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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02



仲里コレクション友寄喜恒作「三味線を弾く女性」/右ー冨永朝堂作「乙樽」

2001年11月ー「沖縄コレクター友の会発足」佐敷町ちゃんくすば中央が真栄城勇会長,その左が新城栄徳/南風原レストラン「沖縄コレクター友の会例会」中列右端が新城栄徳、その前が真喜志康徳さん

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2003年7月4日『沖縄タイムス』新城栄徳(沖縄コレクター友の会)「わたしのバクさん」/2006年5月『彷書月刊』248号□新城栄徳(沖縄コレクター友の会)「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾編」
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


2017年8月29日~9月3日 那覇市民ギャラリー「『ひとつながりのいのち』久貝清次展」/写真左から新城栄徳、久貝清次さん、安里英子さん

久貝清次 くがいせいじ 画家・詩人
沖縄県宮古島に生まれる。御茶ノ水美術学院研究科卒業。仲條正義デザイン事務所で勤務後、日本橋高島屋宣研に入社。後、東京デザイナー学院講師となる。郷里母校での個展を出発点として浦添市美術館、沖縄平和祈念堂にて個展を開催。受詩受画集「おかあさん」で第28回山之口貘賞を受賞。季刊詩誌「あすら」同人。2011年、那覇へ転居。2014年1月「琉球八景」久貝清次展、2015年12月「戦後70年 オキナワ」久貝清次展を開催。

安里英子さん-1948年、那覇市生まれ。沖縄大学非常勤講師。主な著書に『揺れる聖域』(1990年)、『琉球弧の精神世界』(1999年)、『凌辱されるいのち』(2008年)などがある。CTS阻止闘争や新石垣空港問題にかかわり、90年代には島々の聖地を回り、開発状況をルポした。現在は朝鮮人軍夫を追悼する「NPO法人・沖縄恨之碑の会」の代表もつとめる。第40回山之口貘賞を受賞。
Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@yahoo.co.jp
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 儀間さんとは、いつのまにか沖縄での空間を共有することが増えていた。が、親族の話は聞いたことが無い。亡くなられた後に、那覇中学校の同級生(儀間さんの姪)に聞いた。儀間さんは長男、妹二人、弟二人の家族でターリーは沖縄戦で亡くなった。アヤーや亡くなって今年33年。

親族に囲まれた儀間さん

 2009年9月発行の儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』に儀間崇が、僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・、とあるように先祖は久米村の蔡氏と分かる。
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久米村蔡姓

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 <特集・久米三十六姓よ どこへゆく>

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 仲井眞元楷「蔡氏逸話集ー蔡氏物語・蔡氏の不思議ー」

仲井眞元楷の原稿

富島壮英「久米三十六姓とは何か」/神坂次郎氏と富島壮英氏(右)

 2017年9月13日、那覇・泊の我が家に、東大阪の息子の嫁から『第43回エイサー祭りー亡き先人を慕び捧ぐ』のパンフとチラシが送られてきた。表紙は儀間比呂志の画「エイサー」でソテツも刻印されている。手紙には「天気も良く、お客さんもたくさん来ておられた」とある。この表紙の経緯について、パンフに諸見里芳美が「沖縄を様々な今年作品の中に彫り込まれた版画家儀間比呂氏さんは、今年4月に94才で旅立たれました。お別れに伺った時の儀間さんは仕事を成し遂げた穏やかなお顔でした。心からご冥福をお祈り申し上げます。がじまるの会では儀間さんの作品を今年のエイサー祭りのポスターに使わせて頂けないでしょうかと、ご家族にお願いした所、『父も喜ぶでしょう』と、暖かなお返事と、ご協力を得て、第43回エイサー祭りのポスターが制作されました」と記している。エイサーの元祖の一人と云われている袋中上人について、琉球学の巨人・末吉安恭は1918年5月の南方熊楠宛の書簡に「(略)右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや。若し御存知にて候はば、其の本の所在御示し下され度候」と問い合わせているが、その末吉の甥・末吉安允は1972年、立命館大広小路学舎の文学部で学んでいる。
 1957年 野口昭二・儀間比呂志『詩画集 琉球』を発行。5月の『図書新聞』に火野葦平が「『ちぎれた縄』という芝居を書いていて、自分も沖縄の苦しみのなかに入ってみようと試みたばかりの私には、この、詩と版画とで彩られた『琉球』という美しい本を、異様な息苦しさなしでは、最後のページまで見終わることができなかった・・・」と書く。1957年6月9日『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯ー郷里の体臭ただよう ミナト神戸に沖縄通いの船」/1957年10月「商都に生きる儀間比呂志ー商都のボヘミアン 画面に”生きるうた〟『何んやて”商都に生きる〟?そらきみ、オレの場合はちがうな。そらたしかに、ここでメシ食って、ここの空気を吸って・・・つまりここで生きてるにはちがいないが、ほんとのいみで”生きる〟となると”沖縄に生きる〟とでも云いたいな。』のっけからこうである。うるさい男だ。が、かれのいうのももっともなはなし。かれくらい商都に似つかわしくない風体の人間も少ない」。  『青い海』に見る石野朝季関連は1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 船越義彰/石野朝季「れーだー・さいと」/1972年ー石野朝季『沖縄と南西の島々』山と渓谷社/1977年『青い海』5月号 「女人登場ー石野桂子さん」など、『琉球新報』には「春のアトリエ」「沖縄棋界の今昔ばなし」「京都にみる沖縄の姿」など連載物、単行本は『沖縄歴史年表』『沖縄と南西の島々』(青い海出版社も協力)、『地図の本⑫沖縄近海の島々』、山と渓谷社『沖縄』は編集執筆を津野創一に譲っている。その他共著多数。名刺には、琉球新報社取締役企画局長、週刊レキオ社代表取締役、(財)沖縄青少年育成センター理事、那覇市立図書館協議会委員、那覇市立公民館運営審議会委員、那覇市文化協会副理事長、山之口貘記念会副会長、首里城復元期成会理事、日本旅行作家協会会員などの肩書があった。
 1960年6月、新川明詩・儀間比呂志版画『詩と版画・おきなわ』山之口貘「序文」去年だったか、一昨年のことだったか丸の内で、儀間比呂志に逢ったことがある。話しっぷりがいかにもかれの作品から受けるものと似ていて深く印象に残っているが、作品も実物も共に肉体的精神が豊かで、人を元気づけるものがある。新川明には鹿児島でお世話になった。一昨年十一月、沖縄へ行く途中なのであったが、かれのところで四日ばかり御厄介になったのである。奥さんはお産のために留守だった。
 沖縄タイムスの新川明との出会いは、川満信一とも出会う。沖縄タイムス社発行の1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集/詞章・新川明」。1974年10月『新沖縄文学』26号 儀間比呂志「表紙のことばー私が最も好み、数多く描いてきたおなじみの沖縄伝統民俗芸能『七月エイサー』である」。1975年2月『新沖縄文学』27号 儀間比呂志「表紙のことばー沖縄民衆は、ワジワジーしている。”日本に復帰すれば、平和がよみがえり豊かな沖縄県が実現する〟ふりまかれた幻想ー。”海洋博は、沖縄経済の起爆剤〟ユクシムニーするな!原爆つきの基地はそのまま 山からは、みどりをうばい 海からは、 魚をおいはらい わったぁからは、生活をうばう。それは、だれなんだ!。1975年11月 『新沖縄文学』30号 儀間比呂志「<随筆>沖縄の女」につながる。さらに1999年1月 儀間比呂志『絵本 沖縄のわらべうた』も沖縄タイムス社から出し儀間は、あとがきで「本書の出版にあたっては、数々の本を参考にさせていただいた。また、楽譜の提供をいただいた比嘉悦子さん、エッセーをよせてくださった船越義彰さん、翻訳者のR・トンプソンさん、出版元の沖縄タイムス社と編集の上間常道さんに、心から感謝の意を表したい」。殊に上間は大阪生まれなので儀間は親しみを持っていた。
 2011年6月 新川明・儀間比呂志・知念ウシ/翻訳『りゅう子の白い旗ー沖縄いくさものがたり』 を上間常道の出版舎 Muɡenから出し、新川明ーあとがき/あれから二十六年たって、さきの「集団自決」訴訟と文部科学省のあり方が象徴するように日本の国全体がますますおかしくなっていくのを見るとき、私たちはすでに絶版になっていたこの絵本を復刻再刊したい、と強く思ったのです。さいわい出版舎 Muɡenの上間常道さんが私たちの思いを受けとめてくれて、ここに絵本「沖縄いくさものがたり」を正真の沖縄発の”非戦の思い〟をこめた絵本として再生させることができました。上間さんと英訳の知念ウシさんにあらためて感謝したいと思います。儀間比呂志ーこの作品を描いてから二十六年の歳月が過ぎました。この間、戦争への危機はなくなるどころか、広大な米軍基地は沖縄に、相変わらず我がもの顔で居座り、戦争への構えをとり続けています。その事実を近隣諸国が黙認し、侵略者の暴挙を容認している国際事情には、何たることかと憤りはつきません。
 1966年1月発行の儀間の『版画風土記”沖縄〟』は題字を榊莫山が書いている。莫山は三重師範学校在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎えた。同年7月、沖縄タイムスホールで「第5回 儀間比呂志個展」を開いたが、その案内状には、武蔵野美術大学教授の宮本常一が同年『美術手帖』4月号に書いた「限りない郷土への愛ー胸のうちにうつぼつとたぎるいきどうりが、あらあらしいタッチの絵の中に見え・・・・・・その絵のように日本は沖縄をしっかりと抱きかかえてもらいたいと念願している・・・・・・・・ここに見る作品は、決して牧歌的なものではない。したがって観光用のものではない。琉歌と舞踊と泡盛ではなく、ここにはきわめて健康な、時には苦渋にみちた沖縄人が描かれている」が転載されている。 
 津野創一が琉球新報関西支局に赴任したのは1961年で、沖縄関係資料室の西平守晴とは同郷(八重山)で親交を結ぶ。64年6月、西平は琉球結核予防対策資金造成のための「第二回関西沖縄芸能祭」を編成企画し成功に終わった。1967年暮れ、大阪沖縄連帯の会(デイゴの会)準備会が出来、翌年3月に結成された。島袋俊一、奥間錫、津野創一、下門清行、嘉陽宗博らが参加した。69年には沖青友の会が大阪城公園で発足した。同年、私は、大阪の梅田地下街でデイゴの会のポスターを目にして同会の事務所を訪ねた。「沖縄出身は居ませんか」と言うと嘉陽宗博が連絡をうけてやってきた。その日は茨木市の四畳半もない嘉陽のアパートに泊まり青年運動について語った。後に嘉陽は大阪市港区に転居。そのアパートで『毎日新聞』「本土のなかの沖縄ー私設沖縄文庫」を読み大阪都島の沖縄関係資料室を知る。資料室を訪ねるとお婆さん(川平朝申の母と姉妹)が出て来られウチナー口でユンタクすると喜ばれ気にいってもらい夕食までいただいた。夜、職場から帰宅した西平守晴さんにお婆さんが好意的に紹介したのだろう。西平とは初対面だが「資料室運動」の何たるかを聞く。そして資料室に自由に出入りして良いと言われた。以後、西平をオヤジさんと呼ぶ。 



 私たちの京都沖縄青年グループ(都沖青)は京都三条河原町にある松田祐作さん経営「琉球料理・守禮」に連絡所を置き、表札や名簿も作ってもらった。近くの三条大橋で鴨川を渡るとエイサーの元祖、袋中上人が開創した檀王法林寺がある。1983年の『琉球新報』に私は関西資料の散策と題し次のように書いた、「人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店・守禮の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤が『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤に『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」。地元2紙は「人類館写真見つかる」を大きく報じた。


