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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1962年
1962年1月23日 沖縄人民党中央機関紙『人民』創刊□沖縄人民党教育宣伝部
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1月23日ー■沖縄人民党中央機関紙『人民』創刊号

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        3月6日  『人民』「発刊記念祝賀会ー満員の那覇劇場」 
   
1963年
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        7月15日『人民』 「核戦争をひき起こす原子力潜水艦 みんなで力を合わせ反対しよう」
1967年1月1日「『人民』「わらび座で勉強中の瀬長千尋さんの便り」
      1月14日 『人民』「宮里政秋「入党のころー南灯寮で民謡サークル結成」
      6月17日 『人民』 「瀬長千尋「わらび座に学んで」①
      7月8日  『人民』 「神山孝標「党史を語る」(1) 

      7月15日 『人民』「沖縄で生まれた解放の闘士ー井之口政雄」
      9月9日 『人民』「基地経済の実態ーその内幕をのぞく 米兵相手に売春」(1)~1968年3月30日 
1968年
      6月22日『人民』 瀬長亀次郎「12年ぶりの本土ー売国奴 吉田茂を英雄に、国葬に怒りわく」
      11月9日 『人民』瀬長千尋「父の当選をねがって」


1969年4月 『文化評論』№91<特集・沖縄の歴史・教育・文化>安仁屋政昭「沖縄の近代をささえた人びと」

     12月28日 『人民』瀬長千尋「1968-文化運動の成果」

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写真・左から来間泰男氏、伊波広定氏、謝名元慶福氏、新城栄徳
1970年1月1日『人民』 伊波広定「わが映画物語」(1)
      4月4日 『人民』「渡嘉敷島自決の責任者 赤松の来県」
5月2日 『人民』「タクシー乗っ取りにやっきになる右翼『東声会』ー公共企業であるタクシーが行動右翼『東声会』(宜保俊夫支部長)の手につぎつぎ渡るという事態がおき問題になっています。・・・」「謀略基地をあばくー4-」      

8月8日 『人民』「東京都の美濃部亮吉①知事は7月29日来沖、4日間にわたって沖縄各地を視察し8月1日帰京ー基地・公害で多くの示唆」
①美濃部亮吉 【みのべ りょうきち】1904〜1984(明治37年〜昭和59年)【政治家】「都政の主人は都民」。 美濃部スマイルで親しまれた、革新都知事。昭和期の経済学者・政治家。東京都出身。父は天皇機関説で知られる美濃辺達吉派。東大卒。1932年法政大学教授となるが、1938年人民戦線事件で解雇。第二次大戦後は、東京教育大学教授から統計委員会事務局長などを務めた。1967年(昭和42)東京都知事に当選、以後住民との対話路線と高福祉政策で革新都政を3期12年務めた。1980年衆議院議(コトバンク)   

1970年
9月ー『国政参加選挙の争点と沖縄人民党の四大基本政策』
□重大な意義をもつ国政参加選挙/沖縄県の無条件全面返還のために-核も毒ガスも基地もない沖縄を/平和で豊かな沖縄の復興と民主的な県づくりのために-基地も公害もない豊かな経済復興を/国政にたいする人民党の態度と政策ー独立、民主、平和、中立の日本を実現するために/新米・反動の自由民主党をうちやぶり、人民党をはじめとする祖国復帰統一戦線勢力の勝利をかちとるために 

1970年ー沖縄人民党中央委員会『沖縄人民党二十三年のあゆみー1947~1970』

1970年11月 『文化評論』№110<特集・日本文化における沖縄> 新里恵二「沖縄学の伝統と展望」
12月26日『人民』 瀬長千尋「70年の文化運動をふりかえって」   

1971年1月1日 『人民』小渡清孝「随想ー伊良部の心」/「金武湾を守る婦人たち」
 
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写真ー後列左から案内者の楊朝偉氏(佳冬農会代表)新城栄徳、漢那敬子さん、田名真之氏、島尻克美氏、、大城康洋氏。中列左から小渡清孝氏、久部良和子さん。下列左から上江洲安昌氏、真栄里泰山氏、平良勝保氏→阿里山森林鉄道

     1月9日『人民』 「米軍演習阻止に決起する国頭村民」
      1月16日『人民』「毒ガス移送ー不安と恐怖になかで」/「反復帰の迷走ー新沖縄文学の特集にみる」
      1月23日『人民』「敗北の思想『反復帰論』」
      1月30日『人民』徳吉裕「前原穂積『戦後沖縄の労働運動』を読んで」
      2月6日『人民』 仲松庸全「公害調査旅行を終って」/「新里恵二『沖縄史を考える』」

      2月13日『人民』「政党否定と『反復帰論』」
   
      4月17日『人民』「軍事占領支配下26年 沖縄の請求書 その1」「米軍”特殊基地”の実態」/「『四月の炎』創刊を祝す」

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      5月1日 『人民』宮城倉啓「ストでかちとった労働三法」
     
      5月8日 『人民』松村拳「沖縄の放送ーフジ系『沖縄TV』の開局」④
      5月22日 『人民』「沖縄の放送 言論統制しくむOHKの設立」
      6月5日 『人民』 外間政彰「歴史民俗資料展の成果ー那覇市民の力の結実」
      6月19日 『人民』伊波広定「新里惠二氏に聞く」
      7月10日 『人民』「沖縄防衛とりきめによる自衛隊配備計画ー自衛隊はくるな、高まり広がる反対運動」

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      8月7日  『人民』儀間比呂志「沖縄を描くー絵画を語る」
      8月14日『人民』 仲地哲夫「伊波普猷から何を学ぶか」、宮里栄輝「図書館時代の伊波先生」、伊波冬子「夫・伊波普猷の思い出」、山田義時「伊波先生25年忌について」 

1971年9月『文化評論』№121<特集・沖縄論の思想>仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」、西里喜行「近代沖縄の課題と差別問題」、安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」、津田孝「沖縄問題と現代の作家」、嶋津与志「沖縄協定調印前後」


       10月2日 『人民』砂川栄「謝花昇と自由民権運動」、大里康永「伝記を書いた動機」 
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       10月23日『人民』 「沖縄基地はアジア侵略の跳躍台ー協定発効後も変わらぬ核戦争基地」        10月30日 『人民』山田有幹「社会主義運動―沖縄青年同盟の結成 『無産者新聞』がパイプ」「特修ー戦前沖縄の社会運動 関係各氏に聞く(平文吉/兼城賢松/島袋良繁/比嘉光成/久高将憲)」

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写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/浦崎康華、松本三益
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写真ー左・松本(真栄田)三益さん、右・新城栄徳と三益さん
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      12月11日 『人民』 松本三益「戦前沖縄社会運動の思い出」

      12月18日 『人民』 幸喜達道「戦前の社会運動ー印刷職工組合の結成と無産者のたたかい」
1971年9月 『文化評論』№121 <特集・沖縄論の思想> 安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」
/仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」

1971年12月 『文化評論』№124 北川民次「表紙絵」、伊藤嘉昭「侵略戦争と自然科学者の責任ーベトナムの枯葉作戦に反対する日米科学者の運動」、新里恵二「沖縄近代史の諸問題」、河邑重光「トロツキストの沖縄論」、鹿地亘「キャノンの横顔」、仲地哲夫「読書ノート 儀部景俊・安仁屋政昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』日本青年出版社」

1972年1月 『前衛』<核と謀略の基地沖縄>

◇沖縄における核部隊の配備ー日米協定のもっとも重大な問題点の一つが「核」の問題にあることは、いうまでもないことである。調査団もこの問題の追及に大きな力をそそいだが、今回の調査の結果、日米沖縄協定発効後も沖縄に配備を予定されている。一連の部隊と基地ー第三海兵水陸両用部隊(海兵隊)、第一八戦術戦闘航空団および第400弾薬整備隊(空軍)、第二兵站軍団(陸軍)、第七艦隊第七二機動部隊(海軍)ーいずれも核攻撃機能を持ち、あるいは核兵器の貯蔵・管理にあたっている核戦争兵力であることが、調査団の入手した米軍資料および独自の現地調査によって、あきらかにされた。◇「核」の疑惑につつまれる辺野古弾薬庫



     1月1日 『人民』 沖縄県民のみなさん 1972年 あけましておめでとうございますー蜷川虎三京都府知事・黒田了一①大阪府知事・美濃部亮吉東京都知事」  

①黒田了一 くろだ-りょういち
1911-2003 昭和時代後期の法学者,政治家。
明治44年3月16日生まれ。昭和14年満州(中国東北部)で大同(だいどう)学院教官となり,戦後ソ連に抑留される。31年大阪市立大教授。46年革新統一候補として大阪府知事に当選。50年共産党の単独支持により再選された。54年弁護士となる。平成15年7月24日死去。92歳。大阪出身。東北帝大卒。著作に「日本国憲法論序説」など。(コトバンク)
黒田了一 くろだ-りょういち 1911-2003 昭和時代後期の法学者,政治家。明治44年3月16.....

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黒田了一資料
        1月22日『人民』 山田英盛「戦前の社会運動ー本のなかに『赤旗』が」
      2月5日 『人民』 国吉真哲「戦前の社会運動」
      3月25日 『人民』 「又吉一郎豊見城村長に聞くー京都に見る革新行政・蜷川虎三知事とは、2時間にわたってお話する機会がありましたが、学生時代に糸満に調査に来られたお話や、府民本位で府政をすすめていることなど、たいへん感動することばかりでした。」
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蜷川虎三資料

蜷川虎三 にながわ-とらぞう 1897-1981 昭和時代の経済学者,政治家。
明治30年2月24日生まれ。昭和14年母校京都帝大の教授。23年初代中小企業庁長官となるが,25年吉田茂首相と衝突して辞任。同年社会党公認で京都府知事に当選,以後連続7選。「憲法を暮らしの中に」をかかげ,教員の勤務評定反対,減反政策反対など独自の府政を推進した。昭和56年2月27日死去。84歳。東京出身。著作に「統計学研究」など。(コトバンク)

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      4月8日『人民』 「瀬長議員が鹿山事件で質問」

1972年5月 『歴史地理教育』№196<特集・沖縄県に学ぶ>儀部景俊「これからの沖縄問題」、金城正篤「沖縄史のとらえ方」、田港朝昭「沖縄学習の意味」、金城弘子「沖縄の子どもたち」、西里喜行「近代沖縄の歴史と差別問題」、来間泰男「沖縄に関する文献案内」/早乙女勝元「東京大空襲と紀元節」


1072年7月 日本民主青年同盟『青いしぶき』小渡清孝「発刊にあたって」

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沖縄人民党中央委員会書記局『沖縄基地の実態と機能』


1972年11月 『宮本顕治対談集』新日本出版社〇加藤周一、土門拳、臼井吉見、久野収・鶴見俊輔、徳川無声、久野収、『世界』編集部、臼井吉見、松本清張、『朝日ジャーナル』編集部、前田武彦、臼井吉見、岡村和夫・草柳大蔵・清水慎三、家城啓一郎、富士真奈美、武田泰淳、『世界』編集部

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Posted by: ryubun02
 1931年、瀬長亀次郎は神奈川で井之口政雄宅に下宿をしていた。井之口夫人は日本赤色救援神奈川地区の活動家で瀬長は大分お世話になった。飯場生活の瀬長は「全協日本土建神奈川支部」を朝鮮人の金一声らと結成、京浜地区の責任者になった。そして横須賀町久里浜の平作川改修工事に従事していた朝鮮人労働者350人と労働条件改善、全員に仕事をよこせの要求をかかげてストライキに突入、瀬長も、金一声も検挙され一ヶ月投獄された。

