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Category: 04-書の森
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2017年4月3日~7月17日 高麗美術館「上田正昭と高麗美術館」 
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『日本のなかの朝鮮文化』朝鮮文化社(鄭 詔文)

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1973年3月ー『琉球の文化』第3号□広告に朝鮮文化社がある。
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上田正昭さんが沖縄に来られたとき写真に収まってもらった。ご本人の著書は1971年末からの付き合いである。


1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談  司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。

〇石垣島の石垣という以上、島主だった家なのかと思って、その家の中年婦人(末吉麦門冬の娘・石垣初枝)にきくと、「もとは大浜という姓だったそうです。何代か前に石垣と変えたときいています」ということだった。家の人の説明によると、「このお庭は、文政2(1819)年の作だということです。庭師は首里からきました。方式ですか、日本の枯山水です」ということだった。枯山水というのは池もなく遺水もなしに石組だけで山水を表現する作庭形式だが、滋賀県の園城寺金堂の庭園などを見ると、平安期からこの思想はあったらしい。しかし完成したのはよく知られるように室町期からで、この様式が江戸期に八重山諸島にまで及んでいたということは、不覚にも知らなかった。/ごく最近、古美術好きの私の友人(鄭 詔文)が、沖縄へ行った。かれは在日朝鮮人で、齢は五十すぎの、どういうときでも分別のぶあつさを感じさせる人物である。

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写真左/1999年5月11日沖縄ハーバービューホテルで神坂次郎氏(作家・熊野の生き字引で司馬遼太郎の文学仲間)、新城栄徳。末吉麦門冬の取材を終えての祝盃。撮影・末吉安允
写真右/1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談。
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1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄 ジャンプ・イン<沖縄>青春広場』六月社書房


1972年12月 沖縄の雑誌『青い海』19号 新里金福×関広延「対談 沖縄の可能性とは何か」
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□新城栄徳、新里金福と関広延対談をセットする。
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1972年ー新里金福氏書簡→新城栄徳宛
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資料「関広延」


1973年8月6日ー『沖縄タイムス』石原英夫「郷土史研究に没頭する新城栄徳さん」記事を書いてくれた沖縄タイムス関西支社の記者・石原英夫さん(右)と新城栄徳。この記事を見て、佛桑花の会(井伊文子会長。1972年に沖縄県の青少年育成を目的とした法人)事務局長の石川洋氏が京都駅近鉄名店街の私の職場「紅屋」に訪ねてきた。後日、一燈園に石川氏を訪ねて歓談した。

左が石川洋氏、新城榮徳
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「平山敏治郎」「井伊文子」


1975年6月 『沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック』財団法人沖縄国際海洋博覧会協会(版画は『儀間比呂志の版画 沖縄』講談社刊より)

1977年7月『青い海』65号 「大阪で二つの展覧会ー儀間比呂志版画自選展と大城一史・石田亮太郎二人展」「女人登場”世界の泡盛〟めざしてー照屋比呂子さん」
1977年9月『青い海』66号 「女人登場ー花織に想いを込めてー与那嶺貞さん」「沖縄女流美術家協会設立、会長・久場とよ、副会長」・山元文子、事務局長・宮良瑛子」

1977年10月『青い海』67号 「大阪の空にエイサーのリズムが響きわたるー第三回沖縄青年祭り。9月15日、尼埼市。18日、大正区千島グランドで山端立昌大阪沖縄連合会副会長挨拶、東京ゆうなの会、愛知沖縄青年会のあいさつ、彫刻家・金城実もあいさつ。見物の人も含めて約150人が参加」「儀間比呂志展、沖縄物産センターで開かる」 

1978年6月『青い海』74号 永峰真名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会ー」/儀間比呂志、安谷屋長也、金城順亮、浦添正光、島袋純子「<座談会>地域に根ざした児童文化を」

1978年10月『青い海』77号 「那覇市八汐荘ホール 賑わった出版祝賀会”鳥類館〟儀間、新川、川満3氏を展示して大騒ぎ」「パーランク高らかにー第四回沖縄青少年の祭り」


1978年10月1日ーエイサー会場で走りまわるフトシ君とコウ君

1978年11月『青い海』78号 儀間比呂志「沖縄の子・大和の子たちへー絵本で伝えたい沖縄のこころー」/永峰真名「メヒカーノスになった沖縄人」
1979年5月『青い海』83号 「帰郷中の版画家・儀間比呂志氏の呼びかけで、4月の末に宮城美能留氏の宮城舞踊研究所(那覇・松尾)で、琉舞を鑑賞し、懇談する集いが開かれました」

1979年11月『青い海』88号 儀間比呂志「戦がやってきた」(沖縄三越ー沖縄戦版画集出版記念展)

1980年4月『青い海』92号 「新鮮なイメージ再びー儀間比呂志版画小品展ー3月27日から沖縄物産センター」「文化アラカルト/沖縄物産センター開設十周年」 
1980年6月『青い海』94号 「沖縄問題研究センター(上江洲久理事長)設立総会/宮本憲一大阪市大教授が記念特別公演『基地がある限り、自治はない』と語り、財政学の立場から、沖縄の現状を分析しました。」

1980年7月『青い海』95号 儀間比呂志/徳田澰/大湾雅常「第二回青い海児童文学大賞ー選考を終えて」
1980年10月『青い海』97号 宮良瑛子「ぎゃらりーの言葉」

1986年4月 『小説推理』津野創一「響け!パーランクー」

1986年の津野さんの年賀状/1981年3月の山城『青い海』社長の「大阪支社移転あいさつ」

1993年「エイサー」/1978年7月 『七がつエイサー』福音館書店
2004年9月12日 大正区千島公園グランド「第30回記念エイサー祭り」


○版画ー儀間比呂志 2014年9月14日(日) 大正区千島公園グランド「第40回エイサー祭り」問合せ・関西沖縄文庫☏FAXー06-6552-6709


1975年12月『図書』岩波書店 儀間比呂志「私の絵本」


1980年8月『沖縄民権』第14号 儀間比呂志「表紙・皇軍は勇戦した」
1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)□古波津英興「方言使用スパイ処分文書」
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古波津英興氏と新城栄徳


2001年4月 『民権の火よ永遠にー小波津英興追悼集』沖縄民権の会


1980年9月『青い海』96号「儀間版画を一堂に集めてー儀間比呂志・版の世界展」「沖縄県大阪事務所で第一回沖縄観光フェアー大城一史『沖縄風景画展』も開催」/大城一史作品を背景に新城さやか(現在41歳)