 1970年12月、私は京都鳴滝にある沖縄学生たち(同志社大・立命館大)の借家のひとつ、山口浤一さんの部屋に居た。沖縄から帰ったばかりの山口さんの婚約者が興奮さめやらぬ口振で語る「コザ騒動」の話を学生たちと聞いていた。沖縄学生たちの機関誌は、1964年、京都在学沖縄県学生榕樹の会『がじゅまる』、65年、同志社大学大学沖縄県人会『珊瑚礁』、67年、関西沖縄県学生会『新沖縄』などがあった。京都丸太町の古書店で『立替え立直し』を買う、梅棹忠夫・上田正昭の対談「出口王仁三郎における変革の思想」が載っていた。上田正昭は何かと大本には縁がある。当時、京都で発行されていた『日本のなかの朝鮮文化』の執筆常連でもあった。沖縄との関わりも深い。私も朝鮮文化社にはよく遊びに行き、編集室奥の部屋で鄭詔文さんのコレクション、李朝の白磁などの陶器を見せてもらったりした。このコレクションが後の高麗美術館とつながる。
 前出の『立替え立直し』の発行は亀岡の大本本部天恩郷で、ちょうどそこには沖縄から金城ひろこが奉仕活動に来ていることを京大付属病院保健課の大城敬人の紹介で訪ねた。都沖青の一環で亀岡の渡文や大本亀岡本部はよく訪ねた。本部から離れたところに王仁三郎の生地瑞泉郷がある。大本本部の大本資料室で王仁三郎の沖縄訪問時の資料、王仁三郎扮する七福神や神々の写真パネルを見た。王仁三郎手製の楽焼の茶碗も見た。本部では茶道、八雲琴の演奏なども聴いた。
 1972年1月の『青い海』9号には儀間比呂志×岡部伊都子「対談 沖縄のこころを語る」が載っていて儀間が、ボクは大和の差別を告発する人たちは、自らも過去において先島に対して犯してきた過ちを認めて、被害者であると同時に加害者でもあったふうに考えないといかん、と思うのです。岡部ー本土の内でも世界の各国でも、被差別者が差別者となっていくことが多い。それは差別をつくる仕組みのせいでもありますね。だから「差別をつくるしくみ」と闘わなくては。(略)儀間ー沖縄を愛するんだったら、沖縄に住んで仕事をすべきだ、共に苦しみを味わうべきだという考え方があります。ボクなんかも、大阪という安全地帯にいて沖縄を描いている、だから君は沖縄を売りものにしている半沖縄人だというレッテルを貼るんですね。と述べる。
1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと1968-72年』岩波書店、福木が、あとがきで表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


 沖縄県護国神社の鳥居には日本民主同志会・松本明重とある。かつて1971発行の平良盛吉『関西沖縄開発史 : 第二郷土をひらく 』を援助し日本民主同志会本部名で発行していた。松本は世界救世教外事対策委員長、祇園すえひろ会長だが、沖縄に関わり、「京都の塔」「小桜の塔」などに碑を建てている。松本は東本願寺紛争にも名が出てくる。相対する西本願寺、第22世門主の大谷光瑞は、戦前の沖縄新聞に、「光瑞来沖か」と云う記事を見たことがあるが、結局来なかったようである。その代わりというか弟の大谷尊由が1918年2月に来沖し相当に歓迎されたようである。 


1979年12月 三宅忠一『日本の陶磁14 民窯』保育社
 「元祖スエヒロ」という「しゃぶしゃぶ」の店を経営している大阪日本工芸館長の三宅忠一である。館長は金光教本部のある岡山県玉島出身で、館長もその信仰に篤い。この人も沖縄民芸振興などに力を入れていた。私は難波の日本工芸館はよく行くところで、ここで館長と親しく熱心に会話する儀間さんを見た。このときは儀間さんも館長も面識はないので挨拶はしなかった。1973年、通産省が企画した第一回沖縄民芸振興展を日本民芸協団(三宅忠一理事長)の主催で東京、大阪、福岡で開催した。74年の第二回展の小冊子の表紙は儀間の版画「赤瓦の屋根の下で織物をしている女性」で、「表紙のことば」としてその解説も載っている。75年「紅型染色の城間栄喜父子」、76年「沖縄ガラス」、77年「琉球玩具」、78年「シーサー」も同様である。

沖縄展(那覇市民会館中ホール)のチラシ

  1971年2月、大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅した西平さんが「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集は儀間比呂志の紹介で万木恵美子がいた。津野は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。
 1971年4月に『青い海』創刊号が発行された。表紙絵「舞姫」は儀間比呂志作、儀間は「この作品で云いたいのは、沖縄がどんな状況にあろうと、民族の誇りと、文化を守ろうとする若人のけがれのない瞳の美しさなのです。」と強調している。以後『青い海』表紙の儀間作品は2号、3号と続き、以後も3回、口絵も多数。その当時は渚ゆう子の歌「京都の恋」がテレビなどで流れて、歌詞の「わたしの心に鐘が鳴る 白い京都に 雨が降る」は寒い京都と相まって今でも覚えている。渚は『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代なので検索すれば直ちに渚ゆう子画像・動画は過去から現在までなんぼでも出てくる。
 1971年5月、沖縄の雑誌『青い海』2号に「あるグループ 沖青友の会(大阪)」が紹介されている。末尾に、大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。と結んでいる。当時、関西には、京都の都沖青、港区の沖青友の会、大正区のサークル南風、枚方市の守礼の会、尼埼の三和同郷青友会があった。それらと連絡雑誌を作ろうと沖青友の会が動きはじめた最中であったから、『青い海』創刊は渡りに船であった。私より沖青友の会の嘉陽宗博会長の方が積極的で機関誌『石の声』で宣伝にこれ努めた。
 西平を紹介してほしいと、京都長岡天神でミニコミ紙「琉球弧」を出していた高良重一が沖縄から来た友人・小渡照生を同行してきた。大阪港区の池島保育園(西平夫人が園長。近鉄の野茂英雄投手も同園出身)の管理人室で西平を交えて話を聞いた。小渡は、大阪で図書館関係の仕事をしたいということだった。私は早速、沖縄の雑誌『青い海』が編集者を募集しているが、それをしながら図書館の仕事を見つけたらどうかと提案した。いつの間にか小渡氏も『青い海』の編集デスクに納まり、高良も『青い海』に協力し、東京支社長もつとめた。私も仕事(調理師)の合間に週に2回は『青い海』編集室でゴロゴロするようになった。
 1972年『青い海』2月号に大阪都島の沖縄関係資料室が紹介され私の発言「沖縄のいぶき、臭いのあるもの、すべてを(沖縄の)集収する。この小さな部屋に沖縄を凝集させる」を載せ新城栄徳君の抱負であるとする。だが、すべてのウチナー資料を資料室に集めるということはスペースもだが、限界がある。そこで関西にある公共機関(図書館・博物館)の沖縄関係所蔵資料の目録をヒマがあるとつくっていった。大阪府立中之島図書館には、伊波普猷の著書は『古琉球』をはじめ、戦前のものだけでも18冊、大城立裕の著書は14冊ある。新聞は琉球新報、沖縄タイムスの両支社に10年分はある。沖縄県大阪事務所は前田朝助所長、次長の協力を得て主要な資料のリストはつくった。物産展のポスターなどの資料は豊富である。青い海大阪支社には県人会、郷友会発行の会誌、名簿資料がある。宝塚歌劇団にも沖縄芸能の録音、8ミリの所蔵300点がある。民博、日本工芸館にも沖縄民芸が豊富にある。
 1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」、大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」
1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。立命館大卒業で元沖青友の会のメンバーが中国物産の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』特大号、『毛主席語録』と中国大地図などがある。中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。西平さんも大阪保育事業団理事として中国に保育事業の視察に行っている。お土産に毛沢東の詩を記した布の栞をもらった。真喜志康忠『沖縄芝居50年』に、17歳の大阪時代と昭和37年の関西公演のときの康忠の回想がある。その中に康忠が関西公演の折、京都の河井寛次郎宅に招かれた写真に、わが「資料室運動」の先達、西平守晴(大阪保育事業団常務理事)も写っている。西平は私に『八重山で康忠の芝居を見たとき、舞台から芝居を演じながら観客席の私を見つけ、舞台が終わると連絡してきた』と康忠のことを語ったことがある。康忠は儀間とも親交がある。
 1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 

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Posted by: ryubun02

2000年9月ー『ヤマトゥのなかのウチナー(沖縄)』大阪人権博物館□儀間版画も多用されている。


2013年2月 『歴史評論』黒川みどり「大阪人権博物館と橋下市政」 
(略)木津川計「たこ焼き、吉本興業、タイガースだけで大阪が評価されるのは残念。誇るべき文化の蓄えがなくなれば、大阪の『格』はもっと低くなるだろう」。リバティの展示の対象は、橋下市長が構想するようなナショナリズムを背景とした歴史観のもとでは真っ先に捨象されてしまうであろうことは明らかだが、そのような歴史観に根ざさずとも、まさしくマイノリティであるがゆえに往々にして歴史認識から欠落してしまいがちである。しかも、リバティの原点でもあった部落問題が、一方で人権一般に解消され、差別はなくなっていないにもかかわらず問題は消し去られようとしているとき、リバティの存在はいっそう重要性を増す。差別はなくならければならない。しかし、差別を内包してきた社会の歴史は消し去れない。そればかりか、そのことを見据えることによって、明るい未来を切り開く糧としなければならない。

 1960年に発足した沖縄県祖国復帰協議会。その運動の母体を担い、復帰後も「反戦復帰」を掲げて掲げて活動した仲宗根悟氏(82)が新聞で「沖縄は1609年の薩摩侵攻からこの間、日本からどう扱われてきたかというと、国策として差別、抑圧、強制されてきたということがはっきりしている」と強調しておられる。これは今でも変わらない、どころか性質が悪くなっているのは今の民主党を見ても十分了解できる。これなどは教科書問題でも、密約でも分かるように、日米軍需利権と連動した官僚機構が巧妙にマスコミ、評論家などを使って抵抗を試みている証左であろう。そういうヤマト官僚機構の国策差別に県外在住のウチナーンチュは敏感に捉え青年運動もいまなお活発だ。

ここで、大阪人権博物館の沖縄関係の展示、シンポジウム、講習会を『大阪人権博物館20年の歩みと総合展示の概要』(2005年12月)からアト ランダムで見ることにする。
1985年12月 「なにわ再発見ー太鼓のふるさと展」
1986年7月  「東松照明『ナガサキ』展」
1987年8月  「平和の願いを風にのせてー儀間比呂志版画展『沖縄戦』、金城実彫刻展『土の笑             い』、西浦宏巳写真展『沖縄・与那国島』」
1988年7月  「儀間比呂志木版画講習会」
1988年9月  「本・『田村義也の仕事』」
1989年4月   「発禁書と言論・出版の自由展」
1989年7月  「福島菊次郎写真展 記念のつどい」
1989年7月  「満州移民・幻想と悲劇-来民開拓団集団自決事件の真相」
1991年1月  「勇崎哲史写真展『沖縄・大神島・家族の肖像』」
1991年10月 「朝鮮侵略と強制連行」
1992年7月  「『倭乱』-豊臣秀吉の朝鮮侵略から400年」
1998年9月  「日本の中の朝鮮文化ー金達寿を偲んで」
 2000年9月には、関西の沖縄県人会有志、ウチナー青年たちが大阪人権博物館と提携し「ヤマトのなかの沖縄」を開催した。その図録は2度とは出せない記録性に富んだ豪華な写真集となっている。今後はこれらをネットで再構成し展開していかねばならない。大阪人権博物館はさまざまな差別、人権問題を考える博物館である。もともとは被差別部落に端を発した差別撤廃運動だが、いまは「アイヌ」「在日コリアン」「性的少数者」「障害者」公害被害者」「水俣病患者」などなどの色んな差別が繰り広がり問題は山積している。これらと向き合おうというのが博物館の趣旨である。

 前出の図録には大阪人権博物館の仲間恵子学芸員が「沖縄人(ウチナーンチュ)をみるヤマトゥンチュは自分自身をみつめているだろうか。自らに無自覚な漫然とした関心は、憧れと排外が表裏一体になっている。『沖縄が好き』『沖縄の文化は素晴らしい』と言う人が、沖縄人の語る歴史に嫌悪感を示すことがある。ヤマトゥでは自らの歴史性や文化性を問うことなく、都合のいい異文化への関心がブームとともに形成されつつある。(略)今年は各地のイベントでいくつもの『守礼の門』がつくられ、壊されていったという」と記し「守礼の門」は一過性の沖縄ブームを象徴しているようだと強調する。

 守礼門が出たので、図録の守礼門の話をする。カラー図版の1896年発行『風俗画報』臨時増刊号の表紙には守礼門が描かれている。26頁の久志冨佐子「滅びゆく琉球女の手記ー地球の隅っこに押しやられた民族の嘆きをきいて頂きたいー」のカットは守礼門である。29頁の島袋源一郎『新版沖縄案内』の表紙は守礼門の版画である。56頁の崎原好仁の遺稿集『琉球之ローマンス』の表紙は岸畑久吉の描いた守礼門がある。なお同著には本間久雄、谷崎精二、日夏耿之介らの序文がある。86頁の民謡パンフレットの表紙カットに守礼門がある。101頁の1972年に沖縄県人会兵庫県本部が作成し会員に配った置物にも守礼門がある。また復帰記念に大阪・沖縄物産センター上進が作った「沖縄ふろしき」にも守礼門がある。