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墓の前の写真は城間得栄氏も大事に所蔵。1978年11月の『琉球新報』の「むかし沖縄」に掲載し解説も書いた。城間得栄□戦争前夜の沖縄県・オイル事件の犠牲者弔うー軍国主義時代の悪法「治安維持法」により、獄中生活を強制された池宮城秀意と瀬長亀次郎の両兄が昭和10年、相前後して久しぶりに娑婆へ帰ってきた。その2,3年前まで那覇署と首里署の留置場を引きずり回されていた私も、昭和9年にようやく琉球新報に拾われ記者の末席を汚していた。またこの写真を撮した国吉真哲さん(紙面に姿の見えないのは残念だが)は、すでに警察の追及からのがれ、琉球新報の編集室で孤塁を守りながら紙面作成に励んでいた。4人の志を同じくする仲間が期せずして顔を合わせたので、ある日、教員組合(オイル)事件で過酷な拷問を受け保釈中に狂死した真栄田之璞(通称一郎)の霊を弔うため、姪の上原美津子さん(沖縄の婦人記者第一号)の案内で那覇市外松尾の真栄田家の墓へ出かけた。まさに日中戦争から第二次大戦へ突入しようとする前夜のことである。

1944年2月  『沖縄県産業組合聯合會三十年史』編集人・瀬長亀次郎/発行人・平良辰雄/発行所・沖縄県産業組合聯合會

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書斎の浦崎康華翁と新城栄徳。浦崎康華翁も呼びかけ人となっている沖縄人民党結成準備のビラ、浦崎翁は沖縄人民党初代委員長

1947年7月1日ー第一回新党(人民党)結成準備会。7月9日ー綱領、規約、政策起草委員会。7月13日ー第二回準備会。
1947年7月20日ー石川市大洋初等学校に於いて沖縄人民党結成大会
午前10時~正午  党結成大会準備委員会(準備委員約60名出席)(会順、決議文草案など決定)
午後2時~3時   党結成大会(各地区代表約200名出席)(綱領、政策、規約、役員ー中央委員、常任中央委員長、常任中央委員決定)
神山孝標「開会の挨拶ー仮議長は司会者指名で浦崎康華」
瀬長亀次郎「経過報告」
奥田巌「役員に一人の婦人役員も出なかったことに沖縄人民党の発足に当たり不賛成を申します」
浦崎議長「われわれは今歴史の歩みを歩みつつある。急速に人権を尊重すべきであると言うことに異論はないが実現には
努力がいる。婦人の問題に対してわれわれが冷淡であることは全然ない。党は婦人にも門戸を開放してある。婦人の入党
を歓迎している。人民党は男だけの党という観念は持っていない。婦人の組織については組織部で労働組合、農民組合、
青年同盟、婦人部として考えている」
午後3時~3時半 人民大会(約300名)(政策遂行決議、米軍政府に対する感謝決議の決議)
兼次佐一「米軍当局への感謝決議ー日本軍国主義者共の捲き起こした侵略戦争下にあって極端に虐げられたわが沖縄人
は米軍上陸以来、その人道主義的好意と物質的援助によって漸く露命をつないで来た。われわれは全沖縄住民の意を体し
ここにマッカーサー司令部並びに琉球米軍政府に対し衷心から感謝の意を表明すると同時に米軍の好意ある支持により新
沖縄の民主体制が一日も早く到来することを希望するものである」
瀬長亀次郎「南西諸島百万住民解放のため闘わんとする沖縄人民党結成大会は終わりますが組織について一言申し上げ
たい。従来、既成政党のやったことは種々の政策を約束してもそれが実現出来なかったのは組織を持たなかったことにある
 (略)大衆の不平不満、要求を組織してその実現へ向けなければ百万人民の解放は出来ない。各支部で話し合って党の組
 織を拡大し政策、綱領の実現化を図るべきを固く信ずるものである」
午後3時半~6時  沖縄人民党結成演説会(大衆約2000名)

決議文「沖縄における民主主義体制の確立と人民生活の安定と向上のため当面、最も解決の急を要する問題として我等は次のスローガンを提起し人民大会の名をもってこれを決議す。1947年7月20日 沖縄人民大会」

スローガン
1、人民自治政府の樹立
2、民主的各種選挙の速やかなる実地
3、公職追放令の全面的適用
4、治安維持法、治安警察法の即時廃止
5、俸給賃金のとどこほりなき支払
6、耕作権の確立による農民生活の安定
7、耐風耐署の住宅建設
8、中小工業の企業の自由
9、すみやかなる交通網の整備
10、役得の人民監視
11、人民参加による所得税の改正

役員
常任委員ー中央委員長・書記長 浦崎康華、常任中央委員ー瀬長亀次郎、屋部憲
中央委員
糸満地区ー神山孝標、新垣幸吉、伊敷喜蔵、上里良徳 
那覇地区ー東恩納寛敷、宮城善正、新垣松助、善國乗宜
知念地区ー瀬長亀次郎、真栄城守仁、徳元八一
胡差地区ー徳松安良、宜保為貞、具志堅興雄
前原地区ー松本力、浦崎康華、安座間惇
宜野座地区ー阿波之智、松本三戒
石川地区ー屋部憲、池宮城秀意、平良文吉
辺土名地区ー宮城徳善、前田陳秀、崎浜秀松
田井等地区ー宮城清一、石川清、照屋盛賢、兼次佐一、知念良一



1949年6月3日ー『人民文化』創刊号□発行人・仲里誠吉/編集人・岡村哲秀、太田良博

1950年4月1日 『人民文化』4月号 人民文化社(仲里誠吉)







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1956年 四原則貫徹・県民代表として本土渡航の瀬長亀次郎沖縄人民党書記長を羽田空港で出迎える松本三益(瀬長の右)、志多伯克進(瀬長の左)

1959年
5月ー■『第10回大会決定・沖縄人民党綱領、規約』
□アメリカが沖縄を占領支配し、軍事基地をつくりはじめてから14年このかた80万の沖縄県民は祖国日本からきりはなされたまま、苛酷きわまる軍事占領統治のなかで苦しみぬいてきた。
1952年のサンフランシスコ対日講和条約の締結はアメリカのたくらみどおり、かれらのかってきままな占領統治を合理化する結果になっても何ら沖縄県民に占領統治からの解放をもたらし、県民の要求を満たすことにはならなかった。
以来、わが県民の政治、経済、社会、文化のすべての生活はアメリカの占領目的と利益に従われ、常に原水爆戦争の恐怖にさらされるようになり、アメリカ占領軍に従属してかれらの占領継続と原水爆基地設定に協力しながら特別の儲けをかせいでいる一部の買弁官僚並びに買弁独占資本家を除く県民各層のあいだでは現在生活の貧困化と危機が益々深まっている。
沖縄人民党は、民主主義の理念に立って沖縄県民の置かれた特殊な条件から生まれる共通の目標即ち沖縄が祖国から切りはなされ全島が原水爆基地化され、アメリカの苛酷な軍事占領統治のもとで支配されて県民の生活と権利がふみにじられている状態を一日も早く終わらせ原水爆基地を撤廃させ祖国に復帰して沖縄県民が日本国憲法のもとで真に日本国民として平和で民主的な生活をするという正当な要求を達成するためにつくられた政党である。
沖縄人民党は、当面のこのもっとも大きな目標を成し遂げるため労働者、農漁民、中小企業者および知識人、婦人、青年の各階層をそれぞれの立場や政治的信条をこえて結集し、統一した一つの大きな政治勢力ー祖国復帰民主統一戦線の結成をめざしそのための政治組織活動を行う民主的な大衆政党である。

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
今村復興大臣は、二階派所属の鶴保庸介沖縄北方相とともに、二階派パーティーの行事として講演に臨んだ。演題は「荒海を航(い)く! 強いニッポンを創ろう」。二階派の配慮に対し、勇んで約20分間、復興や防災への取り組みを語り「大震災は東北で、あっちの方でよかった」と本音を吐露した。

防衛省沖縄防衛局は25日午前9時20分、沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設に伴う護岸工事に着手しました。2014年に安倍政権が新基地ノーの圧倒的な民意を無視して工事に着手して以降、海上での埋め立て本体工事着手は初めて。県の岩礁破砕許可がないもとでの違法工事です。1996年に米軍普天間基地(宜野湾市)の「移設条件付き」返還で合意して以来、辺野古新基地をめぐるたたかいは重大な局面に入ります。
2017年4月26日『しんぶん赤旗』

『しんぶん赤旗』 2017年4月29日<潮流>衝撃的でした。米ジャーナリストらによるニュース…
 衝撃的でした。米ジャーナリストらによるニュースサイトが公開した秘密文書のことです(24日)。米国最大の諜報(ちょうほう)機関=国家安全保障局(NSA)が日本の情報機関に「エックスキースコア」という監視システムを提供していたことを明記していました
▼公開したサイトは「インターセプト」。米中央情報局(CIA)の元職員スノーデン氏を取材し、世界中の通信を傍受していたNSAの活動実態を暴露したグリーン
ウォルド氏らが設立しました。継続的にスノーデン氏の文書を公開しており、今回の文書もその一環です
▼問題の文書は2013年のもの。日本の情報機関要員が同システムについて訓練されておらず、同4月に3日間の訓練を行うことなどを記しています
▼同サイトによると、この監視システムは、インターネットを流れるメールなどの情報を丸ごと収集し、一定期間保存するもの。監視対象はテロリストだけではありませ
ん。13年の別の極秘文書によると、オバマ米大統領(当時)との会談前に潘基文(パンギムン)国連事務総長(同)が予定していた発言内容の入手にも使われたといい
ます
▼衆院で審議が始まっている「共謀罪」法案。罪に問われるのが心の中の「計画・合意」であるため、メールなどが監視される危険が指摘されています。それが可能なシ
ステムが提供されていたとすれば重大です
▼急がれるのは、日本の情報機関がNSAと協力してどんな国民監視をしてきたのかの究明です。法案の今国会成立など、とんでもありません。

『しんぶん赤旗』 2017年4月29日大阪「カジノ万博」賭博では輝く未来は描けない
政府は24日、2025年の国際博覧会(万博)の大阪誘致へむけパリの博覧会事務局(BIE)に立候補を届け出ました。松井一郎大阪府知事(日本維新の会代表)が名乗りを上げた同構想を、安倍晋三政権と財界が後押しします。しかし、カジノ(賭博場)を中核とする統合型リゾート(IR)とセットになっていることや、会場予定地が地震などに脆弱(ぜいじゃく)な人工島・夢洲(ゆめしま)(大阪市此花区)であることなどに、国民、府民から疑問と批判の声が上がっています。
本音を隠して推進狙う-松井知事は、「成長の起爆剤」としてIRと万博の相乗効果をうたいます。しかしメディアの全国世論調査でカジノ解禁反対は6~7割を占めます。昨年秋の「読売」の府民世論調査では、大阪万博賛成59%、カジノを含むIR反対52%です。万博とカジノを結びつけることの矛盾の表れです。立候補の届け出では「カジノ」に言及していません。本音を隠し支持を得ようという姑息(こそく)なやり方です。
「カジノ解禁推進法」は昨年12月、自民、維新、公明の多数の賛成で成立しました。安倍政権がカジノと万博に全面的な応援に乗り出した背景には、安倍首相の悲願の改憲で維新の協力を取り付けたい思惑などが指摘されています。日本はすでに500万人を超すギャンブル依存症大国です。「ギャンブル依存症対策」をいうならカジノ自体をやめるべきです。
カジノは刑法が禁ずる賭博であり、他人の不幸の上に成り立つビジネスです。韓国では犯罪、勤労意欲の減退、家族離散など地域社会の崩壊が問題となり、カジノによる経済的損失は経済効果の4・7倍の年間7兆7千億円にのぼるという試算もあります。カジノによって「いのち輝く未来社会のデザイン」(大阪万博のテーマ)など描けるはずがありません。予定地の夢洲は埋め立て完了後に390ヘクタールの人工島になります。約100ヘクタールを万博会場、約70ヘクタールをIR用地にする予定です。
専門家は、南海トラフ大地震が起きれば夢洲は液状化し、津波にのみ込まれる恐れがあり、なぜこんな危険な場所に3000万人(万博来場予定数)もの人を集めよう
とするのかと警告します。
府や市の巨額な負担も懸念されます。万博会場建設費は約1250億円、運営費は約800億~830億円にのぼります。このほかに鉄道整備が必要です。地下鉄中央
線の延伸などの鉄道整備等と関連事業費だけで730億円と試算されています。大阪市の吉村洋文市長(大阪維新の会政調会長)は「万博は期間限定だが、国際観光拠
点(IR)は永続的」と議会答弁しました。鉄道整備など巨額の財政負担もカジノのためだといわんばかりです。
「あかん」の共同を広げ-夢洲、舞洲(まいしま)、咲洲(さきしま)のベイエリアはさまざまな誘致構想が浮上し、ことごとく破たんした地域です。当初は万博会場の候補でもなかった夢洲は
カジノ誘致が先行していました。松井知事は「大阪の成長にはベイエリアの活性化が必要」といいますが、無駄な大型開発の二の舞いになりかねません。「賭博解禁はあかん」「夢洲への『カジノ万博』誘致はやめて」の一点で、支持政党や団体などの垣根をこえた共同を広げることが、いよいよ重要となっています。