1980年の『沖縄商工名鑑』は沖縄興信所の発行である。「本土在住沖縄県人有志名簿」のところの沖縄県大阪事務所の広告に、前田朝助所長、當間成一次長の名前が見える。前田さんは1924年の大宜味生まれ、當間さんは1937年の豊見城生まれと、名鑑にある。また発行人の田中久雄のところには田中町子(1917年の宮古生まれ)、夫久雄(本書著者)とある。名鑑の序文に「名鑑は昭和26年8月に沖縄興信所の調査資料を基礎に第1版を発行以来、28版を迎えることになりま愛した」とあり、また「永年の高血圧で入院し本書の出版も遅くなりました」とする田中久雄の挨拶がある。
 発行人が尼崎在住なので関西の県人広告が多い。昭和食品(安里嗣福)、宮城清市、山端立昌、大都設備工業(名嘉正成)、上進商会(上間平進)、屋良運送(屋良朝光)、丸一食品(仲間宗一)、琉球銀行大阪支店(山里正雄)、沖縄銀行大阪支店(嘉陽宗清)、有村産業大阪支店、諸喜田精肉店(諸喜田太栄)などがある。沖縄県大阪事務所は前田所長、當間次長のとき島根県ビルから大阪駅前第3ビルに移転してきた。1980年であった。同年3月発行の『青い海』は特集「ドギュメント琉球大学」で広告に県事務所から當間次長(第8期)、武島第二課長(第7期)がある。

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前列左から當間次長、前田所長、兵庫県人会婦人部ー大城一史の作品を背景にして/1980年8月、沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、黒メガネが大城一史氏

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Posted by: ryubun02
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写真の『青い海』は沖縄県立図書館所蔵/私のは合本しているので表紙は広げられない。


 1971年2月、大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅したオヤジさん(西平守晴)から「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集員は儀間比呂志さんの紹介で万木恵美子さんがいた。津野編集長は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。
 1971年5月、沖縄の雑誌『青い海』2号に「あるグループ 沖青友の会(大阪)」が紹介されている。末尾に、大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。と結んでいる。当時、関西には、京都の都沖青、港区の沖青友の会、大正区のサークル南風、枚方市の守礼の会、尼埼の三和同郷青友会があった。それらと連絡雑誌を作ろうと沖青友の会が動きはじめた最中であったから、『青い海』創刊は渡りに船であった。
 西平のオヤジさんを紹介してほしいと、京都長岡天神でミニコミ紙「琉球弧」を出していた高良重一氏が沖縄から来た友人・小渡照生氏を同行してきた。大阪港区の池島保育園(西平夫人が園長。近鉄の野茂英雄投手も同園出身)の管理人室でオヤジさんを交えて話を聞いた。小渡氏は、大阪で図書館関係の仕事をしたいということだった。私は早速、沖縄の雑誌『青い海』が編集者を募集しているが、それをしながら図書館の仕事を見つけたらどうかと提案した。いつの間にか小渡氏も『青い海』の編集デスクに納まり、高良氏も『青い海』に協力し、東京支社長もつとめた。私も仕事(調理師)の合間に週に2回は『青い海』編集室でゴロゴロするようになった。

『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)「表紙のことば」
 
青い海文芸/祖慶美佐江「母校のナンキンハゼ」、宮城清子「短歌」、平良寿美子「青春て何だ」、宮城敏夫「生きる、大城悦子「ささやかでも尊い想い出」」(何れも『石の声』転載)
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右・1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』の『青い海』紹介。
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1983年7月6日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/『青い海』創刊の頃」/1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」
1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」
○ぼくの、風変わりな友人の一人である新城栄徳君が、例によってひょっこりやってきて「これ、あげます」と言って、一冊の雑誌を置いてひょう然と帰って行った。ザラ紙の、30ペ-ジほどの冊子「おきなわ」創刊号である。昭和25年4月の発行だから、24年ほども前の、紙の事情もまだわるいころのものだ。発行所が東京になっていて、広告が、当時の在京県人の経済活動を問わず語りに語る。
巻頭言には、講和前の沖縄の帰属問題を憂う在京県人の気持ちをうつして「その時が、来るまで、県人の心の立ち直りに資する」ために発行した、とはっこうの趣旨がうたってある。その時は、翌年9月にやってきて、対日平和条約は沖縄を日本から切り離すことを明文化して調印された。残念ながら、その時の周辺の「おきなわ」は手元にない。しかし、おそらくは在京県人を中心として、郷土沖縄をうれう声が全ページに盛られているだろう、と想像する。
数日後、再びひょっこりやってきた新城君は、「おきなわ」が30号ほど続いたこと、したがって「青い海」が沖縄の月刊誌としてやっとのことで最長不倒記録?をつくったことを伝えて、ひょう然と帰っていった。ぼくたちが、ささやかな月刊雑誌の発行を思いたったのが70年の暮れだった。以来、いくつかの危機と分裂と業務不振などの曲折を経て、いま沖縄の郷土月刊誌「青い海」は8月号で35号を数える。「その時」にそなえたものではなかったが、復帰というその時を境に、編集の方向も少しずつ変わっている。「こころの立ち直りに資する」ほどの自信はないけれども、沖縄をともに語らい続けようというのが、発行人の山城賢孝とぼくと、スタッフの心意気である。
「それにしても、24年前に『おきなわ』をつくった先輩たちを、何ほどものりこえてはいませんね」。ひょっこりやって来た新城君のひょう然と帰る前の捨てゼリフである。ナイーブなぼくは、著しく傷つき、そのことばの鉄ついにうちひしがれて、気恥ずかしさから、沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る”いちむどぅやー人生”に埋没する。新城君はぼくの友人である。新城君は「ぼくは『青い海』の友人」なのだ、という。
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雑誌『おきなわ』

1997年8月ー『敍説』新城栄徳「雑誌『おきなわ』総目次」



1981年8月 『創刊10周年 青い海文化まつり』淀川長治「十年を迎えられて」/西町の「青い海」編集室





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Posted by: ryubun02

1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 そこに語りこめられたふるさとびとたちの生々しい体験と、記憶の奥ではげしく燃えつづけている戦争への憎しみの思念には、強く胸をうたれました。そこを出発点に、わたしの”沖縄戦〟への歩みは始まったのです。このとき、沖縄では戦没者の三十三回忌の法要が行われました。わたしは、戦記を読み、証言に耳をかたむけました。戦跡にもなんべんとなく足をはこび、ガマ(住民が避難した自然洞窟)にも入って、当時の人たちの凄絶なイメージを、わがものにしました。作画にあたっては、友軍とよばれた日本兵の、住民への残虐行為、ウジ虫を涌かした負傷者、集団自殺、腐乱死体の山など、酸鼻だからといって避けて通るようなことはしませんでした。それが沖縄戦の実相だからです。わたしは祈りをこめて版を彫り、バレンを押しました。
 こうして今ここに、二十五点の大版の木版画が完成したのです。この仕事はライフワークとして、つづけていくつもりですが、一区切りついたところで公にし、きびしいご批判を賜りながら、内容のより充実をはかっていきたいと思います。
 本に編むことにつきましては、畏友中山良彦氏に解説をお願いして共著として出版することにしました。各作品に付された氏の文章は、平易だが重厚な内容をそなえ、すぐれた平和論として、読者に感銘をあたえずにはおかないでしょう。
 表題の「戦がやってきた」は、わたしが証言者のことばから借用しました。これは、このシリーズの創作上の基本姿勢が、住民視点にあることをずばりと、いいあらわしているように思ったからです。
 さて、この戦争版画集。沖縄の生き証人たちが、どう受けとめて下さるか、大いに気になるところです。とくに、あのお婆さんの目がこわい・・・・・。 1979年9月

