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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 12月13日ーテレビで報じられていたが、13時現在のヤフーニュースでもトップになっている。地元2紙は当然ながら報じているが『時事ドットコム」13日を見るー午前10時10分ごろ、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に隣接する市立普天間第二小学校(同市新城)のグラウンドに、約90センチ四方の航空機の部品とみられるものが落下した。県によると、米海兵隊CH53E大型輸送ヘリの窓枠とみられ、現場にいた児童らの近くに落ち、1人が落下時の風圧で軽傷を負った。7日には同飛行場から約300メートルにある保育園に、同型の米軍ヘリの部品が落下したとみられる事故があったばかり。県は外務、防衛両省に厳重に抗議する。〇日米安保の重大問題なのに夕方、ヤフーニュースに普天間第二小学校は無い。本日は名護オスプレイ墜落1年。
関連ー
 1959年6月30日午前10時40分頃に、アメリカ空軍のノースアメリカンF100Dジェット戦闘機が操縦不能となり、パイロットのジョンシュミット大尉は空中で脱出、機体は民家35棟をなぎ倒した後、石川市にある宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。事故による火災は1時間後に鎮火したが、死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。→ウィキ

宮森小学校の中庭には、犠牲となった児童らを慰霊する「仲良し地蔵」が設置されており、毎年6月30日に児童らによる追悼式が行われている。


2017年11月25日『沖縄の軌跡』175号□編集発行・島袋和幸 東京都葛飾区四つ木4-18-10
〇12月22日~24日 横浜市鶴見区民文化センター サルビアホール3F ギャラリー「星野文昭 絵画展ー沖縄★川崎・鶴見を結んでin鶴見」 


『しんぶん赤旗』12月13日「沖縄・名護オスプレイ墜落1年ー変わらぬ米軍機飛行」「安倍首相もはやトランプ・ファースト」

【立憲フォーラム通信:914】2017年12月13日ー ミサイル防衛累計2兆円に 立憲フォーラム
「毎日」の報道によると政府が2004年度に導入を始めた弾道ミサイル防衛(BMD)整備費の累計額が、18年度予算案で2兆円を突破する見通しとなった、とのことです。「朝日」は厚生労働省は来年度、生活保護を受ける一人親世帯に支給する「母子加算」を見直す方針を決め、「生活扶助」の新たな基準額しだいで変わるが、減額される可能性が高く数千円減る可能性もある、と報じています。生活保護を受ける一人親世帯から数千円を奪いながら、累計でミサイル防衛には2兆円、防衛費は6年連続で増加して過去最大の5兆1500億円になるというこの落差をどう訴えていくか、ですね。録画しておいたNHKのクローズアップ現代を見て驚きました。中国は2016、17年に原発許可はゼロ、一方で今年の1月から9月まで、太陽光発電を4300万キロワット(原発の9基分に相当)も設置しているのです。発電コストも日本のLNG火力14円、スウェーデンの風力6円、UAEの太陽光3円です。

 「くろねこの短語」2017年12月13日ー今年の漢字は「北」だとさ。ペテン総理が国難指定した北のミサイルを清水寺が忖度したってわけか。その他の理由に取ってつけたように日ハム・大谷の大リーグ入団とキタサンブラックの活躍ってのがあるのんだが、なんで大谷って思ったら本拠地が北海道だからだと・・・馬鹿馬鹿しくてお話になりません。
 そんなことより、新たなアベ友案件であるスパコン補助金詐欺だ。逮捕されたペジー社の社長と準強姦疑惑の山口ノリマキとの親密さをさらに深める事実が発覚。なんと、二人つるんで財団法人「日本シンギュラリティ財団」なるものを立ち上げていたってね。しかも、その所在地が山口ノリマキの実家なんだと。いったいこの財団を何に使おうとしていたのか・・・謎が謎呼ぶ詐欺詐欺事件というわけだ。