 「くろねこの短語」4月26日ー(前略)ところで、自主避難は自己責任+震災は東北でよかったの今村君の更迭に関して、ボスの土建政治・二階君がまたいらぬこと言って顰蹙を買っている。「政治家の話をマスコミが余すところなく記録をとって、一行悪いところがあったら『すぐ首を取れ』と。何ちゅうことか。それの方(マスコミ)の首、取った方がいいぐらい。そんな人は初めから排除して、入れないようにしなきゃダメ」(略)だとさ。馬鹿丸出しです。言っちゃいけないことを口にして、いわば墓穴を掘ったのが今回の更迭劇で、別にマスコミが叩いたからってわけではない。こうやってマスコミ批判にすりかえるってのは、最近の政治家シェンシェイの常套手段なんだが、新聞・TVは政治家のこうした挑発に断固として抗議すべきだろう。それをしないから、どんどんこやつらを付け上がらせることになるんだね。本来なら、こんな発言をする与党の幹事長の首を取ることこそ、新聞・TVの仕事だと思うけどねえ。くやしかったら、やってみやがれ。

 日米両政府による地球(辺野古)破壊開始
 毎日新聞 2/11(土)<日米首脳会談>「同盟と経済関係を強化」 共同声明を発表 安倍晋三首相は10日午後(日本時間11日未明)、トランプ米大統領とワシントンのホワイトハウスで会談した。首相は、両国の経済関係を一層深化させるため、麻生太郎副総理兼財務相とペンス副大統領のもとで分野横断的に協議することを提案し、トランプ氏も同意した。両首脳は、沖縄県・尖閣諸島が米国による対日防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条の適用対象だと確認した。
安全保障分野では、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の全面返還には同県名護市辺野古への移設が「唯一の解決策」だとして、日米両政府で協力して取り組むことで一致した。トランプ氏は会見で日本の米軍駐留受け入れに「感謝している」と述べた。/〇もと核弾薬庫があった辺野古の自然を破壊し、新基地をこさえて、オキナワや日本に「戦後百年後」も米軍基地を置くつもりのようだ。


「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」『週刊ポスト』1973年11月15日号<平野部の”70%„が米軍基地の沖縄>

 『琉球新報』【東京】稲田朋美防衛相(「安倍晋三記念小学校疑獄」に夫婦で関わり時の人)は25日午前、米軍普天間飛行場移設に伴う名護市辺野古の新基地建設の護岸工事着手について「護岸工事の開始は普天間飛行場の全面返還を実現する着実な一歩となると確信している」とのコメントを発表した。稲田氏は会見で、昨年の最高裁で県に勝訴したことなどを挙げ「沖縄県と協力して移設事業を進める」と述べ、翁長雄志知事が反対する中でも県の協力を得ながら計画を推進する考えを示した。〇稲田朋美が自衛隊とカールビンソンの共同訓練について答弁拒否! 国民不在で進められる北朝鮮戦争参加計画→LITERA(リテラ)4月24日

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1949年3月『真相』□人民社(佐和慶太郎)に紹介された児玉誉士夫

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1953年5月『人物往来』「特集・抬頭する右翼」□右翼総登場/三浦・児玉演出ー保守連立の一幕/一斉蜂起の鐘うち鳴らす旧軍人の群/今をときめく室町将軍ー三浦義一/①児玉誉士夫という男/日本型ドンキホーテー下中弥三郎の場合ー



『風雲ー児玉誉士夫著作選集』上巻□日本及日本人(西山幸輝)児玉誉士夫署名入りの著。
1972年12月『風雲ー児玉誉士夫著作選集』中巻□日本及日本人(西山幸輝)〇ー「憲法改正」の問題についても、意見を述べることはさしひかえた。それは現在の憲法が、終戦後において当時の占領軍から示唆されたものであるとはいえ、一流専門の学者が起草し法文化されたことは明白な事実で、共産党および極左思想の分子の介入したものでないことは確かである。(略)さらに、一言補足しておきたいことはーげんざいにおいても、また将来に在っても、国家主義運動それ自体が自主性をもたず、いたずらに左翼勢力との抗争にのみ重点をおくようでは、かんじんな国民各層のなかにとけこんでゆくことは、ほとんど不可能であり、困難であるということだ。-
1976年の義人党総裁の高橋義人(61)の葬儀で児玉が葬儀委員長をつとめる。



2013年10月 『戦後日本の闇を動かした「在日人脈」』(別冊宝島2045号)宝島社
〇ネット上では「安倍晋三は在日朝鮮人」が躍っている。アベ首相が日本国の未来を崩壊させる人物だとしても少し言い過ぎではないか。且つ、日本人の大半は朝鮮半島にルーツがあると思われる。安倍晋三は在日ではないかの問いにYahoo!知恵袋「ベストアンサーに選ばれた回答」は「本人も日本人に違い有りませんし、岸信介も日本人ですが、巣鴨プリズンに収容されていたときにGHQに売国奴として働く条件で解放されているようです。GHQは現在存在しませんが、CIAが代わりに暗躍していて、日本人に良く似ている朝鮮人を使って、電通などマスコミを使いつつ、この国を半ば支配しています。何故駅前の一等地がパチンコ屋が目立つのか、何故こんなに在日が政治に絡んでいるのかを考えたら結論は早いです。暴力団や右翼も殆どがトップが在日です。」

2013年7月ー宮松久三『追想 冝保俊夫』と、工藤美代子『悪名の棺 笹川良一伝』幻冬舎2010年10月を見た。冝保伝には私の友人・知人が多く登場していて沖縄は狭いと痛感した。佐野本に「沖縄の本当の戦後史を書くには、沖縄社会の裏も表も知り尽くした冝保の証言は不可欠」として冝保に会おうとしたが冝保に断られているが、後に家族や周辺に取材し宮松が書けなかった事実にもふれ二つ合わせて沖縄の裏社会が覗ける。ちなみに冝保を児玉に引き合わせたのは大城鎌吉だったと沖縄タイムス関西支社の記者は証言していた。笹川伝は冝保伝に笹川と同席している写真があったから見た。笹川と川端康成と豊川尋常高等小学校で同級生であったことにふれ、笹川は右翼には「浪人右翼」「ノリト右翼」「暴力右翼」があるとし、笹川も右翼だが児玉誉士夫や藤吉男などは最後には裏切ったとある。今東光、川端、笹川とは生涯親交があったという。

 李策(2014年)ー岸はまた、町井久之をはじめとする在日の有力者とも人脈を広げていた。町井は、本名を鄭建永という。1923年、東京に生まれた町井は戦後、在日を中心に1500人の無頼漢を糾合し、暴力団「東声会」会長として名をはせた。政界の黒幕・児玉誉士夫とはとくに親しく、その政界人脈を足掛かりに、日韓国交正常化交渉の水面下で橋渡し役を果たした。この時、岸と町井は児玉を介して接近。それ以降、岸は町井のパーティーにちょくちょく顔を出すようになり、町井が六本木に巨大な複合ビル「TSK・CCCターミナル」を建てると、主賓として竣工式に招かれている。町井は愛国者であると同時に、商売にも貪欲だった。国交正常化後、ソウル市地下鉄開発など巨額の日韓ビジネスを差配していた岸は、町井が利権に食い込むための最重要パートナーであり、両者の協力関係は下関にも及んだ。
 実は、冒頭で触れた「関釜フェリー就航記念アルバム」は、町井の生前の書棚に所蔵されていたものだ。しかし、巻末に記載された関係者名簿に、彼の名前を見つけることはできない。「それでも、関釜フェリー就航が町井さんの尽力によるものだったのは間違いありません。昔のこととは言え、暴力団の親分だった町井さんが、岸さんと名前を並べるのははばかられたのでしょう」(前出・パチンコ店経営者)

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1972年5月『山口組時報』4号□宜保俊夫・三代目山口組内東亜事業組合理事、沖縄支部長「沖縄の地より」


2012年3月ー東亜会(旧東声会)2代目誼興業(金城義雄会長)解散。これで沖縄ヤクザは旭琉會だけとなった。

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第7回戦後沖縄研究コロキウムー終戦~<復帰>前後を中心にー 
 *企画:「戦後の沖縄社会と女性への視座―その手から産まれたもの・技術史の課題ー」
 *期日:2017年5月14日(日)午後2時~5時 
 *会場:南風原文化センター(沖縄県南風原町)
 *内容:講師)
   ・「戦後沖縄の技術史の課題―時代の技術ー」粟国恭子(近現代文化史・沖縄県立芸術大学非常勤講師)
・「ミシンと『復興』」謝花直美(沖縄戦後史・沖縄タイムス編集委員)
   ・「戦後南風原のモノづくりと女性」平良次子(学芸:南風原文化センター職員)
   ・コーディネーター:秋山道宏(社会学・沖縄戦後史、沖縄国際大学非常勤講師)



   
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仲里好孝氏「会長あいさつ」


議案審議


激励会ー左から仲里好孝会長、伊良皆賢哲氏、上原小一氏

激励会ー伊良皆賢哲氏/上原小一氏



糸数信一氏「乾杯の音頭」







左が末吉保朝先生と末吉良治氏/末吉保朝先生と伊良皆賢哲氏

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〇書物は出会った時に迷ってはいけないー横山重『書物捜索』/古文献を発掘し学界に提供する学風ー滝本誠一『日本経済大典』/学問の豪傑が勢揃いした時代の京都大学ー神田喜一郎『敦煌学五十年』/大学教授の身で国宝三点重文六点を蒐めたー内藤湖南/近世書誌学の基礎を築いたー水谷不倒/大学教授の職責ー藤村作/全国に響いた浪華の文化人ー木村蒹葭堂/人名録を愛好した近世人の志向ー諸家人名江戸方角分/西鶴は作家であり編集者であり企画者であったー森銑三『西鶴と西鶴本』/わが国の料理人は技術を公開して共同で進歩したー川上行蔵『料理文献解題』

