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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


第7回戦後沖縄研究コロキウムー終戦~<復帰>前後を中心にー 
 *企画:「戦後の沖縄社会と女性への視座―その手から産まれたもの・技術史の課題ー」
 *期日:2017年5月14日(日)午後2時~5時 
 *会場:南風原文化センター(沖縄県南風原町)
 *内容:講師)
   ・「戦後沖縄の技術史の課題―時代の技術ー」粟国恭子(近現代文化史・沖縄県立芸術大学非常勤講師)
・「ミシンと『復興』」謝花直美(沖縄戦後史・沖縄タイムス編集委員)
   ・「戦後南風原のモノづくりと女性」平良次子(学芸:南風原文化センター職員)
   ・コーディネーター:秋山道宏(社会学・沖縄戦後史、沖縄国際大学非常勤講師)



   
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仲里好孝氏「会長あいさつ」


議案審議


激励会ー左から仲里好孝会長、伊良皆賢哲氏、上原小一氏

激励会ー伊良皆賢哲氏/上原小一氏



糸数信一氏「乾杯の音頭」







左が末吉保朝先生と末吉良治氏/末吉保朝先生と伊良皆賢哲氏

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Posted by: ryubun02


○右側下の天牛新一郎のハガキに「今度長い間御贔屓に相成りました道頓堀角座前の天牛新一郎書店が家主さんの一身上の都合で立ち退く事になりました。誠に残念でございますが、9月15日を持ちまして閉店させて頂きます。これから孫の高志の周防町店を手伝ってやろうと思っております。私もこの11月で88歳になりますが、お蔭さまでまだまだ元気でございますので、活躍いたしたいと思っております。」と記されている。その傍に、『中央公論』1980年12月の「お辞儀の天牛ー70年つづける古書店主ー」として天牛さんの1日が写真で紹介されている。○阪急古書のまち(はんきゅうこしょのまち)は、大阪市北区にある、阪急電鉄の高架下を利用した古書店街。古書店街ではあるが、美術品を扱う店や紀伊国屋書店の楽譜等を専門に扱う店などもある。


○そごう心斎橋本店ー大阪府大阪市中央区にあるショッピングセンター。1935年から2000年まであった「そごう大阪店」の閉店後、2005年に「そごう心斎橋本店」としてリニューアルオープン、2009年に閉店。建物は同年改装後に「大丸心斎橋店・北館」として開店した。 →コトバンク

○神戸・三宮の商業複合ビル「サンパル」にある古書街「サンパル古書のまち」で、唯一営業を続けていた「ロードス書房」が8月末で閉店する。県内の郷土史資料を中心に集め、長く歴史研究者らに愛されてきたが、ビルの衰退や店主の病気などのため退店を決意。阪神・淡路大震災を乗り越え、約30年続いた個性派古書街が姿を消す。古書のまちは1986年に8店舗でスタート。それぞれ和本や文芸書、全集、雑誌など異なる分野の専門書をゆっくり探せる空間だったが、経営不振や後継者不在で徐々に撤退が進んだ。→神戸新聞2013-8-3



関西の書店

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〇書物は出会った時に迷ってはいけないー横山重『書物捜索』/古文献を発掘し学界に提供する学風ー滝本誠一『日本経済大典』/学問の豪傑が勢揃いした時代の京都大学ー神田喜一郎『敦煌学五十年』/大学教授の身で国宝三点重文六点を蒐めたー内藤湖南/近世書誌学の基礎を築いたー水谷不倒/大学教授の職責ー藤村作/全国に響いた浪華の文化人ー木村蒹葭堂/人名録を愛好した近世人の志向ー諸家人名江戸方角分/西鶴は作家であり編集者であり企画者であったー森銑三『西鶴と西鶴本』/わが国の料理人は技術を公開して共同で進歩したー川上行蔵『料理文献解題』/日本一充実した古典籍図録ー反町茂雄『弘文荘善本図録』/古書価の変遷にあらわれた時代の嗜好ー水谷不倒『明治大正古書価之研究』/際限なく広範囲におよんだ蒐書家ー市島春城/研究資料の充実に徹した世界的コレクションーモリソンと東洋文庫/伊藤仁斎は日本に真正な学問の基礎を作ったー『童子間』/著作者の学問内容を呑みこんだ上での書誌学ー中村幸彦『古義堂文庫目録』/世界で最も醒めていた思考者の辛辣ー山片蟠桃『夢の代』/閨閥によって人事が決まる東京帝大ー大塚虎雄『学界異聞』/東大は日本文化の家元であるから国民を下に見て君臨するー『出身学校別現代紳士録』/主題を定めて書籍蒐集は精神衛生によいー社史についての文献一覧/図書館の参考事務は無意味であるー植村長三郎『図書館学・書誌学事典』/漢方は日本において再編成し直し高度になったー小曾戸洋『日本漢方典籍辞典』/遊んでばかり働くより儲けた骨董眼ー渡辺虹衣『骨董太平記』/仏教辞典を見分けるコツー岩本裕『日本仏教語辞典』/辞書は使い方で思わぬことを教えてくれるー薩摩辞書/文部省からも民間からも大出版が出たー杉村武『近代日本大出版事業史』/群書類従の欠を補う史籍集覧ー近藤瓶城/昔は博識謙虚なコワイ好事家がいたー三村竹清『本之話』/古典研究の究極は注釈であるー『徒然草諸抄大成』/日本近代書誌学の伝統と未来ー天野敬太郎『河上肇博士文献志』/このような時代に適した企画を見習って欲しいー『現代知性全集』/報恩に献身した出版事業ー野依秀市/雪嶺が古書展で買物をすると予定額にピタリであったー三宅美代子『雪嶺の思ひ出』

〇役に立たない本を使いこなして役に立たせる法ー増田渉『雑書雑談』/考証学の伝統を守って研究を維持する人々ー関良一『日本近代詩講義』/藝術というものは全く個人的な我れを標準とするー『脇本楽之軒の小伝と追憶』/日本人は如何なる方法によって納得させうるかー御成敗式目/大坂夏の陣のさなかに出た本ー『大坂物語』/水戸黄門ー『大日本史』/歴史は真実でありえないことを考証したー富永仲基『出定後語』/大石は人の情念に訴え感動させる劇を演出したー『仮名手本忠臣蔵』/日本史の斬新な時代区分ー伊達千広『大勢三転考』/福沢が書かざるをえなかった理由ー『瘦我慢の説』/伊藤博文が明治史の主役となった理由ー植松孝昭『明治史伝』/官僚制の形成まで明治政府の朝令暮改-星一『官吏学摘要』/徳富蘇峰の思想が形成された時ー『第十九世紀日本ノ青年及其教育』/大正四年各界名士を解剖するー『張子の虎』/給与の出し方にも心遣いが必要とされていたー前田一『サラリーマン物語』/江戸時代は全国が物産の競争をしていたー『江戸時代人づくり風土記』/出世名声のための戦働きは忠に非ずー『古典大系 日本の指導理念』/文化は容易に変わらないが組織は急速に変動するー『日本の組織』金融も生産も激流に乗って構造変化しているのに、官僚帝国だけは、いまだに世襲が行われている現状を、労政協の『天下り白書』があきらかにしている/明治初年の新聞記者は社会的スターであったー『新聞記者奇行伝』/実力があって野心がなければ人を動かすのは容易であるー鵜崎鷺城『当世策士伝』/語学力の不足は小中学での国語教育軽視に拠るー向軍治『八当集』/事業家を描く伝記の名作ー岡野養之助『村山竜平伝』/日本の社会政策に模範を示した先見力ー『関市長小伝』/国家総動員計画の発端と進行ー石川準吉『国家総動員史』/昭和史の政治に関与した現場証人ー『岩淵辰雄選集』/政治家後援会が刊行した学術書ー下村治『経済成長実現のために』/戦後は誠心巧緻のコラムが時代を照らしたー『時のうごき』/進駐軍を相手にひるまず闘うー石橋湛山の弁駁と資料/明治最初の文士録ー『現代文学者小伝』/アカデミズムを凌いだ独創ー折口信夫『口訳万葉集』/気迫を欠けば漢文は読めないー田岡嶺雲『和訳漢文叢書』/明治文壇を展望した唯一の評判記ー吉田香雨『当世作者評判記』