『しんぶん赤旗』12月12日「核兵器の終わりの始まりにーノーベル平和賞授賞式」「在日米軍経費 過去最高 3年連続 辺野古・高江警備 1日各1700万円」

 「くろねこの短語」2017年12月12日ー(前略)だから、この事件を掘り下げれば掘り下げるほど、神社本庁の存在がクローズアップされるというわけだ。そうなれば、神社本庁の男尊女卑体質が明るみになっちゃうし、日本会議との関係もとやかく取り沙汰される可能性もある。というわけで、なんらかの手を使ってメディアにプレッシャーかけてるんじゃないのかねえ。
 そもそも、神社本庁ってのは国の指定団体でもなんでもないわけで、言ってみれば全国の神社による親睦団体みたいなもんなんだね。それがこのところペテン総理とも手を組んで改憲にも色気を出しちゃったりして、「国家神道」の復活を画策しているかのようにも見える。そんな状況に異を唱えて、神社本庁を脱退する神社はけっこうある。明治神宮、気多神社、日光東照宮も脱退組だ。
 神社本庁が国の機関だと誤解しているひとはけっこういるわけで、富岡八幡宮殺傷事件でそれはまやかしってことが流布されれば、神社のあり方そのものが問われるようになるやもしれない。週刊誌なんかがどこまで神社の闇の部分に迫れるか。アニー山尾くんのストーカーに成り下った文春には、どうぞこちらもストーカーしてください、ってなもんです。

ノーベル平和賞 被爆国の人類史的義務、倫理も投げ捨て欠席した日本 それを戒めるかのようなノーベル文学賞のイシグロさんICAN事務局長の感動的スピーチ サーロー節子さんの被爆体験に涙する世界の人々
 「地球儀俯瞰外交」などと気取って トランプのポチとして 大国意識、強国志向の安倍日本 圧力一辺倒の日本に世界は心配してきたが とうとう世界的舞台で 醜態とともに正体を見せてしまった
 辺野古の美しいサンゴをつぶし 美しい日本の国土も国民も忘れ 問答無用の軍事大国へと突き進む 日本人よ 目覚めよ 日本の理性よ 知性よ 日本は亡びるぞ!(T)

 「くろねこの短語」2017年12月11日ー(前略)そもそも、生活保護費ってのは弱者を保護するための最低限のセイフティーネットなんだよね。それを一般の低所得世帯よりも高いからその水準まで下げるってわけで、これって話が逆だろう。低所得世帯の生活水準をどう高くするかってことに腐心するのが官僚の役目だろうに。
 こんなんだから、「国民年金だけじゃ生活できない」から議員年金復活しろって声が上がってくるのも当然なんだね。本来なら、国民年金だけでも生活できる環境をつくるのが政治家の仕事だろうに、そっちはほったらかしで、テメーらだけ税金から老後の保障してもらおうなんてのはフテー了見なのだ。
 役に立つかどうかもわからない陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」のために7億3千万円を予算計上するくせに、生活保護費は大幅に削減するこの国は、ペテン総理とともに破滅の道を歩み始めているのかもしれない。
Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@yahoo.co.jp



Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2017年11月 屋良朝信×新井克英『[川崎・鶴見・東京]ウチナーンチュ100年 沖縄・思い遥か』AWAWA
12月11日、那覇市役所で早く用事が済んだので、ジュンク堂那覇店に寄って上記の本を入手。

1982年ー『川崎の沖縄県人70年の歩みー川崎沖縄県人住住者所録』財団法人・神奈川沖縄協会/川崎沖縄県人会


川崎沖縄芸能研究会1950年ー写真上左から金城時男(顧問)、池宮喜輝(野村流音楽師範)、米須清仁(初代会長)。下左から亀川盛要(総務)、渡嘉敷守良、渡嘉敷亮(副会長)□→米須清仁は欽氏で自了の父城間親雲上清信は3代目、清仁はその12代目にあたる。

