

1980年2月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第5号□玉城利則「古きがじゅまるたちより若きがじゅまるたちへ」
1981年6月ー『青い海』104号□玉城利則「ウチナー姓、ヤマトゥでなぜ変わった」、『ハイサイおきなわ』創刊号(発行人・嘉手川重義、編集人・玉城利則)
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1993年11月ー新城栄徳、帰省中の玉城利則から仲間恵子を紹介される。
2000年9月ー大阪人権博物館『ヤマトゥのなかの沖縄』□玉城利則「大阪の生活と泡盛」
2001年1月ー『大獅子』1□玉城利則「手技(ティガンマリ)から作品と表現へ」
2001年3月ー『けーし風』第30号□玉城利則「沖縄からの集団就職ー関西沖縄青少年の集い『がじゅまるの会』の結成」

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1965年7月 名城大学沖縄県人会『南端』(責任者・糸数哲夫)

糸数哲夫
昭和36年ー那覇高校卒。昭和44年ー名城大学大学院法学研究科修、商学修士、法学修士。昭和44年ー名古屋在加茂会事務所入所。昭和50年ー那覇市にて税理士事務所開業→現在は沖縄県宜野湾市字我如古。

1986年3月、琉球新報の松島弘明記者から、名古屋、三重のウチナーンチュの取材で大阪に来るという葉書(中城城跡)をもらった。後に琉球新報大阪支社に行き、私も旧知の人たちに会いたく名古屋に同行した。名古屋の県事務所の職員は大阪の県事務所でなじみのある人たちばかりであったので名古屋、三重のウチナーンチュ情報はすぐに得られた。

松島記者は取材過程で、「愛知県沖縄県人会会員名簿」「でいごの会会員名簿」(1974年10月)、「三重県沖縄県人会名簿」(1974年)、「沖縄県名古屋経営者会名簿」(1985年)などを入手した。麦門冬・末吉安恭の甥の佐渡山安正、佐渡山安治さん兄弟、粟国の末吉和一郎さんの取材には同行した。大濱皓氏は病気で会えなかった。

2010年1月31日、沖縄文化の杜で仲村顕さんから愛知の沖縄の話を聞いた。豊橋市に田島利三郎、犬山市には久志富佐子の墓があるという(後日、墓の写真も見た)。ちなみに犬山成田山の大仏は山田真山が造ったものである。→画像検索「犬山成田山 新生大仏」。
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Posted by: ryubun02

シンガポールといったらマーライオンです。写真右端が仲里正雄氏
 11世紀にマレーシアの王族が対岸に見える大地を目指して航海の旅に出た際、途中で海が激しく荒れ、王族が被っている王冠を海に投げたところ、海は静まり無事にその大地にたどり着くことができた。その時、ライオンが現れて、王族にその大地を治める事を許して立ち去った。マーライオンの頭部はこのときのライオンを表している。また魚の尾は、古代都市テマセック(ジャワ語で「海」)を象徴している。王族は、その大地を「ライオン(Singa)の都市(Pura)」を意味する「Singapura(シンガプーラ)」と名づけ、マーライオンを国の守り神として祭ったという伝説がある。セントーサ島にある「マーライオンタワー」では、このマーライオン誕生の歴史について映像形式で見る事ができる。→Wikipedia




こんにちは、シンガポールナビです。今日は世界でもトップクラスの鳥類の動物園「ジュロン・バード・パーク」をご紹介します。シンガポール西部のジュロン地区に、20ヘクタールもの広大な敷地を持つこのバード・パークには、600種以上8000羽を越える世界中の鳥たちが集められています。巨大なくちばしを持つ東南アジアのサイチョウや、オーストラリアの鮮やかなインコなど、珍しい鳥がいっぱい。賢い鳥たちがびっくりするようなワザを披露する、楽しいショータイムもあります。熱帯雨林を活かした園内で鳥たちと触れあう時間は、まさに癒しのひととき。南国の緑と花々に囲まれながら、美しく愛らしい鳥たちの魅力に触れてみてください。









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志村ふくみ
染織家。大正13年(1924)滋賀県生。母小野豊から染色の手解きを受ける。黒田辰秋・富本憲吉・稲垣稔次郎らに師事。以来紬織・植物染料の研究と制作に従事する。日本伝統工芸展他多数受賞。紫綬褒章受章。日本工芸会理事。「柚織」で人間国宝に認定される。文化功労者。 →コトバンク
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田名真之沖縄県立博物館・美術館館長「主催者あいさつ」

テープカットー左から柳悦州氏(沖縄県立芸術大学附属研究所教授)、柳原正樹氏(国立京都近代美術館館長)、田名真之氏(沖縄県立博物館・美術館館長)、志村昌司氏、川満誠一氏(沖縄美ら島財団常務理事)