〇作家は妬まれおとしめられるー尾崎紅葉/二葉亭の翻訳短篇が明治文学の神経に響いたー高松茅村『明治文学言文一致』/代作者助作者加筆者が想定される時代ー東海散士『佳人之奇遇』/俗界を下に見て校風論争ー第一高等学校『文藝部』/ヴァレリー全集ー佐藤正昭/日本で一番大きい豪華版ー寿岳文章編『ヰルヤム・ブレイク書誌』天野敬太郎は昭和22年という早い時期に、「目録の時代を経て今や索引の時代に進んでいる」と喝破した。その索引も人名や書名に非ず、事項索引でなければならぬのである/江戸川乱歩はまた評論家でもあったー『悪人志願』/『智恵子』の生まれた土壌と環境ー室生犀星『我が愛する詩人の伝記』/近代文藝家三百七十五名の研究資料叢書ー昭和女子大学『近代文学研究叢書』/書誌の目で見るー堀口大学『月下の一群』/『田舎教師』のモデルの詩集ー小林秀三遺稿/雑誌『近代文学』発刊時の決意と苦労ー『近代文学』発刊挨拶状/若き日の山本周五郎が耽読した唯一の本ーストリンドベリー『青巻』/思いこんだらとことんやる人たちー斎藤昌三『三十六人の好色家』/エロ・グロ・ナンセンスー『匂へる園』ほか/ウソをつかない限定本ー集古洞人編『奇書輯覧』/自分を売りこむためには何事につけても手練手管が必要であるー相馬健作『文壇太平記』/同時代の誠実な観察者ー小牧近江『プロレタリア文学手引』/悪口は人とのつき合いに不可欠のエチケットであるー河盛好蔵『人とつき合う法』/日本人の性情が洗練されるよう願った作家ー大仏次郎『帰郷』/早稲田の人材が背伸びして文藝百科を作ったー『文藝百科全書』/短歌とその注釈が響き合って豊かな感動を呼ぶー吉野秀雄『鹿鳴集歌解』/シェークスピア全集推敲転々ー坪内逍遥/芭蕉にお近づきになるためならこの一冊ー柴田宵曲『芭蕉言行録』/日本人は悪評を軽率に信じ易いー田口掬汀『文壇照魔境』/文士のゴジップを集めたら本になる時代ー『文壇失敗談』/何よりも先ず古本屋を利用すべきであるー田中菊雄『現代読書法』カズオ書店、津田喜代獅、天牛書店の尾上政太郎、広島の黒木書店が元町へ/書誌学の新次元ー宮崎芳三ほか『日本における英国小説研究書誌』/軽評論家と呼ばれて意地を見せたー『十返肇著作集』/批評を論理と錯覚する文壇を訂すー『北原武夫文学全集』/作家に推参してその肝を味わって堪能する批評ー開高健『人とこの世界』/小林秀雄が人をたぶらかす手口を解剖するー向井敏『文章読本』/徹底的な批判は必要であるが余裕を忘れてはならないー三好十郎『斬られの仙太』
谷沢永一『書物耽溺 』(講談社) 2002/08

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2004年6月30日ー川西能勢口駅から蔵書家・谷沢永一氏の自宅に行く。沖縄から来たということで何か警戒されていたようで話をすると快くサインしてくれた。近くにフローレンス ナイチンゲール(救苦観世音)像がある。

谷沢永一 たにざわ-えいいち
1929-2011 昭和後期-平成時代の書誌学者,文芸評論家。
昭和4年6月27日生まれ。関西大在学中から同人雑誌「えんぴつ」を主宰し,開高健(たけし),向井敏(さとし)らと知りあう。昭和44年から平成3年まで母校の教授。近代文学の分析と論評,書誌研究で知られ,昭和55年「完本―紙つぶて」でサントリー学芸賞。平成16年「文豪たちの大喧嘩」で読売文学賞。平成23年3月8日死去。81歳。大阪出身。著作はほかに「谷沢永一書誌学研叢」「書物耽溺」など。(→コトバンク)

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2006「トンビの目のパノラマ地図」
○我が琉文菴は近鉄奈良線の布施駅近く(上の赤丸・東大阪市)にある。奈良公園や、唐招提寺・薬師寺、大和文華館(山口宗季の花鳥図、座間味庸昌の人物画が所蔵されている)、近鉄資料室や大阪ミナミ(道頓堀)に出るのに便利である。奈良はシルクロードの終点と言われているが、1977年発行の辛島昇①編『インド入門』に「日本人のシルクロード好きは、毎秋奈良でひらかれる正倉院展にどっと人があつまる事情と軌を一にしたものである」とし「むかし大東亜共栄圏という日本を扇の要においたひろい意味での文化圏を捏造した国粋主義に通じる」とする。奈良は東大寺の大仏や興福寺の五重塔、阿修羅像でも知られ世界遺産でもある。

奈良近鉄駅ビル3・4階に歴史・観光の展示館「なら奈良館」(旧・奈良歴史教室)


源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。

国宝・銅造盧舎那仏坐像/重文・如意輪観音坐像

大仏殿にある広目天像  多聞天像 

小説家して有名な森鴎外は、大正6年に帝室博物館の総長に任命され、東京・京都・奈良の帝室博物館を統括する要職でした。大正7年から10年まで、秋になると鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち合うため奈良を訪れており、滞在中の宿舎はこの場所にありました。

①辛島昇 からしま-のぼる
1933- 昭和後期-平成時代の南アジア史学者,インド史学者。
昭和8年4月24日生まれ。専門は南アジア史。昭和50年東大教授。のち大正大教授。平成15年「History and Society in South India:The Cholas to Vijiayanagar(南インドの歴史と社会─チョーラ朝からビジャヤナガル王国へ)」で学士院賞。19年文化功労者。東京出身。東大卒。著作に「インド入門」など。→コトバンク

 2006年5月13日ー午後は、近鉄丹波橋で降りて、御香宮神社に行く。名水「御香水」が境内にある。この神社には京都市天然記念物のソテツがあり、その実は「延命厄除そてつ守」になっている。鳥せい本店側では名水「白菊水」、月桂冠大倉記念館では名水「さかみづ」を飲んだ。同時に昼間からきき酒で顔が赤くなった。

御香宮神社
近鉄奈良駅西口を出て地下道を通って近鉄高天ビルに出て歩道を西の方に歩くと直ぐ通称「山の寺」という看板が見える。奧まったところに「葵」の紋を打った山門が建っているところが浄土宗降魔山「念仏寺」である。門をくぐると降魔山と記された燈篭がある。その傍らに蘇鉄。1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得た。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めである。

浄土宗降魔山「念仏寺」

〇御香宮神社は徳川家と深い関わりがある。徳川家康が豊臣秀吉のあとをうけ伏見城で天下の政事をとったおり、尾張、紀伊、水戸の御三家の藩祖と、秀忠の娘千姫はこの伏見で誕生している。御香宮を産土神として特別な崇敬を払っている。御香宮の神門は1622年に水戸中納言頼房(水戸光圀の父)が伏見城大手門を寄進したものと言われている。
□御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。□→1983年9月ー山本眞嗣著・水野克比古撮影『京都伏見歴史紀行』山川出版社

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[時事通信] 4/25-今村雅弘復興相は25日夕、東京都内のホテルで開かれた自民党二階派のパーティーで講演し、東日本大震災について「(発生場所が)東北で、地方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると莫大(ばくだい)な、甚大な被害があった」と述べた。

 「くろねこの短語」4月25日ー このところのトランプにお追従するかのような北朝鮮への挑発を見ていると、ヘルマン・ゲーリングの言葉がふと頭をよぎる。「国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を引きずり込むのは実に簡単だ。外国に攻撃されつつあると言えばよい。それでも戦争に反対する者を、愛国心がないと批判すればいいい」

 「くろねこの短語」4月23日ー「安倍晋三記念小学校」疑獄に新ネタが出てきたようで、なんと森友学園の系列保育園を運営する社会福祉法人の発起人に、網タイツの防衛大臣・稲田君の旦那の名前が見つかったそうだ。ここまでくると「朋ちゃん知らないもん」ではすみませんね。ていうか、どんだけ嘘つきなんだよってことで、政治家というよりも人として失格だね。こんなのをいつまでも防衛大臣の椅子に座らせておくペテン総理の愚鈍さにも辟易なんだが、ようするにみんなグルってことなんだね。ペテン総理、私人の嫁、稲田夫婦、大阪のチンピラ知事・松井が徒党を組んでの共謀罪ということで、今日のところはお後がよろしいようで。