米須清徳□川崎における沖縄舞踊の始まりー川崎の沖縄芸能については、阿波連本啓(明美さんは同氏の4女で直弟子)と米須清仁翁を以って嚆矢とするー。


古江亮仁「川崎の沖縄芸能と私」□→古江 亮仁(ふるえ りょうにん)/大正四年七月三日生れ。/大正大学文学部史学課卒業。/昭和17年大正大学講師、以後大正大学助教授・教授を歴任、/昭和26年川崎市教育委員会社会教育課嘱託。同42年初代日本民家園(川崎市立)園長。/昭和51年「川崎今昔会」を結成。/平成5年度川崎市文化賞受賞。/平成13年逝去(川崎ロータリークラブ温故知新)


2016年5月 『横浜・鶴見沖縄県人会史ー鶴見沖縄県人百年の歩みー』

1976年12月『横浜市 鶴見沖縄県人会会員名簿』

1980年9月『オキナワグラフ』「鶴見沖縄県人会会館 おきつる青少年育成会館 落成」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

真哲宛1945年ー南風原朝光の手紙「・・此の手紙書き終へてすぐ渡口政興氏 死去の通知あり残念。手紙出されたし。奈良県磯城郡纒向村巻ノ内 坂口方 渡口杜子(長女)」/1947年「・・6月の連合展が終へたら早急に帰へるつもりですからその節 ゆっくり沖縄文化の為に語りませう。書籍も城間得栄君も一緒に良いのを集めつつたります。現代作家の美術品もなるべく沢山集めて沖縄に〇る現代美術館を作りたい念願で居ります。近日その活動を開始します・・」東京都豊島区長崎3丁目25 南風原朝光

1948年3月15日 沖縄青年同盟準機関紙『沖縄タイムズ』第3号

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1948年 アクトン少佐、松岡政保、山田真山、屋部憲、名渡山愛順ー首里ニシムイ建設で米軍部長をまじえて話しあう松岡工務部長→1979年3月『沖縄戦後史 アメリカ世の10年』月刊沖縄社



1968年4月 『南風原朝光遺作画集』同刊行会(豊平良顕 代表)
交遊記
緒方昇「双眼の色」/里見勝蔵「朝光君と琉球歌」/佐藤英男「朝光の想い出」/具志堅聖児「南風原朝光さんの思い出」/檜山義夫「南風原朝光と沖縄」/桑原実「南風原朝光君を憶う」/木内岬「先輩」/里見陽文「南風原朝光氏を憶う」/今井滋「空白の時代」
彼のひとがら
比嘉良篤「故南風原朝光君の憶い出」/内堀勉「珍しく純粋な人」/大城皓也「南風原朝光という人」/松本三益「南風原君をおもう」/国吉景祉「南風原朝光追憶記」/阿波根朝松「あの時代の南風原君」/池原清子「朝光様の思い出」


内堀勉 


池原清子1987年3月 那覇市企画部文化振興課『明治・大正生まれの作家たち』

1985年4月4日『沖縄タイムス』「喫茶室」
□池原清子さん(83)は、県人には珍しい南画家。日本南画院会員で、現在、京都で開催中の第25回記念日本南画院に「私のすきな山水」=150号=を出品している。昨年は、石垣市川平で取材した「私の川平湾」=(150号)=を出品した。両作品とも秀作賞を受賞「この年で、好きな絵を描き、賞がもらえるのはうれしいですね」と笑顔で感想を述べた。独り暮らしだが、自宅のアトリエで絵も教えている「この道40年」のベテラン。雅号は池原胡捷(蝶)。
池原さんは、那覇市の生まれ。詩人の国吉真哲氏夫妻とは小学校時代からの友人で、今も交際を続けている。「私が短歌や絵に親しむようになったのも、国吉氏の感化です。沖縄に旅行すると、お訪ねして旧交を温めています」とうれしそうだ。
東京にあこがれ、19歳で上京、東京中央工業校製図科に学んだ。卒業後、国鉄の東京鉄道管理局に入る。仕事は、鉄道の線路、駅などの製図担当。課内では、文字通りの紅一点で、職業婦人の草分け。「自分で製図または設計した駅などをみるとやりがいを感じました」と、なつかしそうだ。結婚し子供もできたが、3歳で死亡。その後、一人になり独身を通している。
40歳過ぎから、南画と短歌を始め、定年後は本格的に取り組んだ。「絵と短歌は、私の生きがい。おかげでボケにもなりません」とくったくがない。目も耳も達者で、年齢より若くみえる。南画は心象画で、自分の美意識を素直に表現できるのが気に入っているとか。15年前から日本南画院展の常連。短歌歴も長く吾妹(わぎも)短歌会同人。同会40周年記念歌集(昭和38年発行)には、20数首収録されている。「やりたいのがたくさんある。がんばらなくちゃあ」と胸を張った。