1978年1月 河上行蔵『料理文献解題』柴田書店
日本一充実した古典籍図録ー反町茂雄『弘文荘善本図録』/古書価の変遷にあらわれた時代の嗜好ー水谷不倒『明治大正古書価之研究』/際限なく広範囲におよんだ蒐書家ー市島春城/研究資料の充実に徹した世界的コレクションーモリソンと東洋文庫/伊藤仁斎は日本に真正な学問の基礎を作ったー『童子間』/著作者の学問内容を呑みこんだ上での書誌学ー中村幸彦『古義堂文庫目録』/世界で最も醒めていた思考者の辛辣ー山片蟠桃『夢の代』/閨閥によって人事が決まる東京帝大ー大塚虎雄『学界異聞』/東大は日本文化の家元であるから国民を下に見て君臨するー『出身学校別現代紳士録』/主題を定めて書籍蒐集は精神衛生によいー社史についての文献一覧/図書館の参考事務は無意味であるー植村長三郎『図書館学・書誌学事典』/漢方は日本において再編成し直し高度になったー小曾戸洋『日本漢方典籍辞典』/遊んでばかり働くより儲けた骨董眼ー渡辺虹衣『骨董太平記』/仏教辞典を見分けるコツー岩本裕『日本仏教語辞典』/辞書は使い方で思わぬことを教えてくれるー薩摩辞書/文部省からも民間からも大出版が出たー杉村武『近代日本大出版事業史』/群書類従の欠を補う史籍集覧ー近藤瓶城/昔は博識謙虚なコワイ好事家がいたー三村竹清『本之話』/古典研究の究極は注釈であるー『徒然草諸抄大成』/日本近代書誌学の伝統と未来ー天野敬太郎『河上肇博士文献志』/このような時代に適した企画を見習って欲しいー『現代知性全集』/報恩に献身した出版事業ー野依秀市/雪嶺が古書展で買物をすると予定額にピタリであったー三宅美代子『雪嶺の思ひ出』

〇役に立たない本を使いこなして役に立たせる法ー増田渉『雑書雑談』/考証学の伝統を守って研究を維持する人々ー関良一『日本近代詩講義』/藝術というものは全く個人的な我れを標準とするー『脇本楽之軒の小伝と追憶』/日本人は如何なる方法によって納得させうるかー御成敗式目/大坂夏の陣のさなかに出た本ー『大坂物語』/水戸黄門ー『大日本史』/歴史は真実でありえないことを考証したー富永仲基『出定後語』/大石は人の情念に訴え感動させる劇を演出したー『仮名手本忠臣蔵』/日本史の斬新な時代区分ー伊達千広『大勢三転考』/福沢が書かざるをえなかった理由ー『瘦我慢の説』/伊藤博文が明治史の主役となった理由ー植松孝昭『明治史伝』/官僚制の形成まで明治政府の朝令暮改-星一『官吏学摘要』/徳富蘇峰の思想が形成された時ー『第十九世紀日本ノ青年及其教育』/大正四年各界名士を解剖するー『張子の虎』/給与の出し方にも心遣いが必要とされていたー前田一『サラリーマン物語』/江戸時代は全国が物産の競争をしていたー『江戸時代人づくり風土記』/出世名声のための戦働きは忠に非ずー『古典大系 日本の指導理念』 

右ー安田靫彦「豊臣秀吉と徳川家康」

穂積和夫「挿絵」

右ー大坂夏の陣に向かう徳川家康
1983年10月『古典体系 日本の指導理念5 創業の初心②築かれた太平の礎』第一法規出版

 文化は容易に変わらないが組織は急速に変動するー『日本の組織』金融も生産も激流に乗って構造変化しているのに、官僚帝国だけは、いまだに世襲が行われている現状を、労政協の『天下り白書』があきらかにしている/明治初年の新聞記者は社会的スターであったー『新聞記者奇行伝』/実力があって野心がなければ人を動かすのは容易であるー鵜崎鷺城『当世策士伝』/語学力の不足は小中学での国語教育軽視に拠るー向軍治『八当集』/事業家を描く伝記の名作ー岡野養之助『村山竜平伝』/日本の社会政策に模範を示した先見力ー『関市長小伝』/国家総動員計画の発端と進行ー石川準吉『国家総動員史』/昭和史の政治に関与した現場証人ー『岩淵辰雄選集』/政治家後援会が刊行した学術書ー下村治『経済成長実現のために』/戦後は誠心巧緻のコラムが時代を照らしたー『時のうごき』/進駐軍を相手にひるまず闘うー石橋湛山の弁駁と資料/明治最初の文士録ー『現代文学者小伝』/アカデミズムを凌いだ独創ー折口信夫『口訳万葉集』/気迫を欠けば漢文は読めないー田岡嶺雲『和訳漢文叢書』/明治文壇を展望した唯一の評判記ー吉田香雨『当世作者評判記』

〇作家は妬まれおとしめられるー尾崎紅葉/二葉亭の翻訳短篇が明治文学の神経に響いたー高松茅村『明治文学言文一致』/代作者助作者加筆者が想定される時代ー東海散士『佳人之奇遇』/俗界を下に見て校風論争ー第一高等学校『文藝部』/ヴァレリー全集ー佐藤正昭/日本で一番大きい豪華版ー寿岳文章編『ヰルヤム・ブレイク書誌』天野敬太郎は昭和22年という早い時期に、「目録の時代を経て今や索引の時代に進んでいる」と喝破した。その索引も人名や書名に非ず、事項索引でなければならぬのである/江戸川乱歩はまた評論家でもあったー『悪人志願』/『智恵子』の生まれた土壌と環境ー室生犀星『我が愛する詩人の伝記』/近代文藝家三百七十五名の研究資料叢書ー昭和女子大学『近代文学研究叢書』/書誌の目で見るー堀口大学『月下の一群』/『田舎教師』のモデルの詩集ー小林秀三遺稿/雑誌『近代文学』発刊時の決意と苦労ー『近代文学』発刊挨拶状/若き日の山本周五郎が耽読した唯一の本ーストリンドベリー『青巻』/思いこんだらとことんやる人たちー斎藤昌三『三十六人の好色家』/エロ・グロ・ナンセンスー『匂へる園』ほか/ウソをつかない限定本ー集古洞人編『奇書輯覧』/自分を売りこむためには何事につけても手練手管が必要であるー相馬健作『文壇太平記』/同時代の誠実な観察者ー小牧近江『プロレタリア文学手引』/悪口は人とのつき合いに不可欠のエチケットであるー河盛好蔵『人とつき合う法』/日本人の性情が洗練されるよう願った作家ー大仏次郎『帰郷』/早稲田の人材が背伸びして文藝百科を作ったー『文藝百科全書』/短歌とその注釈が響き合って豊かな感動を呼ぶー吉野秀雄『鹿鳴集歌解』/シェークスピア全集推敲転々ー坪内逍遥/芭蕉にお近づきになるためならこの一冊ー柴田宵曲『芭蕉言行録』/日本人は悪評を軽率に信じ易いー田口掬汀『文壇照魔境』/文士のゴジップを集めたら本になる時代ー『文壇失敗談』/何よりも先ず古本屋を利用すべきであるー田中菊雄『現代読書法』カズオ書店、津田喜代獅、天牛書店の尾上政太郎、広島の黒木書店が元町へ/書誌学の新次元ー宮崎芳三ほか『日本における英国小説研究書誌』/軽評論家と呼ばれて意地を見せたー『十返肇著作集』/批評を論理と錯覚する文壇を訂すー『北原武夫文学全集』/作家に推参してその肝を味わって堪能する批評ー開高健『人とこの世界』/小林秀雄が人をたぶらかす手口を解剖するー向井敏『文章読本』/徹底的な批判は必要であるが余裕を忘れてはならないー三好十郎『斬られの仙太』
谷沢永一『書物耽溺 』(講談社) 2002/08

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2004年6月30日ー川西能勢口駅から蔵書家・谷沢永一氏の自宅に行く。沖縄から来たということで何か警戒されていたようで話をすると快くサインしてくれた。近くにフローレンス ナイチンゲール(救苦観世音)像がある。

谷沢永一 たにざわ-えいいち
1929-2011 昭和後期-平成時代の書誌学者,文芸評論家。
昭和4年6月27日生まれ。関西大在学中から同人雑誌「えんぴつ」を主宰し,開高健(たけし),向井敏(さとし)らと知りあう。昭和44年から平成3年まで母校の教授。近代文学の分析と論評,書誌研究で知られ,昭和55年「完本―紙つぶて」でサントリー学芸賞。平成16年「文豪たちの大喧嘩」で読売文学賞。平成23年3月8日死去。81歳。大阪出身。著作はほかに「谷沢永一書誌学研叢」「書物耽溺」など。(→コトバンク)

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2006「トンビの目のパノラマ地図」
○我が琉文菴は近鉄奈良線の布施駅近く(上の赤丸・東大阪市)にある。奈良公園や、唐招提寺・薬師寺、大和文華館(山口宗季の花鳥図、座間味庸昌の人物画が所蔵されている)、近鉄資料室や大阪ミナミ(道頓堀)に出るのに便利である。奈良はシルクロードの終点と言われているが、1977年発行の辛島昇①編『インド入門』に「日本人のシルクロード好きは、毎秋奈良でひらかれる正倉院展にどっと人があつまる事情と軌を一にしたものである」とし「むかし大東亜共栄圏という日本を扇の要においたひろい意味での文化圏を捏造した国粋主義に通じる」とする。奈良は東大寺の大仏や興福寺の五重塔、阿修羅像でも知られ世界遺産でもある。

奈良近鉄駅ビル3・4階に歴史・観光の展示館「なら奈良館」(旧・奈良歴史教室)


源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。

国宝・銅造盧舎那仏坐像/重文・如意輪観音坐像

大仏殿にある広目天像  多聞天像 

小説家して有名な森鴎外は、大正6年に帝室博物館の総長に任命され、東京・京都・奈良の帝室博物館を統括する要職でした。大正7年から10年まで、秋になると鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち合うため奈良を訪れており、滞在中の宿舎はこの場所にありました。

①辛島昇 からしま-のぼる
1933- 昭和後期-平成時代の南アジア史学者,インド史学者。
昭和8年4月24日生まれ。専門は南アジア史。昭和50年東大教授。のち大正大教授。平成15年「History and Society in South India:The Cholas to Vijiayanagar(南インドの歴史と社会─チョーラ朝からビジャヤナガル王国へ)」で学士院賞。19年文化功労者。東京出身。東大卒。著作に「インド入門」など。→コトバンク

 2006年5月13日ー午後は、近鉄丹波橋で降りて、御香宮神社に行く。名水「御香水」が境内にある。この神社には京都市天然記念物のソテツがあり、その実は「延命厄除そてつ守」になっている。鳥せい本店側では名水「白菊水」、月桂冠大倉記念館では名水「さかみづ」を飲んだ。同時に昼間からきき酒で顔が赤くなった。

御香宮神社
近鉄奈良駅西口を出て地下道を通って近鉄高天ビルに出て歩道を西の方に歩くと直ぐ通称「山の寺」という看板が見える。奧まったところに「葵」の紋を打った山門が建っているところが浄土宗降魔山「念仏寺」である。門をくぐると降魔山と記された燈篭がある。その傍らに蘇鉄。1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得た。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めである。

浄土宗降魔山「念仏寺」

〇御香宮神社は徳川家と深い関わりがある。徳川家康が豊臣秀吉のあとをうけ伏見城で天下の政事をとったおり、尾張、紀伊、水戸の御三家の藩祖と、秀忠の娘千姫はこの伏見で誕生している。御香宮を産土神として特別な崇敬を払っている。御香宮の神門は1622年に水戸中納言頼房(水戸光圀の父)が伏見城大手門を寄進したものと言われている。
□御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。□→1983年9月ー山本眞嗣著・水野克比古撮影『京都伏見歴史紀行』山川出版社

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[時事通信] 4/25-今村雅弘復興相は25日夕、東京都内のホテルで開かれた自民党二階派のパーティーで講演し、東日本大震災について「(発生場所が)東北で、地方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると莫大(ばくだい)な、甚大な被害があった」と述べた。〇後任に自民党の吉野正芳衆院議員(福島県第五区)を起用。 