 「くろねこの短語」4月17日ーそんなことより、またしてもお馬鹿な大臣が暴言吐いたってね。なんでも、山本幸三とかいう地方創生大臣が地方の観光振興がうまくいかない理由として、「一番のがんは文化学芸員。この連中を一掃しないと駄目」ってのたまったそうだ。凄いよね。地方の活性化がうまくいかない原因が学芸員だなんて、どうやったらそんな思考回路になるんだろう。これ゛ゃあ。痴呆創生大臣だろう。大英博物館は学芸員を辞めさせたから成功したって言ってるようなんだが、そんなデータがどこかにあるのか?。そもそも、この発言で問題なのは、自分がよく知りもしない仕事に対しての敬意が欠けていることなんだね。だから口調そのものもヤクザまがいなものになっちまう。「この連中を一掃しないと・・・」なんて、まるで暴力団撲滅運動みたいですからね。




京都絵葉書ー戦前

 『京都新聞』4月19日ー政府の観光振興を進める上で「一番のがんは文化学芸員」とした山本幸三地方創生担当相①の発言に、批判が高まっている。山本氏は発言を撤回し、謝罪したが、18日には再び二条城(京都市中京区)の英語の案内表記を「不十分」と批判した。多くの文化財が集積する京都の博物館の学芸員からは「最も大切な仕事は文化財の保護」「保存と活用のバランスを考えながら地道に取り組んでいる」と、学芸員の仕事に理解を求める意見が相次いだ。
 ①山本幸三地方創生担当相(日本会議国会議員懇談会/1973年7月 米国コーネル大学経営大学院に留学、MBA取得。1981年7月米国ハーバード大学国際問題研究所客員研究員、日米関係プログラム)2012年3月5日の衆議院予算委員会において、自見庄三郎金融担当大臣(当時)に対し、証券取引等監視委員会による強制捜査の手法を批判する趣旨の質疑を行った。その前年9月、山本が代表取締役を務める「ブルー・エコノミー・ホールディングス」②に5千万円の資金を提供していた金融業者、及び日興コーディアル証券の元執行役員がインサイダー容疑で証券取引等監視委員会の強制捜査を受け、その3ヶ月後に逮捕されており、山本の国会質問に対して「私的な利害関係者のために国会の場で質問した」「証券取引等監視委員会への圧力ではないか」等の指摘が週刊文春による報道でなされた。
②商号:株式会社ブルーエコノミー・ホールディングス 本店:(東京都千代田区麹町五丁目3番地・麹町秋山ビルディング7階) 会社成立の年月日:平成22年3月11日
目的ー当会社は,次の業務を営む国内外の会社を支配及び管理することを目的とする。
(1)金融商品取引法に規定する金融商品取引業務
(2)銀行法に規定する銀行業及び信託業法に規定する信託業務
(3)投資助言・代理業及び投資運用業務
(4)その他の金融サービス及びそれに付帯又は関連する業務
(5)不動産業及びそれに付帯又は関連する業務
(6)国内特許・実用新案及び意匠・商標その他知的財産権全般及び
   それに付帯又は関連する業務
(7)農業経営及びそれに付帯又は関連する業務
(8)前各号に附帯又は関連する業務
役員ー山本幸三(自民党衆議院議員)/愛知和男(元衆議院議員)/グンター・パウリ(NPO法人ゼリ・ジャパン特別顧問)

 龍谷大龍谷ミュージアム(下京区)の石川知彦副館長(57)は学芸員の仕事は博物館法で定められているとして「一般には展覧会やシンポジウムなどが知られるが、最も大切なのは文化財の保護であり、調査研究だ。貴重な文化財をわれわれの代でつぶすわけにはいかない」と指摘する。山本氏の発言には「観光への安易な活用ばかりを強調する発言にがっかりした。京都の人はもっと怒ってもいい」と批判した。
 亀岡市文化資料館(京都府亀岡市)の黒川孝宏館長(62)は「文化財は現在の人だけのものではない。500年、千年と守られてきた文化財を、私たちが同じように引き継いでいかなければならない」と強調。「国が定めた基準の範囲内でアイデアを出し、公開の努力をしている。国の方針として矛盾している」とあきれる。「地方都市の学芸員は、市指定や未指定の文化財でも、地域の貴重な文化として将来に残そうと地道に取り組んでいる。地方創生を考えるなら、そういう活動にも目を向けるべきだ」と注文を付けた。
 京都文化博物館(中京区)の森脇清隆主任学芸員(55)は、今回の発言に「もうかるなら文化もただ消費すればいい、という発想を感じる」といい、「これまで守られてきた文化財が、観光目的のために切り売りされ、傷ついたり失われては、将来に対して非常に恥ずかしい」と危ぶむ。文博では、子どもや外国人らを対象に、どのような展示やワークショップが望ましいかを日々模索しているという。「学芸員に観光の視点がないわけではない。文化財の保存と活用のバランスをとりながら頑張る学芸員たちの取り組みをむしろ、応援してほしい」と訴えた。

『毎日新聞』4月20日ー山本氏は3月9日の参院内閣委員会で、2012年のロンドン五輪で観光を盛り上げるため、大英博物館で大規模改装が行われたと説明。「一番抵抗したのが学芸員で、そのときは観光マインドがない学芸員は全部くびにした」と語った。山本氏は今月16日の滋賀県での地方創生に関するセミナーでも同様の発言をしていた。これについて、大英博物館の広報担当者は「事実誤認」と否定し、「大英博物館は観光のためにスタッフを解雇したことも根本的な建物改装をしたこともない」と強調した。

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写真右から、新城栄徳氏、新城栄市氏、新城あけみ、新城喜一氏、左端は不詳
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 月刊『CAPA』 2017年4月号』「名作誕生とその時代 沖縄の戦後復興を記録 山田實『こどもたちのオキナワ1955-1965』」

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新しい日本のために――発刊のことば
古い日本は影をひそめて、新しい日本が誕生した。生れかわつた日本には新しい国の歩み方と明るい幸福な生活の標準とがなくてはならない。これを定めたものが新憲法である。
日本国民がお互いに人格を尊重すること。民主主義を正しく実行すること。平和を愛する精神をもつて世界の諸国と交りをあつくすること。
新憲法にもられたこれらのことは、すべて新日本の生きる道であり、また人間として生きがいのある生活をいとなむための根本精神でもある。まことに新憲法は、日本人の進むべき大道をさし示したものであつて、われわれの日常生活の指針であり、日本国民の理想と抱負とをおりこんだ立派な法典である。
わが国が生れかわつてよい国となるには、ぜひとも新憲法がわれわれの血となり、肉となるように、その精神をいかしてゆかなければならない。実行がともなわない憲法は死んだ文章にすぎないのである。
新憲法が大たん率直に「われわれはもう戦争をしない」と宣言したことは、人類の高い理想をいいあらわしたものであつて、平和世界の建設こそ日本が再生する唯一の途である。今後われわれは平和の旗をかかげて、民主主義のいしずえの上に、文化の香り高い祖国を築きあげてゆかなければならない。
新憲法の施行に際し、本会がこの冊子を刊行したのもこの主旨からである。
昭和二十二年五月三日 憲法普及会会長 芦田 均


◇もう戦争はしない
私たち日本国民はもう二度と再び戦争をしないと誓つた。(第九条)
これは新憲法の最も大きな特色であつて、これほどはつきり平和主義を明かにした憲法は世界にもその例がない。
私たちは戦争のない、ほんとうに平和な世界をつくりたい。このために私たちは陸海空軍などの軍備をふりすてて、全くはだか身となつて平和を守ることを世界に向つて約束したのである。わが国の歴史をふりかえつてみると、いままでの日本は武力によつて国家の運命をのばそうという誤つた道にふみ迷つてゐた。殊に近年は政治の実権を握つていた者たちが、この目的を達するために国民生活を犠牲にして軍備を大きくし、ついに太平洋戦争のような無謀な戦いをいどんだ。その結果は世界の平和と文化を破壊するのみであつた。しかし太平洋戦争の敗戦は私たちを正しい道へ案内してくれる機会となつたのである。
新憲法ですべての軍備を自らふりすてた日本は今後「もう戦争をしない」と誓うばかりではたりない。進んで芸術や科学や平和産業などによつて、文化国家として世界の一等国になるように努めなければならない。それが私たち国民の持つ大きな義務であり、心からの希望である。
世界のすべての国民は平和を愛し、二度と戦争の起らぬことを望んでいる。私たちは世界にさきがけて「戦争をしない」という大きな理想をかかげ、これを忠実に実行するとともに「戦争のない世界」をつくり上げるために、あらゆる努力を捧げよう。これこそ新日本の理想であり、私たちの誓いでなければならない。