1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店・守禮の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」


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Category: 02-関西の沖縄
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1976年9月 『山之口貘全集』第四巻 評論 思潮社 □「1960年6月『詩と版画・おきなわ』(新川明詩・儀間比呂志版画)序文」〇去年だったか、一昨年のことだったか丸の内で、儀間比呂志に逢ったことがある。話しっぷりがいかにもかれの作品から受けるものと似ていて深く印象に残っているが、作品も実物も共に肉体的精神が豊かで、人を元気づけるものがある。新川明には鹿児島でお世話になった。一昨年十一月、沖縄へ行く途中なのであったが、かれのところで四日ばかり御厄介になったのである。奥さんはお産のために留守だった。

1983年10月 新川明・儀間比呂志『詩画集 日本が見える』築地書館□1960年6月『詩と版画おきなわ』、1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集 詞章新川明」をもとに構成。島尾敏雄「沖縄が見える」。装幀・田村義也


1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』6号 国吉真哲「貘さんの<沖縄の青春>」 


写真下は1925年8月16日、貘2度目の上京前に後列左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘
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写真ー1958年・前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、不詳、山之口貘

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Category: 04-書の森
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1966年1月 儀間比呂志『版画風土記”沖縄〟』(題字・榊莫山ー三重師範学校在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎える→ウィキ)

1968年8月『今日の琉球』「好評を博した儀間比呂志個展」




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Category: 04-書の森
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1966年7月 沖縄タイムスホール「第5回 儀間比呂志個展」

宮本常一 1907(明治40)年〜1981(昭和56)年
 1907(明治40)年、大島郡家室西方村(現 周防大島町)で生まれました。大阪府天王寺師範学校を卒業後、小学校の教員となったころから民俗学への関心を深め、民俗学者・柳田國男の指導を受けました。1939(昭和14)年、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(現 神奈川大学日本常民文化研究所)の研究員となります。以後、全国の離島や農山漁村などを訪ね、特に「歩く・見る・聞く」ことを大事にしながら地域の人々と語らい、記録し、生活の移り変わりを明らかにしました。
 常一は「暮らしの中の工夫こそが文化」と考え、周防大島では、常一の呼び掛けで生活文化の継承を目的に、失われ始めていた民具が集められ、それらは「久賀の諸職用具」「周防大島東部の生産用具」として国の重要有形民俗文化財に指定されました。また、周防猿まわしの復活を支えたほか、離島振興法の成立に力を尽くし、離島でも水道や電気が使えるようになりました。日本観光文化研究所所長、武蔵野美術大学教授などを務め、満73歳で亡くなりました。→山口県の先人たち


 左ー『あるくみるきく』は、日本の民俗学者、宮本常一によって1967年に創刊された雑誌。日本観光文化研究所から1988年まで出版されていた。/写真右から野里洋氏、佐野眞一氏、私

 佐野眞一は1997年(平成9年)、民俗学者宮本常一と渋沢敬三の生涯を描いた『旅する巨人』により第28回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。2009年(平成21年)、『甘粕正彦 乱心の曠野』により第31回講談社ノンフィクション賞受賞。2003年から2012年まで、開高健ノンフィクション賞選考委員を務めていたが、週刊朝日による橋下徹特集記事問題で辞任した。

 テレビは何とか抑えている橋下徹ドクサイ市長だが、週刊誌やネットなどはまだ抑えきれてない。日頃から朝日嫌いの市長。新聞社系週刊誌は抑えるキッカケになると今回ここぞとばかりに「天下の朝日」に噛みついた。テレビは日頃、いやいつもドクサイ大阪市長の女性問題なども矮小化し報じているテレビも朝日問題を報道していたのは言うまでもない。報道された内容は今まで実話雑誌や週刊誌に取り上げられたもので何ら新鮮味は無いが、一応「天下の朝日」だから不人気の最中、朝日嫌いのドクサイ市長が人気挽回のための「何とか劇場」であろう。佐野氏については、これからが、島田紳助との絡みや如何わしい市長ブレーンたちが登場し佐野氏の独壇場で面白い展開が待っているので、常識的な『週刊朝日』の連載は止めて別の新聞社系ではない非常識的雑誌で健闘されるよう期待する。むろん部落名などは■にしてドクサイ市長以外の人権に配慮するのは言うまでもない。
 
 2011年11月10号『週刊新潮』に「瞬発力とご都合主義の扇動者!カメレオン『橋下徹』知事」変節の半生」が載っている。大阪八尾市の中部に位置する■■地区。この街中に橋下知事の父親をはじめ、先祖が眠る墓地がある。この■■地区こそ、橋下氏の実父、■■氏が育った街。そして江戸時代に起源を持つ被差別部落が存在する地区でもある。橋下氏の父親は■■地区の出身で、博徒系暴力団「土井組」に所属するヤクザでもあったー。」と紹介されている。新聞社系の週刊誌は何とか抑えても、かつての『噂の真相』系のルポライターは抑えられない。
 
 共同通信と思われるが、10月24日、タイムス、25日新報に「週刊朝日 連載打ち切り 橋下氏反撃に早々の白旗」が無記名で載っている。新報には八尾市教育委員会が同誌を図書館で閲覧制限するという。今はネット時代、無意味である。それより文庫本とか、他の雑誌にも同様に特定できる記事がある。それらも閲覧制限にするつもりか。それとも朝日新聞だから制限するのか。ドクサイで君が代押し付けの市長がいう「血脈主義、身分制に通じる恐ろしい考え方だ」とどう整合性があるのか。それと差別・人権を学ぶ場の大阪人権博物館をつぶそうと企む市長、知事などに人権云々言われたくない。

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2001年3月 儀間比呂志『儀間比呂志の絵本の世界』海風社
〇斉木喜美子ー儀間氏は1970年に川平朝申氏と『ねむりむし・じらぁ』(福音館書店)を出版して以来、実に三十年間も子どもの本の創作に携わってきた。本書はこれまでの活動の集大成とも位置づけることができるものである。儀間氏の表現は「版画」という手法をとっているが、それは版画の持つ複数性という機能を生かしたいからだという。油絵などの一点ものと違って、版画は一度にたくさんのメッセージを発信することができる。本書に取り上げられた『からむし・ペーチン』は版画、『マジムンのうた』と『飛びアンリー』はコンピューターグラフィック、『へこき三良』は児童劇台本であるが、いずれも大勢の人にメッセージを届けるのに有利な手法である。

1971年7月 川平朝申 再話 儀間比呂志 版画『ねむりむし・じらぁ』(福音館書店)

 2013年3月30日 川平朝申や儀間比呂志の児童文学を研究している齋木喜美子さん(福山市立大学教育学部教授)と川平朝清氏(川平朝申末弟、東京沖縄県人会7代会長)/海風社の作井氏とは儀間さんの出版祝賀会で2,3度紹介されたが早逝してしまった。

1986年3月ー海風社『月刊南島』№137/1997年1月ー神戸奄美研究会『キョラ』第2号



1975年12月『図書』岩波書店 儀間比呂志「私の絵本」




1906年5月11日『琉球新報』「童話ー義民伝 前号で終わりましたから今度は暫く少年少女を相手に昔から伝えた本県のお伽話を普通語になおして掲載することにしました。」

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1974年5月『青い海』33号 霜多正次「ウチナーとヤマトゥ」

1957年5月『新日本文学』儀間比呂志(表紙絵)/1973年10月 国際ショッピングセンター4階「儀間比呂志木版画展」主催・球陽堂書房
1957年11月『新日本文学』山之口貘「沖縄島の霜多正次」
1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)




霜多正次 しもた-せいじ
1913-2003 昭和後期-平成時代の小説家,評論家。
大正2年9月5日生まれ。第二次大戦後,新日本文学会にはいる。米軍占領下の沖縄をえがいた長編「沖縄島」で昭和32年毎日出版文化賞。新日本文学会をはなれ,40年日本民主主義文学同盟設立につくす。46年「明けもどろ」で多喜二・百合子賞。平成15年4月16日死去。89歳。沖縄県出身。東京帝大卒。旧姓は島袋。評論に「文学と現代」など。(コトバンク)

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1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子


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2017年9月10日 大正区千島公園グラウンド「第43回エイサー祭り」
〇最近の若者は動画にしてネットで記録している。「第43回エイサー祭り」も、「関西沖縄の集い・がじまるの会」「名桜エイサー」、南山舎の「関西やいまー会」など。


「第30回記念エイサー祭り」会場の儀間さん。金城馨と談笑

2001年9月9日 沖縄市コザ運動公園「第46回 沖縄全島エイサーまつり」/2004年9月12日 大正区千島公園グランド「第30回記念エイサー祭り」



儀間さんとの出会いー沖縄の雑誌『青い海』を通して(4)

1971年11月 『青い海』8号 宜保栄治郎「沖縄のエイサーー勇壮なパーランクーの響き」


1972年5月 『青い海』13号 「青い海出版社新事務所ー新大阪駅正面前」

1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄 ジャンプ・イン<沖縄>青春広場』六月社書房/1975年9月14日「第1回 沖縄青年の祭り」ポスター


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1973年8月6日ー『沖縄タイムス』石原英夫「郷土史研究に没頭する新城栄徳さん」記事を書いてくれた沖縄タイムス関西支社の記者・石原英夫さん(右)と新城栄徳。この記事を見て、佛桑花の会(井伊文子会長。1972年に沖縄県の青少年育成を目的とした法人)事務局長の石川洋氏が京都駅近鉄名店街の私の職場「紅屋」に訪ねてきた。後日、一燈園に石川氏を訪ねて歓談した。

左が石川洋氏、新城榮徳

「がじゅまるの会」「沖縄県大阪事務所」


「平山敏治郎」「井伊文子」「金城実」「儀間比呂志」
 
1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」、大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」


1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
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1975年6月 『沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック』財団法人沖縄国際海洋博覧会協会(版画は『儀間比呂志の版画 沖縄』講談社刊より)

1977年7月『青い海』65号 「大阪で二つの展覧会ー儀間比呂志版画自選展と大城一史・石田亮太郎二人展」「女人登場”世界の泡盛〟めざしてー照屋比呂子さん」

2017年5月4日『沖縄タイムス』「ソテツ新たな活用に光」

1977年9月『青い海』66号 「女人登場ー花織に想いを込めてー与那嶺貞さん」「沖縄女流美術家協会設立、会長・久場とよ、副会長」・山元文子、事務局長・宮良瑛子」

1977年10月『青い海』67号 「大阪の空にエイサーのリズムが響きわたるー第三回沖縄青年祭り。9月15日、尼埼市。18日、大正区千島グラウンドで山端立昌大阪沖縄連合会副会長挨拶、東京ゆうなの会、愛知沖縄青年会のあいさつ、彫刻家・金城実もあいさつ。見物の人も含めて約150人が参加」「儀間比呂志展、沖縄物産センターで開かる」 

1978年6月『青い海』74号 永峰真名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会ー」/儀間比呂志、安谷屋長也、金城順亮、浦添正光、島袋純子「<座談会>地域に根ざした児童文化を」

1978年10月『青い海』77号 「那覇市八汐荘ホール 賑わった出版祝賀会”鳥類館〟儀間比呂志『七がつ」エイサー』『りゅうとにわとり』、新川明『新南島風土記』、川満信一『沖縄・根からの問い』3氏を展示して大騒ぎ。豊川善一、北島角子、高江洲義寛、幸喜良秀、海勢頭豊、南条喜久子、森田吉子、玉城秀子、嶋袋浩(福木詮)ら参加」「パーランク高らかにー第四回沖縄青少年の祭り」


1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと 1968-72年』岩波書店□あとがきー(前略)表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


1978年10月1日ーエイサー会場で走りまわるフトシ君とコウ君

1978年11月『青い海』78号 儀間比呂志「沖縄の子・大和の子たちへー絵本で伝えたい沖縄のこころー」/永峰真名「メヒカーノスになった沖縄人」
1979年5月『青い海』83号 「帰郷中の版画家・儀間比呂志氏の呼びかけで、4月の末に宮城美能留氏の宮城舞踊研究所(那覇・松尾)で、琉舞を鑑賞し、懇談する集いが開かれました」


1979年11月『青い海』88号 儀間比呂志「戦がやってきた」(沖縄三越ー沖縄戦版画集出版記念展)

