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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02

1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』6号 国吉真哲「貘さんの<沖縄の青春>」 


写真下は1925年8月16日、貘2度目の上京前に後列左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘
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写真ー1958年・前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、不詳、山之口貘

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1975年9月 ゆうなの会『ゆうなの花便り 第一回エイサーの夕べ』「神奈川ファミリー」
 1980年8月に沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、『青い海』にカットなどを手がけていた大城一史の風景画展も開催された。9月発行の『青い海』は特集「沖縄を出た島びと」で諸喜田太栄、仲里祥光、仲間宗一の略伝、大阪の映画館の沖縄人経営者たち、関西在住沖縄県人公共団体・企業リストが付いた。ある日、當間次長のところで雑談をしていると、『青い海』の公共団体・企業リストを見て、機を見ることには早い次長が県事務所でも作りたいといってきた。私も沖縄関係資料室や青い海出版社、青年会などから名簿を集めて提供した。そして出来たのが『関西沖縄出身者名簿』である。□後の話になるが、東京「ゆうなの会」の事務所でメンバーに、私の手帖を見せたことがある。それには「ゆうなの会」「がじゅまるの会」メンバーの自宅、連絡先まで記してある。某劇団の女性に、「これは絶対に活字(ネット)にしてはダメですよ」とクギをさされた。
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 大阪市大正区の千島公園では毎年9月に「エイサー祭り」を開催している。そこにいつも参加している団体の一つが東京沖縄青年会だ。1974年に結成された「ゆうなの会」が母体である。

真久田正氏
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1981年8月  沖縄の雑誌『青い海』真久田正「セイシカの花」
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写真左から大城立裕氏、真久田正氏/写真左から2番目が真久田正氏
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『関西沖縄県出身者名簿』沖縄県大阪事務所(1981年3月)

 『関西沖縄出身者名簿』の内容は、国会議員、沖縄県の機関職員、関西の沖縄県人会、在阪支社懇話会、琉球舞踊研究所、沖縄料理店、三味線レコード店、沖縄県物産振興会、がじゅまるの会、琉大機工同窓会、主要企業関係者、法律・会計・税務所関係、幼稚園・保育園関係、各県の沖縄県人会、関西養秀同窓会、北親睦会の名簿で構成されている。私の名前はその他のところ、下地玄信、大城一史、金城実の諸氏のところに並んでいる。この名簿は当然に東京の県事務所にもおくられた。東京のほうもこれにならい(財)沖縄協会に委託。82年に『関東沖縄県出身者名簿』が発行された。

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1971年1月13日ー在沖米軍「毒ガス移送」
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2011年1月13日ー『琉球新報』「毒ガス移送から40年ー復帰後も基地は依然として使用され続けており、沖縄は何も変わっていない。そればかりか、日米両政府による、名護市辺野古への新基地建設というさらなる過重負担が押しつけられようとしていて、問題はかえって拡大している。根元的には基地そのものを撤去させる以外に問題解決はない。だからこそ毒ガス撤去をなし得た島ぐるみの闘いの意義は計り知れない。平和を願い、40年前に発した沖縄県民の声は、基地が無くならない限り生き続けるのだから。」