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1943年1月 今野賢三『前田正名』新潮社出版/1973年1月 祖田修『前田正名』吉川弘文館

前田正名  生年:嘉永3.3.12(1850.4.23) 没年:大正10.8.11(1921)
明治前期の経済官僚,地方産業振興運動指導者。鹿児島藩医前田善安の6男。慶応年間(1865~68)長崎留学,明治2(1869)年フランスに渡り,フランス農商務省で行財政を学び,10年に内務省御用掛として帰国。のち「大隈財政」下の大蔵省にあって直輸出論を提唱,大隈ブレーンのひとりとなる。14年農商務・大蔵大書記官となり欧州経済事情調査に出張。16年帰国後は品川弥二郎らと組み経済政策を構想,17年3月より農商務省で『興業意見』編纂に取り組み,8月未定稿30巻を完成,「松方財政」を批判し,殖産興業資金の追加供給による強力な産業保護主義を主張して松方正義大蔵卿と対立した。このため内容の大幅変更を余儀なくされた『興業意見』の刊行となった。18年7月より不況下の地方に出張し,勤勉,節倹,貯蓄の「三要点」を強調して農民の自力更生を説くが,同年12月非職。21年山梨県知事を経て22年農商務省工務局長,農務局長に復帰,23年農商務次官,元老院議官,貴族院勅選議員となるが,政府中枢の政策に同調できず官界を去り,25年以降地方産業振興運動を指導。地方実業団体,全国農事会を系統組織化,政府,議会にそれら団体の要求を建議する活動を行った。30年代には農村調査計画である町村是運動に挺身したが,晩年は不遇に終わった。<参考文献>祖田修『前田正名』,同『地方産業の思想と運動』 →コトバンク参照

1894年4月16日『大阪毎日新聞』「五品(織物、陶磁器、金属器、製紙器、雑貨)大会の開会式は、いよいよ昨日を以て京都府庁に開かれたり。会頭に前田正名『京都は我が国の美術工芸に取りて保姆の地位に在り。すなわち美術工芸上、京都は決して京都人の私有にあらず。日本人の京都なること、正名確信して疑わざる所なり。』」
1894年4月16日 前田正名(京都祇園清々館 五種大会出張所)→奈良原繁沖縄県知事
「拝啓陳ハ今回開設ノ五品大会ヘ 御懸下ヨリ當業者参会相成候儀ハ各業者ノ熱心ニ因ル 儀ニモ可有之候得共全ク御庁ニ於テ非常ニ御尽力被下候 結果ト深ク感謝之至リニ奉存候尚報告書ハ追テ差上可申候先ハ不取敢御禮申上度如此ニ御座候敬具」→那覇市歴史博物館「横内家文書」

1894年4月17日『大阪毎日新聞』「五品(織物、陶磁器、金属器、製紙器、雑貨)大会閉会式 五品大会は五二(織物、彫刻を追加)会と改称し閉会・・・」

1913年5月25日『琉球新報』「本日来県の前田翁ー其産業に関する意見」
1913年5月26日『琉球新報』「前田翁来着ー旅装解かずして講演会に臨む。鹿児島に生まれながら今日まで当地を訪ふに至らざりしは深く之を謝す・・・」「前田翁一行」
1913年5月26日『沖縄毎日新聞』「前田翁一行の人名ー貴族院議員前田正名▲金剛寺住職暉峻普瑞▲陸軍中佐花田仲之助▲鹿児島商業会議所書記長安田武彦▲鹿児島郵船会社書記長坂元徳二▲実業家小牧藤兵衛▲仝慶田政太郎▲岡崎商業会議所常務議員千田千太郎▲実業家加藤敬太郎▲社会教育者志方楽山▲実業家大山幸太郎」
1913年5月27日『琉球新報』「真教寺 本社主催 講演会/前田正名翁、暉峻普瑞師、花田中佐、志方楽山氏」
1913年5月28日『琉球新報』「前田翁の講話」「一昨晩の前田翁歓迎会」 
1913年5月28日『沖縄毎日新聞』「前田翁一行の歓迎会」
1913年5月29日『琉球新報』「前田翁本日出発」
1913年6月3日『沖縄毎日新聞』「前田翁の一歩園」
1913年6月8日『沖縄毎日新聞』高里次郎「前田翁一行より得たる教訓(上)」
1913年6月10日『沖縄毎日新聞』高里次郎「前田翁一行より得たる教訓(下)」

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「辺野古新基地建設を止めるもう一つの取り組み」実行委員会(金城馨、稲福日出夫、大城尚子、平良美乃)

2017年4月29日(土)午後2時(開場1時30分)~午後5時 沖縄国際大学3号館202号教室(最大収容300名) 資 料 代  500円
司会 下地厚 ①黙祷 ②開会挨拶(趣旨説明) 金城馨 ③基調講演 沖縄近現代史家 伊佐眞一氏「試金石としての県外移設」 ④休憩10分 ⑤パネルディスカッション「私たちが求める県外移設とは」 コーディネーター:親川志奈子(沖縄大学非常勤講師):助言者・伊佐眞一 パネリスト:岸本セツ子(主婦)、知念栄子(主婦)、平良美乃(大学院生)、小禄隆司(大学生)髙良沙哉(沖縄大学准教授)、安里長従(司法書士) ⑥賛同メッセージの読み上げ 下地厚 ⑦質疑応答 ⑧提言(実行委員から日本本土に暮らすすべての人びとに向けて)⑨閉会の挨拶 稲福日出夫


参考資料ー2017年2月 『月刊琉球』謝花剛「基地引き取り運動への提言(県外移設論の再確認を含めて)」
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1973年、上の沖縄タイムスの記事をみて、京都駅近鉄名店街の「紅屋」に石川氏が訪ねてきた。後日、一燈園に石川氏を訪ねて歓談した。

左が石川洋氏、新城榮徳
一燈園同人
石川 洋 (いしかわよう)
昭和5年、栃木県生まれ。17才のとき、一燈園創始者、西田天香師と出会い、入園を決意。托鉢者として今日にいたる。かたわら、沖縄への奉仕活動「仏桑会(ぶっそうげ)の会」事務局長、順教尼遺弟会「この花会」相談役、国際宗教同志会常任委員、世界宗教者平和会議日本委員、人権・難民委員として活躍。国内では、教育・福祉・企業内教育の講師として東奔西走。海外では、カンボジアなどで、幾多の危険な場面に直面しながら難民救援にあたっている。
《著書》
『捨てなければ得られない』(柏樹祉)
『一人には一人の光がある』(柏樹社)
『ベスト・ライフ』(実業の日本)…他。
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いいだ もも(本名:飯田 桃(読み同じ)、1926年(大正15年)1月10日 - 2011年(平成23年)3月31日)は、東京府東京市出身の作家、評論家。多元主義的共産主義者。『21世紀への構想』研究会主宰。『近代日本社会運動史人物大事典』編集委員。男性。別名の宮本 治は「宮本百合子と太宰治をアウフヘーベンする」との意図によるという。→ウィキ


左下の教養文庫、黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』は、以前、桑原守也さんから本書の尚泰侯爵<400>コピーを送られたことがある。それに「旧琉球王侯爵尚泰 麹町区富士見町八番地、侯爵尚泰は左の如く多くの妾と庶子を有す△琉球人真鶴金(46)。△牛込区原町3丁目士族船岸勝太郎方同居平民山本ちょうは、男秀を22年9月に生み、女みちよを24年7月に生み、女やえを25年12月に生む。△北豊島郡巣鴨町1丁目17番地、田中栄蔵長女こうは、男光を23年12月に生む。△三重県河芸郡神戸町片山半七2女貞は、女まさよを、25年2月に生み、男時を26年5月に生む。△下谷区南稲荷町83番地松本かね養女ゆうは、女きみを27年11月に生む。△千葉県安房郡北三原村西田市五郎方神田なつは、女ちよを27年6月に生み、女さよを29年8月に生み、女すずを30年11月に生む。以上はいずれも小間使いもしくは下女なりしを手を附け孕ませたるなり、その嗣子 <401>従四位尚典(35)も麹町区3番町56番地、高木勝太郎方同居士族2女ちゑを妾とし、明治16年10月1女を挙げつると命名す。」同書には「靖国神社宮司加茂水穂は日本橋区村松町48番地藤吉妹松本やそ(31)を妾とし一時麹町区1番町47番地に囲い置きたれども今は3番町10番地に移す」などもある。