「もうたくさんだ」(部分)

1995年8月 儀間比呂志『沖縄戦 朝鮮人軍夫と従軍慰安婦』清風堂書店ー□船越義彰「喜屋武岬海岸」、□儀間比呂志ー私の沖縄戦版画〇実際、戦争の本当の犠牲者は、子どもたちではないだろうか。私たちは、あの状況のなかで、戦争に反対することはできなかった。その結果、ずるずると、破滅にのめりこんだ。そして、多くの子どもたちを不幸な目に逢わせた。言うなれば、当時の大人一般は、等しく戦犯であろう。「あの時は・・・・・・」の言いわけはすまい。しかし黙するわけにはいかない。やることは、再びあの愚をくりかえさない努力をすることではないだろうか。沖縄県民が体験した「いくさは、ならんどォ」の執念には、人間にとって根源的な人類の「共存」という命題がこめられている。あとがき〇作家の船越義彰氏が寄せられた自らの体験記は、沖縄戦について、私の言いたらない面を補って余りあるものがある。感謝の意を」表したい。なお、取材の面では、山内栄氏に大変お世話になった。あわせて、本書の刊行を心よく引き受けて下さった清風堂の面屋龍延社長にも心からお礼を申しのべたい。
   
2917年7月『沖縄9条連たより』山内榮「六-二三と八・一五のはざまでー戦後七二年・憲法施行七〇年の年に考える」/儀間比呂志「むんじゅる笠」(新城栄徳 所蔵)


『詩画集 琉球愛歌』右の儀間作品は1981年4月 野ざらし延男『沖縄俳句総集』にも使われている。

2009年9月 儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』ハイウェーブ〇新川明(沖縄タイムス社社長)(前略)儀間版画には土俗的な祭りや風物を描く風土記的な世界と米軍基地や沖縄戦を告発する社会派的世界があるが、一貫しているのは沖縄=琉球に向ける深い愛のまなざしであり、権力の不条理に対する怒りと抵抗の意志である。それはつまるところ人間性の追求に立脚するものだが、こうした儀間版画の世界に<MON8>が発する詩句のエッセンスが対置されるとき、両者の魂のメッセージは共鳴し、増幅されて新しい世界が創り出されることに驚嘆せざるを得ないのである。まさに世代を超えて響き合う、沖縄発の人間賛歌がここに誕生していることを確認できるからである。〇儀間崇ー僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・

1989年3月 儀間比呂志『新版画風土記 沖縄』海風社



1989年3月 儀間比呂志『新版画風土記 沖縄』海風社ー国際通り、自画像/与儀公園の山之口貘詩碑/斎場御嶽ー一度はお詣りしたかった場所だ。案内してくれたのは舞踊家の佐藤太圭子さんと、詩人の高良勉夫妻。

1997年12月 佐藤太圭子『華の舞ごころ 琉球舞踊に生きて』沖縄タイムス社/写真・大城弘明

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 儀間さんとは、いつのまにか沖縄での空間を共有することが増えていた。が、親族の話は聞いたことが無い。亡くなられた後に、那覇小学校の同級生(儀間さんの姪)に聞いた。儀間さんは長男、妹二人、弟二人の家族で父は沖縄戦で亡くなった。2009年9月発行の儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』に儀間崇が、僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・、とあるように先祖は久米村の蔡氏と分かる。



 新城栄徳ら京都沖縄青年グループ(都沖青)、京都三条河原町「守禮」に連絡所を置く / 京都河原町三条にあった琉球料理「守禮」/私達の「都沖青」の連絡所であった。 名簿も作ってもらった。




 沖縄県護国神社の鳥居には右翼団体・日本民主同志会/松本明重とある。かつて平良盛吉『関西沖縄開発史 : 第二郷土をひらく 』1971を援助し日本民主同志会本部名で発行していた。松本は世界救世教外事対策委員長、祇園すえひろ会長だが、沖縄に関わり、「京都の塔」「小桜の塔」などに碑を建てている。松本は東本願寺紛争にも名が出てくる。相対する西本願寺、第22世門主の大谷光瑞は、戦前の沖縄新聞に、「光瑞来沖か」と云う記事を見たことがあるが、結局来なかったようである。その代わりというか弟の大谷尊由が1918年2月に来沖し相当に歓迎されたようである。光瑞と同じく宗教界の怪物と知られる人物に大本の出口王仁三郎が居る。 
 
1971年末、京都丸太町の古書店で『立替え立直し』を買った。梅棹忠夫・上田正昭の対談「出口王仁三郎における変革の思想」が載っていた。発行は亀岡の大本本部天恩郷で、ちょうどそこには沖縄から金城ひろこさんが奉仕活動に来ていることを大城敬人氏の紹介で訪ねた。都沖青の沖縄青年運動の一環で亀岡の渡文や大本亀岡本部はよく訪ねた。本部から離れたところに王仁三郎の生地瑞泉郷がある。大本本部の大本資料室で王仁三郎来沖(1927年12月)のときの資料などを読み、王仁三郎扮する七福神や神々の写真パネル、王仁三郎手作りの楽焼の茶碗も見た。茶道、八雲琴の演奏も聴いた。



近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 /右ー寮は南区

寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅

コザ騒動ーその日の前後、私は京都鳴滝にある沖縄学生たち(同志社大・立命館大)の借家のひとつ、山口さんの部屋に居た。沖縄から帰ったばかりの山口さんの婚約者が興奮さめやらぬ口振で語る「コザ騒動」の話を学生たちと聞いていた。