 「くろねこの短語」4月25日ー このところのトランプにお追従するかのような北朝鮮への挑発を見ていると、ヘルマン・ゲーリングの言葉がふと頭をよぎる。「国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を引きずり込むのは実に簡単だ。外国に攻撃されつつあると言えばよい。それでも戦争に反対する者を、愛国心がないと批判すればいいい」

 「くろねこの短語」4月23日ー「安倍晋三記念小学校」疑獄に新ネタが出てきたようで、なんと森友学園の系列保育園を運営する社会福祉法人の発起人に、網タイツの防衛大臣・稲田君の旦那の名前が見つかったそうだ。ここまでくると「朋ちゃん知らないもん」ではすみませんね。ていうか、どんだけ嘘つきなんだよってことで、政治家というよりも人として失格だね。こんなのをいつまでも防衛大臣の椅子に座らせておくペテン総理の愚鈍さにも辟易なんだが、ようするにみんなグルってことなんだね。ペテン総理、私人の嫁、稲田夫婦、大阪のチンピラ知事・松井が徒党を組んでの共謀罪ということで、今日のところはお後がよろしいようで。

 「くろねこの短語」4月17日ーそんなことより、またしてもお馬鹿な大臣が暴言吐いたってね。なんでも、山本幸三とかいう地方創生大臣が地方の観光振興がうまくいかない理由として、「一番のがんは文化学芸員。この連中を一掃しないと駄目」ってのたまったそうだ。凄いよね。地方の活性化がうまくいかない原因が学芸員だなんて、どうやったらそんな思考回路になるんだろう。これ゛ゃあ。痴呆創生大臣だろう。大英博物館は学芸員を辞めさせたから成功したって言ってるようなんだが、そんなデータがどこかにあるのか?。そもそも、この発言で問題なのは、自分がよく知りもしない仕事に対しての敬意が欠けていることなんだね。だから口調そのものもヤクザまがいなものになっちまう。「この連中を一掃しないと・・・」なんて、まるで暴力団撲滅運動みたいですからね。




京都絵葉書ー戦前

 『京都新聞』4月19日ー政府の観光振興を進める上で「一番のがんは文化学芸員」とした山本幸三地方創生担当相①の発言に、批判が高まっている。山本氏は発言を撤回し、謝罪したが、18日には再び二条城(京都市中京区)の英語の案内表記を「不十分」と批判した。多くの文化財が集積する京都の博物館の学芸員からは「最も大切な仕事は文化財の保護」「保存と活用のバランスを考えながら地道に取り組んでいる」と、学芸員の仕事に理解を求める意見が相次いだ。
 ①山本幸三地方創生担当相(日本会議国会議員懇談会/1973年7月 米国コーネル大学経営大学院に留学、MBA取得。1981年7月米国ハーバード大学国際問題研究所客員研究員、日米関係プログラム)2012年3月5日の衆議院予算委員会において、自見庄三郎金融担当大臣(当時)に対し、証券取引等監視委員会による強制捜査の手法を批判する趣旨の質疑を行った。その前年9月、山本が代表取締役を務める「ブルー・エコノミー・ホールディングス」②に5千万円の資金を提供していた金融業者、及び日興コーディアル証券の元執行役員がインサイダー容疑で証券取引等監視委員会の強制捜査を受け、その3ヶ月後に逮捕されており、山本の国会質問に対して「私的な利害関係者のために国会の場で質問した」「証券取引等監視委員会への圧力ではないか」等の指摘が週刊文春による報道でなされた。
②商号:株式会社ブルーエコノミー・ホールディングス 本店:(東京都千代田区麹町五丁目3番地・麹町秋山ビルディング7階) 会社成立の年月日:平成22年3月11日
目的ー当会社は,次の業務を営む国内外の会社を支配及び管理することを目的とする。
(1)金融商品取引法に規定する金融商品取引業務
(2)銀行法に規定する銀行業及び信託業法に規定する信託業務
(3)投資助言・代理業及び投資運用業務
(4)その他の金融サービス及びそれに付帯又は関連する業務
(5)不動産業及びそれに付帯又は関連する業務
(6)国内特許・実用新案及び意匠・商標その他知的財産権全般及び
   それに付帯又は関連する業務
(7)農業経営及びそれに付帯又は関連する業務
(8)前各号に附帯又は関連する業務
役員ー山本幸三(自民党衆議院議員)/愛知和男(元衆議院議員)/グンター・パウリ(NPO法人ゼリ・ジャパン特別顧問)

 龍谷大龍谷ミュージアム(下京区)の石川知彦副館長(57)は学芸員の仕事は博物館法で定められているとして「一般には展覧会やシンポジウムなどが知られるが、最も大切なのは文化財の保護であり、調査研究だ。貴重な文化財をわれわれの代でつぶすわけにはいかない」と指摘する。山本氏の発言には「観光への安易な活用ばかりを強調する発言にがっかりした。京都の人はもっと怒ってもいい」と批判した。
 亀岡市文化資料館(京都府亀岡市)の黒川孝宏館長(62)は「文化財は現在の人だけのものではない。500年、千年と守られてきた文化財を、私たちが同じように引き継いでいかなければならない」と強調。「国が定めた基準の範囲内でアイデアを出し、公開の努力をしている。国の方針として矛盾している」とあきれる。「地方都市の学芸員は、市指定や未指定の文化財でも、地域の貴重な文化として将来に残そうと地道に取り組んでいる。地方創生を考えるなら、そういう活動にも目を向けるべきだ」と注文を付けた。
 京都文化博物館(中京区)の森脇清隆主任学芸員(55)は、今回の発言に「もうかるなら文化もただ消費すればいい、という発想を感じる」といい、「これまで守られてきた文化財が、観光目的のために切り売りされ、傷ついたり失われては、将来に対して非常に恥ずかしい」と危ぶむ。文博では、子どもや外国人らを対象に、どのような展示やワークショップが望ましいかを日々模索しているという。「学芸員に観光の視点がないわけではない。文化財の保存と活用のバランスをとりながら頑張る学芸員たちの取り組みをむしろ、応援してほしい」と訴えた。

『毎日新聞』4月20日ー山本氏は3月9日の参院内閣委員会で、2012年のロンドン五輪で観光を盛り上げるため、大英博物館で大規模改装が行われたと説明。「一番抵抗したのが学芸員で、そのときは観光マインドがない学芸員は全部くびにした」と語った。山本氏は今月16日の滋賀県での地方創生に関するセミナーでも同様の発言をしていた。これについて、大英博物館の広報担当者は「事実誤認」と否定し、「大英博物館は観光のためにスタッフを解雇したことも根本的な建物改装をしたこともない」と強調した。

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写真右から、新城栄徳氏、新城栄市氏、新城あけみ、新城喜一氏、左端は不詳
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1943年1月 今野賢三『前田正名』新潮社出版/1973年1月 祖田修『前田正名』吉川弘文館

前田正名  生年:嘉永3.3.12(1850.4.23) 没年:大正10.8.11(1921)
明治前期の経済官僚,地方産業振興運動指導者。鹿児島藩医前田善安の6男。慶応年間(1865~68)長崎留学,明治2(1869)年フランスに渡り,フランス農商務省で行財政を学び,10年に内務省御用掛として帰国。のち「大隈財政」下の大蔵省にあって直輸出論を提唱,大隈ブレーンのひとりとなる。14年農商務・大蔵大書記官となり欧州経済事情調査に出張。16年帰国後は品川弥二郎らと組み経済政策を構想,17年3月より農商務省で『興業意見』編纂に取り組み,8月未定稿30巻を完成,「松方財政」を批判し,殖産興業資金の追加供給による強力な産業保護主義を主張して松方正義大蔵卿と対立した。このため内容の大幅変更を余儀なくされた『興業意見』の刊行となった。18年7月より不況下の地方に出張し,勤勉,節倹,貯蓄の「三要点」を強調して農民の自力更生を説くが,同年12月非職。21年山梨県知事を経て22年農商務省工務局長,農務局長に復帰,23年農商務次官,元老院議官,貴族院勅選議員となるが,政府中枢の政策に同調できず官界を去り,25年以降地方産業振興運動を指導。地方実業団体,全国農事会を系統組織化,政府,議会にそれら団体の要求を建議する活動を行った。30年代には農村調査計画である町村是運動に挺身したが,晩年は不遇に終わった。<参考文献>祖田修『前田正名』,同『地方産業の思想と運動』 →コトバンク参照

1894年4月16日『大阪毎日新聞』「五品(織物、陶磁器、金属器、製紙器、雑貨)大会の開会式は、いよいよ昨日を以て京都府庁に開かれたり。会頭に前田正名『京都は我が国の美術工芸に取りて保姆の地位に在り。すなわち美術工芸上、京都は決して京都人の私有にあらず。日本人の京都なること、正名確信して疑わざる所なり。』」
1894年4月16日 前田正名(京都祇園清々館 五種大会出張所)→奈良原繁沖縄県知事
「拝啓陳ハ今回開設ノ五品大会ヘ 御懸下ヨリ當業者参会相成候儀ハ各業者ノ熱心ニ因ル 儀ニモ可有之候得共全ク御庁ニ於テ非常ニ御尽力被下候 結果ト深ク感謝之至リニ奉存候尚報告書ハ追テ差上可申候先ハ不取敢御禮申上度如此ニ御座候敬具」→那覇市歴史博物館「横内家文書」

1894年4月17日『大阪毎日新聞』「五品(織物、陶磁器、金属器、製紙器、雑貨)大会閉会式 五品大会は五二(織物、彫刻を追加)会と改称し閉会・・・」

1913年5月25日『琉球新報』「本日来県の前田翁ー其産業に関する意見」
1913年5月26日『琉球新報』「前田翁来着ー旅装解かずして講演会に臨む。鹿児島に生まれながら今日まで当地を訪ふに至らざりしは深く之を謝す・・・」「前田翁一行」
1913年5月26日『沖縄毎日新聞』「前田翁一行の人名ー貴族院議員前田正名▲金剛寺住職暉峻普瑞▲陸軍中佐花田仲之助▲鹿児島商業会議所書記長安田武彦▲鹿児島郵船会社書記長坂元徳二▲実業家小牧藤兵衛▲仝慶田政太郎▲岡崎商業会議所常務議員千田千太郎▲実業家加藤敬太郎▲社会教育者志方楽山▲実業家大山幸太郎」
1913年5月27日『琉球新報』「真教寺 本社主催 講演会/前田正名翁、暉峻普瑞師、花田中佐、志方楽山氏」
1913年5月28日『琉球新報』「前田翁の講話」「一昨晩の前田翁歓迎会」 
1913年5月28日『沖縄毎日新聞』「前田翁一行の歓迎会」
1913年5月29日『琉球新報』「前田翁本日出発」
1913年6月3日『沖縄毎日新聞』「前田翁の一歩園」
1913年6月8日『沖縄毎日新聞』高里次郎「前田翁一行より得たる教訓(上)」
1913年6月10日『沖縄毎日新聞』高里次郎「前田翁一行より得たる教訓(下)」

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1973年、上の沖縄タイムスの記事をみて、京都駅近鉄名店街の「紅屋」に石川氏が訪ねてきた。後日、一燈園に石川氏を訪ねて歓談した。

左が石川洋氏、新城榮徳
一燈園同人
石川 洋 (いしかわよう)
昭和5年、栃木県生まれ。17才のとき、一燈園創始者、西田天香師と出会い、入園を決意。托鉢者として今日にいたる。かたわら、沖縄への奉仕活動「仏桑会(ぶっそうげ)の会」事務局長、順教尼遺弟会「この花会」相談役、国際宗教同志会常任委員、世界宗教者平和会議日本委員、人権・難民委員として活躍。国内では、教育・福祉・企業内教育の講師として東奔西走。海外では、カンボジアなどで、幾多の危険な場面に直面しながら難民救援にあたっている。
《著書》
『捨てなければ得られない』(柏樹祉)
『一人には一人の光がある』(柏樹社)
『ベスト・ライフ』(実業の日本)…他。
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いいだ もも(本名:飯田 桃(読み同じ)、1926年(大正15年)1月10日 - 2011年(平成23年)3月31日)は、東京府東京市出身の作家、評論家。多元主義的共産主義者。『21世紀への構想』研究会主宰。『近代日本社会運動史人物大事典』編集委員。男性。別名の宮本 治は「宮本百合子と太宰治をアウフヘーベンする」との意図によるという。→ウィキ