 1971年2月、大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅した西平さんが「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集は儀間比呂志の紹介で万木恵美子がいた。津野は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。
 1971年4月に『青い海』創刊号が発行された。表紙絵「舞姫」は儀間比呂志作、儀間は「この作品で云いたいのは、沖縄がどんな状況にあろうと、民族の誇りと、文化を守ろうとする若人のけがれのない瞳の美しさなのです。」と強調している。以後『青い海』表紙の儀間作品は2号、3号と続き、以後も3回、口絵も多数。その当時は渚ゆう子の歌「京都の恋」がテレビなどで流れて、歌詞の「わたしの心に鐘が鳴る 白い京都に 雨が降る」は寒い京都と相まって今でも覚えている。渚は『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代なので検索すれば直ちに渚ゆう子画像・動画は過去から現在までなんぼでも出てくる。
  1972年『青い海』2月号に大阪都島の沖縄関係資料室が紹介され私の発言「沖縄のいぶき、臭いのあるもの、すべてを(沖縄の)集収する。この小さな部屋に沖縄を凝集させる」を載せ新城栄徳君の抱負であるとする。だが、すべてのウチナー資料を資料室に集めるということはスペースもだが、限界がある。そこで関西にある公共機関(図書館・博物館)の沖縄関係所蔵資料の目録をヒマがあるとつくっていった。大阪府立中之島図書館には、伊波普猷の著書は『古琉球』をはじめ、戦前のものだけでも18冊、大城立裕の著書は14冊ある。新聞は琉球新報、沖縄タイムスの両支社に10年分はある。沖縄県大阪事務所は前田朝助所長、次長の協力を得て主要な資料のリストはつくった。物産展のポスターなどの資料は豊富である。青い海大阪支社には県人会、郷友会発行の会誌、名簿資料がある。宝塚歌劇団にも沖縄芸能の録音、8ミリの所蔵300点がある。民博、日本工芸館にも沖縄民芸が豊富にある。
 1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。立命館大卒業で元沖青友の会のメンバーが中国物産の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』特大号、『毛主席語録』と中国大地図などがある。中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。西平さんも大阪保育事業団理事として中国に保育事業の視察に行っている。お土産に毛沢東の詩を記した布の栞をもらった。真喜志康忠『沖縄芝居50年』に、17歳の大阪時代と昭和37年の関西公演のときの康忠の回想がある。その中に康忠が関西公演の折、京都の河井寛次郎宅に招かれた写真に、わが「資料室運動」の先達、西平守晴(大阪保育事業団常務理事)も写っている。西平は私に『八重山で康忠の芝居を見たとき、舞台から芝居を演じながら観客席の私を見つけ、舞台が終わると連絡してきた』と康忠のことを語ったことがある。康忠は儀間とも親交がある。
 1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 

1960年4月 村松寛『美術館散歩』「日本工芸館」河原書店

 
1981年6月 雑誌『青い海』104号「那覇市に”反戦版画〟がやってきた 平和運動に役立ててと儀間比呂志さん」


1982年6月 上江洲久『ここに榕樹あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史』儀間比呂志「扉及び見返し版画」

 儀間さんとは、いつのまにか沖縄での空間を共有することが増えていた。が、親族の話は聞いたことが無い。亡くなられた後に、那覇中学校の同級生(儀間さんの姪)に聞いた。儀間さんは長男、妹二人、弟二人の家族でターリーは沖縄戦で亡くなった。アヤーや亡くなって今年33年。

親族に囲まれた儀間さん

 2009年9月発行の儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』に儀間崇が、僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・、とあるように先祖は久米村の蔡氏と分かる。
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久米村蔡姓

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 <特集・久米三十六姓よ どこへゆく>

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 仲井眞元楷「蔡氏逸話集ー蔡氏物語・蔡氏の不思議ー」

仲井眞元楷の原稿

富島壮英「久米三十六姓とは何か」/神坂次郎氏と富島壮英氏(右)

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写真の『青い海』は沖縄県立図書館所蔵/私のは合本しているので表紙は広げられない。