1960年4月 村松寛『美術館散歩』「日本工芸館」河原書店

 松本明重、この人とダブって思い出すのが、「元祖スエヒロ」という「しゃぶしゃぶ」の店を経営している大阪日本工芸館長の三宅忠一である。館長は金光教本部のある岡山県玉島出身で、館長もその信仰に篤い。この人も沖縄民芸振興などに力を入れていた。私は難波の日本工芸館はよく行くところで、ここで三宅館長と親しく熱心に会話する儀間さんを見た。このときは儀間さんも館長も面識はないので挨拶はしなかった。1973年、通産省が企画した第一回沖縄民芸振興展を日本民芸協団(三宅忠一理事長)の主催で東京、大阪、福岡で開催した。74年の第二回展の小冊子の表紙は儀間さんの版画「赤瓦の屋根の下で織物をしている女性」で、「表紙のことば」としてその解説も載っている。75年「紅型染色の城間栄喜父子」、76年「沖縄ガラス」、77年「琉球玩具」、78年「シーサー」も同様である。

沖縄展(那覇市民会館中ホール)のチラシ


1982年6月 上江洲久『ここに榕樹あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史』儀間比呂志「扉及び見返し版画」

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Posted by: ryubun02
 「くろねこの短語」8月 22日-(前略)ところで、民進党の代表選なんだが、湯上りの口先番長・前原君と二枚舌の猪八戒・枝野君が記者会見をして、それぞれの政策らしきものを開陳した。やっぱり、湯上りの口先番長はダメだな。「政権選択の衆院選で理念や政策が合わないところと協力するのはおかしい」
「野党四党が協力してきた重みは受け止めながら、この是非についても見直したい」「次期衆院選で、全選挙区に候補者を擁立するのを原則にしたい」「安倍政権の下での憲法改正に反対するのは、国民の理解の理解を得られない」猿でも反省する時代に、まだこんなこと言ってるんだもん、呆れちゃいますよ、ったく。「日本ファースト」との連携にも前向きのようで、だったらモナ細野と一緒に民進党出ていきゃいいのに。それで民進党が割れたとしても、その方が民進党の立ち位置が鮮明になって「反安倍」の声を吸収できるんじゃないのかねえ


 『産経新聞』20日が「しんぶん赤旗」日曜版を逆宣伝ー共産党は「辺野古移設反対」と「翁長雄志(おなが・たけし)知事支持」を叫ぶ「オール沖縄」勢力の中核をなし、琉球新報と沖縄タイムスは同勢力の応援団となっている。3者は、来年2月の名護市長選や来秋の知事選での「勝利」に向けて軌を一にしており、今回の記事で「不屈の結束」が示された形だ。

 「くろねこの短語」8月 20日-(前略)「バイオ施設」がどうたらこうたらよりも、パーティルームのネタはワイドショー的には美味しいですからね。加計学園が教育理念からどれだけ乖離した組織であるか、これだけで一目瞭然ですから。獣医学部完成の暁には、日刊ゲンダイが書くように、ここから今治市外を見下ろしつつ、「腹心の友」であるペテン総理と乾杯するつもりだったんじゃないのかねえ。こんなんだもの、文科相が認可を渋ったわけだ。岩盤規制打破とは、国家戦略特区に巣食ったペテン総理と不愉快な仲間たちの利権確保のための口実ってことを、文科相は肌で感じていたのかもしれない。だからこその前川前事務次官の告発だったのかも。いずれにしても、こんな美味しいネタを野党が食い損なうようだと、森友と加計の両疑獄はこのまま闇に葬られることになりますよ。

【立憲フォーラム通信:791】 2017年8月19日ー旧山古志村長で自民党の長島忠美衆議院議員が亡くなりました。死去に伴い10月22日に新潟5区で補欠選挙が行われる予定で、青森4区と愛媛3区と合わせ三選挙区での補選となります。これを勝ち抜くには野党候補者の一本化が不可欠ですが、民進党代表選に出る前原元外相は共産との選挙協力を「見直す」と発言。このリアリティの無さには言葉がありません。米では影の大統領とまで一時言われたバノン首席戦略官が解任されました。政権混乱を受け日米の株価が急落しています。『毎日』の黒田日銀総裁の居直りインタビューも注目。
 
猛暑の続く沖縄で、自分たちは警備車や装甲車のクーラーで休みながら反対する市民には日よけさえも認めない?2+2ではにこやかに、新基地基地建設を強行推進を確認、民間空港の使用がなければ普天間返還はありえないその上、北朝鮮攻撃には日米安保の適用で戦闘準備?
アメリカでは軍事企業の株が値上がり、戦争景気への期待北朝鮮は、トランプ、あべ にとっては、危機感を煽り、支持率低下を防ぐ、利用価値のある存在だから、すぐにはつぶさないアメリカの軍事戦略にとって実に好都合で、これからもとっておきたい、ありがたい存在なのだろう(T)

 「くろねこの短語」8月 18日-(日米2プラス2で日米軍事同盟強化合意。自衛隊がアメリカの戦争に駆り出されるのも時間の問題か!?&「共産党との協力は難しい」「改憲議論に応じる」「小池新党との連携視野に」(前原誠司)。バカじゃねぇ?
 網タイツの防衛大臣では話にならないってんで延期になっていた日米2プラス2が、バソナ小野寺君が防衛大臣に就いたことでようやく開催。リベラル装いつつ本性はペテン総理のお仲間である外務大臣のごまめの歯ぎしり・河野君共々、会議のテーブルに付きましたとさ。
 でもって、何をするかと思ってたら、「北朝鮮の脅威に断固とした姿勢で臨む」そうだ。そのために、迎撃ミサイル「SM3」を地上配備する「イージス・ショア」を導入するってさ。一基のお値段は約800億円。日米同盟を強化するってことは、とりもなおさず日本の税金がアメリカにむしり取られるってことなんだね。さらに、「普天間飛行場の移転は、辺野古の新基地建設が唯一の解決策」ってことも改めて確認したっていうから、ますます「アメリカのポチ」ぶりに磨きがかかったってことだ。

1982/10/15 前田寿夫『軍拡!日本の破滅 恐るべきアメリカの戦略との決別』文化創作出版②

 押しつけられた日米安保ーもともと日米安保条約などという代物は、米国が”戦勝国の権利〝をカサに着て、いやがる日本にむりやり押しつけたもの。サンフランシスコ講和条約会議(1951年)当時、”独立回復〝とセットにして、こっちを認めなければあっちも認めないと、独立回復を待ち望む日本に強制したのが、日米安保条約であります。米側が日本国民の反対を恐れて、講和会議の直前まで日本側に条約草案をみせなかったこと。条約草案を突きつけられたとき、当時の政府首脳が、”これでは占領の継続じゃないか〝と大きなショックをうけたこと。これらは、いずれも周知の事実であります。いわば、日本国民の関心をもっぱら講和条約それ自体に向けさせて、そのドサクサにまぎれて日本政府に押しつけたわけです。