1980年4月『青い海』92号 「新鮮なイメージ再びー儀間比呂志版画小品展ー3月27日から沖縄物産センター」「文化アラカルト/沖縄物産センター開設十周年」 
1980年6月『青い海』94号 「沖縄問題研究センター(上江洲久理事長)設立総会/宮本憲一大阪市大教授が記念特別公演『基地がある限り、自治はない』と語り、財政学の立場から、沖縄の現状を分析しました。」

1980年7月『青い海』95号 儀間比呂志/徳田澰/大湾雅常「第二回青い海児童文学大賞ー選考を終えて」
1980年10月『青い海』97号 宮良瑛子「ぎゃらりーの言葉」

1986年4月 『小説推理』津野創一「響け!パーランクー」

1986年の津野さんの年賀状/1981年3月の山城『青い海』社長の「大阪支社移転あいさつ」

1993年「エイサー」/1978年7月 『七がつエイサー』福音館書店

○版画ー儀間比呂志 2014年9月14日(日) 大正区千島公園グランド「第40回エイサー祭り」問合せ・関西沖縄文庫☏FAXー06-6552-6709


1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)□古波津英興「方言使用スパイ処分文書」



1983年9月23日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「菊と仏桑華」第20号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)

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古波津英興氏と新城栄徳


2001年4月 『民権の火よ永遠にー小波津英興追悼集』沖縄民権の会


1980年9月『青い海』96号「儀間版画を一堂に集めてー儀間比呂志・版の世界展」「沖縄県大阪事務所で第一回沖縄観光フェアー大城一史『沖縄風景画展』も開催」/大城一史作品を背景に新城さやか(現在41歳)

1980年の『沖縄商工名鑑』は沖縄興信所の発行である。「本土在住沖縄県人有志名簿」のところの沖縄県大阪事務所の広告に、前田朝助所長、當間成一次長の名前が見える。前田さんは1924年の大宜味生まれ、當間さんは1937年の豊見城生まれと、名鑑にある。また発行人の田中久雄のところには田中町子(1917年の宮古生まれ)、夫久雄(本書著者)とある。名鑑の序文に「名鑑は昭和26年8月に沖縄興信所の調査資料を基礎に第1版を発行以来、28版を迎えることになりま愛した」とあり、また「永年の高血圧で入院し本書の出版も遅くなりました」とする田中久雄の挨拶がある。
 発行人が尼崎在住なので関西の県人広告が多い。昭和食品(安里嗣福)、宮城清市、山端立昌、大都設備工業(名嘉正成)、上進商会(上間平進)、屋良運送(屋良朝光)、丸一食品(仲間宗一)、琉球銀行大阪支店(山里正雄)、沖縄銀行大阪支店(嘉陽宗清)、有村産業大阪支店、諸喜田精肉店(諸喜田太栄)などがある。沖縄県大阪事務所は前田所長、當間次長のとき島根県ビルから大阪駅前第3ビルに移転してきた。1980年であった。同年3月発行の『青い海』は特集「ドギュメント琉球大学」で広告に県事務所から當間次長(第8期)、武島第二課長(第7期)がある。

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前列左から當間次長、前田所長、兵庫県人会婦人部ー大城一史の作品を背景にして/1980年8月、沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、黒メガネが大城一史氏



1997年11月 宜保榮治郎『エイサー 沖縄の盆踊り』那覇出版社/1998年3月 沖縄市企画部平和文化振興課『エイサー360°ー歴史と現在ー』沖縄全島エイサーまつり実行委員会

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2017年4月3日~7月17日 高麗美術館「上田正昭と高麗美術館」 
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『日本のなかの朝鮮文化』朝鮮文化社(鄭 詔文)

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1973年3月ー『琉球の文化』第3号□広告に朝鮮文化社がある。
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上田正昭さんが沖縄に来られたとき写真に収まってもらった。ご本人の著書は1971年末からの付き合いである。
1973年  福木, 詮『沖縄のあしおと―1968-72年』 (岩波書店)儀間比呂志「表紙版画」

1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談  司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。

〇石垣島の石垣という以上、島主だった家なのかと思って、その家の中年婦人(末吉麦門冬の娘・石垣初枝)にきくと、「もとは大浜という姓だったそうです。何代か前に石垣と変えたときいています」ということだった。家の人の説明によると、「このお庭は、文政2(1819)年の作だということです。庭師は首里からきました。方式ですか、日本の枯山水です」ということだった。枯山水というのは池もなく遺水もなしに石組だけで山水を表現する作庭形式だが、滋賀県の園城寺金堂の庭園などを見ると、平安期からこの思想はあったらしい。しかし完成したのはよく知られるように室町期からで、この様式が江戸期に八重山諸島にまで及んでいたということは、不覚にも知らなかった。/ごく最近、古美術好きの私の友人(鄭 詔文)が、沖縄へ行った。かれは在日朝鮮人で、齢は五十すぎの、どういうときでも分別のぶあつさを感じさせる人物である。

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写真左/1999年5月11日沖縄ハーバービューホテルで神坂次郎氏(作家・熊野の生き字引で司馬遼太郎の文学仲間)、新城栄徳。末吉麦門冬の取材を終えての祝盃。撮影・末吉安允
写真右/1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談。

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写真の『青い海』は沖縄県立図書館所蔵/私のは合本しているので表紙は広げられない。

 
1983年7月6日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/『青い海』創刊の頃」


 1971年4月 『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)
 表紙絵「舞姫」は儀間比呂志作、儀間は「この作品で云いたいのは、沖縄がどんな状況にあろうと、民族の誇りと、文化を守ろうとする若人のけがれのない瞳の美しさなのです。」と強調している。以後『青い海』表紙の儀間作品は2号、3号と続き、以後も3回、口絵も多数。その当時は渚ゆう子の歌「京都の恋」がテレビなどで流れて、歌詞の「わたしの心に鐘が鳴る 白い京都に 雨が降る」は寒い京都と相まって今でも覚えている。渚は『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代なので検索すれば直ちに渚ゆう子画像・動画は過去から現在までなんぼでも出てくる。
 1971年5月、沖縄の雑誌『青い海』2号に「あるグループ 沖青友の会(大阪)」が紹介されている。末尾に、大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。と結んでいる。当時、関西には、京都の都沖青、港区の沖青友の会、大正区のサークル南風、枚方市の守礼の会、尼埼の三和同郷青友会があった。それらと連絡雑誌を作ろうと沖青友の会が動きはじめた最中であったから、『青い海』創刊は渡りに船であった。私より沖青友の会の嘉陽宗博会長の方が積極的で機関誌『石の声』で宣伝にこれ努めた。
 西平を紹介してほしいと、京都長岡天神でミニコミ紙「琉球弧」を出していた高良重一が沖縄から来た友人・小渡照生を同行してきた。大阪港区の池島保育園(西平夫人が園長。近鉄の野茂英雄投手も同園出身)の管理人室で西平を交えて話を聞いた。小渡は、大阪で図書館関係の仕事をしたいということだった。私は早速、沖縄の雑誌『青い海』が編集者を募集しているが、それをしながら図書館の仕事を見つけたらどうかと提案した。いつの間にか小渡氏も『青い海』の編集デスクに納まり、高良も『青い海』に協力し、東京支社長もつとめた。私も仕事(調理師)の合間に週に2回は『青い海』編集室でゴロゴロするようになった。
 1972年『青い海』2月号に大阪都島の沖縄関係資料室が紹介され私の発言「沖縄のいぶき、臭いのあるもの、すべてを(沖縄の)集収する。この小さな部屋に沖縄を凝集させる」を載せ新城栄徳君の抱負であるとする。だが、すべてのウチナー資料を資料室に集めるということはスペースもだが、限界がある。そこで関西にある公共機関(図書館・博物館)の沖縄関係所蔵資料の目録をヒマがあるとつくっていった。大阪府立中之島図書館には、伊波普猷の著書は『古琉球』をはじめ、戦前のものだけでも18冊、大城立裕の著書は14冊ある。新聞は琉球新報、沖縄タイムスの両支社に10年分はある。沖縄県大阪事務所は前田朝助所長、次長の協力を得て主要な資料のリストはつくった。物産展のポスターなどの資料は豊富である。青い海大阪支社には県人会、郷友会発行の会誌、名簿資料がある。宝塚歌劇団にも沖縄芸能の録音、8ミリの所蔵300点がある。民博、日本工芸館にも沖縄民芸が豊富にある。
 1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」、大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」

1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。元沖青友の会のメンバーが中国関係の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』、『毛主席語録』と大中国地図などがある。
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『毛主席語録』/中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。
 立命館大卒業で元沖青友の会のメンバーが中国物産の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』特大号、『毛主席語録』と中国大地図などがある。中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。西平さんも大阪保育事業団理事として中国に保育事業の視察に行っている。お土産に毛沢東の詩を記した布の栞をもらった。真喜志康忠『沖縄芝居50年』に、17歳の大阪時代と昭和37年の関西公演のときの康忠の回想がある。その中に康忠が関西公演の折、京都の河井寛次郎宅に招かれた写真に、わが「資料室運動」の先達、西平守晴(大阪保育事業団常務理事)も写っている。西平は私に『八重山で康忠の芝居を見たとき、舞台から芝居を演じながら観客席の私を見つけ、舞台が終わると連絡してきた』と康忠のことを語ったことがある。康忠は儀間とも親交がある。
 
青い海文芸/祖慶美佐江「母校のナンキンハゼ」、宮城清子「短歌」、平良寿美子「青春て何だ」、宮城敏夫「生きる、大城悦子「ささやかでも尊い想い出」」(何れも『石の声』転載)
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右・1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』の『青い海』紹介。
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1983年7月6日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/『青い海』創刊の頃」/1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」
1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」
○ぼくの、風変わりな友人の一人である新城栄徳君が、例によってひょっこりやってきて「これ、あげます」と言って、一冊の雑誌を置いてひょう然と帰って行った。ザラ紙の、30ペ-ジほどの冊子「おきなわ」創刊号である。昭和25年4月の発行だから、24年ほども前の、紙の事情もまだわるいころのものだ。発行所が東京になっていて、広告が、当時の在京県人の経済活動を問わず語りに語る。
巻頭言には、講和前の沖縄の帰属問題を憂う在京県人の気持ちをうつして「その時が、来るまで、県人の心の立ち直りに資する」ために発行した、とはっこうの趣旨がうたってある。その時は、翌年9月にやってきて、対日平和条約は沖縄を日本から切り離すことを明文化して調印された。残念ながら、その時の周辺の「おきなわ」は手元にない。しかし、おそらくは在京県人を中心として、郷土沖縄をうれう声が全ページに盛られているだろう、と想像する。
数日後、再びひょっこりやってきた新城君は、「おきなわ」が30号ほど続いたこと、したがって「青い海」が沖縄の月刊誌としてやっとのことで最長不倒記録?をつくったことを伝えて、ひょう然と帰っていった。ぼくたちが、ささやかな月刊雑誌の発行を思いたったのが70年の暮れだった。以来、いくつかの危機と分裂と業務不振などの曲折を経て、いま沖縄の郷土月刊誌「青い海」は8月号で35号を数える。「その時」にそなえたものではなかったが、復帰というその時を境に、編集の方向も少しずつ変わっている。「こころの立ち直りに資する」ほどの自信はないけれども、沖縄をともに語らい続けようというのが、発行人の山城賢孝とぼくと、スタッフの心意気である。
「それにしても、24年前に『おきなわ』をつくった先輩たちを、何ほどものりこえてはいませんね」。ひょっこりやって来た新城君のひょう然と帰る前の捨てゼリフである。ナイーブなぼくは、著しく傷つき、そのことばの鉄ついにうちひしがれて、気恥ずかしさから、沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る”いちむどぅやー人生”に埋没する。新城君はぼくの友人である。新城君は「ぼくは『青い海』の友人」なのだ、という。
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雑誌『おきなわ』