 
1983年7月6日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/『青い海』創刊の頃」


 1971年4月 『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)
 表紙絵「舞姫」は儀間比呂志作、儀間は「この作品で云いたいのは、沖縄がどんな状況にあろうと、民族の誇りと、文化を守ろうとする若人のけがれのない瞳の美しさなのです。」と強調している。以後『青い海』表紙の儀間作品は2号、3号と続き、以後も3回、口絵も多数。その当時は渚ゆう子の歌「京都の恋」がテレビなどで流れて、歌詞の「わたしの心に鐘が鳴る 白い京都に 雨が降る」は寒い京都と相まって今でも覚えている。渚は『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代なので検索すれば直ちに渚ゆう子画像・動画は過去から現在までなんぼでも出てくる。
 1971年5月、沖縄の雑誌『青い海』2号に「あるグループ 沖青友の会(大阪)」が紹介されている。末尾に、大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。と結んでいる。当時、関西には、京都の都沖青、港区の沖青友の会、大正区のサークル南風、枚方市の守礼の会、尼埼の三和同郷青友会があった。それらと連絡雑誌を作ろうと沖青友の会が動きはじめた最中であったから、『青い海』創刊は渡りに船であった。私より沖青友の会の嘉陽宗博会長の方が積極的で機関誌『石の声』で宣伝にこれ努めた。
 西平を紹介してほしいと、京都長岡天神でミニコミ紙「琉球弧」を出していた高良重一が沖縄から来た友人・小渡照生を同行してきた。大阪港区の池島保育園(西平夫人が園長。近鉄の野茂英雄投手も同園出身)の管理人室で西平を交えて話を聞いた。小渡は、大阪で図書館関係の仕事をしたいということだった。私は早速、沖縄の雑誌『青い海』が編集者を募集しているが、それをしながら図書館の仕事を見つけたらどうかと提案した。いつの間にか小渡氏も『青い海』の編集デスクに納まり、高良も『青い海』に協力し、東京支社長もつとめた。私も仕事(調理師)の合間に週に2回は『青い海』編集室でゴロゴロするようになった。
 1972年『青い海』2月号に大阪都島の沖縄関係資料室が紹介され私の発言「沖縄のいぶき、臭いのあるもの、すべてを(沖縄の)集収する。この小さな部屋に沖縄を凝集させる」を載せ新城栄徳君の抱負であるとする。だが、すべてのウチナー資料を資料室に集めるということはスペースもだが、限界がある。そこで関西にある公共機関(図書館・博物館)の沖縄関係所蔵資料の目録をヒマがあるとつくっていった。大阪府立中之島図書館には、伊波普猷の著書は『古琉球』をはじめ、戦前のものだけでも18冊、大城立裕の著書は14冊ある。新聞は琉球新報、沖縄タイムスの両支社に10年分はある。沖縄県大阪事務所は前田朝助所長、次長の協力を得て主要な資料のリストはつくった。物産展のポスターなどの資料は豊富である。青い海大阪支社には県人会、郷友会発行の会誌、名簿資料がある。宝塚歌劇団にも沖縄芸能の録音、8ミリの所蔵300点がある。民博、日本工芸館にも沖縄民芸が豊富にある。
 1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。元沖青友の会のメンバーが中国関係の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』、『毛主席語録』と大中国地図などがある。
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『毛主席語録』/中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。
 立命館大卒業で元沖青友の会のメンバーが中国物産の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』特大号、『毛主席語録』と中国大地図などがある。中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。西平さんも大阪保育事業団理事として中国に保育事業の視察に行っている。お土産に毛沢東の詩を記した布の栞をもらった。真喜志康忠『沖縄芝居50年』に、17歳の大阪時代と昭和37年の関西公演のときの康忠の回想がある。その中に康忠が関西公演の折、京都の河井寛次郎宅に招かれた写真に、わが「資料室運動」の先達、西平守晴(大阪保育事業団常務理事)も写っている。西平は私に『八重山で康忠の芝居を見たとき、舞台から芝居を演じながら観客席の私を見つけ、舞台が終わると連絡してきた』と康忠のことを語ったことがある。康忠は儀間とも親交がある。
 
青い海文芸/祖慶美佐江「母校のナンキンハゼ」、宮城清子「短歌」、平良寿美子「青春て何だ」、宮城敏夫「生きる、大城悦子「ささやかでも尊い想い出」」(何れも『石の声』転載)
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右・1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』の『青い海』紹介。
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1983年7月6日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/『青い海』創刊の頃」/1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1974年5月20日『おきなわ海洋博だより』第2号


1975年6月15日『琉球新報』「鎌倉芳太郎氏を囲んでー大城立裕氏、中山良彦氏」





1985年6月 沖縄の雑誌『青い海』142号 中山良彦「語り部とは何なのか」/左からー翁長良明氏、河合民子さん、新城栄徳


1961年11月10日~12日 沖縄タイムスホール「第五回 ぴよぴよ会展ー中山良彦」 

1965年6月、中山良彦に宛てた芥川也寸志の手紙(也寸志 [生]1925.7.12. 東京[没]1989.1.31. 作曲家。小説家芥川龍之介の三男として生まれる。兄は俳優の芥川比呂志)