彼と沖縄文化
本田安次「南風原氏を思う」/新崎盛敏「朝光さんの思い出」/山之口貘「縁の下の文化功労者」/伊波南哲「懐しい思い出」/古田重郎「朝光さんの想い出」/比嘉春潮「幸福な芸術家」
作品について
原精一「南風原君のこと」/上野維信「南風原さんの思い出」 /中村哲「南風原朝光の生地ー戦前に何回か会ってはいるが、とくに戦後のつき合いが深い。池袋の「おもろ」の常連として、山之口貘氏とコンビといっていい人で、山之口氏と切り離して考えられない。私は戦後、毎週、立教大学の講義に行ったので、池袋で顔を合わせる機会がつづいた。・・・」/立石鉄臣「遺作に輝く」喜多村知「南風原朝光について」
座談会ー南風原朝光・人と作品  国吉真哲/末吉安久/大嶺政寛/伊波広定/新垣盛市/司会 真栄城玄裕
作品目録 刊行のことばー豊平良顕、崎原当保 経過報告・後記ー佐田勝
年譜 
  
1951年3月 池袋おもろで、親友、貘(右)と/1953年 文部省主催 第八回日本芸術祭 第一回沖縄芸術使節団を迎えて 左から山城善光、比嘉春潮、比嘉良篤、陳而松、山之口貘、南風原朝光、本田安次、田辺尚雄、東恩納寛惇(『貘のいる風景』)


2004年9月 『新生美術』13号「プラットホームの見送りー左より不詳、山之口貘、南風原朝光」「左から南風原朝光、山城善光」


左から三羽烏の山之口貘、南風原朝光、末吉安久(『貘のいる風景』)/1953年 中央に山之口貘、前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、


1954年2月14日 「火野葦平先生招待記念」
前列右から南風原朝光、真境名由康、火野葦平、平良リヱ子、仲嶺盛竹、真境名由祥。中列右から山里永吉、真境名澄子、真境名由苗、宮里春行。後列右から国吉真哲、一人おいて豊平良顕、真境名由乃、真境名佳子、勝連盛重。/1955年 第10回文部省芸術祭公演参加のメンバー(那覇・世界館)前列右から大嶺政寛、玉那覇正吉、國吉眞哲、山本義樹、豊平良顕、南風原朝光、末吉安久、田島清郷。後列右から宮里春行、識名盛人、眞境名由乃、眞境名由苗、牧志尚子、平良雄一、眞境名由康、勝連盛重、宮平敏子、屋嘉宗勝、眞境名佳子、喜納幸子、南風原逸子、仲嶺盛竹、嘉手苅静子、屋嘉澄子、仲嶺盛徳。


1954年9月5日 石川画塾開塾で左から国吉真哲、新樹子、南風原朝光/藤田嗣治の「那覇の客人」女性に抱かれている子は新樹子がモデル



1955年3月 壺屋小学校『第7回 沖展』「南風原朝光」

2004年9月 『新生美術』13号写真左よりー豊平良顕、南風原朝保、南風原朝光、末吉安久/「末吉安久、南風原朝光」



1956年3月 壺屋小学校『第8回 沖展』「南風原朝保コレクション」「招待ー内堀勉、中川伊作」


南風原朝/1957年2月21日 南風原朝保没

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2017年12月5日~10日 那覇市民ギャラリー「新城佂孝絵画展<沖縄の風景>」