大城さゆり志村展担当「企画紹介」

左から大城慧氏、豊見山愛さん、田名真之氏

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2016年4月5日ー大城慧氏(沖縄県立博物館・美術館指定管理者「沖縄美ら島財団」統括)、持っているのは『琉球の文化』5号

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2000年8月 『琉球・尚氏のすべて』新人物往来社□大城慧「尚氏関係史跡事典」/ 執筆者略歴 大城慧=1951年 沖縄県生まれ。別府大学文学部史学科卒業。現在、沖縄県立博物館学芸課長。論文「沖縄の鉄」(『稲と鉄』所収 日本民俗文化体系三)。「沖縄の鉄器と鉄棒」(『沖縄文化』第六八号)ほか。/1974年5月 沖縄の雑誌『琉球の文化』第五号 大城慧「与那部落のウンジャミ」

○2000年12月17日『沖縄タイムス』新城栄徳「書評・『琉球・尚氏のすべて』」□本書を読み、私なりに解釈すると、十一世紀の琉球に按司(あじ)たちが出現し対立抗争を続け、十四世紀に中山察度、南山承察度、北山怕尼芝(はにし)の按司たちが相次いで明朝に進貢し交易時代の幕開けとなった。十五世紀前半に佐敷の巴志によって統一国家「琉球国」が成立したといわれる。その六代・尚泰久の時代には日本貿易が拡大され仏教王国としても栄えた。そして世子でもない重臣・金丸が後に尚円王となり、その子・尚真の時代に中央集権制「琉球国」が生まれた。
 そして七代・尚寧のときに、薩摩の島津家久が徳川家康の許可を得て琉球出兵した結果、薩摩藩支配下の「琉球国」となった。その中にあって近世琉球への新たな転換を目指したのが尚質、尚貞王を支えた摂政・羽地朝秀の時代。尚敬王を支えた久米村の蔡温の時代には、諸書が編集され王国の主体性の確認と確立に寄与した。清朝から久米村の程順則の持ち帰った『六諭衍義』が日本に広まり、玉城朝薫の「組踊」が生まれるなど新たな琉球の文化が展開した。
 薩摩・長州藩による明治維新で大日本(だいにっぽん)帝国に「琉球国」が「琉球藩」として編入され最後の王・尚泰で琉球王朝は解体され、後「沖縄県」となった。全国的に新たに政治、文化の東京集中化が加速される中、沖縄も編者・喜舎場一隆氏の言うところの地理的宿命から辺境となってしまった。・・・

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
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1981年4月 沖縄の雑誌『青い海』5月号 №102号 大城慧「沖縄県下の発掘状況」
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1905年11月23日ー志賀重昴、粟国島来着→著1909年『大役小志』
1906年3月5日ー菊池幽芳、粟国島に来着/10月ー『地学雑誌』第18年第214号□脇水鉄五郎「沖縄視察談・粟国」

粟国に来島した志賀重昂
1905年11月23日ー午前3時、運輸丸、久米島発▼6時、珊瑚礁の激浪を琉球形小船にて乗り切り、渡名喜島上陸(略)10時半、粟国島著、上陸、粟国は渡名喜島を距る15浬、面積半方里、磽确たる一珊瑚島、而かも戸数8百余、人口5千余、食糧に欠乏するを以て蘇鉄を食ひ、婦女は那覇、首里に下女奉公をなし、男子は琉球本島及び布哇等に移住する者多く、鱶ノ鰭、烏賊、鰹を輸出す▼夕、那覇港着、上陸。→近代デジタルライブラリー - 大役小志

 志賀重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。明治38年(1905年)、東京地学協会主幹・大日本水産会幹事の資格で、樺太を視察した。また、海防艦「松江」で沖縄列島を巡回した。翌年、南樺太領有に関しアレクサンドロフスク・サハリンスキーで開かれた日露委員会に出席し、約半年、同島の測量・伐採・撮影をした。→ウィキペディア

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1926年5月2日ーベッテルハイム記念碑(ベッテルハイム師が歴訪した10カ国の石をちりばめた記念碑)除幕式。右端上が島袋源一郎□ベッテルハイム記念碑除幕式は午後3時より波上護国寺境内に於いて挙行。来賓は亀井知事、佐伯裁判所長、志賀重昴、羽田内務部長、岸本那覇市長、知花朝章、里見学務部長、金城那覇市会議長ら。司会者は伊東平次、聖書朗読は佐久原好伝、祈祷が芹澤浩、除幕が知花朝章、建碑之辞、決算報告がイー・アール・ブル、讃美歌は合唱隊、祝祷が神山本淳。記念写真は久志写真館。


1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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写真ー新城三郎の父・蒲と母カマ(抱いているのは新城栄徳、二人にとって初孫である。)