明治維新後、明治新政府の要職や陸海軍の幹部には薩長(薩摩藩と長州藩)出身者が多く占めていた。伊藤博文も長州藩士である。

「緋色の研究」ーこの本(黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』)の中では、数多くの方の実例がそのまま暴露されていますが、初代総理大臣・伊藤博文はかなりひどいと言えるでしょう。伊藤博文の実例紹介部分を、ぼくが現代語に直したのが以下のようなものです。
 「さっそくだが伊藤博文は変態なので、世間に知られている以外にもとんでもない事実があるのではと思っていたが、まさしく秘密の中の秘密と言える事実をつかんだので紹介する。芝区伊皿子町65番地に田村半助という男がいるのだが、古くから伊藤博文の家で土木請負をしていた。その関係で、田村半助の長女である喜勢子が伊藤博文の愛人になったことがあった。喜勢子は伊藤博文に可愛がられ、麻布長坂町1番地にきれいな家を立ててもらったりもしていた。しかし喜勢子が病にかかり亡くなってしまい、伊藤博文は悲しみながら喜勢子の妹つね子をまた愛人にし、つね子も美人なのでまた可愛がってた。しかしこのつね子もまた19歳で亡くなってしまい、伊藤博文はまた悲しみながら、次はつね子の妹で16歳の雪子を愛人にしようと企み、愛人にさせろと田村半助に迫った事実がある。しかし田村半助も、さすがに娘がふたりも亡くなっていることが気になりすぎるし、雪子も怖がって愛人になりたくないと言う。そんなことを言えば言うほど、伊藤博文は雪子を愛人にしたくなり、5月16日に行われた喜勢子とつね子の追福法会(冥福を祈る会)では、莫大な金品を田村半助に与えまくり、とてつもなく恩を着せ、田村半助のまわりにいる者9人ほどを権力で操り、あの手この手で愛人にしようと圧力をかけ続けた。しかし、それでも雪子は愛人になりたくないと断り続けていた。これが先月までの話。それでも田村半助たちの生活が成り立っているのは伊藤博文のおかげであるから、雪子がいつ愛人になってしまうか分からない状態だ。今後、雪子の愛人の話がまとまったりすれば、随時報道していく!」ねぇねぇこんなこと書いていいの~~~~!?!?相手は初代総理大臣なんですけど!!一般人の実名と住所出しすぎなんですけど!!完全におもしろがってやってますよね!!現代からすると、これだけの暴露を発表しつづけてメディアに残っていたのが不思議でしようがないですが、現代と明治ではさまざまな社会通念自体が異なるものだったようです。『恩を着せた』のあたりなど、名誉毀損のルーツともいえるような書き方なのですが、黒岩さんはほんと権力者に消されなくてよかったですね…。もちろん暴露は伊藤博文だけではおさまりません。総理大臣ですらここまでやっているのですから、他の人にもどんどん過酷な追求を行っています。

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4月12日『沖縄タイムス』『琉球新報』の儀間比呂志さん追悼記事

 沖縄でたくましく生きる人々の姿を力強いタッチで刻み続けてきた、沖縄を代表する版画家・絵本作家の儀間比呂志(ぎま・ひろし)さんが11日午前3時15分、肺炎のため大阪府河内長野市の病院で死去した。94歳。沖縄戦や沖縄の風景、女性の姿を大型の版画作品で描いたほか、多数の創作絵本を出した。自宅は大阪府大阪狭山市茱萸木(ぐみのき)4丁目1162の4。通夜は14日午後7時、葬儀は15日正午からいずれも大阪府大阪狭山市茱萸木1丁目277の1、セレモ大山で。喪主は長男修(おさむ)さん。
 儀間さんは1923年那覇市生まれ。青年時代を過ごした旧南洋群島のテニアンで版画の手ほどきを受けた。戦後、大阪市立美術研究所で絵を学び、70年から版画に専念し、上野誠に学んだ。「ふなひき太良」(毎日出版文化賞)以来、多くの創作絵本を手掛け、「鉄の子カナヒル」などで多くの賞を受けた。版画集「戦がやってきた」「沖縄戦-朝鮮人軍夫と従軍慰安婦」など、戦争を告発する作品を世に問うてきた。
 2006年には83歳で豊見城市にアトリエを構え、大阪と行き来をしながら琉球新報に連載した「みのかさ部隊」などの制作に打ち込んだ。若い世代とのコラボレーションにも積極的に取り組み、県出身ロックバンド、モンゴル800と詩画集「琉球愛歌」を作った。12年に琉球新報賞。90歳を過ぎて大阪に戻っていた。【琉球新報電子版 2017年4月11日】

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1930年1月 新屋敷幸繁『古事記の鑑賞』大同館書店〇第二章 黄泉国と琉球の後生

1932年6月 新屋敷幸繫・峯岸義秋『日本文学概論』大明堂



1972年4月 沖縄の雑誌『青い海』5月号 新屋敷幸繁「民話の沖縄/七つの男の子と九つの女の子の約束』

新屋敷幸繁
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新屋敷幸繁 (しんやしき・こうはん)1899~1985(明治32.4.15~昭和60.7.15) 詩人、教育者。与那城町生まれ。沖縄大学学長などを務める。詩集『生活の挽歌』『野心ある花』、詩誌『南方樂園』、史書『新講沖縄1000年史』『コザ市史』など。(沖縄コンパクト事典)





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写真ー仲原善徳とバゴボ族の酋長

1933年6月ー仲原善徳『大南洋評論』第1巻第2巻(仲原善徳編集)□金城朝永「南洋関係図書目録」
1936年11月 『訓練』仲原善徳「フィリッピン観光記(上)」
1937年3月ー仲原善徳『南洋千一夜一夜物語』日本書房
1937年3月ー『国際パンフレット通信』第998号 仲原善徳「蘭領ニューギニアの実相」
1937年4月ー『改造』仲原善徳「蘭領ニューギニア」
1938年12月ー『比律賓年鑑』仲原善徳「比律賓群島の諸民族」



1942年2月ー仲原善徳『比律賓紀行』河出書房


1942年7月ー仲原善徳『比律賓群島の民族と生活』南方出版社


1942年7月ー仲原善徳『ボルネオとセレベス』寶雲社
1942年7月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓雑誌」
1942年10月ー『海を越えて』仲原善徳「新比律賓の面貌」


1942年11月ー仲原善徳『ミンダナオ島物語』興亜書房(寺内萬治郎・画) 
寺内萬治郎ー洋画家生年明治23(1890)年11月25日
没年昭和39(1964)年12月14日 出生地大阪府大阪市
学歴〔年〕東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科本科〔大正5年〕卒
主な受賞名〔年〕帝展特選(第6回)〔大正14年〕「裸婦」,帝展特選(第8回)〔昭和2年〕「インコと女」,日本芸術院賞〔昭和26年〕
経歴明治42年白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事。東京美術学校では藤島武二の指導を受ける。大正7年文展に初入選。11年耳野卯三郎らと金塔社を結成。14年第6回帝展で「裸婦」が、昭和2年第8回帝展で「インコと女」が、それぞれ特選となる。昭和初期から埼玉県浦和に住む。4年光風会会員となり、同会をはじめ帝展、新文展の審査員を歴任。戦後は23年ころより裸婦制作一筋に打ち込み、26年第6回日展出品の「横臥裸婦」および一連の裸婦作品によって日本芸術院賞を受賞した。35年日本芸術院会員、日展理事。東京美術学校などの講師として後進の指導にも当たった。「コドモノクニ」「幼年倶楽部」の挿絵画家としても親しまれた。→ コトバンク