 旧安保条約の前文には、いかにもわが国の方から頼み込んでこの条約を結んだようなことが書かれていますが、とんでもありません。米国は、これによって、講和条約発効後も、ひきつづき米・占領軍を無期限に日本に居座らせることができるしどのようにでも日本の基地を利用することができる。しかも、”日本国政府の要請に応じて〝という条件つきながら、米軍を、”日本国の内乱や騒じょう〝の鎮圧に使用することもできる。また、日本に”自衛力漸増〝の責任を負わせ、うまくいけば米戦略の一翼をになわせることもできる。そのうえ、条約に付随する行政協定によって、米軍の駐留費を分担させられるわ、その将兵に治外法権を認めさせられるわ。これが旧安保条約の内容であります。誰がこんな条約を結びたいなどと頼み込むものですか。

前田寿夫 まえだ-ひさお
1919- 昭和後期-平成時代の軍事評論家。
大正8年12月8日生まれ。もと陸軍中尉。東海大助教授をつとめたのち防衛庁の防衛研修所(現防衛研究所)にはいり,昭和48年第一研究室長。安全保障政策を担当し,55年退職。在職当時の講義内容をまとめた著書「間違いだらけの防衛増強論」で知られる。栃木県出身。東京商大(現一橋大)卒。 →コトバンク

 『日刊ゲンダイ』8月18日ー15日夕方、山梨県鳴沢村の別荘に着いた安倍首相が向かったのは、近所にある笹川陽平日本財団会長の別荘だった。そこで森元首相、小泉元首相、麻生副総理らと3時間以上にわたって会食した。(略)安倍首相が今秋の解散に踏み切れば、加計学園のためということになる。そんな党の私物化を自民党は本当に許すのか。

【立憲フォーラム通信:789】 (2017年8月17日)-トランプの発言が大問題となっています。「人種差別は悪だ」と白人至上主義を批判した翌日に「両者に非」と差別を容認する発言を行ったためです。トランプ政権から離反する企業が続出しスポーツ界も非難の声を強め、サッカー女子米国代表のアレックス・モーガン選手は「この国に多くの良い人がいるが彼は違う。吐き気を覚える」とツィート。ブッシュ親子も批判的で、オバマ前大統領が故マンデラ氏の「生まれたときから肌の色や出自、信仰の違いを理由に他人を憎む人などいない」との言葉を引いたツィートは史上最多の「いいね」が。極右車の暴走で死亡した女性の母親は追悼式で「娘の声、むしろ大きくなった」と語りました。その米国へ糸数慶子参院議員らオール沖縄会議訪米団が基地の要請で出発しました。

 「くろねこの短語」8月 17日-(前略)若者を対象にしたNHKの世論調査で、「いま、日本が他の国から侵略を受けて戦うことになったら、あなたはどうしますか」という質問に対して、「自衛隊に参加して戦う」と回答した人数は全体の3%にしか過ぎなかったとか。「ヒゲの隊長」のようにやたら勇ましいこと言うくせに、やってることはそこらの陣笠議員の域を出ない政治家シェンシェイの姿から、「こいつらの言うこと聞いてたらヤバイ」って本能的に察知している結果なのかもね。日報隠蔽問題における自衛隊幹部連中のヘタレ具合だって影響してるんじゃないのかねえ。それはともかく、PAC3は北朝鮮のミサイルに何の役にも立たないってことを、なんで新聞・TVは声を大にして言わないんだろう。そのくせ、ミサイル避難訓練なんて阿呆らしいことをニュースで垂れ流すんだから、大本営発表の時代から、メディアもまた何も学習していないってことなんだね・・・だめだ、こりゃ!

 「くろねこの短語」8月 16日-(前略)戦没者追悼式におけるペテン総理の式辞だ。天皇が「深い反省」を語ったその前で、「平和」だとか「謙虚」だとか空々しい言葉を羅列したあげくに、アジアへの「加害の責任」はまったく無視。そのくせ、「希望に満ちた明るい未来を切り開いていく」なんて空疎な言葉をいけしゃあしゃあと口にする始末だ。北朝鮮のミサイルがどうしたこうしたって世界中がピリピリしているってのに、よくもまあ、ってなもんです。でもって、敗戦の日の昨日の夜は、日本財団会長の別荘で、当主の笹川陽平に森、小泉、麻生、茂木、西村、萩生田、さらにフジテレビ相談役の日枝を加えて会食。笹川の別荘でってところがミソで、果たしてその意味するものは・・・?

 「くろねこの短語」8月 14日-(前略)確かに、ウーマン村本大輔 、田原総一朗氏の国防論に反論「戦争に行かない年寄りに言われてもなあ」ってのはその通り。「年寄り」を「政治家」や「官僚」に言い換えることもできる。「国を守る」とか「愛国心」がどうたらこうたらいう奴に限って、戦争に行くこともなく安全な場所で勇ましいこと言ってるるだけですから。それにしても、「国民には国を守る義務がある」とは、田原総一朗の正体見たりだね。「国民が国を守る」んじゃなくて「国が国民を守る」ものだろう。
 そんなことより、加計学園疑獄だ。認可もされていないってのに獣医学部建設が着々と進んでいる んだが、その建設費に水増し疑惑があるんじゃないかという噂はこれまでもあった。つまり、水増し請求して、補助金をガッポリいただこうという、森友学園と同じ補助金詐欺って構図だ。でもって、ここにきて、獣医学部棟の設計図が流出。それを建築専門家が分析したところ、「坪80万円、高くても100万円」という結果になったそうだ。ところがどっこい。加計学園の見積りでは「坪単価は約150万円」というベラボーな額になっていたというからただごとじゃない。坪単価をエンピツなめなめしたんじゃないかと言われてはいたものの、設計図が流出したことで、それが事実だったことが判明したってことだ。

 「くろねこの短語」8月 13日-(前略)それはともかく、アメリカのレイシストと北の独裁者が感情にまかせた言葉のどつきあいを繰り広げ、いまにも出入りになろうとしているのに、日本のペテン師は地元に戻って盆踊り。この能天気ぶりから、絶妙のタイミングで北朝鮮のミサイルが飛んでくる理由がうっすらと見えてこようというものだ。ところで、顔も頭も貧相な官房長官・菅君が東京新聞の望月記者に攻め立てられて、とうとう記者会見で壊れちゃったのは記憶に新しいところだが、ぼったくりバーのチーママ・小池君も、このごろ少し変よ、どうしたのかな・・・って山口君のツトム君しゃないんだから困ったことなのだ。何が変て、豊洲新市場の移転問題で記者から政策判断の基準を問われたチーママは、なんと「それはAIだからです。最後の決めはどうかというと、人工知能です。人工知能というのは、つまり政策決定者である私が決めたということでございます」だとさ。

 『沖縄タイムス』8月13日ー(前略)オーストラリア沖に墜落したオスプレイの飛行再開を日本政府が認めたことには、「日本には米国から『独立は神話である』と言われているのではと思うくらい、自己決定権がない」と容認した日本政府を批判。日本の国土面積の0・6%の沖縄に全国の米軍専用施設の約70%が集中する現状を「耐えられない」と語り、14日に来県して会談する予定の小野寺五典防衛相へ抗議する考えを示した。