1927年11月

1934年1月ー新城三郎、那覇市辻町(御願の坂)國吉料理店で板場修行。同年の粟国出身の調理士は、四つ竹の新里。みはらしの玉寄松。玉川の仲間、一味亭の新城、仲里、山城、新城。京ヤの又吉。國吉料理店は与那  風月ロの糸洲、仲里、新里。三杉ロの福本。幸楽の安里、新川幸栄。美崎の玉寄米吉、赤嶺、玉寄三郎。花咲の上原保一、新里次郎、上原健夫。木村屋の安里善徳。ならはら館の上原。宝来館の新城。山本は浦崎。川津館の新城。モリタ館の与那城。
業者ー万人ヤの仲里。朝日ヤの神里。三角ヤの吉元。みかさヤの与儀。井筒ヤの新里。一味ヤの新城。福力ヤの神里。公園入口の金城。朝日橋前の新城。松田橋前の新城。安里松竹の糸洲。

1946年から47年まで戦地や他府県からシマンチュが引き揚げてきて粟国島の我が家の周囲は賑やかになった。しかし生活は貧しく心を癒すものを求めた。その一つが部落芝居であった。やがて我が家の隣に茅葺のクラブが建てられ伊江島ハンドーグァーや大新城親方などの芝居が旧正月に演じられた。伯父・玉寄貞夫は初期のころからの中心的に芝居活動をやってきた。1956年、玉寄貞夫の従兄弟・安村善太郎、勇祥兄弟の多額の寄付でクラブを鉄筋コンクリート建てにする(写真・左)。
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1948年ーガーブ橋前に「大洋食堂」(勢理客(町田)定正)

1949年
安里大通りに「丸屋食堂」そば・すし・めし(久場景善)。7月ーホテル新風荘(崎原マサ)民政府構内に開業。8月ー料亭「喜仙」(仲本盛智)。9月ー料亭「幸楽」、安里に「丸久食堂」(久高将金)。11月ー真和志に食堂「ゆたかや」(西銘政弘)、那覇市場前に「木村屋食堂」

1950年
国際劇場前に「みなと屋」(豊見山義康)、2月ー元国際食堂跡に「井筒屋」、7月ー那覇料理屋組合が毎月第二日曜を公休とする、「一富士」みつ豆・冷し西瓜(当真嗣正)、9月ー那覇区に井筒屋新装開店、神里原に大衆食堂「三角屋」そば・すし(渡口トミ)


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写真・沖縄調理師会ー前列右から安里信祐(現・伊勢海老料理「味の店三郎」店主)、新城三郎、右端に玉寄米吉
1950年ー沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」結成。中村喜代治、新城三郎、玉寄博昭、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加□奄美が日本復帰する1953年に「沖縄調理師会」と改称。


1951年
1月ー那覇料理組合・花咲、喜仙、花園、南海、清風荘、清風、松屋、美園、那覇、香那恵、皆美亭、若梅、幸楽、田鶴、三原、新栄亭、新風荘、オール倶楽部、ほがらか亭、やよい、よつ竹、若杉、玉家、八千代、有楽、松竹、だるま亭、よかろう、左馬、若藤、春芳、一心亭、一廣、ときわ、松の家、美杉、一楽、やすらか、栄亭、よし乃、新月亭、大楽。糸満町にみなとや飲食店(新城野枝)。安村勇祥(新城三郎従兄弟)、平和通りで「かき氷屋」開店。□→「レストランアサヒ」/1986年2月ー安村勇祥『想いでの記』。
7月ー那覇市10区に琉球料理「玉川屋」うなぎ蒲焼。10月ー料亭那覇がうなぎ料理、12月ー神里原に食堂「美松」手打そば。
1951年             『球陽新報』「沖縄そばの味自慢ー宮里政栄(大阪西成区鶴見橋)」

1952年
5月ー神里原に「龍凰閣」「台北楼」、「レストランアサヒ」

1955年5月ー安里幸一郎、オジ玉寄松のいる料亭松乃下に見習いとして住み込む。

1956年2月ー粟国島で「親子ラジオ」譲渡式/4月ー末吉保朝(粟国中学校教諭)、文部省派遣で大阪市文の里中学校へ/1959年2月ー『オキナワグラフ』「発足した沖縄唯一の事務機のデーパト合資会社・沖縄事務機社(新里有四郎社長)」/5月ー宜野湾市大山で雑貨商「ジミーグロセリー」開業□→2006年8月『Jimmy’s 50th Anniversary 1956~2006』株式会社ジミー/6月8日ー『琉球新報』「粟国村のソテツは村の守り神」。




1959年2月ー新城三郎、[食堂]経営をイトマンのノリーおばさんから譲られる。
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1960年              川崎お大師様の近所で伊礼松子が「沖縄ソバ」「三月菓子」を自家製造販売
5月8日ー粟国郷友会創立総会(那覇市栄町豊福亭)初代会長に安村勇祥、副会長・與那誠正、玉寄誠一、伊佐傳一
6月ー安里幸一郎、東京新宿の割烹旅館白鷹で調理修行。                    

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