「相思樹の並木」(1957年のスケッチより)道の奥が知事公舎。左側は桑畑。現在の沖縄県立図書館付近です。/1975年8月15日『新美術新聞』№73 三宅正太郎「沖縄国際海洋博記念ー『海を描く現代絵画コンクール』展 今日の生活感情に密着した新城作品」〇コトバンク→三宅正太郎(1907年10月2日~1992年4月29日)出生地鹿児島県鹿児島市 学歴〔年〕東京帝大文学部美学美術史学科〔昭和5年〕卒,東京帝大大学院〔昭和7年〕修了 経歴昭和7年読売新聞社に入社し、約10年間文芸部に在籍。文壇ゴシップを多く執筆。この間、永井荷風の原稿を6年がかりで獲得した逸話で有名になる。46年退社。のち新聞三社連合事務局に勤務。この間、40年跡見学園短期大学教授、54年帝京大学教授、理事を務める。著書に「横顔の作家たち」「作家の裏窓」「パリ留学時代」「現代美術の東と西」「回想の芸術家たち」など。

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『南風原朝光遺作画集』の年譜は夫人敏子さんのメモの外に、阿波根朝松、有銘興昭、國吉景祉、名渡山愛順、大城光也、金城精栄氏らの記憶によって叙述補正された。これを出来るだけ当時の資料によ基づいて裏付けしたい。

      
2004年9月 『新生美術』13号「日本美術学校時代ー前列右端 南風原朝光」

1923年(大正12年)9月1日11時58分関東大震災発生

1925年秋  𤘩宮城昇、仲泊良夫(白金三光町の明治学院文科の寄宿舎)や伊波文雄(小石川の伊波普猷宅に寄宿)に連れられて中野の山里永吉下宿を訪ねる。仲泊の同級生に仲村渠、渡辺修三、平川泰三、矢島などがいた。またダダイストの辻潤、詩人サトウハチロー、後藤寿夫(林房雄)らと交遊していた。

1926年 南風原朝光、日本美術学校へ入学
1929年 南風原朝光、日本美術学校卒業
1930年3月 南風原朝光、仲本敏子と結婚、上京。
1930年5月 神田神保町「五人展」同人は南風原朝光、星野一夫、大橋信一、伊倉普、加治屋隆二

 1932年8月『フオトタイムス』𤘩宮城昇「低気圧ースタヂオを建ててしまった。未だ半年にしかならないのに、この猛烈な風に会い、写場の壁紙の北側は台無しになった。北風のすごい事は知っていたが、しかしスタヂオのスラントも北向きが良いとは皮肉だった。(略)少なくとも、写真に対する人心の覚醒をする為には、我々の低気圧を必要とする土地、那覇である。」/圓谷英二(後に特撮の神様といわれゴジラやウルトラマンをつくった)「ホリゾント法に拠るセツテングの研究(1)」

    
1934年6月11日『琉球新報』/1934年9月7日『琉球新報』
1934年 南風原朝光、家族を残して上京。池袋に居住。

1934年 東京神田の東京堂「沖縄美術協会」展ー後列左から渡嘉敷唯信(?)・新川唯盛・仲嶺康輝・西村菊雄 前列左から 兼城賢章・南風原朝光・大城皓也・山元恵一

写真ー渡嘉敷唯信
渡嘉敷唯信(1910年~2002年1月17日逝去 )「牛と雀」→那覇市『明治・大正生まれの作家たち』
沖縄県立二中14期・1928年卒(同期に当山堅一、山田有昴)を経て明治学院大学を卒業。独立美術研究所にて修業、小島善太郎に師事。1944年、東宝撮影所特撮合成美術部入所(~1970年退職)。1945年に独立美術会友、49年に自由美術会員、64年に自由美術退会し、70年より80年までの間に3回にわたって海外取材旅行をなす。〇渡嘉敷唯信は本多猪四郎・円谷英二監督「ゴジラ」(1954年東宝)に合成作画で石井義雄、進八郎と共に関わっていて、『獣人雪男』)『ゴジラの逆襲』(1955年東宝)にも合成作画で関わっている。→ウィキ