1997年8月ー『敍説』新城栄徳「雑誌『おきなわ』総目次」



1981年8月 『創刊10周年 青い海文化まつり』淀川長治「十年を迎えられて」/西町の「青い海」編集室





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1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 そこに語りこめられたふるさとびとたちの生々しい体験と、記憶の奥ではげしく燃えつづけている戦争への憎しみの思念には、強く胸をうたれました。そこを出発点に、わたしの”沖縄戦〟への歩みは始まったのです。このとき、沖縄では戦没者の三十三回忌の法要が行われました。わたしは、戦記を読み、証言に耳をかたむけました。戦跡にもなんべんとなく足をはこび、ガマ(住民が避難した自然洞窟)にも入って、当時の人たちの凄絶なイメージを、わがものにしました。作画にあたっては、友軍とよばれた日本兵の、住民への残虐行為、ウジ虫を涌かした負傷者、集団自殺、腐乱死体の山など、酸鼻だからといって避けて通るようなことはしませんでした。それが沖縄戦の実相だからです。わたしは祈りをこめて版を彫り、バレンを押しました。
 こうして今ここに、二十五点の大版の木版画が完成したのです。この仕事はライフワークとして、つづけていくつもりですが、一区切りついたところで公にし、きびしいご批判を賜りながら、内容のより充実をはかっていきたいと思います。
 本に編むことにつきましては、畏友中山良彦氏に解説をお願いして共著として出版することにしました。各作品に付された氏の文章は、平易だが重厚な内容をそなえ、すぐれた平和論として、読者に感銘をあたえずにはおかないでしょう。
 表題の「戦がやってきた」は、わたしが証言者のことばから借用しました。これは、このシリーズの創作上の基本姿勢が、住民視点にあることをずばりと、いいあらわしているように思ったからです。
 さて、この戦争版画集。沖縄の生き証人たちが、どう受けとめて下さるか、大いに気になるところです。とくに、あのお婆さんの目がこわい・・・・・。 1979年9月

「もうたくさんだ」(部分)

1995年8月 儀間比呂志『沖縄戦 朝鮮人軍夫と従軍慰安婦』清風堂書店ー□船越義彰「喜屋武岬海岸」、□儀間比呂志ー私の沖縄戦版画〇実際、戦争の本当の犠牲者は、子どもたちではないだろうか。私たちは、あの状況のなかで、戦争に反対することはできなかった。その結果、ずるずると、破滅にのめりこんだ。そして、多くの子どもたちを不幸な目に逢わせた。言うなれば、当時の大人一般は、等しく戦犯であろう。「あの時は・・・・・・」の言いわけはすまい。しかし黙するわけにはいかない。やることは、再びあの愚をくりかえさない努力をすることではないだろうか。沖縄県民が体験した「いくさは、ならんどォ」の執念には、人間にとって根源的な人類の「共存」という命題がこめられている。あとがき〇作家の船越義彰氏が寄せられた自らの体験記は、沖縄戦について、私の言いたらない面を補って余りあるものがある。感謝の意を」表したい。なお、取材の面では、山内栄氏に大変お世話になった。あわせて、本書の刊行を心よく引き受けて下さった清風堂の面屋龍延社長にも心からお礼を申しのべたい。
   
2917年7月『沖縄9条連たより』山内榮「六-二三と八・一五のはざまでー戦後七二年・憲法施行七〇年の年に考える」/儀間比呂志「むんじゅる笠」(新城栄徳 所蔵)


『詩画集 琉球愛歌』右の儀間作品は1981年4月 野ざらし延男『沖縄俳句総集』にも使われている。

2009年9月 儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』ハイウェーブ〇新川明(沖縄タイムス社社長)(前略)儀間版画には土俗的な祭りや風物を描く風土記的な世界と米軍基地や沖縄戦を告発する社会派的世界があるが、一貫しているのは沖縄=琉球に向ける深い愛のまなざしであり、権力の不条理に対する怒りと抵抗の意志である。それはつまるところ人間性の追求に立脚するものだが、こうした儀間版画の世界に<MON8>が発する詩句のエッセンスが対置されるとき、両者の魂のメッセージは共鳴し、増幅されて新しい世界が創り出されることに驚嘆せざるを得ないのである。まさに世代を超えて響き合う、沖縄発の人間賛歌がここに誕生していることを確認できるからである。〇儀間崇ー僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・

1989年3月 儀間比呂志『新版画風土記 沖縄』海風社



1989年3月 儀間比呂志『新版画風土記 沖縄』海風社ー国際通り、自画像/与儀公園の山之口貘詩碑/斎場御嶽ー一度はお詣りしたかった場所だ。案内してくれたのは舞踊家の佐藤太圭子さんと、詩人の高良勉夫妻。

1997年12月 佐藤太圭子『華の舞ごころ 琉球舞踊に生きて』沖縄タイムス社/写真・大城弘明


2004年5月 儀間比呂志『沖縄戦版画シリーズ 戦争と平和』増川白陽「タイトル文字」画廊サエラ(松岡勇)/画廊サエラの松岡勇氏(左)、儀間比呂志

儀間比呂志「表紙絵」コレクション

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 儀間さんとは、いつのまにか沖縄での空間を共有することが増えていた。が、親族の話は聞いたことが無い。亡くなられた後に、那覇中学校の同級生(儀間さんの姪)に聞いた。儀間さんは長男、妹二人、弟二人の家族でターリーは沖縄戦で亡くなった。アヤーは亡くなって今年33年。

親族に囲まれた儀間さん

 2009年9月発行の儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』に儀間崇が、僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・、とあるように先祖は久米村の蔡氏と分かる。

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久米村蔡姓


1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 <特集・久米三十六姓よ どこへゆく>

富島壮英「久米三十六姓とは何か」/神坂次郎氏と富島壮英氏


仲井眞元楷の原稿

 新城栄徳ら京都沖縄青年グループ(都沖青)、京都三条河原町「守禮」に連絡所を置く / 京都河原町三条にあった琉球料理「守禮」/私達の「都沖青」の連絡所であった。 名簿も作ってもらった。




 沖縄県護国神社の鳥居には右翼団体・日本民主同志会/松本明重とある。かつて平良盛吉『関西沖縄開発史 : 第二郷土をひらく 』1971を援助し日本民主同志会本部名で発行していた。松本は世界救世教外事対策委員長、祇園すえひろ会長だが、沖縄に関わり、「京都の塔」「小桜の塔」などに碑を建てている。松本は東本願寺紛争にも名が出てくる。相対する西本願寺、第22世門主の大谷光瑞は、戦前の沖縄新聞に、「光瑞来沖か」と云う記事を見たことがあるが、結局来なかったようである。その代わりというか弟の大谷尊由が1918年2月に来沖し相当に歓迎されたようである。光瑞と同じく宗教界の怪物と知られる人物に大本の出口王仁三郎が居る。 
 
1971年末、京都丸太町の古書店で『立替え立直し』を買った。梅棹忠夫・上田正昭の対談「出口王仁三郎における変革の思想」が載っていた。発行は亀岡の大本本部天恩郷で、ちょうどそこには沖縄から金城ひろこさんが奉仕活動に来ていることを大城敬人氏の紹介で訪ねた。都沖青の沖縄青年運動の一環で亀岡の渡文や大本亀岡本部はよく訪ねた。本部から離れたところに王仁三郎の生地瑞泉郷がある。大本本部の大本資料室で王仁三郎来沖(1927年12月)のときの資料などを読み、王仁三郎扮する七福神や神々の写真パネル、王仁三郎手作りの楽焼の茶碗も見た。茶道、八雲琴の演奏も聴いた。



近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 /右ー寮は南区

寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅

コザ騒動ーその日の前後、私は京都鳴滝にある沖縄学生たち(同志社大・立命館大)の借家のひとつ、山口さんの部屋に居た。沖縄から帰ったばかりの山口さんの婚約者が興奮さめやらぬ口振で語る「コザ騒動」の話を学生たちと聞いていた。



1960年4月 村松寛『美術館散歩』「日本工芸館」河原書店

 松本明重、この人とダブって思い出すのが、「元祖スエヒロ」という「しゃぶしゃぶ」の店を経営している大阪日本工芸館長の三宅忠一である。館長は金光教本部のある岡山県玉島出身で、館長もその信仰に篤い。この人も沖縄民芸振興などに力を入れていた。私は難波の日本工芸館はよく行くところで、ここで三宅館長と親しく熱心に会話する儀間さんを見た。このときは儀間さんも館長も面識はないので挨拶はしなかった。1973年、通産省が企画した第一回沖縄民芸振興展を日本民芸協団(三宅忠一理事長)の主催で東京、大阪、福岡で開催した。74年の第二回展の小冊子の表紙は儀間さんの版画「赤瓦の屋根の下で織物をしている女性」で、「表紙のことば」としてその解説も載っている。75年「紅型染色の城間栄喜父子」、76年「沖縄ガラス」、77年「琉球玩具」、78年「シーサー」も同様である。

沖縄展(那覇市民会館中ホール)のチラシ

1979年12月 三宅忠一『日本の陶磁14 民窯』保育社


1982年6月 上江洲久『ここに榕樹あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史』儀間比呂志「扉及び見返し版画」

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 「くろねこの短語」8月 30日-(前略)新聞・TVが乗っかっちゃって、危機感を煽る煽る。こんな時こそ冷静で客観的な情報分析が重要なのに、「北朝鮮がミサイル発射」ってことだけをがなり立てるんだから、こういうのって騒乱罪じゃないのか。
 それはともかく、現実には北朝鮮のミサイルは高度550kmの宇宙空間(ここ大事。試験に出ます)を飛び去って、襟裳岬の東約1180kmの海に落ちたってことなんだね。(略) 北朝鮮のミサイルがどうしたこうしたってんなら、オスプレイの方がよっぽど危なっかしい。北朝鮮ミサイル騒動に隠れているけど、昨日、大分空港に緊急着陸したってね。機体トラブルらしいってんだが、こちらは北朝鮮のミサイルと違って、いつでも頭上に落ちてくる危険がありますからね。こんな欠陥機が日本の空を我が物顔で飛んでいることには無関心で、北朝鮮のミサイルには右往左往するのはなんとも滑稽な今日この頃なのだ。(略)ところで、沖縄防衛局職員が辺野古新基地反対の市民に「日本語分かりますか」ってのたまってくれちゃったってね。(略) 
 最後に、ひょっとこ麻生が、またしてもナチス絡みで問題発言したってね。なんでも、「何百万人殺したヒトラーは、いくら動機が正しくてもだめだ」って口走ったそうだ。にしても、この男、なんでいつもナチスを引き合いに出すんだろう。発言内容よりも、そちらの方がよほど問題なんじゃないのか。

  「くろねこの短語」8月 29日-北朝鮮のミサイル発射で、朝っぱらから空襲警報のようにTVもラジオも上を下への大騒ぎ。でもねえ、緊急アラートが鳴った時には、もう日本上空を飛び去った後なんだから間抜けな話なんだよね。そもそも、ミサイル飛んできたら迎撃するんじゃなかったのか。Jアラートの画面ってのが、これまた危機感煽りまくり。「ミサイル発射。ミサイル発射。北朝鮮からミサイルが発射された模様です。頑丈な建物や地下に避難してください」だとさ。顔も頭も貧相な官房長官・菅君は「今回発射された弾道ミサイルは我が国の上空を通過したと見られ、我が国の安全保障にとって重大な脅威である」ってのたまってくれちゃってるんだが、「重大な脅威」ってのは具体的に何を指して言ってるんだろう。(略) 新聞・TVは、タレント議員のお姉ちゃんと一線越えたとか越えないとか騒いだあげくに、政務活動費の横領が発覚したチンピラ議員の話題で花盛りなんだが、ここに北朝鮮のミサイル騒ぎが加わって、さぞかしかまびしいことになるのだろう。そうやって、「もり」も「かけ」もなかったことにしようって魂胆なんだろうが、そうはイカのオチンチ、タコが引っ張る、ってなもんです。というわけで、今日のところはお後がよろしいようで。

【ソウル時事】8月29日ー韓国軍合同参謀本部によると、北朝鮮は日本時間29日午前5時57分ごろ、平壌の順安付近から日本海に向けて飛翔(ひしょう)体を発射した。聯合ニュースによれば、弾道ミサイルで、日本の上空を通過した。米軍も北朝鮮が飛翔体を発射したことを確認した。□首相官邸(災害・危機管理情報)とかで国営放送、民放が一斉に「北朝鮮ミサイル」情報で頑丈な建物に避難しろとか電車も運転を見合わせるとか、前にも似たような猿芝居があったが。