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Category: 03-所感
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2017年8月10日 ひより首里城見物/左の「中山世土」は清朝第4代皇帝康熙帝の扁額(復元)。「中山は代々、琉球国王の国である」と書かれている。


2017年8月8日 沖縄県立博物館・美術館『水族館でも出会えない!海のビックリ生物展』入場者1万人達成
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2017年8月8日~13日 那覇市民ギャラリー「翁長盛武写真展ー『海人の島』ー」/翁長盛武氏(右),古堅希亜氏


2014年7月22日~27日 那覇市民ギャラリー「第50回 写真展  ニッコールクラブ沖縄支部」 翁長盛武氏と作品「アギャー」

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Category: 04-書の森
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1957年6月9日『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯ー郷里の体臭ただよう ミナト神戸に沖縄通いの船」/1957年10月27日「商都に生きる(2)儀間比呂志ー商都のボヘミアン 画面に”生きるうた〟を」


1959年2月13日『琉球新報』「帰省した沖縄青少年勤労者後援会代表の幸地長堅氏」


1959年3月『琉球新報』写真と文・石野朝季、スケッチ・儀間比呂志「大阪と那覇 あまくま」


1月23日ー■沖縄人民党中央機関紙『人民』創刊号
        3月6日  『人民』「発刊記念祝賀会ー満員の那覇劇場」 
   
1963年
      
7月15日『人民』 「核戦争をひき起こす原子力潜水艦 みんなで力を合わせ反対しよう」
1967年1月1日「『人民』「わらび座で勉強中の瀬長千尋さんの便り」
      1月14日 『人民』「宮里政秋「入党のころー南灯寮で民謡サークル結成」
      6月17日 『人民』 「瀬長千尋「わらび座に学んで」①
      7月8日  『人民』 「神山孝標「党史を語る」(1) 

      7月15日 『人民』「沖縄で生まれた解放の闘士ー井之口政雄」
      9月9日 『人民』「基地経済の実態ーその内幕をのぞく 米兵相手に売春」(1) 
      
      1967年11月 『物語青年運動史ー戦前編ー』日本青年出版社

1968年
      6月22日『人民』 瀬長亀次郎「12年ぶりの本土ー売国奴 吉田茂を英雄に、国葬に怒り」
      11月9日 『人民』瀬長千尋「父の当選をねがって」


1969年4月 『文化評論』№91<特集・沖縄の歴史・教育・文化>安仁屋政昭「沖縄の近代をささえた人びと」/1970年11月 『文化評論』№110<特集・日本文化における沖縄> 新里恵二「沖縄学の伝統と展望」
     12月28日 『人民』瀬長千尋「1968-文化運動の成果」

1970年1月1日『人民』 伊波広定「わが映画物語」(1)
      4月4日 『人民』「渡嘉敷島自決の責任者 赤松の来県」
5月2日 『人民』「タクシー乗っ取りにやっきになる右翼『東声会』ー公共企業であるタクシーが行動右翼『東声会』(宜保俊夫支部長)の手につぎつぎ渡るという事態がおき問題になっています。・・・」「謀略基地をあばくー4-」      

8月8日 『人民』「東京都の美濃部亮吉①知事は7月29日来沖、4日間にわたって沖縄各地を視察し8月1日帰京ー基地・公害で多くの示唆」
①美濃部亮吉 【みのべ りょうきち】1904〜1984(明治37年〜昭和59年)【政治家】「都政の主人は都民」。 美濃部スマイルで親しまれた、革新都知事。昭和期の経済学者・政治家。東京都出身。父は天皇機関説で知られる美濃辺達吉派。東大卒。1932年法政大学教授となるが、1938年人民戦線事件で解雇。第二次大戦後は、東京教育大学教授から統計委員会事務局長などを務めた。1967年(昭和42)東京都知事に当選、以後住民との対話路線と高福祉政策で革新都政を3期12年務めた。1980年衆議院議(コトバンク)   

1970年
9月ー『国政参加選挙の争点と沖縄人民党の四大基本政策』
□重大な意義をもつ国政参加選挙/沖縄県の無条件全面返還のために-核も毒ガスも基地もない沖縄を/平和で豊かな沖縄の復興と民主的な県づくりのために-基地も公害もない豊かな経済復興を/国政にたいする人民党の態度と政策ー独立、民主、平和、中立の日本を実現するために/新米・反動の自由民主党をうちやぶり、人民党をはじめとする祖国復帰統一戦線勢力の勝利をかちとるために 

1970年ー沖縄人民党中央委員会『沖縄人民党二十三年のあゆみー1947~1970』
12月26日『人民』 瀬長千尋「70年の文化運動をふりかえって」   

1971年1月1日 『人民』小渡清孝「随想ー伊良部の心」/「金武湾を守る婦人たち」
     1月9日『人民』 「米軍演習阻止に決起する国頭村民」
      1月16日『人民』「毒ガス移送ー不安と恐怖になかで」/「反復帰の迷走ー新沖縄文学の特集にみる」
      1月23日『人民』「敗北の思想『反復帰論』」
      1月30日『人民』徳吉裕「前原穂積『戦後沖縄の労働運動』を読んで」
      2月6日『人民』 仲松庸全「公害調査旅行を終って」/「新里恵二『沖縄史を考える』」
      2月13日『人民』「政党否定と『反復帰論』」
      4月17日『人民』「軍事占領支配下26年 沖縄の請求書 その1」「米軍”特殊基地”の実            態」/「『四月の炎』創刊を祝す」
      5月1日 『人民』宮城倉啓「ストでかちとった労働三法」
      5月8日 『人民』松村拳「沖縄の放送ーフジ系『沖縄TV』の開局」④
      5月22日 『人民』「沖縄の放送 言論統制しくむOHKの設立」
      6月5日 『人民』 外間政彰「歴史民俗資料展の成果ー那覇市民の力の結実」
      6月19日 『人民』伊波広定「新里惠二氏に聞く」
      7月10日 『人民』「沖縄防衛とりきめによる自衛隊配備計画ー自衛隊はくるな、高まり広がる             反対運動」
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1970年9月 瀬長亀次郎『沖縄人民党ー闘いの二十五年』新日本出版社(装幀・儀間比呂志)/8月7日  『人民』儀間比呂志「沖縄を描くー絵画を語る」
     