1985年3月 米城律・伊藝滋『石川正通追想集』□渡嘉敷唯信(石川澄子は姉)


渡嘉敷唯信「牛と雀」1986年
1985年3月 米城律・伊藝滋『石川正通追想集』□渡ケ敷唯信(石川澄子は姉)


「1935年 長崎町の友人のアトリエ 南風原朝光」/ 1936年4月 第二回沖縄県洋画協会展
宮平清一「花」「新校舎」「国頭印象」/南風原朝光「静物」/山元恵一「横浜風景」「アネモネ」

1938年  山元恵一、東京美術学校卒業。宮森俊三の紹介で東宝映画(トーキーシステムの開発を行う写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCLは、1937年関連会社JOと合併)にて円谷栄二の下でしばらくアルバイト。同年12月、東京市役所勤務の大浜信恭(大浜信泉弟で作家志望)の紹介で東京市厚生局勤務。これ以降、東京では殆ど絵を描く時間がなかった。

1938年4月ー世界のフジタ、二科会の重鎮・藤田嗣治が加治屋隆二、竹谷富士雄、南風原朝光を伴って浮島丸で来沖。那覇港には比嘉景常、名渡山愛順、大城皓也らが出迎えた。加治屋は東京の小学校での比嘉景常の教え子。南風原と琉球新報記者の國吉眞哲とは同じ泊出身、親友であった。琉球新報は藤田の講演会、座談会を企画し、藤田作品鑑賞会を後援するなど抱え込んだ。
藤田嗣治の来沖の経緯は、国吉真哲さんが「絵かき仲間の加治屋隆二さん、竹谷不二雄さんと南風原朝光君3人で沖縄へ行こうという話になり、その旅費のことなど打ちあわせている所へ、藤田画伯が来て『おもしろそうな話をしているなあ、ボクも行こう』ということになって沖縄を訪れた」と『南風原朝光遺作画集』の中で述べている。

1938年5月20日『琉球新報』「藤田帰京」
□藤田嗣治「沖縄へ送る讃美」
黒潮に浮ぶ首飾の島々/浪に風に憩いなく洗はれ打たれ/長き黒髪は漂ひ瞳は輝く/憧れのこの島
         ◇
赤く又青く咲き茂る名も知らぬ木草/影は旅人を包み、枝は異鳥を宿す/りゅうぜつらんは月を貫き、墓場は愛の密語を漏さず/懐しのこの島
         ◇
帯もなき薄衣の女子等/乳も脛も銅に染めて、珊瑚礁の花の上を歩む/海山の幸を頭上に飾りて/さらば、この夢の國

加治屋隆二

右は南風原朝光がモデル。
1938年4月28日『琉球新報』加治屋隆二「沖縄を想ふ」

1939年6月1日、2日『琉球新報』山元恵一「南風原朝光氏の近作について」

1940年7月『みずゑ』加治屋隆二「沖縄旅行」(挿絵4)


竹谷富士雄
1938年4月27日『琉球新報』竹谷富士雄「琉球を夢みて」
1940年10月「竹谷富士雄第1回個人展覧会」青樹社
1970年9月「竹谷富士雄展」ギャラリーためなが
1987年12月『竹谷富士雄画集』日動画廊

1940年秋 このころ南風原朝光、豊島区椎名町に居住。ここはパルテノンと称し、いわゆるアトリエ村であった。
1941年春 南風原朝光、豊島区千早町に居住。

1943年(昭和18年)
4月 第18回展(東京府美術館、22日~5月2日。大阪市立美術館、5月)
同人制を廃止して会員会友制を復活する。搬入 絵画1362点、版画230点、工芸420点、
写真192点。入選 絵画167点(118名)、版画42点(32名)、工芸73点(58名)、
写真35点(28名)。陳列 絵画237点、版画54点、工芸108点、写真43点。
授賞、会員・会友推薦
国画奨学賞:宗像逸郎、合田好道、南風原朝光(絵)加藤安(版)
      山田テツ(工)故・光村利払(写)。
褒状:川村滋,福留章太(絵)森一正・富岡伸吉・古山英司・林二郎・吉本寿(工)。
F夫人賞:宗像逸郎(絵。)
会員推薦:澤野岩太郎(絵)増田三男(工)畦地梅太郎・下澤木鉢郎・前田政雄(版)。
会友推薦:松木満史・中村茂好・渋川駿二・上田清一・宇治山哲平・久本弘一・山田千秋
     ・橋本三郎・合田好道・鈴木正二・宗像逸郎・松田正平・福井敬一・南風原朝光
     ・尼川尚達・内堀勉・東克己(絵)。
     笹島喜平・関野準一郎・山口源(版)山田テツ・森一正・古山英司(工)。→「国画会展覧会略史」