 「くろねこの短語」8月 28日-(年金受給75歳から・・・なんて話が持ち上がり、胡乱な目つきの進次郎がこども保険のために富裕層は年金返上しろなんてことまで口走り始めたと思ってたら、なんとまあ今度は「老後は自分で何とかしろ」とまで言い出したそうだ。(略)しかし、おかしな話だよね。「老後の所得保障」のために公的年金があるわけで、少子高齢化が云々っていう前に制度設計の建て直しにこれまでまったく手をつけてこなかった政治の責任だろう。そもそも、「年金100年安心プラン」ってのは何処行ったんだ。消えた年金記録の時に、「最後のお一人にいたるまできちんと年金をお支払いしていく」ってがなりたてていたのはどこのどいつだ。こういうやらずぶったくりを平然と口にするから、どんどん年金払う若者が少なくなっていくんだよね。払ったって戻ってこないんじゃ、それは国家による詐欺ってものだ。その年金だって、国民年金だけじゃ生活できませんから。なんてったって生活保護費よりも低額な年金がどこにある。一般大衆労働者諸君の年金に手を出す前に、議員年金を返上して、歳費も見直し、濡れ手で粟の通信費や政務活動費も廃止。もちろん、世襲議員は認めない。自らの衿を正すことなく負担だけを押しつける。おととい来やがれ、ってなもんです。

 「くろねこの短語」8月 26日-(前略)都民ファーストの会の代表は帝国憲法復活家論者の野田君だし、ようするに小池新党ってのは自民党の補完勢力であるってことが旗幟鮮明になってきたってことなんだね。そういえば、関東大震災における朝鮮人虐殺への追悼文を、ぼったくりバーのチーママ・小池君は断ったそうだ。つむじが右に曲がった集団ということが日々鮮明になっていくことを、都議選で都民ファーストの会に1票投じたひとたちはどんな思いで見つめているのだろう。

 「くろねこの短語」8月 25日-加計学園疑獄は、NHKが日和って流出した設計図をお蔵入りにしようとしたけど大失敗。テレビ朝日、TBSがかなり気合を入れて動き出し、なんと田崎スシロー御用達のTBS『ひるおび』でも取り上げとりました。で、設計図をメディアに持ち込んだ黒川氏が記者会見。建築費用の水増しはもちろん、「バイオ施設」の重大な欠陥まで赤裸々に公開。ペテン総理とその「ばくしんの友」である加計孝太郎君の外堀は日に日に埋まりつつあるってわけだ。(略)つまり、交渉は森友学園で行われたってことを意味している。国有地を払い下げる財務省が、わざわざ払い下げをお願いしている森友学園に足を運ぶってんだから、森友学園を優遇するそれなりの理由が財務省にはあったんでしょうね。それこそが、「総理のご意向」だったんじゃないのか、っなもんです。これで、シュレッダー佐川君は絶体絶命。近いうちに辞任なんてことがあるかもしれない。そんな日が待ち遠しい今日この頃なのだ。

 「くろねこの短語」8月 24日-昨日のエントリーで、加計学園獣医学部の設計図流出について、テレビ朝日『報道ステーション』が今週にも動き出すかもと書いたんだが、とうとうテレ朝とTBSがやってくれました。坪単価の水増し、目玉である「バイオ施設」の重大な欠陥と突っ込むところは満載で、とりあえずジャブ程度ではあったけど、この報道が呼び水となって加計学園もろともペテン総理の首が取れたらロマネコンティで祝杯だ!!ところで、秋の臨時国会で、「残業代ゼロ」「残業上限規制」「同一労働同一賃金」の3つの法案を一括で審議するってね。まったく性格の異なる法案を一括でってのは、あの安保法制=戦争法の審議と同じで、議論が深まって法案の問題点が浮き彫りになるのを避けるためにペテン政権がよく使う手なんだね。

 「くろねこの短語」8月 23日-(前略) 溶け落ちたデブリの始末だって暗中模索どころか、絶望的な状況だってのに、それでも原子力村は原発再稼働を進め、なんとまあ原発新設なんて声も上がっている。韓国、台湾が原発新設を白紙に戻して、エネルギー政策の転換を図っているってのに、いまだに「原発神話」にすがりつく日本は、再生可能エネルギーへと向かう世界の潮流から取り残されることになりますよ。将来にわたって、愚かな宰相に国の行く末を託してしまったツケを払わされるということだ。

 「くろねこの短語」8月 22日-(前略)ところで、民進党の代表選なんだが、湯上りの口先番長・前原君と二枚舌の猪八戒・枝野君が記者会見をして、それぞれの政策らしきものを開陳した。やっぱり、湯上りの口先番長はダメだな。「政権選択の衆院選で理念や政策が合わないところと協力するのはおかしい」
「野党四党が協力してきた重みは受け止めながら、この是非についても見直したい」「次期衆院選で、全選挙区に候補者を擁立するのを原則にしたい」「安倍政権の下での憲法改正に反対するのは、国民の理解の理解を得られない」猿でも反省する時代に、まだこんなこと言ってるんだもん、呆れちゃいますよ、ったく。「日本ファースト」との連携にも前向きのようで、だったらモナ細野と一緒に民進党出ていきゃいいのに。それで民進党が割れたとしても、その方が民進党の立ち位置が鮮明になって「反安倍」の声を吸収できるんじゃないのかねえ


 『産経新聞』20日が「しんぶん赤旗」日曜版を逆宣伝ー共産党は「辺野古移設反対」と「翁長雄志(おなが・たけし)知事支持」を叫ぶ「オール沖縄」勢力の中核をなし、琉球新報と沖縄タイムスは同勢力の応援団となっている。3者は、来年2月の名護市長選や来秋の知事選での「勝利」に向けて軌を一にしており、今回の記事で「不屈の結束」が示された形だ。

 「くろねこの短語」8月 20日-(前略)「バイオ施設」がどうたらこうたらよりも、パーティルームのネタはワイドショー的には美味しいですからね。加計学園が教育理念からどれだけ乖離した組織であるか、これだけで一目瞭然ですから。獣医学部完成の暁には、日刊ゲンダイが書くように、ここから今治市外を見下ろしつつ、「腹心の友」であるペテン総理と乾杯するつもりだったんじゃないのかねえ。こんなんだもの、文科相が認可を渋ったわけだ。岩盤規制打破とは、国家戦略特区に巣食ったペテン総理と不愉快な仲間たちの利権確保のための口実ってことを、文科相は肌で感じていたのかもしれない。だからこその前川前事務次官の告発だったのかも。いずれにしても、こんな美味しいネタを野党が食い損なうようだと、森友と加計の両疑獄はこのまま闇に葬られることになりますよ。

【立憲フォーラム通信:791】 2017年8月19日ー旧山古志村長で自民党の長島忠美衆議院議員が亡くなりました。死去に伴い10月22日に新潟5区で補欠選挙が行われる予定で、青森4区と愛媛3区と合わせ三選挙区での補選となります。これを勝ち抜くには野党候補者の一本化が不可欠ですが、民進党代表選に出る前原元外相は共産との選挙協力を「見直す」と発言。このリアリティの無さには言葉がありません。米では影の大統領とまで一時言われたバノン首席戦略官が解任されました。政権混乱を受け日米の株価が急落しています。『毎日』の黒田日銀総裁の居直りインタビューも注目。
 
猛暑の続く沖縄で、自分たちは警備車や装甲車のクーラーで休みながら反対する市民には日よけさえも認めない?2+2ではにこやかに、新基地基地建設を強行推進を確認、民間空港の使用がなければ普天間返還はありえないその上、北朝鮮攻撃には日米安保の適用で戦闘準備?
アメリカでは軍事企業の株が値上がり、戦争景気への期待北朝鮮は、トランプ、あべ にとっては、危機感を煽り、支持率低下を防ぐ、利用価値のある存在だから、すぐにはつぶさないアメリカの軍事戦略にとって実に好都合で、これからもとっておきたい、ありがたい存在なのだろう(T)

 「くろねこの短語」8月 18日-(日米2プラス2で日米軍事同盟強化合意。自衛隊がアメリカの戦争に駆り出されるのも時間の問題か!?&「共産党との協力は難しい」「改憲議論に応じる」「小池新党との連携視野に」(前原誠司)。バカじゃねぇ?
 網タイツの防衛大臣では話にならないってんで延期になっていた日米2プラス2が、バソナ小野寺君が防衛大臣に就いたことでようやく開催。リベラル装いつつ本性はペテン総理のお仲間である外務大臣のごまめの歯ぎしり・河野君共々、会議のテーブルに付きましたとさ。
 でもって、何をするかと思ってたら、「北朝鮮の脅威に断固とした姿勢で臨む」そうだ。そのために、迎撃ミサイル「SM3」を地上配備する「イージス・ショア」を導入するってさ。一基のお値段は約800億円。日米同盟を強化するってことは、とりもなおさず日本の税金がアメリカにむしり取られるってことなんだね。さらに、「普天間飛行場の移転は、辺野古の新基地建設が唯一の解決策」ってことも改めて確認したっていうから、ますます「アメリカのポチ」ぶりに磨きがかかったってことだ。

1982/10/15 前田寿夫『軍拡!日本の破滅 恐るべきアメリカの戦略との決別』文化創作出版②

 押しつけられた日米安保ーもともと日米安保条約などという代物は、米国が”戦勝国の権利〝をカサに着て、いやがる日本にむりやり押しつけたもの。サンフランシスコ講和条約会議(1951年)当時、”独立回復〝とセットにして、こっちを認めなければあっちも認めないと、独立回復を待ち望む日本に強制したのが、日米安保条約であります。米側が日本国民の反対を恐れて、講和会議の直前まで日本側に条約草案をみせなかったこと。条約草案を突きつけられたとき、当時の政府首脳が、”これでは占領の継続じゃないか〝と大きなショックをうけたこと。これらは、いずれも周知の事実であります。いわば、日本国民の関心をもっぱら講和条約それ自体に向けさせて、そのドサクサにまぎれて日本政府に押しつけたわけです。

 旧安保条約の前文には、いかにもわが国の方から頼み込んでこの条約を結んだようなことが書かれていますが、とんでもありません。米国は、これによって、講和条約発効後も、ひきつづき米・占領軍を無期限に日本に居座らせることができるしどのようにでも日本の基地を利用することができる。しかも、”日本国政府の要請に応じて〝という条件つきながら、米軍を、”日本国の内乱や騒じょう〝の鎮圧に使用することもできる。また、日本に”自衛力漸増〝の責任を負わせ、うまくいけば米戦略の一翼をになわせることもできる。そのうえ、条約に付随する行政協定によって、米軍の駐留費を分担させられるわ、その将兵に治外法権を認めさせられるわ。これが旧安保条約の内容であります。誰がこんな条約を結びたいなどと頼み込むものですか。

前田寿夫 まえだ-ひさお
1919- 昭和後期-平成時代の軍事評論家。
大正8年12月8日生まれ。もと陸軍中尉。東海大助教授をつとめたのち防衛庁の防衛研修所(現防衛研究所)にはいり,昭和48年第一研究室長。安全保障政策を担当し,55年退職。在職当時の講義内容をまとめた著書「間違いだらけの防衛増強論」で知られる。栃木県出身。東京商大(現一橋大)卒。 →コトバンク

 『日刊ゲンダイ』8月18日ー15日夕方、山梨県鳴沢村の別荘に着いた安倍首相が向かったのは、近所にある笹川陽平日本財団会長の別荘だった。そこで森元首相、小泉元首相、麻生副総理らと3時間以上にわたって会食した。(略)安倍首相が今秋の解散に踏み切れば、加計学園のためということになる。そんな党の私物化を自民党は本当に許すのか。

【立憲フォーラム通信:789】 (2017年8月17日)-トランプの発言が大問題となっています。「人種差別は悪だ」と白人至上主義を批判した翌日に「両者に非」と差別を容認する発言を行ったためです。トランプ政権から離反する企業が続出しスポーツ界も非難の声を強め、サッカー女子米国代表のアレックス・モーガン選手は「この国に多くの良い人がいるが彼は違う。吐き気を覚える」とツィート。ブッシュ親子も批判的で、オバマ前大統領が故マンデラ氏の「生まれたときから肌の色や出自、信仰の違いを理由に他人を憎む人などいない」との言葉を引いたツィートは史上最多の「いいね」が。極右車の暴走で死亡した女性の母親は追悼式で「娘の声、むしろ大きくなった」と語りました。その米国へ糸数慶子参院議員らオール沖縄会議訪米団が基地の要請で出発しました。

 「くろねこの短語」8月 17日-(前略)若者を対象にしたNHKの世論調査で、「いま、日本が他の国から侵略を受けて戦うことになったら、あなたはどうしますか」という質問に対して、「自衛隊に参加して戦う」と回答した人数は全体の3%にしか過ぎなかったとか。「ヒゲの隊長」のようにやたら勇ましいこと言うくせに、やってることはそこらの陣笠議員の域を出ない政治家シェンシェイの姿から、「こいつらの言うこと聞いてたらヤバイ」って本能的に察知している結果なのかもね。日報隠蔽問題における自衛隊幹部連中のヘタレ具合だって影響してるんじゃないのかねえ。それはともかく、PAC3は北朝鮮のミサイルに何の役にも立たないってことを、なんで新聞・TVは声を大にして言わないんだろう。そのくせ、ミサイル避難訓練なんて阿呆らしいことをニュースで垂れ流すんだから、大本営発表の時代から、メディアもまた何も学習していないってことなんだね・・・だめだ、こりゃ!