1943年1月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓を巡る島々」
1943年2月ー仲原善徳『日本人ミンダナオ島開拓略史』南洋経済研究所
1943年4月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓の諸問題」
1943年10月ー『海を越えて』仲原善徳「フィリッピン史上の二人物」


1943年10月ー仲原善徳『バコボ族覚書』改造社

1943年11月ー『海を越えて』仲原善徳「フィリッピン在留邦人気質」


本間雅晴「序文」、葛生能久「序文」/右ー頭山満「題字」

写真中央ー犬養毅、頭山満
1944年9月ー仲原善徳『フィリピン独立正史』中文館書店

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1964年10月8日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」
神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして
1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。

 
10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)
怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」

奥里将建(1888年5月18日~1963年12月29日)
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写真ー奥里将建
1940年1月1日ー『沖縄朝日新聞』奥里将建「砂糖よりも有利な・・・うこん栽培と産業教育」

1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店
1943年9月ー奥里将建『古代語新論』三省堂
1949年5月ー奥里将建『沖縄昔話集』瑞泉会
1954年10月ー奥里将建『院政貴族語と文化の南展』三協社

1966年11月ー奥里将建『沖縄に君臨した平家』大同印刷工業
□仲宗根政善(琉球大学教授)ー1963年4月から64年の6月まで、私はハワイ大学の東西文化センターにいて、ホーレー文庫にとじこもって、日々を幸福感にみちて過ごしていた。書架に並べられた3千余冊の琉球関係文献を見て、如何に多くの先輩が琉球研究に従事して来たかを知り、自分の研究の微々たることがかえりみられて、これら先輩の業績に対し敬けんの念がわき頭がさがった。奥里先生に感謝の意をこめて御手紙を差上げたら、さっそく御返事があり、激励の御言葉にそえて、こんなことが書いてあった。『頑強な東恩納先生さえなくなられた。私のようなものは風前の灯火同然だ。』と。あれっきりだった。しばらくして、奥様から先生がなくなられたお知らせがあり、私は全く暗然とした。

あの頃、先生はもう余命いくばくもないことを予感しておられたのであろうか。ものにとりつかれたように、南走平家についての原稿を書きつづけて生命を刻んでおられたようである。ところがその原稿も完成するには至らず、一字また二字と余白になったまま残された。この遺稿を渡口真清氏と名嘉正八郎君が、先輩への敬愛と、文化に対する熱愛から出版を企てられた。私は深く心をうたれた。先生もどんなに喜んでおられることであろうか。

先生は、大正15年に『琉球人の見た古事記と万葉』を著された。最初は上代の古事記・万葉集の研究が中心であったが、平安朝、院政、鎌倉、室町と研究領域をひろげ、一方、琉球方言から、瀬戸内海方言・四国方言・近畿方言へと研究を進めて行かれた。時代的にも方処的にも、幅ひろく、国語の研究をせられ、多くのすぐれた論文を残された。さらに、朝鮮語・満州語・蒙古語と日本語とを比較され、昭和32年に、『日本語系統論』を出された。

戦後、院政時代の口語資料を詳しく調査されるに至って、院政貴族語が首里方言と近似していることに気がつき、『院政貴族語と文化の南展』を著わし、先生の研究は言語・文学から次第に歴史へと展開したのである。

沖縄の地名、沖縄の古典芸能、南宋との貿易関係などを深く究明し、これを論拠として、平家一門は長門の壇の浦で全滅したのではなく、沖縄にわたり舜天王統を打ち樹てたと論ぜられた。
先生はこの稿を最後のものとして、心血をそそがれたのであった。
先生の進まれた跡を辿って見ると、言語・文学・芸能・地理・歴史と実に広範にわたり、絶えず進展しつづけられた。  

78才で生涯を終えられたが、みずみずしい想がつぎつぎと湧き、旺盛な研究意欲は少しも衰えを見せなかった。先生の学説は、射程の遠い目標をねらったため、飛躍もあったが、独創にみち、新しい問題を提起した。広い分野を開拓されて残された業績は実に大きい。  

先生の蔵書は、奥様の御好意によって、歴史関係約200冊は沖縄県史編集室に、言語文学関係2,300余冊は、琉球大学図書館に奥里文庫として保管されている。文庫を一覧しても、いかにその学問が広く深かったかということがわかる。一冊一冊熟読されたあとがあり、端正な文字でメモをとった紙切がはさまれたままである。文庫の前に立つと、先生のおもかげがほうふつとする。先生の学問はきっと後輩に継承され、さらに発展して行くにちがいない。


1937年3月ー『沖縄教育』島袋源一郎「薩南列島に於ける平家の遺跡」



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2017年1月『広報あぐに』№108「粟国村教育委員会通信 4号」


2017年3月『広報あぐに』№110「粟国村教育委員会通信 6号」


2017年4月『広報あぐに』№111「粟国村教育委員会通信 7号」
詳しくは「粟国村 - 公式サイト」
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 「くろねこの短語」4月22日ー戦争体験した世代がまだ存在感をもっていた時代ならまだしも、いまや新聞・TVってのは超高給取りになっちゃって、「社会の木鐸」なんてことも夢のまた夢。みなさん、エリートという立場を守るためだけに、汲々としてますからね。おそらく、GW明けにも共謀罪は強行採決されるんだろうが、他人事みたいに「政府、共謀罪強行採決」の見出しが新聞・TVで踊りまくるの目に見えてくる今日この頃なのだ。


2017年4月12日『しんぶん赤旗』〇安倍政権と森友ー国有地が格安で売却された学校法人「森友学園」(大阪市)の疑惑で浮上した「教育勅語」の暗唱など異常な教育内容。一方での安倍政権による「教育勅語」の学校教材としての持ち込み。二つの問題からは、改憲右翼団体「日本会議」と一体の勢力による戦前回帰の教育礼賛と、そのための国政私物化よいう本質がみえてきます。



1970年6月 社会問題研究会『右翼事典ー民族派の全貌ー』「勅語」双葉社
 形式的には、1890年10月30日、宮中において、明治天皇が山県有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語、と言う体裁を取る。ただし実際は井上毅・元田永孚らが起草した。その趣旨は、家族国家観による忠君愛国主義と儒教的道徳であり、教育の根本は皇祖皇宗の遺訓とされた。忠君愛国を国民道徳として強調しており、学校教育で国民に強制され、天皇制の精神的・道徳的支柱となった。→ウィキ


2017年4月7日『新基地建設反対名護共同センターニュース』第121号

 「くろねこの短語」4月9日ーそんな厚顔無恥な政治屋のひとりに、元ヤンでロリコンの義家君(日本会議)がいるんだが、こやつは文科副大臣という立場にありながら、子供たちが教育勅語を朗読することについて「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思います」と答弁しやがりました。このデンでいくと、そのうち軍人勅諭の朗読も苦しゅうないなんてことになるんじゃないのか。
 「リテラ」4月8日ー本サイトでは以前から、この"東芝崩壊"危機の裏にある原発事業の陥穽をたびたび指摘してきたが、昨日発売の「週刊文春」(文藝春秋)4月13日号では、ジャーナリストの大西康之氏が「東芝"原発大暴走"を後押しした安倍秘書官」と題し、"影の総理"とも言われる今井尚哉首相秘書官の影響を名指ししている。今井氏といえば、経産官僚出身で産業政策・エネルギー畑を歩み、原発輸出政策の立案をした中心的存在。2011年、福島原発事故が起きた後も、資源エネルギー庁次長として民主党政権や再稼働に反対する橋下徹大阪府知事(当時)などを直接説得、「原発ゼロ政策」を撤回させた。
 「リテラ」4月8日ー渦中の森友問題にとどまらず、自民党の選挙応援に総理大臣夫人付職員を随行させていたという国家公務員法違反問題など安倍昭恵夫人の権力を笠に着た傍若無人な振る舞いや公私混同疑惑が次々と噴出している。そしてまた、本日も新たな疑惑が飛び出した。今度は「元暴力団組長との関係」だ。昨日発売の「FRIDAY」(講談社)は、昭恵夫人が名誉顧問を務める動物愛護団体「J-Taz’s」の代表・細康徳氏が元暴力団の組長であり、官邸はいま、この代表が「昭恵夫人の名前を使って寄付金を集めている」という情報に戦々恐々としている、というのだ。(略)言うまでもなく選挙において政党は、公認候補を出すにあたって公的な責任を帯びる。そして、公認料などの選挙費用は政党助成金から賄われており、その原資はほかでもなくわたしたちの税金だ。にもかかわらず、「安倍総理の妻」という立場を利用し、「私の友だちよ」の一言で公認を取り付けているのである。総理という立場を悪用して人事を自分のお友だちで固める夫と、お友だちの頼みを引き受け、省庁や政党に忖度を引き出す妻。──“似た者夫婦”といえば聞こえがいいが、安倍夫妻がやっていることは「政治の私物化」だ。この悪徳夫婦を野放しにしていていいはずがないだろう。(編集部)