 8月14日『人民』 仲地哲夫「伊波普猷から何を学ぶか」、宮里栄輝「図書館時代の伊波先生」、伊波冬子「夫・伊波普猷の思い出」、山田義時「伊波先生25年忌について」 
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1971年9月『文化評論』№121<特集・沖縄論の思想>仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」、西里喜行「近代沖縄の課題と差別問題」、安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」、津田孝「沖縄問題と現代の作家」、嶋津与志「沖縄協定調印前後」/写真・左から来間泰男氏、伊波広定氏、謝名元慶福氏、新城栄徳

       10月2日 『人民』砂川栄「謝花昇と自由民権運動」、大里康永「伝記を書いた動機」 
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       10月23日『人民』 「沖縄基地はアジア侵略の跳躍台ー協定発効後も変わらぬ核戦争基地」        10月30日 『人民』山田有幹「社会主義運動―沖縄青年同盟の結成 『無産者新聞』がパイプ」「特修ー戦前沖縄の社会運動 関係各氏に聞く(平文吉/兼城賢松/島袋良繁/比嘉光成/久高将憲)」

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写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/浦崎康華、松本三益
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      12月11日 『人民』 松本三益「戦前沖縄社会運動の思い出」

      12月18日 『人民』 幸喜達道「戦前の社会運動ー印刷職工組合の結成と無産者のたたか                い」
1971年9月 『文化評論』№121 <特集・沖縄論の思想> 安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」
/仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」

1971年12月 『文化評論』№124 北川民次「表紙絵」、伊藤嘉昭「侵略戦争と自然科学者の責任ーベトナムの枯葉作戦に反対する日米科学者の運動」、新里恵二「沖縄近代史の諸問題」、河邑重光「トロツキストの沖縄論」、鹿地亘「キャノンの横顔」、仲地哲夫「読書ノート 儀部景俊・安仁屋政昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』日本青年出版社」

1972年1月 『前衛』<核と謀略の基地沖縄>

◇沖縄における核部隊の配備ー日米協定のもっとも重大な問題点の一つが「核」の問題にあることは、いうまでもないことである。調査団もこの問題の追及に大きな力をそそいだが、今回の調査の結果、日米沖縄協定発効後も沖縄に配備を予定されている。一連の部隊と基地ー第三海兵水陸両用部隊(海兵隊)、第一八戦術戦闘航空団および第400弾薬整備隊(空軍)、第二兵站軍団(陸軍)、第七艦隊第七二機動部隊(海軍)ーいずれも核攻撃機能を持ち、あるいは核兵器の貯蔵・管理にあたっている核戦争兵力であることが、調査団の入手した米軍資料および独自の現地調査によって、あきらかにされた。◇「核」の疑惑につつまれる辺野古弾薬庫



 

1978年10月 『たげぇに ちばやびら』瀬長亀次郎後援会


1983年10月 『こんにちはセナガ亀次郎です』瀬長亀次郎事務所

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1953年7月 『琉大文学』創刊


2002年7月25日『琉大ジャーナル』第53号□撮影・新城栄徳/写真左から真久田正氏、中里友豪氏、川満信一氏、新川明氏
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『九年母』第1号 会員住所録 呉我春男ー真和志市安里2区1班/兼城弘ー与那城村照間区7班/名渡山兼一-北谷村謝苅劇場前/嘉陽安男ー那覇商業高校/知念良秀ー真和志市松尾区3班/阿波根昌輔ー那覇市2区14組

『九年母』照屋寛善「琉球大学の方々へ」〇お贈り下されし琉大文学、有難く拝見。左に感想を述べます。琉大文学は羊頭狗肉の文学です。クサムニー集とでもした方が良いでしょう。七号一冊しか見ていませんが、恐らく初号より今日まで、創作に於いて、小説、戯曲、コント、エッセイ等は全巻の十分の一にも足らないでしょう。そして見るべきものは一つも無いでしょう。徒にクサムニーばかり繰り返している様だが他人批判より自己批判が先決です。評論必ずしも否定する理でありません。批評精神の無い沖縄では活発化さるべきでしょうが、琉大文学のあり方も反省して良いでしょう。
 新川明の編集では然うなるのも当然です。彼は良い感覚と、文学への情熱をもっている男の様ですが、惜しむらくは文学をする態度が全然なっていません。疑は批判に通ずべきで、いきなり否定に直結するのは愚者のすることです。短歌否定は琉球芸能否定を意味し、東洋文化の抹殺に通じます。日本文学や琉球芸能の中から短歌を除いたら一体何が残ると言うのです。

照屋寛善
1920年1月沖縄県首里に生まれる。1942年九州医専(現久留米大学)卒業。内科の軍医になり南洋のナンボン島などに駐留。1946年復員、九州医専で勉強、後沖縄に帰る。宜野座の松田診療所勤務。沖縄には医師が少なく過労気味であったので1950年にそのことを訴えた。この反響は大きかった。既に始まっていた医学部留学制度は、50年には2回も募集があり、また、本土で勉強している沖縄出身の医師も帰還した人もいる[1]。真和志診療所勤務。1951年2月結核発病。コザ病院に入院。治癒。1956年琉球衛生研究所所長。同年11月宮古島でソテツ中毒が発生。報告する。1960年2月訪問中の日本医師会武見太郎会長に直訴し、日本の厚生省や医師会からの医療援助を取りつける[2]。1960年3月30日学位論文「琉球列島におけるハブ咬症の疫学的研究 」東京大学に受理。1961年琉球政府厚生局次長。1963年政府立那覇看護学校校長。1973年沖縄県公害衛生研究所医監。1978年琉球大学保健学部教授。1979年同学部長。1981年琉球大学医学部教授。1985年同退官。琉球大学名誉教授。1990年老人保健施設オリブ園施設長。2004年没。→ウィキペディア

写真左から平山良明氏、照屋寛善氏

沖縄の古典芸能研究[編集]『<民俗芸能資料>「くていぶし」について』まつり通信 88. 1968
『しゅんだう考――その解釈と鑑賞』 沖縄芸能歴研究 1, 1976
『琉球古典舞踊打組踊「しゅんだう」について』 沖縄タイムス 1977年11月29日
『琉歌と唱謡法―その間投詞を中心に』沖縄芸能史研究 6, 1982
『【特集】沖縄の芸能・批判と提言《提言》一藝能史研究者の発言』 新沖縄文学 第58号 1983
『十七八節について』青い海 136 October 1984.
『続・琉球古典舞踊、打組踊「しゅんどう」について』 掲載 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集 沖縄の宗教と民俗 1988
照屋寛善著『沖縄の古典芸能』 南島文化叢書 9 1989
『組踊所感』 小野重朗先生傘寿記念論文集 南西日本の歴史と民俗 1990
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2000年4月 儀間比呂志『沖縄の鳥人 飛びアンリー』海風社