 「くろねこの短語」8月 16日-(前略)戦没者追悼式におけるペテン総理の式辞だ。天皇が「深い反省」を語ったその前で、「平和」だとか「謙虚」だとか空々しい言葉を羅列したあげくに、アジアへの「加害の責任」はまったく無視。そのくせ、「希望に満ちた明るい未来を切り開いていく」なんて空疎な言葉をいけしゃあしゃあと口にする始末だ。北朝鮮のミサイルがどうしたこうしたって世界中がピリピリしているってのに、よくもまあ、ってなもんです。でもって、敗戦の日の昨日の夜は、日本財団会長の別荘で、当主の笹川陽平に森、小泉、麻生、茂木、西村、萩生田、さらにフジテレビ相談役の日枝を加えて会食。笹川の別荘でってところがミソで、果たしてその意味するものは・・・?

 「くろねこの短語」8月 14日-(前略)確かに、ウーマン村本大輔 、田原総一朗氏の国防論に反論「戦争に行かない年寄りに言われてもなあ」ってのはその通り。「年寄り」を「政治家」や「官僚」に言い換えることもできる。「国を守る」とか「愛国心」がどうたらこうたらいう奴に限って、戦争に行くこともなく安全な場所で勇ましいこと言ってるるだけですから。それにしても、「国民には国を守る義務がある」とは、田原総一朗の正体見たりだね。「国民が国を守る」んじゃなくて「国が国民を守る」ものだろう。
 そんなことより、加計学園疑獄だ。認可もされていないってのに獣医学部建設が着々と進んでいる んだが、その建設費に水増し疑惑があるんじゃないかという噂はこれまでもあった。つまり、水増し請求して、補助金をガッポリいただこうという、森友学園と同じ補助金詐欺って構図だ。でもって、ここにきて、獣医学部棟の設計図が流出。それを建築専門家が分析したところ、「坪80万円、高くても100万円」という結果になったそうだ。ところがどっこい。加計学園の見積りでは「坪単価は約150万円」というベラボーな額になっていたというからただごとじゃない。坪単価をエンピツなめなめしたんじゃないかと言われてはいたものの、設計図が流出したことで、それが事実だったことが判明したってことだ。

 「くろねこの短語」8月 13日-(前略)それはともかく、アメリカのレイシストと北の独裁者が感情にまかせた言葉のどつきあいを繰り広げ、いまにも出入りになろうとしているのに、日本のペテン師は地元に戻って盆踊り。この能天気ぶりから、絶妙のタイミングで北朝鮮のミサイルが飛んでくる理由がうっすらと見えてこようというものだ。ところで、顔も頭も貧相な官房長官・菅君が東京新聞の望月記者に攻め立てられて、とうとう記者会見で壊れちゃったのは記憶に新しいところだが、ぼったくりバーのチーママ・小池君も、このごろ少し変よ、どうしたのかな・・・って山口君のツトム君しゃないんだから困ったことなのだ。何が変て、豊洲新市場の移転問題で記者から政策判断の基準を問われたチーママは、なんと「それはAIだからです。最後の決めはどうかというと、人工知能です。人工知能というのは、つまり政策決定者である私が決めたということでございます」だとさ。

 『沖縄タイムス』8月13日ー(前略)オーストラリア沖に墜落したオスプレイの飛行再開を日本政府が認めたことには、「日本には米国から『独立は神話である』と言われているのではと思うくらい、自己決定権がない」と容認した日本政府を批判。日本の国土面積の0・6%の沖縄に全国の米軍専用施設の約70%が集中する現状を「耐えられない」と語り、14日に来県して会談する予定の小野寺五典防衛相へ抗議する考えを示した。

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Category: 03-所感
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2017年8月10日 ひより首里城見物/左の「中山世土」は清朝第4代皇帝康熙帝の扁額(復元)。「中山は代々、琉球国王の国である」と書かれている。


2017年8月8日 沖縄県立博物館・美術館『水族館でも出会えない!海のビックリ生物展』入場者1万人達成
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2017年8月8日~13日 那覇市民ギャラリー「翁長盛武写真展ー『海人の島』ー」/翁長盛武氏(右),古堅希亜氏


2014年7月22日~27日 那覇市民ギャラリー「第50回 写真展  ニッコールクラブ沖縄支部」 翁長盛武氏と作品「アギャー」

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Category: 04-書の森
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1957年 野口昭二・儀間比呂志『詩画集 琉球』→1957年5月『図書新聞』火野葦平「『ちぎれた縄』という芝居を書いていて、自分も沖縄の苦しみのなかに入ってみようと試みたばかりの私には、この、詩と版画とで彩られた『琉球』という美しい本を、異様な息苦しさなしでは、最後のページまで見終わることができなかった・・・」


1957年6月9日『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯ー郷里の体臭ただよう ミナト神戸に沖縄通いの船」/1957年10月27日「商都に生きる(2)儀間比呂志ー商都のボヘミアン 画面に”生きるうた〟を」〇『何んやて”商都に生きる〟?そらきみ、オレの場合はちがうな。そらたしかに、ここでメシ食って、ここの空気を吸って・・・つまりここで生きてるにはちがいないが、ほんとのいみで”生きる〟となると”沖縄に生きる〟とでも云いたいな。』のっけからこうである。うるさい男だ。が、かれのいうのももっともなはなし。かれくらい商都に似つかわしくない風体の人間も少ない。

 儀間比呂志「母と子」1972年/新川明氏、石野朝季氏(右)


1959年2月13日『琉球新報』「帰省した沖縄青少年勤労者後援会代表の幸地長堅氏」


1959年3月『琉球新報』写真と文・石野朝季、スケッチ・儀間比呂志「大阪と那覇 あまくま」


1月23日ー■沖縄人民党中央機関紙『人民』創刊号
        3月6日  『人民』「発刊記念祝賀会ー満員の那覇劇場」 
   
1963年
      
7月15日『人民』 「核戦争をひき起こす原子力潜水艦 みんなで力を合わせ反対しよう」
1967年1月1日「『人民』「わらび座で勉強中の瀬長千尋さんの便り」
      1月14日 『人民』「宮里政秋「入党のころー南灯寮で民謡サークル結成」
      6月17日 『人民』 「瀬長千尋「わらび座に学んで」①
      7月8日  『人民』 「神山孝標「党史を語る」(1) 

      7月15日 『人民』「沖縄で生まれた解放の闘士ー井之口政雄」
      9月9日 『人民』「基地経済の実態ーその内幕をのぞく 米兵相手に売春」(1) 
      
      1967年11月 『物語青年運動史ー戦前編ー』日本青年出版社

1968年
      6月22日『人民』 瀬長亀次郎「12年ぶりの本土ー売国奴 吉田茂を英雄に、国葬に怒り」
      11月9日 『人民』瀬長千尋「父の当選をねがって」


1969年4月 『文化評論』№91<特集・沖縄の歴史・教育・文化>安仁屋政昭「沖縄の近代をささえた人びと」/1970年11月 『文化評論』№110<特集・日本文化における沖縄> 新里恵二「沖縄学の伝統と展望」
     12月28日 『人民』瀬長千尋「1968-文化運動の成果」

1970年1月1日『人民』 伊波広定「わが映画物語」(1)
      4月4日 『人民』「渡嘉敷島自決の責任者 赤松の来県」
5月2日 『人民』「タクシー乗っ取りにやっきになる右翼『東声会』ー公共企業であるタクシーが行動右翼『東声会』(宜保俊夫支部長)の手につぎつぎ渡るという事態がおき問題になっています。・・・」「謀略基地をあばくー4-」      

8月8日 『人民』「東京都の美濃部亮吉①知事は7月29日来沖、4日間にわたって沖縄各地を視察し8月1日帰京ー基地・公害で多くの示唆」
①美濃部亮吉 【みのべ りょうきち】1904〜1984(明治37年〜昭和59年)【政治家】「都政の主人は都民」。 美濃部スマイルで親しまれた、革新都知事。昭和期の経済学者・政治家。東京都出身。父は天皇機関説で知られる美濃辺達吉派。東大卒。1932年法政大学教授となるが、1938年人民戦線事件で解雇。第二次大戦後は、東京教育大学教授から統計委員会事務局長などを務めた。1967年(昭和42)東京都知事に当選、以後住民との対話路線と高福祉政策で革新都政を3期12年務めた。1980年衆議院議(コトバンク)   

1970年
9月ー『国政参加選挙の争点と沖縄人民党の四大基本政策』
□重大な意義をもつ国政参加選挙/沖縄県の無条件全面返還のために-核も毒ガスも基地もない沖縄を/平和で豊かな沖縄の復興と民主的な県づくりのために-基地も公害もない豊かな経済復興を/国政にたいする人民党の態度と政策ー独立、民主、平和、中立の日本を実現するために/新米・反動の自由民主党をうちやぶり、人民党をはじめとする祖国復帰統一戦線勢力の勝利をかちとるために 

1970年ー沖縄人民党中央委員会『沖縄人民党二十三年のあゆみー1947~1970』
12月26日『人民』 瀬長千尋「70年の文化運動をふりかえって」   

1971年1月1日 『人民』小渡清孝「随想ー伊良部の心」/「金武湾を守る婦人たち」
     1月9日『人民』 「米軍演習阻止に決起する国頭村民」
      1月16日『人民』「毒ガス移送ー不安と恐怖になかで」/「反復帰の迷走ー新沖縄文学の特集にみる」
      1月23日『人民』「敗北の思想『反復帰論』」
      1月30日『人民』徳吉裕「前原穂積『戦後沖縄の労働運動』を読んで」
      2月6日『人民』 仲松庸全「公害調査旅行を終って」/「新里恵二『沖縄史を考える』」
      2月13日『人民』「政党否定と『反復帰論』」
      4月17日『人民』「軍事占領支配下26年 沖縄の請求書 その1」「米軍”特殊基地”の実            態」/「『四月の炎』創刊を祝す」
      5月1日 『人民』宮城倉啓「ストでかちとった労働三法」
      5月8日 『人民』松村拳「沖縄の放送ーフジ系『沖縄TV』の開局」④
      5月22日 『人民』「沖縄の放送 言論統制しくむOHKの設立」
      6月5日 『人民』 外間政彰「歴史民俗資料展の成果ー那覇市民の力の結実」
      6月19日 『人民』伊波広定「新里惠二氏に聞く」
      7月10日 『人民』「沖縄防衛とりきめによる自衛隊配備計画ー自衛隊はくるな、高まり広がる             反対運動」
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1970年9月 瀬長亀次郎『沖縄人民党ー闘いの二十五年』新日本出版社(装幀・儀間比呂志)/8月7日  『人民』儀間比呂志「沖縄を描くー絵画を語る」
     
 8月14日『人民』 仲地哲夫「伊波普猷から何を学ぶか」、宮里栄輝「図書館時代の伊波先生」、伊波冬子「夫・伊波普猷の思い出」、山田義時「伊波先生25年忌について」 
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1971年9月『文化評論』№121<特集・沖縄論の思想>仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」、西里喜行「近代沖縄の課題と差別問題」、安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」、津田孝「沖縄問題と現代の作家」、嶋津与志「沖縄協定調印前後」/写真・左から来間泰男氏、伊波広定氏、謝名元慶福氏、新城栄徳

       10月2日 『人民』砂川栄「謝花昇と自由民権運動」、大里康永「伝記を書いた動機」 
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       10月23日『人民』 「沖縄基地はアジア侵略の跳躍台ー協定発効後も変わらぬ核戦争基地」        10月30日 『人民』山田有幹「社会主義運動―沖縄青年同盟の結成 『無産者新聞』がパイプ」「特修ー戦前沖縄の社会運動 関係各氏に聞く(平文吉/兼城賢松/島袋良繁/比嘉光成/久高将憲)」

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写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/浦崎康華、松本三益
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      12月11日 『人民』 松本三益「戦前沖縄社会運動の思い出」