左下の教養文庫、黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』は、以前、桑原守也さんから本書の尚泰侯爵<400>コピーを送られたことがある。それに「旧琉球王侯爵尚泰 麹町区富士見町八番地、侯爵尚泰は左の如く多くの妾と庶子を有す△琉球人真鶴金(46)。△牛込区原町3丁目士族船岸勝太郎方同居平民山本ちょうは、男秀を22年9月に生み、女みちよを24年7月に生み、女やえを25年12月に生む。△北豊島郡巣鴨町1丁目17番地、田中栄蔵長女こうは、男光を23年12月に生む。△三重県河芸郡神戸町片山半七2女貞は、女まさよを、25年2月に生み、男時を26年5月に生む。△下谷区南稲荷町83番地松本かね養女ゆうは、女きみを27年11月に生む。△千葉県安房郡北三原村西田市五郎方神田なつは、女ちよを27年6月に生み、女さよを29年8月に生み、女すずを30年11月に生む。以上はいずれも小間使いもしくは下女なりしを手を附け孕ませたるなり、その嗣子 <401>従四位尚典(35)も麹町区3番町56番地、高木勝太郎方同居士族2女ちゑを妾とし、明治16年10月1女を挙げつると命名す。」同書には「靖国神社宮司加茂水穂は日本橋区村松町48番地藤吉妹松本やそ(31)を妾とし一時麹町区1番町47番地に囲い置きたれども今は3番町10番地に移す」などもある。


1975年11月 しまね・きよし『もうひとうの日本共産党ー宮本顕治体制に隠された真実』サンケイ新聞社
〇いいだ・もも「著者 しまね・きよしさんのことー私は、日本共産党論では、しまね・きよしさんの弟子でしてね。今は亡くなった梅本克己さんのお宅で、水戸学派と称して「唯物論研究会」なる一種の義塾を開いていた頃、はるばる柏からしまね先生を仰いで、その該博な資料踏査に成る日本共産党史を、耳から勉強させていただいたことがあるのですよ。連続読切り講談というか、いつも次回が心待ちに待たれるほど面白かったですね。とういうのも、しまねさん自身が下積みの実践活動の苦労を長年かさねた外語大以来の共産党員だったからで。
 60年安保闘争の時、取手の地区労事務局長をやっていた彼が、ハンドマイクをぶら下げてシュプレッヒコールの音頭をとっていた姿を思い出しますなァ。昔から党を右へおん出た転向者はゴマンといるが、そういう人の話は「オレも昔は・・・・・・」といった老いの繰り言が多くてあまり面白くない。しまねさんは、左へ飛び出した一個の自立したマルクス学者で、だから党史に地の塩の味がよく利いてる。

明治維新後、明治新政府の要職や陸海軍の幹部には薩長(薩摩藩と長州藩)出身者が多く占めていた。伊藤博文も長州藩士である。

「緋色の研究」ーこの本(黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』)の中では、数多くの方の実例がそのまま暴露されていますが、初代総理大臣・伊藤博文はかなりひどいと言えるでしょう。伊藤博文の実例紹介部分を、ぼくが現代語に直したのが以下のようなものです。
 「さっそくだが伊藤博文は変態なので、世間に知られている以外にもとんでもない事実があるのではと思っていたが、まさしく秘密の中の秘密と言える事実をつかんだので紹介する。芝区伊皿子町65番地に田村半助という男がいるのだが、古くから伊藤博文の家で土木請負をしていた。その関係で、田村半助の長女である喜勢子が伊藤博文の愛人になったことがあった。喜勢子は伊藤博文に可愛がられ、麻布長坂町1番地にきれいな家を立ててもらったりもしていた。しかし喜勢子が病にかかり亡くなってしまい、伊藤博文は悲しみながら喜勢子の妹つね子をまた愛人にし、つね子も美人なのでまた可愛がってた。しかしこのつね子もまた19歳で亡くなってしまい、伊藤博文はまた悲しみながら、次はつね子の妹で16歳の雪子を愛人にしようと企み、愛人にさせろと田村半助に迫った事実がある。しかし田村半助も、さすがに娘がふたりも亡くなっていることが気になりすぎるし、雪子も怖がって愛人になりたくないと言う。そんなことを言えば言うほど、伊藤博文は雪子を愛人にしたくなり、5月16日に行われた喜勢子とつね子の追福法会(冥福を祈る会)では、莫大な金品を田村半助に与えまくり、とてつもなく恩を着せ、田村半助のまわりにいる者9人ほどを権力で操り、あの手この手で愛人にしようと圧力をかけ続けた。しかし、それでも雪子は愛人になりたくないと断り続けていた。これが先月までの話。それでも田村半助たちの生活が成り立っているのは伊藤博文のおかげであるから、雪子がいつ愛人になってしまうか分からない状態だ。今後、雪子の愛人の話がまとまったりすれば、随時報道していく!」ねぇねぇこんなこと書いていいの~~~~!?!?相手は初代総理大臣なんですけど!!一般人の実名と住所出しすぎなんですけど!!完全におもしろがってやってますよね!!現代からすると、これだけの暴露を発表しつづけてメディアに残っていたのが不思議でしようがないですが、現代と明治ではさまざまな社会通念自体が異なるものだったようです。『恩を着せた』のあたりなど、名誉毀損のルーツともいえるような書き方なのですが、黒岩さんはほんと権力者に消されなくてよかったですね…。もちろん暴露は伊藤博文だけではおさまりません。総理大臣ですらここまでやっているのですから、他の人にもどんどん過酷な追求を行っています。

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4月12日『沖縄タイムス』『琉球新報』の儀間比呂志さん追悼記事

 沖縄でたくましく生きる人々の姿を力強いタッチで刻み続けてきた、沖縄を代表する版画家・絵本作家の儀間比呂志(ぎま・ひろし)さんが11日午前3時15分、肺炎のため大阪府河内長野市の病院で死去した。94歳。沖縄戦や沖縄の風景、女性の姿を大型の版画作品で描いたほか、多数の創作絵本を出した。自宅は大阪府大阪狭山市茱萸木(ぐみのき)4丁目1162の4。通夜は14日午後7時、葬儀は15日正午からいずれも大阪府大阪狭山市茱萸木1丁目277の1、セレモ大山で。喪主は長男修(おさむ)さん。
 儀間さんは1923年那覇市生まれ。青年時代を過ごした旧南洋群島のテニアンで版画の手ほどきを受けた。戦後、大阪市立美術研究所で絵を学び、70年から版画に専念し、上野誠に学んだ。「ふなひき太良」(毎日出版文化賞)以来、多くの創作絵本を手掛け、「鉄の子カナヒル」などで多くの賞を受けた。版画集「戦がやってきた」「沖縄戦-朝鮮人軍夫と従軍慰安婦」など、戦争を告発する作品を世に問うてきた。
 2006年には83歳で豊見城市にアトリエを構え、大阪と行き来をしながら琉球新報に連載した「みのかさ部隊」などの制作に打ち込んだ。若い世代とのコラボレーションにも積極的に取り組み、県出身ロックバンド、モンゴル800と詩画集「琉球愛歌」を作った。12年に琉球新報賞。90歳を過ぎて大阪に戻っていた。【琉球新報電子版 2017年4月11日】

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1930年1月 新屋敷幸繁『古事記の鑑賞』大同館書店〇第二章 黄泉国と琉球の後生

1932年6月 新屋敷幸繫・峯岸義秋『日本文学概論』大明堂



1972年4月 沖縄の雑誌『青い海』5月号 新屋敷幸繁「民話の沖縄/七つの男の子と九つの女の子の約束』

新屋敷幸繁
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新屋敷幸繁 (しんやしき・こうはん)1899~1985(明治32.4.15~昭和60.7.15) 詩人、教育者。与那城町生まれ。沖縄大学学長などを務める。詩集『生活の挽歌』『野心ある花』、詩誌『南方樂園』、史書『新講沖縄1000年史』『コザ市史』など。(沖縄コンパクト事典)





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写真ー仲原善徳とバゴボ族の酋長

1933年6月ー仲原善徳『大南洋評論』第1巻第2巻(仲原善徳編集)□金城朝永「南洋関係図書目録」
1936年11月 『訓練』仲原善徳「フィリッピン観光記(上)」
1937年3月ー仲原善徳『南洋千一夜一夜物語』日本書房
1937年3月ー『国際パンフレット通信』第998号 仲原善徳「蘭領ニューギニアの実相」
1937年4月ー『改造』仲原善徳「蘭領ニューギニア」
1938年12月ー『比律賓年鑑』仲原善徳「比律賓群島の諸民族」



1942年2月ー仲原善徳『比律賓紀行』河出書房


1942年7月ー仲原善徳『比律賓群島の民族と生活』南方出版社


1942年7月ー仲原善徳『ボルネオとセレベス』寶雲社
1942年7月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓雑誌」
1942年10月ー『海を越えて』仲原善徳「新比律賓の面貌」


1942年11月ー仲原善徳『ミンダナオ島物語』興亜書房(寺内萬治郎・画) 
寺内萬治郎ー洋画家生年明治23(1890)年11月25日
没年昭和39(1964)年12月14日 出生地大阪府大阪市
学歴〔年〕東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科本科〔大正5年〕卒
主な受賞名〔年〕帝展特選(第6回)〔大正14年〕「裸婦」,帝展特選(第8回)〔昭和2年〕「インコと女」,日本芸術院賞〔昭和26年〕
経歴明治42年白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事。東京美術学校では藤島武二の指導を受ける。大正7年文展に初入選。11年耳野卯三郎らと金塔社を結成。14年第6回帝展で「裸婦」が、昭和2年第8回帝展で「インコと女」が、それぞれ特選となる。昭和初期から埼玉県浦和に住む。4年光風会会員となり、同会をはじめ帝展、新文展の審査員を歴任。戦後は23年ころより裸婦制作一筋に打ち込み、26年第6回日展出品の「横臥裸婦」および一連の裸婦作品によって日本芸術院賞を受賞した。35年日本芸術院会員、日展理事。東京美術学校などの講師として後進の指導にも当たった。「コドモノクニ」「幼年倶楽部」の挿絵画家としても親しまれた。→ コトバンク

1943年1月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓を巡る島々」
1943年2月ー仲原善徳『日本人ミンダナオ島開拓略史』南洋経済研究所
1943年4月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓の諸問題」
1943年10月ー『海を越えて』仲原善徳「フィリッピン史上の二人物」


1943年10月ー仲原善徳『バコボ族覚書』改造社

1943年11月ー『海を越えて』仲原善徳「フィリッピン在留邦人気質」


本間雅晴「序文」、葛生能久「序文」/右ー頭山満「題字」

写真中央ー犬養毅、頭山満
1944年9月ー仲原善徳『フィリピン独立正史』中文館書店

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1964年10月8日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」
神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして
1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。

 
10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)
怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」

奥里将建(1888年5月18日~1963年12月29日)
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写真ー奥里将建
1940年1月1日ー『沖縄朝日新聞』奥里将建「砂糖よりも有利な・・・うこん栽培と産業教育」

1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店
1943年9月ー奥里将建『古代語新論』三省堂
1949年5月ー奥里将建『沖縄昔話集』瑞泉会
1954年10月ー奥里将建『院政貴族語と文化の南展』三協社