 「くろねこの短語」4月5日ーしかも、こやつは復興大臣でありながら、「自主避難は自己責任だ」「裁判でもなんでもやってくれ」ときたもんだ。上等じゃないか、この日本会議野郎は。でも、この発言って暴論なんかじゃなくて、これこそがこやつらの本音なんだね。4月8日ーアメリカのシリア空爆なんだが、化学兵器使ったってのはどこまで根拠があってのことなのだろう。仮にそうだとしたら化学兵器使用は明らかな国際法違反。だからと言って、勝手に武力行使をしていいかというとそんなことはない。そのために安保理ってのがあるんだが、トランプはそんなことお構いなしですからね。ビジネス上のディール(取り引き)と同じ感覚で戦争されちゃたまりませんよ。それをまた、お先走りで「支援する」なんて声明出しちゃうペテン総理の政治オンチがなんとも情けない土曜の雨の朝である。
 「くろねこの短語」3月29日ー大阪高裁が高浜原発の運転差し止めを命じた大津地裁の仮処分を卓袱台返し。高浜原発再稼働を認めちゃいました。その理由ってのが凄まじい。(略)「新規制基準は福島第一原発事故の教訓を踏まえた最新の科学的、技術的知見に基づき、合理性がある」。(略)ここまで「安全だ」って踏み込んで再稼働認めちゃう裁判官って、なんて勇気あるんでしょう。でもって「立証責任は住民にある」なんてくだりは、その無慈悲さに涙が出てきちゃいますよ、ったく。この勇気ある決定を下した裁判長は山下郁夫(ウィキ/大阪府出身で、主に民事裁判を担当。津地方裁判所長・家庭裁判所長、神戸地方裁判所長等を経て、大阪高等裁判所部総括判事)とか言うそうで、この名前はこれからもしっかり記憶にとどめておこうと誓った火曜の朝であった。

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1929(昭和4)年
     『世界美術全集』第21巻 平凡社「琉球美術各論」
           □伊東忠太「琉球芸術総論」 鎌倉芳太郎「琉球美術各論」
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2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻□鎌倉芳太郎ー(彫)天尊像、(絵)尚円王御後絵、尚貞王御後絵、尚純公御後絵、金剛法会図細部、渡海観音像(自了)、高士逍遥図(自了)、(工)放生池石橋欄羽目、観蓮橋石欄羽目、瑞泉門石獅、歓会門石獅、正殿唐破風前石龍柱、御盃及御酒台並浮彫金箔磨大御菓子盆及小御菓子盆、美花御小飯並浮彫金箔磨大御菓子盆、あしやげこむね橙紅色 子地雲龍鳳文綵繍牡丹雉子文綵繍□伊東忠太ー(建)守礼門・冕ヶ嶽石門、沖宮、天久宮、円覚寺仏殿、円覚寺三門、崇元寺石門、霊御殿(玉陵)
1929-3    『世界美術全集』第22巻 平凡社 


沖縄大学図書館所蔵
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1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社






目次 
琉球列島ー概説
地形ー列島と海溝/三列の地質構成/珊瑚礁の発達/古生層と珊瑚礁/宮古諸島と八重山諸島
気候と生物ー気温/降水量と風速/季節風/ハブとマングース/亜熱帯性植物
沿革ー開闢伝説/内地との交通/支那との交渉/明治以後
生産ー概説
甘蔗糖/水産物/甘蔗/穀物/林産物/牧場/その他の生産物
薩南諸島ー大隅諸島/土噶喇諸島/大島諸島/島の産物/大島の気温
沖縄諸島ー沖縄島/国頭山岳地域/中頭、島尻丘陵地域/那覇首里の都会地域/人口の減少/属島/大東諸島/先島諸島/八重山群島/尖閣諸島
琉球婦人の黥ー伝説に現れた起原/古文書中の入墨/記事の有無/他島との比較/その宗教的意義
墓ー風葬の俗/古代と風葬/墓の発達/その中間物/板が門/近代式墳墓/その起原
グラヴィアー守礼門/首里附近の聚落状態/奥武山公園/首里附近の民家/野生の蘇鉄/沖縄県庁/沖縄測候所/測候所附近より那覇を望む/天水甕/ハブの毒素採集/ハブ捕り/ハブ/芭蕉の花の咲く頃/辨岳の御願所/識名園の泉水/首里城の正殿/亀甲形の墳墓/尚家の門/波上神社と石筍崖/真玉橋の風光/護国寺の仁王門/聖廟/護国寺境内/末吉神社/辨財天堂と観蓮橋/ベッテルハイム記念碑/識名園/琉球の刳舟/爬龍船競漕図/琉球の甘蔗畑/盆の甘蔗市/農家の製糖小屋/パナマ帽の制作/蘇鉄林/パパイヤの樹/辻町の遊女/機を巻く首里の婦人/屋久の杉森/杉の巨木/大島の闘牛/シャリンパイ/大島名瀬港/大島紬工場/奄美大島の蘇鉄林/奄美大島の百合園/那覇港の入口/那覇港第一桟橋/先原崎の灯台/波上神社の石段/首里市内の民屋/那覇市全景/琉球美人
屋上の唐獅子/壺屋町/壺作り/泥藍の紺屋/藍の香高い琉球絣/泡盛製造所/諸味貯蔵場/豚肉販売所/甘蔗売の集り/独特の武術唐手/郷土スポーツ唐手/ズリ馬行列/歓会門/円覚寺本殿/龍潭池附近/円覚寺境内放生池橋/琉球の民家/那覇市附近の露店/那覇旧市街/崇元寺の門/那覇一の商店街/那覇辻遊廓/真玉橋の石橋/沖縄測候所/円覚寺の山門/熱帯植物榕樹/漁村糸満の浜/名物朱塗りの漆器/芭蕉の実り/萬歳舞踊/舞踊/婦人の黥/綱曳遊戯/湧田の旗頭/壮麗な旗頭/浜の賑ひ/野国総官の墓/久志村の山中にあった墓/久高島の墓/破風式の墓/亀の子式の墓/墓と死者の交会/墳墓のストリート/墓のにぎはい/玉陵/墓の平面図/壺屋産の霊置甕/英祖陵

守礼門がカラーで載っている。この本を1987年に安良城盛昭(大阪府立大学教授)氏が沖縄県立博物館に寄贈された。氏のものは父盛英が東京で教師をしていたとき購入したもので氏も愛読し親しんできたものであった。□1929年2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」






1930年8月 改造社『日本地理大系・九州篇 沖縄県』
目次
沖縄県扉「古地図」
沖縄県概説
ダブルトーン版ー筆架山より見たる那覇港 那覇市街/隆起珊瑚礁と波上神社/琉球焼製造所 那覇青物市場/おてんだの水取舟 崇元寺/金石文と真玉橋/守礼門 歓会門 首里城正殿/首里市 泡盛 首里三個/識名園 首里市/運天港 糸満 糸満町/パパヤ売 金武大川/七島藺の刈取 砂糖の製造 八重山鰹節製造所/久米島(新村 支那式の家屋 久米島の男女 久米島具志川村 仲村渠)/久米島(裾野の景観 紙の製造 豚小屋と豚肉市場 久米島紬)/琉球の墳墓/那覇市郊外の墓 国主より功臣に賜りたる御拝領の墓/田舎の墓 首里郊外貴族の墓/ヤツチのがま 石垣島より竹富島を望む屋我地ヲフルギの純林 甘蔗の栽培 ガジュマル/琉球の舞踊と演劇ー波平大主 萬歳一段 同二段 同三段 女笠踊 諸純節 二童敵討 同二 同三 同四/琉球の年中行事ー八重山の民族舞踊 祭式舞踊 那覇市の綱引行列
綜合解説