右ー中山良彦「目次原案メモ」
1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 そこに語りこめられたふるさとびとたちの生々しい体験と、記憶の奥ではげしく燃えつづけている戦争への憎しみの思念には、強く胸をうたれました。そこを出発点に、わたしの”沖縄戦〟への歩みは始まったのです。このとき、沖縄では戦没者の三十三回忌の法要が行われました。わたしは、戦記を読み、証言に耳をかたむけました。戦跡にもなんべんとなく足をはこび、ガマ(住民が避難した自然洞窟)にも入って、当時の人たちの凄絶なイメージを、わがものにしました。作画にあたっては、友軍とよばれた日本兵の、住民への残虐行為、ウジ虫を涌かした負傷者、集団自殺、腐乱死体の山など、酸鼻だからといって避けて通るようなことはしませんでした。それが沖縄戦の実相だからです。わたしは祈りをこめて版を彫り、バレンを押しました。
 こうして今ここに、二十五点の大版の木版画が完成したのです。この仕事はライフワークとして、つづけていくつもりですが、一区切りついたところで公にし、きびしいご批判を賜りながら、内容のより充実をはかっていきたいと思います。
 本に編むことにつきましては、畏友中山良彦氏に解説をお願いして共著として出版することにしました。各作品に付された氏の文章は、平易だが重厚な内容をそなえ、すぐれた平和論として、読者に感銘をあたえずにはおかないでしょう。
 表題の「戦がやってきた」は、わたしが証言者のことばから借用しました。これは、このシリーズの創作上の基本姿勢が、住民視点にあることをずばりと、いいあらわしているように思ったからです。
 さて、この戦争版画集。沖縄の生き証人たちが、どう受けとめて下さるか、大いに気になるところです。とくに、あのお婆さんの目がこわい・・・・・。 1979年9月

「もうたくさんだ」(部分)


1980年8月 中山良彦『人間でなくなる日ー沖縄戦住民証言集』集英社


2011年12月 中山良彦『戦後沖縄をプロデュースー文化としての「民主化」をめざしてー』「沖縄のアマ絵画グループ(ぴよぴよ会) こうして誕生」


浦添市美術館
「儀間比呂志・中山良彦 沖縄戦版画集『戦がやってきた』原画展」会期:2015年6月23日(火)慰霊の日~2015年6月28日(日)/2016年6月16日(木) ~ 2016年6月26日(日)/会期:2017年6月14日(水)~2017年7月2日(日)

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 
1972年  石野朝季『沖縄と南西の島々』山と渓谷社
1974年  津野創一『沖縄』山と渓谷社
1990年  石野朝季『沖縄近海の島々』日地出版


1974年12月 斉藤三郎『詩誌やみくも』第4号
1975年7月  『青い海』44号 石野朝季(琉球新報大阪支社長)「京のゆめ大阪のゆめ」
1976年1月  『青い海』49号「渡嘉敷守良翁遺稿『わが自叙伝』」連載
1976年6月  『青い海』55号「版画絵本『鉄の子カナヒル』(岩波書店)でサンケイ児童出版文化賞を受賞した儀間比呂志氏が帰郷、沖縄物産センターで原画展。8月7日、八汐荘で『儀間比呂志を囲む会』、司会・新川明、海勢頭豊のギター演奏。中今信琉大教授らが参加。



1983年10月 沖縄物産センター「儀間比呂志 版の世界展」


1998年6月



2004年5月 浦添市美術館「儀間比呂志 沖縄の戦争と平和展」

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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
    
2017年8月10日 ひより首里城見物/左の「中山世土」は清朝第4代皇帝康熙帝の扁額(復元)。「中山は代々、琉球国王の国である」と書かれている。


2017年8月8日 沖縄県立博物館・美術館『水族館でも出会えない!海のビックリ生物展』入場者1万人達成

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2017年8月8日~13日 那覇市民ギャラリー「翁長盛武写真展ー『海人の島』ー」/翁長盛武氏(右),古堅希亜氏


2014年7月22日~27日 那覇市民ギャラリー「第50回 写真展  ニッコールクラブ沖縄支部」 翁長盛武氏と作品「アギャー」

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1985年7月『青い海』143号 陳寶來「おきなわの留学生たち①沖縄の女性は逞しく、そして美しい」