1966年11月ー奥里将建『沖縄に君臨した平家』大同印刷工業
□仲宗根政善(琉球大学教授)ー1963年4月から64年の6月まで、私はハワイ大学の東西文化センターにいて、ホーレー文庫にとじこもって、日々を幸福感にみちて過ごしていた。書架に並べられた3千余冊の琉球関係文献を見て、如何に多くの先輩が琉球研究に従事して来たかを知り、自分の研究の微々たることがかえりみられて、これら先輩の業績に対し敬けんの念がわき頭がさがった。奥里先生に感謝の意をこめて御手紙を差上げたら、さっそく御返事があり、激励の御言葉にそえて、こんなことが書いてあった。『頑強な東恩納先生さえなくなられた。私のようなものは風前の灯火同然だ。』と。あれっきりだった。しばらくして、奥様から先生がなくなられたお知らせがあり、私は全く暗然とした。

あの頃、先生はもう余命いくばくもないことを予感しておられたのであろうか。ものにとりつかれたように、南走平家についての原稿を書きつづけて生命を刻んでおられたようである。ところがその原稿も完成するには至らず、一字また二字と余白になったまま残された。この遺稿を渡口真清氏と名嘉正八郎君が、先輩への敬愛と、文化に対する熱愛から出版を企てられた。私は深く心をうたれた。先生もどんなに喜んでおられることであろうか。

先生は、大正15年に『琉球人の見た古事記と万葉』を著された。最初は上代の古事記・万葉集の研究が中心であったが、平安朝、院政、鎌倉、室町と研究領域をひろげ、一方、琉球方言から、瀬戸内海方言・四国方言・近畿方言へと研究を進めて行かれた。時代的にも方処的にも、幅ひろく、国語の研究をせられ、多くのすぐれた論文を残された。さらに、朝鮮語・満州語・蒙古語と日本語とを比較され、昭和32年に、『日本語系統論』を出された。

戦後、院政時代の口語資料を詳しく調査されるに至って、院政貴族語が首里方言と近似していることに気がつき、『院政貴族語と文化の南展』を著わし、先生の研究は言語・文学から次第に歴史へと展開したのである。

沖縄の地名、沖縄の古典芸能、南宋との貿易関係などを深く究明し、これを論拠として、平家一門は長門の壇の浦で全滅したのではなく、沖縄にわたり舜天王統を打ち樹てたと論ぜられた。
先生はこの稿を最後のものとして、心血をそそがれたのであった。
先生の進まれた跡を辿って見ると、言語・文学・芸能・地理・歴史と実に広範にわたり、絶えず進展しつづけられた。  

78才で生涯を終えられたが、みずみずしい想がつぎつぎと湧き、旺盛な研究意欲は少しも衰えを見せなかった。先生の学説は、射程の遠い目標をねらったため、飛躍もあったが、独創にみち、新しい問題を提起した。広い分野を開拓されて残された業績は実に大きい。  

先生の蔵書は、奥様の御好意によって、歴史関係約200冊は沖縄県史編集室に、言語文学関係2,300余冊は、琉球大学図書館に奥里文庫として保管されている。文庫を一覧しても、いかにその学問が広く深かったかということがわかる。一冊一冊熟読されたあとがあり、端正な文字でメモをとった紙切がはさまれたままである。文庫の前に立つと、先生のおもかげがほうふつとする。先生の学問はきっと後輩に継承され、さらに発展して行くにちがいない。


1937年3月ー『沖縄教育』島袋源一郎「薩南列島に於ける平家の遺跡」



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2017年1月『広報あぐに』№108「粟国村教育委員会通信 4号」


2017年3月『広報あぐに』№110「粟国村教育委員会通信 6号」


2017年4月『広報あぐに』№111「粟国村教育委員会通信 7号」
詳しくは「粟国村 - 公式サイト」

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 「くろねこの短語」4月22日ー戦争体験した世代がまだ存在感をもっていた時代ならまだしも、いまや新聞・TVってのは超高給取りになっちゃって、「社会の木鐸」なんてことも夢のまた夢。みなさん、エリートという立場を守るためだけに、汲々としてますからね。おそらく、GW明けにも共謀罪は強行採決されるんだろうが、他人事みたいに「政府、共謀罪強行採決」の見出しが新聞・TVで踊りまくるの目に見えてくる今日この頃なのだ。


2017年4月12日『しんぶん赤旗』〇安倍政権と森友ー国有地が格安で売却された学校法人「森友学園」(大阪市)の疑惑で浮上した「教育勅語」の暗唱など異常な教育内容。一方での安倍政権による「教育勅語」の学校教材としての持ち込み。二つの問題からは、改憲右翼団体「日本会議」と一体の勢力による戦前回帰の教育礼賛と、そのための国政私物化よいう本質がみえてきます。



1970年6月 社会問題研究会『右翼事典ー民族派の全貌ー』「勅語」双葉社
 形式的には、1890年10月30日、宮中において、明治天皇が山県有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語、と言う体裁を取る。ただし実際は井上毅・元田永孚らが起草した。その趣旨は、家族国家観による忠君愛国主義と儒教的道徳であり、教育の根本は皇祖皇宗の遺訓とされた。忠君愛国を国民道徳として強調しており、学校教育で国民に強制され、天皇制の精神的・道徳的支柱となった。→ウィキ


2017年4月7日『新基地建設反対名護共同センターニュース』第121号

 「くろねこの短語」4月9日ーそんな厚顔無恥な政治屋のひとりに、元ヤンでロリコンの義家君(日本会議)がいるんだが、こやつは文科副大臣という立場にありながら、子供たちが教育勅語を朗読することについて「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思います」と答弁しやがりました。このデンでいくと、そのうち軍人勅諭の朗読も苦しゅうないなんてことになるんじゃないのか。
 「リテラ」4月8日ー本サイトでは以前から、この"東芝崩壊"危機の裏にある原発事業の陥穽をたびたび指摘してきたが、昨日発売の「週刊文春」(文藝春秋)4月13日号では、ジャーナリストの大西康之氏が「東芝"原発大暴走"を後押しした安倍秘書官」と題し、"影の総理"とも言われる今井尚哉首相秘書官の影響を名指ししている。今井氏といえば、経産官僚出身で産業政策・エネルギー畑を歩み、原発輸出政策の立案をした中心的存在。2011年、福島原発事故が起きた後も、資源エネルギー庁次長として民主党政権や再稼働に反対する橋下徹大阪府知事(当時)などを直接説得、「原発ゼロ政策」を撤回させた。
 「リテラ」4月8日ー渦中の森友問題にとどまらず、自民党の選挙応援に総理大臣夫人付職員を随行させていたという国家公務員法違反問題など安倍昭恵夫人の権力を笠に着た傍若無人な振る舞いや公私混同疑惑が次々と噴出している。そしてまた、本日も新たな疑惑が飛び出した。今度は「元暴力団組長との関係」だ。昨日発売の「FRIDAY」(講談社)は、昭恵夫人が名誉顧問を務める動物愛護団体「J-Taz’s」の代表・細康徳氏が元暴力団の組長であり、官邸はいま、この代表が「昭恵夫人の名前を使って寄付金を集めている」という情報に戦々恐々としている、というのだ。(略)言うまでもなく選挙において政党は、公認候補を出すにあたって公的な責任を帯びる。そして、公認料などの選挙費用は政党助成金から賄われており、その原資はほかでもなくわたしたちの税金だ。にもかかわらず、「安倍総理の妻」という立場を利用し、「私の友だちよ」の一言で公認を取り付けているのである。総理という立場を悪用して人事を自分のお友だちで固める夫と、お友だちの頼みを引き受け、省庁や政党に忖度を引き出す妻。──“似た者夫婦”といえば聞こえがいいが、安倍夫妻がやっていることは「政治の私物化」だ。この悪徳夫婦を野放しにしていていいはずがないだろう。(編集部)

 「くろねこの短語」4月5日ーしかも、こやつは復興大臣でありながら、「自主避難は自己責任だ」「裁判でもなんでもやってくれ」ときたもんだ。上等じゃないか、この日本会議野郎は。でも、この発言って暴論なんかじゃなくて、これこそがこやつらの本音なんだね。4月8日ーアメリカのシリア空爆なんだが、化学兵器使ったってのはどこまで根拠があってのことなのだろう。仮にそうだとしたら化学兵器使用は明らかな国際法違反。だからと言って、勝手に武力行使をしていいかというとそんなことはない。そのために安保理ってのがあるんだが、トランプはそんなことお構いなしですからね。ビジネス上のディール(取り引き)と同じ感覚で戦争されちゃたまりませんよ。それをまた、お先走りで「支援する」なんて声明出しちゃうペテン総理の政治オンチがなんとも情けない土曜の雨の朝である。
 「くろねこの短語」3月29日ー大阪高裁が高浜原発の運転差し止めを命じた大津地裁の仮処分を卓袱台返し。高浜原発再稼働を認めちゃいました。その理由ってのが凄まじい。(略)「新規制基準は福島第一原発事故の教訓を踏まえた最新の科学的、技術的知見に基づき、合理性がある」。(略)ここまで「安全だ」って踏み込んで再稼働認めちゃう裁判官って、なんて勇気あるんでしょう。でもって「立証責任は住民にある」なんてくだりは、その無慈悲さに涙が出てきちゃいますよ、ったく。この勇気ある決定を下した裁判長は山下郁夫(ウィキ/大阪府出身で、主に民事裁判を担当。津地方裁判所長・家庭裁判所長、神戸地方裁判所長等を経て、大阪高等裁判所部総括判事)とか言うそうで、この名前はこれからもしっかり記憶にとどめておこうと誓った火曜の朝であった。

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1929(昭和4)年
     『世界美術全集』第21巻 平凡社「琉球美術各論」
           □伊東忠太「琉球芸術総論」 鎌倉芳太郎「琉球美術各論」
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2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻□鎌倉芳太郎ー(彫)天尊像、(絵)尚円王御後絵、尚貞王御後絵、尚純公御後絵、金剛法会図細部、渡海観音像(自了)、高士逍遥図(自了)、(工)放生池石橋欄羽目、観蓮橋石欄羽目、瑞泉門石獅、歓会門石獅、正殿唐破風前石龍柱、御盃及御酒台並浮彫金箔磨大御菓子盆及小御菓子盆、美花御小飯並浮彫金箔磨大御菓子盆、あしやげこむね橙紅色 子地雲龍鳳文綵繍牡丹雉子文綵繍□伊東忠太ー(建)守礼門・冕ヶ嶽石門、沖宮、天久宮、円覚寺仏殿、円覚寺三門、崇元寺石門、霊御殿(玉陵)
1929-3    『世界美術全集』第22巻 平凡社 


沖縄大学図書館所蔵
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1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社






目次 
琉球列島ー概説
地形ー列島と海溝/三列の地質構成/珊瑚礁の発達/古生層と珊瑚礁/宮古諸島と八重山諸島
気候と生物ー気温/降水量と風速/季節風/ハブとマングース/亜熱帯性植物
沿革ー開闢伝説/内地との交通/支那との交渉/明治以後
生産ー概説
甘蔗糖/水産物/甘蔗/穀物/林産物/牧場/その他の生産物
薩南諸島ー大隅諸島/土噶喇諸島/大島諸島/島の産物/大島の気温
沖縄諸島ー沖縄島/国頭山岳地域/中頭、島尻丘陵地域/那覇首里の都会地域/人口の減少/属島/大東諸島/先島諸島/八重山群島/尖閣諸島
琉球婦人の黥ー伝説に現れた起原/古文書中の入墨/記事の有無/他島との比較/その宗教的意義
墓ー風葬の俗/古代と風葬/墓の発達/その中間物/板が門/近代式墳墓/その起原
グラヴィアー守礼門/首里附近の聚落状態/奥武山公園/首里附近の民家/野生の蘇鉄/沖縄県庁/沖縄測候所/測候所附近より那覇を望む/天水甕/ハブの毒素採集/ハブ捕り/ハブ/芭蕉の花の咲く頃/辨岳の御願所/識名園の泉水/首里城の正殿/亀甲形の墳墓/尚家の門/波上神社と石筍崖/真玉橋の風光/護国寺の仁王門/聖廟/護国寺境内/末吉神社/辨財天堂と観蓮橋/ベッテルハイム記念碑/識名園/琉球の刳舟/爬龍船競漕図/琉球の甘蔗畑/盆の甘蔗市/農家の製糖小屋/パナマ帽の制作  