1930年8月5日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(1)凡そ神秘的な共産の久高島 島民総出で原始的な出迎 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月6日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(2)凡そ神秘的な共産の久高島 島の由来記と名所旧蹟 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月7日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(3)凡そ神秘的な共産の久高島 原始共産制の名残を観る 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月8日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(4)どこ探しても無い久高島の奇習 珍しい風葬と婦人の貞操試験 『グショウ』見物の巻」

 




1933年7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』

1934年4月17日『琉球新報』広告□那覇市東町 明視堂写真部ー佐和九郎『正則写真術』『密着と引伸』『現像の実際』『露出の秘訣』『整色写真の研究』『整色写真術』/三宅克巳『写真随筆 籠の中より』『写真のうつし方』『私の写真』『趣味の写真術』/高桑勝雄『フイルム写真術』『写真術五十講』『写真問答』/宇高久敬『写真の新技法』/霜田静志『写真の構図』/南實『原板の手入』/加藤直三郎『中級写真術』/石田喜一郎『プロモイル印画法』/小池晩人『山岳写真の研究』/金丸重嶺『新興写真の作り方』、金丸重嶺・鈴木八郎『商業写真術』/勝田康雄『人物写真のうつし方』/中島謙吉『芸術写真の知識』/吉川速男『写真術の第一歩』『小形カメラの第一歩』『図解写真術初歩』『私のライカ』『十六ミリの第一歩』/鈴木八郎『写真の失敗と其原因』『写真処方集』『整色写真のうつし方』『引伸の実際』/中戸川秀一『写真百科辞典』/寺岡徳二『印画修整の実際』/斎藤こう兒『撮影第一課』『引伸写真の作り方』『芸術写真の作り方』/額田敏『山岳写真のうつし方』/眞継不二夫『芸術写真作画の実際』『アマチュア写真の修整』/山崎悦三郎『修整の実際』/高山正隆『芸術写真入門』『ベストコダック写真術』/石動弘『小形活動フイルム現像法』

1934年5月5日『大阪朝日新聞 九州朝日』「外人の眼に映じた”ハブの國„ クルート女史の興味を晙る視察談」


1934年5月8日『琉球新報』?
4月、欧州経由でアメリカに帰途、来沖したミス・アン・クルート(大阪東淀川区ミード社会館)が新聞記者に「那覇の児童がスペイン語、英語を知っているのに驚いた、これは海外雄飛の諸産物で若い者がハワイ・ブラジルらに出稼ぎ、そこで生まれた子を故郷沖縄の学校に送り帰すためです」と答える。


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2017年4月3日~7月17日 高麗美術館「上田正昭と高麗美術館」 

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『日本のなかの朝鮮文化』朝鮮文化社(鄭 詔文)


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1973年3月ー『琉球の文化』第3号□広告に朝鮮文化社がある。
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1974年ー『東アジアの古代文化』大和書房/1966年3月ー鄭貴文『民族の歌』東方社
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1974年ー『東アジアの古代文化』大和書房

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上田正昭さんが沖縄に来られたとき写真に収まってもらった。ご本人の著書は1971年末からの付き合いである。


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2017年3月 末次智『世礼国男と沖縄学の時代ー琉球古典の探究者たち』森話社/1922年2月 世礼国男詩集『阿旦のかげ』曙光詩社

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末次 智資料(左に見えるのが世禮國男著作リスト)
SUETSUGU Satoshi
京都精華大学人文学部教授。 総合人文学科 日本・アジア文化コース 専門分野 琉球国文化 経歴・業績
立命館大学大学院文学研究科日本文学専攻博士後期課程単位取得。奄美・沖縄の文化、とくに琉球王国の文化専攻。著書に『琉球の王権と神話』、『琉球宮廷歌謡論』、論文に「Cocco論序説、あるいは、ウタの始まり」、「身体の楽譜」等。最近は、ヒトの「身体」と世界観に関心がある。

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1973年11月15日『講座 現代ジャーナリズム 第4巻 出版』時事通信社

1973年12月1日ー沖縄関係資料室主宰の西平守晴、久子御夫妻が世話人で、大阪梅田の東映会館中華料理店で友人たちを招き結婚祝をした。祝儀で本屋に寄って本書を購入、友人たちに記念の署名をしてもらった。


□ジャーナリズムに対する疑惑がひろがっている。ジャーナリズムはまた、いつか来た道を歩みはじめているのではないか。権力と癒着して、読者、視聴者である人民大衆をだます側に加担しはじめているのではないか。いや、もうとっくに、そうなってしまっている、手遅れだ、と断言する人もいる。国家権力の言論統制のしかたは、戦前とは比較にならぬほど巧妙になった。マスコミは権力の手中にまるみこまれて、身動きもできないほど、がんじがらめになっている。
憲法を尊重するといいながら、その憲法を空洞化して進められる再軍備。とめどもなく膨張する国防予算。国民生活と国土破壊の上に成り立つ日本列島改造。大企業、大資本本位の高度経済成長政策。そのなかに組み込まれて、ひたすら企業利益の追求に狂奔するマスコミ産業。そのかげで、ジャーナリズムの活力は、日ごとに衰弱し、枯渇してゆくかに見える。経済的繁栄のなかで、何が失われ、何が死にひんしているのか。権力におし流され、抵抗を忘れ、批判を棄てたジャーナリズムーそれはマスコミではあっても、ジャーナリズムではない。「講座・現代ジャーナリズム」編集委員会(代表・城戸又一)
以上の「刊行のことば」は今でも十分に新聞・雑誌で通用するから驚く。テレビが作った知事やら政治家(小泉劇場)が輩出(排出)している。例えば東京都知事「石原軍団」「たけし軍団」の候補者がテレビを利用し選挙活動を有利に導いている。大阪ではこれまたタレント知事が同じ手法で選挙を有利に展開している。テレビは電気を食う。節電のためテレビのスイッチは抜こう。今はネット社会である。ネット上ではテレビに対し無遠慮にも「マスゴミ」という。これらマスゴミが官僚と結託しアメリカ依存、原発依存の日本をつくった。ネットも電気を喰う。シャープの創業者やグーグルも承知し太陽光発電に力を入れていた。 (2013年8月記)



1973年10月『琉球の文化』第四号 福本泰男「きじむん・おそうれ・・・」

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1971年1月 新垣恒篤『新編風土記ー首里城(周辺)』花城清用〇多和田真淳「序文」/稲福盛武「祝 発刊について」
〇虎頭山ー西森から東に続く連峰を、虎頭山と呼称している。虎頭と云う名称は、古老の話に依れば、石虎山(東部)に有る大岩は虎の頭に似ているから、其の名が生まれたと云う事で、又虎峰とも呼称している。其の虎峰山の北方には石虎山天慶院が有ったらしい。古図には為仙とあるから隠居寺であったと思うのであります。私等(恒篤)は小学時代に毎年先生と共に、此の虎頭山に、西森に又は弁の嶽にと遠足したものである。其の当時は松の大木が繁茂して、到る処涼しい風がそよぎ、松の下で「カーサ弁当」を食べる事が、一番楽しみとしたものであります。又先生が昔の琉歌を説明した事を、記憶に思い起こす事が有りますから紹介しましょう。
琉歌(虎頭山)-1、虎頭、松やまぬ 松ぬ葉の数に かきて、願やびら 首里ぬう果報
        2、虎頭やま出ぢる 秋の夜のお月 曇り無ん御代の かがみさらみ
2の歌は、虎頭山は旧7月迄は御月様は、東の弁の嶽から十五夜に鏡の如く揚がるのであるが、旧の八月十五夜に揚がる御月は平和な、即ち曇りも無く、東の虎頭山の方から、鏡の如く拝まれるとの意なり


新垣恒政 大正六年1917 醫院 臺南醫院 醫官補
新垣恒政 大正七年1918 醫院 臺南醫院 醫官補
新垣恒政 大正八年1919 醫院 臺北醫院 醫官補→「台湾総督府職員録系統」


新垣恒政宛の手紙と、新垣恒政『医療宣撫行』東亜公論社 昭和15

新垣恒政 『南十字星』 東亜公論社 昭和17
新垣恒政 『海外発展と衛生問題 : 特に伯剌西爾の衛生に就て』 外務省通商局 昭和8→「Webcat Plus」