出版祝賀会案内状/2000年4月13日『琉球新報』新城栄徳「儀間比呂志と沖縄の文化」




平良次子さん、新城さやか

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2001年10月 儀間比呂志・神谷良昌『絵物語 琉球に上陸したジョン万次郎』沖縄タイムス社

写真右から神谷良昌氏、儀間比呂志氏、オーストラリアのカイリー・クラークさん



○ジョン万次郎の子孫が来県するのは初めて。万次郎から四代目の中濱博さん(73)=愛知県=は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と感激した表情で語り、高安家五代目の高安亀平さん(72)も「感無量だ」と喜んだ。万次郎は糸満市大度に上陸。琉球王府により、翁長の親雲上(ぺーちん)だった高安家に約5カ月間、収容された。外出は禁じられていたが、夜は地域住民と交流し、綱引きなどにも参加したとされる。→(『琉球新報』2002-5-12)/写真左から新城栄徳、儀間比呂志氏、高安亀平氏

□中浜万次郎の話ー高安公造氏(71歳)は祖父より聞いたとして次のように語れり
1、万次郎は約半年沖縄に滞在せりと、即ち正月に来り7月に去れり 1、大和人なることは彼等も知れり、土佐人と知れり 翁長の当銘三郎氏の話  1、宿屋は屋号徳門であって当時万次郎が使用したステッキも今に残っているそうだ。徳門の老婆は90歳位であるがその人の話ー言葉も始めは通じなかったが後ではよく通じて諧謔もやるようになった。→眞境名安興「笑古漫筆」

1851年2月 ジョン万次郎、琉球上陸
 同年4月、アメリカ合衆国とメキシコが国境を決定。5月にはイギリスで第一回のロンドン万国博覧会が開かれ、フランスでは12月、ルイ・ナポレオンがクーデター

   
1851年2月 ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸
『球陽 附巻四』〇尚泰王 四年正月初三日、日本土佐国人有りて、杉板に坐駕して摩文仁群小渡村に来到す。此の日、土佐国人三名有りて、杉板一隻に坐駕し小渡村の浜に到る。随ひて来歴を問ふに即ち云ふ、上届丑年正月初五日、我等小船に坐駕し、海に出でて釣魚するの時、陡に暴風に遇ひ、風に随ひて漂流し、経に七日を歴て、纔に辰方無人島に到りて擱礁撃砕し、上岸活命す。該島は、物の食すべき無く擒へて衆鳥を食し、聊か餓莩を免かる。六月に到り、亜米理幹国の討鯨船一隻、該島洋面を駛過するを見る。即ち其の船を招来して、性命を救ふを請ひ、該船に塔駕して、西洋  (略)只万次郎一人頗る亜米理幹文字を知る有り等語と。本年七月、本国に駐箚する倭官四員の離任して回国するの便有るに逢ふ。其れをして接護回籍せしむ。

   
   
ジョン万次郎が上陸した大度浜の宿道

□1851年ージョン万次郎達は、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩や江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。嘉永5年(1852年)に河田小龍が取り調べ報告書「漂巽紀略」を書く。その際に開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩主・島津斉彬がその英語・造船知識に注目した。これが縁で薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしているほか、和洋折衷船の越通船建造にも知識を活用されている。→(ウィキペディア)■儀間比呂志『琉球に上陸したジョン万次郎』(2001-10沖縄タイムス社)


石井研堂ー数種の少年雑誌の編集に携わり、明治41年、『実業少年』*3を創刊したが、明治44年、同誌の廃刊をもって、少年雑誌の編集から離れ、著述生活に入る。研堂は、民間説話収集にも関心を寄せ、『日本全国国民童話』を著した。その一部は関敬吾の『日本昔話集成』*4にも採録されるなど、今日でも評価されている。他に、江戸時代の漂流記・漂流譚を子ども向けに紹介した『日本漂流譚』、資料調査に加え、中濱萬次郎自身へのインタビューに基づく伝記『中濱萬次郎』、創作読物『鯨幾太郎』『少年魯敏遜』など海事関係の著述も多い。→「福島の児童文学者 列伝3 石井研堂 - 福島県立図書館」


石井研堂資料
石井研堂
生年: 慶応1.6.23 (1865.8.14)
没年: 昭和18.12.6 (1943)
明治・大正・昭和期の在野の文化史家。本名民司。奥州二本松藩領郡山村(福島県郡山市)生まれ。郡山小学校を卒業後,同校教員などを務めたのち上京,明治22(1889)年雑誌『小国民』(のち『少国民』)の編集者となる。当時数多くあった少年雑誌のうちで,同誌が「雑誌界之大王」を標榜するほどの人気雑誌となったのは,近代日本のエリートコースを進まなかった研堂が,かつての自分のような境遇にある独学少年たちの希望にかなった雑誌作りをしたからであろう。そういうセンスは同34年から同37年にかけて刊行された単行本シリーズ『理科十二ケ月』や『少年工芸文庫』にも通底している。その著『明治事物起原』(1908刊,44年改訂増補版)は,明治文化を知る百科事典といえる。吉野作造らの明治文化研究会に属し,明治文化全集の編集にも当たった。<参考文献>山下恒夫『石井研堂』 (坪内祐三) →コトバンク

□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」

①ジョン万次郎

ジョン万次郎資料館=住所: 高知県土佐清水市養老303 海の駅あしずり 電話:0880-82-3155
日本初の国際人「ジョン万次郎」の足跡。中ノ浜村(現土佐清水市中浜)に漁師の子として生まれ、後に日本人として初めて渡米。帰国後、アメリカで学んだ文化や思想を伝え、龍馬などに多大な影響を与えたジョン万次郎。その生涯を映像やジオラマなどで紹介しており、万次郎直筆の英文字など、万次郎にまつわる様々な史料を展示している。(島袋和幸氏撮影)→島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)2016年5月25日『沖縄の軌跡』第171号「琉球に上陸した{ジョン万次郎}」

雑司ヶ谷霊園 ジョン万次郎墓、「中濱萬次郎記念碑」ー島袋和幸氏撮影


1929年1月15日『沖縄朝日新聞』「島尻郡摩文仁に上陸した幕末の風雲児 中濱万次郎の生涯」


1932年3月『沖縄朝日新聞』山城正忠「戯曲『中濱萬次郎』に就いて」



1991年12月 長田亮一『ジョン万次郎物語』沖縄県ジョン万次郎を語る会/1971年12月 石井研堂『異国漂流奇譚集』(1927年 初版)新人物往来社

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


上原よしさん 作品「太一」「未来へ」/仲里安広氏 作品「ウガン」「リゾーム」「ディ・コンストラクション」


西村貞雄氏 作品「岩上祈願」「祈るひと」/上原博紀氏 作品「あぐら」「トルソ」「チャコと一緒に」

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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
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2017-8-2 読谷の孫と沖縄県立博物館・美術館で遊ぶ