桑江良健氏 作品「大田昌秀肖像」ー会場で陳宝来さん(国際俳句交流会会員)と桑江純子さんが歓談していた。陳さんを那覇市歴史博物館に案内した。


写真左が桑江純子さん、陳宝来さん


那覇市歴史博物館で左が陳宝来さん、真栄里泰山氏
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『九年母』第1号 会員住所録 呉我春男ー真和志市安里2区1班/兼城弘ー与那城村照間区7班/名渡山兼一-北谷村謝苅劇場前/嘉陽安男ー那覇商業高校/知念良秀ー真和志市松尾区3班/阿波根昌輔ー那覇市2区14組

『九年母』照屋寛善「琉球大学の方々へ」〇お贈り下されし琉大文学、有難く拝見。左に感想を述べます。琉大文学は羊頭狗肉の文学です。クサムニー集とでもした方が良いでしょう。七号一冊しか見ていませんが、恐らく初号より今日まで、創作に於いて、小説、戯曲、コント、エッセイ等は全巻の十分の一にも足らないでしょう。そして見るべきものは一つも無いでしょう。徒にクサムニーばかり繰り返している様だが他人批判より自己批判が先決です。評論必ずしも否定する理でありません。批評精神の無い沖縄では活発化さるべきでしょうが、琉大文学のあり方も反省して良いでしょう。
 新川明の編集では然うなるのも当然です。彼は良い感覚と、文学への情熱をもっている男の様ですが、惜しむらくは文学をする態度が全然なっていません。疑は批判に通ずべきで、いきなり否定に直結するのは愚者のすることです。短歌否定は琉球芸能否定を意味し、東洋文化の抹殺に通じます。日本文学や琉球芸能の中から短歌を除いたら一体何が残ると言うのです。

照屋寛善
1920年1月沖縄県首里に生まれる。1942年九州医専(現久留米大学)卒業。内科の軍医になり南洋のナンボン島などに駐留。1946年復員、九州医専で勉強、後沖縄に帰る。宜野座の松田診療所勤務。沖縄には医師が少なく過労気味であったので1950年にそのことを訴えた。この反響は大きかった。既に始まっていた医学部留学制度は、50年には2回も募集があり、また、本土で勉強している沖縄出身の医師も帰還した人もいる[1]。真和志診療所勤務。1951年2月結核発病。コザ病院に入院。治癒。1956年琉球衛生研究所所長。同年11月宮古島でソテツ中毒が発生。報告する。1960年2月訪問中の日本医師会武見太郎会長に直訴し、日本の厚生省や医師会からの医療援助を取りつける[2]。1960年3月30日学位論文「琉球列島におけるハブ咬症の疫学的研究 」東京大学に受理。1961年琉球政府厚生局次長。1963年政府立那覇看護学校校長。1973年沖縄県公害衛生研究所医監。1978年琉球大学保健学部教授。1979年同学部長。1981年琉球大学医学部教授。1985年同退官。琉球大学名誉教授。1990年老人保健施設オリブ園施設長。2004年没。→ウィキペディア

写真左から平山良明氏、照屋寛善氏

沖縄の古典芸能研究[編集]『<民俗芸能資料>「くていぶし」について』まつり通信 88. 1968
『しゅんだう考――その解釈と鑑賞』 沖縄芸能歴研究 1, 1976
『琉球古典舞踊打組踊「しゅんだう」について』 沖縄タイムス 1977年11月29日
『琉歌と唱謡法―その間投詞を中心に』沖縄芸能史研究 6, 1982
『【特集】沖縄の芸能・批判と提言《提言》一藝能史研究者の発言』 新沖縄文学 第58号 1983
『十七八節について』青い海 136 October 1984.
『続・琉球古典舞踊、打組踊「しゅんどう」について』 掲載 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集 沖縄の宗教と民俗 1988
照屋寛善著『沖縄の古典芸能』 南島文化叢書 9 1989
『組踊所感』 小野重朗先生傘寿記念論文集 南西日本の歴史と民俗 1990

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上原よしさん 作品「太一」「未来へ」/仲里安広氏 作品「ウガン」「リゾーム」「ディ・コンストラクション」


西村貞雄氏 作品「岩上祈願」「祈るひと」/上原博紀氏 作品「あぐら」「トルソ」「チャコと一緒に」

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