      12月18日 『人民』 幸喜達道「戦前の社会運動ー印刷職工組合の結成と無産者のたたか                い」
1971年9月 『文化評論』№121 <特集・沖縄論の思想> 安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」
/仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」

1971年12月 『文化評論』№124 北川民次「表紙絵」、伊藤嘉昭「侵略戦争と自然科学者の責任ーベトナムの枯葉作戦に反対する日米科学者の運動」、新里恵二「沖縄近代史の諸問題」、河邑重光「トロツキストの沖縄論」、鹿地亘「キャノンの横顔」、仲地哲夫「読書ノート 儀部景俊・安仁屋政昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』日本青年出版社」

1972年1月 『前衛』<核と謀略の基地沖縄>

◇沖縄における核部隊の配備ー日米協定のもっとも重大な問題点の一つが「核」の問題にあることは、いうまでもないことである。調査団もこの問題の追及に大きな力をそそいだが、今回の調査の結果、日米沖縄協定発効後も沖縄に配備を予定されている。一連の部隊と基地ー第三海兵水陸両用部隊(海兵隊)、第一八戦術戦闘航空団および第400弾薬整備隊(空軍)、第二兵站軍団(陸軍)、第七艦隊第七二機動部隊(海軍)ーいずれも核攻撃機能を持ち、あるいは核兵器の貯蔵・管理にあたっている核戦争兵力であることが、調査団の入手した米軍資料および独自の現地調査によって、あきらかにされた。◇「核」の疑惑につつまれる辺野古弾薬庫



 

1978年10月 『たげぇに ちばやびら』瀬長亀次郎後援会


1983年10月 『こんにちはセナガ亀次郎です』瀬長亀次郎事務所

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1985年7月『青い海』143号 陳寶來「おきなわの留学生たち①沖縄の女性は逞しく、そして美しい」


桑江良健氏 作品「大田昌秀肖像」ー会場で陳宝来さん(国際俳句交流会会員)と桑江純子さんが歓談していた。陳さんを那覇市歴史博物館に案内した。


写真左が桑江純子さん、陳宝来さん


那覇市歴史博物館で左が陳宝来さん、真栄里泰山氏
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『九年母』第1号 会員住所録 呉我春男ー真和志市安里2区1班/兼城弘ー与那城村照間区7班/名渡山兼一-北谷村謝苅劇場前/嘉陽安男ー那覇商業高校/知念良秀ー真和志市松尾区3班/阿波根昌輔ー那覇市2区14組

『九年母』照屋寛善「琉球大学の方々へ」〇お贈り下されし琉大文学、有難く拝見。左に感想を述べます。琉大文学は羊頭狗肉の文学です。クサムニー集とでもした方が良いでしょう。七号一冊しか見ていませんが、恐らく初号より今日まで、創作に於いて、小説、戯曲、コント、エッセイ等は全巻の十分の一にも足らないでしょう。そして見るべきものは一つも無いでしょう。徒にクサムニーばかり繰り返している様だが他人批判より自己批判が先決です。評論必ずしも否定する理でありません。批評精神の無い沖縄では活発化さるべきでしょうが、琉大文学のあり方も反省して良いでしょう。
 新川明の編集では然うなるのも当然です。彼は良い感覚と、文学への情熱をもっている男の様ですが、惜しむらくは文学をする態度が全然なっていません。疑は批判に通ずべきで、いきなり否定に直結するのは愚者のすることです。短歌否定は琉球芸能否定を意味し、東洋文化の抹殺に通じます。日本文学や琉球芸能の中から短歌を除いたら一体何が残ると言うのです。

照屋寛善
1920年1月沖縄県首里に生まれる。1942年九州医専(現久留米大学)卒業。内科の軍医になり南洋のナンボン島などに駐留。1946年復員、九州医専で勉強、後沖縄に帰る。宜野座の松田診療所勤務。沖縄には医師が少なく過労気味であったので1950年にそのことを訴えた。この反響は大きかった。既に始まっていた医学部留学制度は、50年には2回も募集があり、また、本土で勉強している沖縄出身の医師も帰還した人もいる[1]。真和志診療所勤務。1951年2月結核発病。コザ病院に入院。治癒。1956年琉球衛生研究所所長。同年11月宮古島でソテツ中毒が発生。報告する。1960年2月訪問中の日本医師会武見太郎会長に直訴し、日本の厚生省や医師会からの医療援助を取りつける[2]。1960年3月30日学位論文「琉球列島におけるハブ咬症の疫学的研究 」東京大学に受理。1961年琉球政府厚生局次長。1963年政府立那覇看護学校校長。1973年沖縄県公害衛生研究所医監。1978年琉球大学保健学部教授。1979年同学部長。1981年琉球大学医学部教授。1985年同退官。琉球大学名誉教授。1990年老人保健施設オリブ園施設長。2004年没。→ウィキペディア

写真左から平山良明氏、照屋寛善氏

沖縄の古典芸能研究[編集]『<民俗芸能資料>「くていぶし」について』まつり通信 88. 1968
『しゅんだう考――その解釈と鑑賞』 沖縄芸能歴研究 1, 1976
『琉球古典舞踊打組踊「しゅんだう」について』 沖縄タイムス 1977年11月29日
『琉歌と唱謡法―その間投詞を中心に』沖縄芸能史研究 6, 1982
『【特集】沖縄の芸能・批判と提言《提言》一藝能史研究者の発言』 新沖縄文学 第58号 1983
『十七八節について』青い海 136 October 1984.
『続・琉球古典舞踊、打組踊「しゅんどう」について』 掲載 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集 沖縄の宗教と民俗 1988
照屋寛善著『沖縄の古典芸能』 南島文化叢書 9 1989
『組踊所感』 小野重朗先生傘寿記念論文集 南西日本の歴史と民俗 1990

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2000年4月 儀間比呂志『沖縄の鳥人 飛びアンリー』海風社

出版祝賀会案内状/2000年4月13日『琉球新報』新城栄徳「儀間比呂志と沖縄の文化」




平良次子さん、新城さやか

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2001年10月 儀間比呂志・神谷良昌『絵物語 琉球に上陸したジョン万次郎』沖縄タイムス社

写真右から神谷良昌氏、儀間比呂志氏、オーストラリアのカイリー・クラークさん




○ジョン万次郎の子孫が来県するのは初めて。万次郎から四代目の中濱博さん(73)=愛知県=は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と感激した表情で語り、高安家五代目の高安亀平さん(72)も「感無量だ」と喜んだ。万次郎は糸満市大度に上陸。琉球王府により、翁長の親雲上(ぺーちん)だった高安家に約5カ月間、収容された。外出は禁じられていたが、夜は地域住民と交流し、綱引きなどにも参加したとされる。→(『琉球新報』2002-5-12)/写真左から新城栄徳、儀間比呂志氏、高安亀平氏

□中浜万次郎の話ー高安公造氏(71歳)は祖父より聞いたとして次のように語れり
1、万次郎は約半年沖縄に滞在せりと、即ち正月に来り7月に去れり 1、大和人なることは彼等も知れり、土佐人と知れり 翁長の当銘三郎氏の話  1、宿屋は屋号徳門であって当時万次郎が使用したステッキも今に残っているそうだ。徳門の老婆は90歳位であるがその人の話ー言葉も始めは通じなかったが後ではよく通じて諧謔もやるようになった。→眞境名安興「笑古漫筆」

1851年2月 ジョン万次郎、琉球上陸
 同年4月、アメリカ合衆国とメキシコが国境を決定。5月にはイギリスで第一回のロンドン万国博覧会が開かれ、フランスでは12月、ルイ・ナポレオンがクーデター

   
1851年2月 ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸
『球陽 附巻四』〇尚泰王 四年正月初三日、日本土佐国人有りて、杉板に坐駕して摩文仁群小渡村に来到す。此の日、土佐国人三名有りて、杉板一隻に坐駕し小渡村の浜に到る。随ひて来歴を問ふに即ち云ふ、上届丑年正月初五日、我等小船に坐駕し、海に出でて釣魚するの時、陡に暴風に遇ひ、風に随ひて漂流し、経に七日を歴て、纔に辰方無人島に到りて擱礁撃砕し、上岸活命す。該島は、物の食すべき無く擒へて衆鳥を食し、聊か餓莩を免かる。六月に到り、亜米理幹国の討鯨船一隻、該島洋面を駛過するを見る。即ち其の船を招来して、性命を救ふを請ひ、該船に塔駕して、西洋  (略)只万次郎一人頗る亜米理幹文字を知る有り等語と。本年七月、本国に駐箚する倭官四員の離任して回国するの便有るに逢ふ。其れをして接護回籍せしむ。

   
   
ジョン万次郎が上陸した大度浜の宿道

□1851年ージョン万次郎達は、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩や江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。嘉永5年(1852年)に河田小龍が取り調べ報告書「漂巽紀略」を書く。その際に開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩主・島津斉彬がその英語・造船知識に注目した。これが縁で薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしているほか、和洋折衷船の越通船建造にも知識を活用されている。→(ウィキペディア)■儀間比呂志『琉球に上陸したジョン万次郎』(2001-10沖縄タイムス社)

石井研堂ー数種の少年雑誌の編集に携わり、明治41年、『実業少年』*3を創刊したが、明治44年、同誌の廃刊をもって、少年雑誌の編集から離れ、著述生活に入る。研堂は、民間説話収集にも関心を寄せ、『日本全国国民童話』を著した。その一部は関敬吾の『日本昔話集成』*4にも採録されるなど、今日でも評価されている。他に、江戸時代の漂流記・漂流譚を子ども向けに紹介した『日本漂流譚』、資料調査に加え、中濱萬次郎自身へのインタビューに基づく伝記『中濱萬次郎』、創作読物『鯨幾太郎』『少年魯敏遜』など海事関係の著述も多い。→「福島の児童文学者 列伝3 石井研堂 - 福島県立図書館」


石井研堂資料
石井研堂
生年: 慶応1.6.23 (1865.8.14)
没年: 昭和18.12.6 (1943)
明治・大正・昭和期の在野の文化史家。本名民司。奥州二本松藩領郡山村(福島県郡山市)生まれ。郡山小学校を卒業後,同校教員などを務めたのち上京,明治22(1889)年雑誌『小国民』(のち『少国民』)の編集者となる。当時数多くあった少年雑誌のうちで,同誌が「雑誌界之大王」を標榜するほどの人気雑誌となったのは,近代日本のエリートコースを進まなかった研堂が,かつての自分のような境遇にある独学少年たちの希望にかなった雑誌作りをしたからであろう。そういうセンスは同34年から同37年にかけて刊行された単行本シリーズ『理科十二ケ月』や『少年工芸文庫』にも通底している。その著『明治事物起原』(1908刊,44年改訂増補版)は,明治文化を知る百科事典といえる。吉野作造らの明治文化研究会に属し,明治文化全集の編集にも当たった。<参考文献>山下恒夫『石井研堂』 (坪内祐三) →コトバンク

□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」

①ジョン万次郎

ジョン万次郎資料館=住所: 高知県土佐清水市養老303 海の駅あしずり 電話:0880-82-3155
日本初の国際人「ジョン万次郎」の足跡。中ノ浜村(現土佐清水市中浜)に漁師の子として生まれ、後に日本人として初めて渡米。帰国後、アメリカで学んだ文化や思想を伝え、龍馬などに多大な影響を与えたジョン万次郎。その生涯を映像やジオラマなどで紹介しており、万次郎直筆の英文字など、万次郎にまつわる様々な史料を展示している。(島袋和幸氏撮影)→島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)2016年5月25日『沖縄の軌跡』第171号「琉球に上陸した{ジョン万次郎}」

雑司ヶ谷霊園 ジョン万次郎墓、「中濱萬次郎記念碑」ー島袋和幸氏撮影


1929年1月15日『沖縄朝日新聞』「島尻郡摩文仁に上陸した幕末の風雲児 中濱万次郎の生涯」


1932年3月『沖縄朝日新聞』山城正忠「戯曲『中濱萬次郎』に就いて」



1991年12月 長田亮一『ジョン万次郎物語』沖縄県ジョン万次郎を語る会/1971年12月 石井研堂『異国漂流奇譚集』(1927年 初版)新人物往来社

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


上原よしさん 作品「太一」「未来へ」/仲里安広氏 作品「ウガン」「リゾーム」「ディ・コンストラクション」


西村貞雄氏 作品「岩上祈願」「祈るひと」/上原博紀氏 作品「あぐら」「トルソ」「チャコと一緒に」

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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
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2017-8-2 読谷の孫と沖縄県立博物館・美術館で遊ぶ