蘇鉄林/パパイヤの樹/辻町の遊女/機を巻く首里の婦人/屋久の杉森/杉の巨木/大島の闘牛/シャリンパイ/大島名瀬港/大島紬工場/奄美大島の蘇鉄林/奄美大島の百合園/那覇港の入口/那覇港第一桟橋/先原崎の灯台/波上神社の石段/首里市内の民屋/那覇市全景/琉球美人
屋上の唐獅子/壺屋町/壺作り/泥藍の紺屋/藍の香高い琉球絣/泡盛製造所/諸味貯蔵場/豚肉販売所/甘蔗売の集り/独特の武術唐手/郷土スポーツ唐手/ズリ馬行列/歓会門/円覚寺本殿/龍潭池附近/円覚寺境内放生池橋/琉球の民家/那覇市附近の露店/那覇旧市街/崇元寺の門/那覇一の商店街/那覇辻遊廓/真玉橋の石橋/沖縄測候所/円覚寺の山門/熱帯植物榕樹/漁村糸満の浜/名物朱塗りの漆器/芭蕉の実り/萬歳舞踊/舞踊/婦人の黥/綱曳遊戯/湧田の旗頭/壮麗な旗頭/浜の賑ひ/野国総官の墓/久志村の山中にあった墓/久高島の墓/破風式の墓/亀の子式の墓/墓と死者の交会/墳墓のストリート/墓のにぎはい/玉陵/墓の平面図/壺屋産の霊置甕/英祖陵

守礼門がカラーで載っている。この本を1987年に安良城盛昭(大阪府立大学教授)氏が沖縄県立博物館に寄贈された。氏のものは父盛英が東京で教師をしていたとき購入したもので氏も愛読し親しんできたものであった。□1929年2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」






1930年8月 改造社『日本地理大系・九州篇 沖縄県』
目次
沖縄県扉「古地図」
沖縄県概説
ダブルトーン版ー筆架山より見たる那覇港 那覇市街/隆起珊瑚礁と波上神社/琉球焼製造所 那覇青物市場/おてんだの水取舟 崇元寺/金石文と真玉橋/守礼門 歓会門 首里城正殿/首里市 泡盛 首里三個/識名園 首里市/運天港 糸満 糸満町/パパヤ売 金武大川/七島藺の刈取 砂糖の製造 八重山鰹節製造所/久米島(新村 支那式の家屋 久米島の男女 久米島具志川村 仲村渠)/久米島(裾野の景観 紙の製造 豚小屋と豚肉市場 久米島紬)/琉球の墳墓/那覇市郊外の墓 国主より功臣に賜りたる御拝領の墓/田舎の墓 首里郊外貴族の墓/ヤツチのがま 石垣島より竹富島を望む屋我地ヲフルギの純林 甘蔗の栽培 ガジュマル/琉球の舞踊と演劇ー波平大主 萬歳一段 同二段 同三段 女笠踊 諸純節 二童敵討 同二 同三 同四/琉球の年中行事ー八重山の民族舞踊 祭式舞踊 那覇市の綱引行列
綜合解説

1930年8月5日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(1)凡そ神秘的な共産の久高島 島民総出で原始的な出迎 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月6日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(2)凡そ神秘的な共産の久高島 島の由来記と名所旧蹟 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月7日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(3)凡そ神秘的な共産の久高島 原始共産制の名残を観る 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月8日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(4)どこ探しても無い久高島の奇習 珍しい風葬と婦人の貞操試験 『グショウ』見物の巻」

 




1933年7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』

1934年4月17日『琉球新報』広告□那覇市東町 明視堂写真部ー佐和九郎『正則写真術』『密着と引伸』『現像の実際』『露出の秘訣』『整色写真の研究』『整色写真術』/三宅克巳『写真随筆 籠の中より』『写真のうつし方』『私の写真』『趣味の写真術』/高桑勝雄『フイルム写真術』『写真術五十講』『写真問答』/宇高久敬『写真の新技法』/霜田静志『写真の構図』/南實『原板の手入』/加藤直三郎『中級写真術』/石田喜一郎『プロモイル印画法』/小池晩人『山岳写真の研究』/金丸重嶺『新興写真の作り方』、金丸重嶺・鈴木八郎『商業写真術』/勝田康雄『人物写真のうつし方』/中島謙吉『芸術写真の知識』/吉川速男『写真術の第一歩』『小形カメラの第一歩』『図解写真術初歩』『私のライカ』『十六ミリの第一歩』/鈴木八郎『写真の失敗と其原因』『写真処方集』『整色写真のうつし方』『引伸の実際』/中戸川秀一『写真百科辞典』/寺岡徳二『印画修整の実際』/斎藤こう兒『撮影第一課』『引伸写真の作り方』『芸術写真の作り方』/額田敏『山岳写真のうつし方』/眞継不二夫『芸術写真作画の実際』『アマチュア写真の修整』/山崎悦三郎『修整の実際』/高山正隆『芸術写真入門』『ベストコダック写真術』/石動弘『小形活動フイルム現像法』

1934年5月5日『大阪朝日新聞 九州朝日』「外人の眼に映じた”ハブの國„ クルート女史の興味を晙る視察談」


1934年5月8日『琉球新報』?
4月、欧州経由でアメリカに帰途、来沖したミス・アン・クルート(大阪東淀川区ミード社会館)が新聞記者に「那覇の児童がスペイン語、英語を知っているのに驚いた、これは海外雄飛の諸産物で若い者がハワイ・ブラジルらに出稼ぎ、そこで生まれた子を故郷沖縄の学校に送り帰すためです」と答える。


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2017年4月3日~7月17日 高麗美術館「上田正昭と高麗美術館」 

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『日本のなかの朝鮮文化』朝鮮文化社(鄭 詔文)


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1973年3月ー『琉球の文化』第3号□広告に朝鮮文化社がある。
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1974年ー『東アジアの古代文化』大和書房/1966年3月ー鄭貴文『民族の歌』東方社
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1974年ー『東アジアの古代文化』大和書房

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上田正昭さんが沖縄に来られたとき写真に収まってもらった。ご本人の著書は1971年末からの付き合いである。


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2017年3月 末次智『世礼国男と沖縄学の時代ー琉球古典の探究者たち』森話社/1922年2月 世礼国男詩集『阿旦のかげ』曙光詩社

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末次 智資料(左に見えるのが世禮國男著作リスト)
SUETSUGU Satoshi
京都精華大学人文学部教授。 総合人文学科 日本・アジア文化コース 専門分野 琉球国文化 経歴・業績
立命館大学大学院文学研究科日本文学専攻博士後期課程単位取得。奄美・沖縄の文化、とくに琉球王国の文化専攻。著書に『琉球の王権と神話』、『琉球宮廷歌謡論』、論文に「Cocco論序説、あるいは、ウタの始まり」、「身体の楽譜」等。最近は、ヒトの「身体」と世界観に関心がある。

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1973年11月15日『講座 現代ジャーナリズム 第4巻 出版』時事通信社

1973年12月1日ー沖縄関係資料室主宰の西平守晴、久子御夫妻が世話人で、大阪梅田の東映会館中華料理店で友人たちを招き結婚祝をした。祝儀で本屋に寄って本書を購入、友人たちに記念の署名をしてもらった。


□ジャーナリズムに対する疑惑がひろがっている。ジャーナリズムはまた、いつか来た道を歩みはじめているのではないか。権力と癒着して、読者、視聴者である人民大衆をだます側に加担しはじめているのではないか。いや、もうとっくに、そうなってしまっている、手遅れだ、と断言する人もいる。国家権力の言論統制のしかたは、戦前とは比較にならぬほど巧妙になった。マスコミは権力の手中にまるみこまれて、身動きもできないほど、がんじがらめになっている。
憲法を尊重するといいながら、その憲法を空洞化して進められる再軍備。とめどもなく膨張する国防予算。国民生活と国土破壊の上に成り立つ日本列島改造。大企業、大資本本位の高度経済成長政策。そのなかに組み込まれて、ひたすら企業利益の追求に狂奔するマスコミ産業。そのかげで、ジャーナリズムの活力は、日ごとに衰弱し、枯渇してゆくかに見える。経済的繁栄のなかで、何が失われ、何が死にひんしているのか。権力におし流され、抵抗を忘れ、批判を棄てたジャーナリズムーそれはマスコミではあっても、ジャーナリズムではない。「講座・現代ジャーナリズム」編集委員会(代表・城戸又一)
以上の「刊行のことば」は今でも十分に新聞・雑誌で通用するから驚く。テレビが作った知事やら政治家(小泉劇場)が輩出(排出)している。例えば東京都知事「石原軍団」「たけし軍団」の候補者がテレビを利用し選挙活動を有利に導いている。大阪ではこれまたタレント知事が同じ手法で選挙を有利に展開している。テレビは電気を食う。節電のためテレビのスイッチは抜こう。今はネット社会である。ネット上ではテレビに対し無遠慮にも「マスゴミ」という。これらマスゴミが官僚と結託しアメリカ依存、原発依存の日本をつくった。ネットも電気を喰う。シャープの創業者やグーグルも承知し太陽光発電に力を入れていた。 (2013年8月記)



1973年10月『琉球の文化』第四号 福本泰男「きじむん・おそうれ・・・」

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1971年1月 新垣恒篤『新編風土記ー首里城(周辺)』花城清用〇多和田真淳「序文」/稲福盛武「祝 発刊について」
〇虎頭山ー西森から東に続く連峰を、虎頭山と呼称している。虎頭と云う名称は、古老の話に依れば、石虎山(東部)に有る大岩は虎の頭に似ているから、其の名が生まれたと云う事で、又虎峰とも呼称している。其の虎峰山の北方には石虎山天慶院が有ったらしい。古図には為仙とあるから隠居寺であったと思うのであります。私等(恒篤)は小学時代に毎年先生と共に、此の虎頭山に、西森に又は弁の嶽にと遠足したものである。其の当時は松の大木が繁茂して、到る処涼しい風がそよぎ、松の下で「カーサ弁当」を食べる事が、一番楽しみとしたものであります。又先生が昔の琉歌を説明した事を、記憶に思い起こす事が有りますから紹介しましょう。
琉歌(虎頭山)-1、虎頭、松やまぬ 松ぬ葉の数に かきて、願やびら 首里ぬう果報
        2、虎頭やま出ぢる 秋の夜のお月 曇り無ん御代の かがみさらみ
2の歌は、虎頭山は旧7月迄は御月様は、東の弁の嶽から十五夜に鏡の如く揚がるのであるが、旧の八月十五夜に揚がる御月は平和な、即ち曇りも無く、東の虎頭山の方から、鏡の如く拝まれるとの意なり


新垣恒政 大正六年1917 醫院 臺南醫院 醫官補
新垣恒政 大正七年1918 醫院 臺南醫院 醫官補
新垣恒政 大正八年1919 醫院 臺北醫院 醫官補→「台湾総督府職員録系統」


新垣恒政宛の手紙と、新垣恒政『医療宣撫行』東亜公論社 昭和15

新垣恒政 『南十字星』 東亜公論社 昭和17
新垣恒政 『海外発展と衛生問題 : 特に伯剌西爾の衛生に就て』 外務省通商局 昭和8→「Webcat Plus」