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Posted by: ryubun02

左から『現代』創刊号 梶山季之「日本を操る悪徳政商の正体」/2004年1月「外務省の犯罪Ⅱ」/2005年9月「元NHK経理職員が告発『受信料乱費の実態』」/2006年2月 高杉良「小泉・竹中『亡国コンビ』への退場勧告」、枝野幸男・立松和平・中村彰彦「『同郷・同好・同朋』を語る」

1966年12月に週刊誌『週刊現代』の兄弟誌『現代』として、『少年マガジン』創刊編集長で『週刊現代』を軌道に乗せた牧野武朗編集長によって創刊された。2002年1月号から誌名を『月刊現代』と改める。『週刊現代』『小説現代』とともに「現代トリオ」として刊行されていた。創刊当初は総合月刊誌として、男性サラリーマンの生活に密着した政治、経済、社会、メディア、スポーツ、健康、教育、夫婦関係など幅広い分野を扱う。 1967年から1968年にはマーシャル・マクルーハンを集中的に取り上げ、1970年代から1980年代半ばにかけては田中角栄の記事を繰り返し掲載した。1976年8月号からは堺屋太一の近未来小説『団塊の世代』が連載され、団塊の世代という造語が定着することになった。→ウィキ


フライデー』(FRIDAY)は、講談社が発行、1984年(昭和59年)11月9日創刊の毎週金曜日発売(原則)の写真週刊誌。

野間清治
生年: 明治11.12.7 (1878)
没年: 昭和13.10.16 (1938)
大正昭和期の出版事業経営者。群馬県山田郡新宿村(桐生市)の生まれ。明治33(1900)年尋常師範学校を卒業し,教師になったが,35年東京帝大文科大学臨時教員養成所に入学。卒業後,沖縄中学校教諭を経て,40年東京帝大法科大学職員となる。折からの雄弁術流行の先頭に立っていた緑会弁論部の創立を助力した。学生の弁論を筆記し活字化する企画をたて,自ら大日本雄弁会を設立,43年雑誌『雄弁』を創刊。44年講談社を創立し,同年講談落語などの寄席芸能を筆記活字化した雑誌『講談倶楽部』を発刊し,大きな成功をおさめた。以後,『少年倶楽部』『少女倶楽部』『婦人倶楽部』などの雑誌を創刊し,雑誌王国を築いた。なかでも,『キング』は,「おもしろくて,ためになる」のキャッチフレーズ通り娯楽と修養を兼備した大衆雑誌として100万部を突破する部数を誇った。「講談社文化」という言葉も生まれたほど,その出版物が大衆の意識に与えた影響は大きい。<著作>『自叙伝』<参考文献>野間清治伝記編纂会編『野間清治伝』 →コトバンク

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後に講談社を興す沖縄県視学の野間清治が沖縄を去るとき(1907年9月)の記念写真、中央に野間清治、後列右から5人目が富川盛睦、同じく2人目が横内扶。他の写真には同僚だった岸畑久吉らと撮った写真も伝記に収録されている。講談社が発足するとき参加したのが安元実発(元『沖縄新聞』記者)で、これも写真が講談社史にある。また野間の沖縄中学時代の教え子の森田孟睦も講談社にいた。□→検索「森田孟睦」。

1938年11月ー『大阪球陽新報』□野間清治氏の葬儀ー大日本雄弁会講談社社長、報知新聞社社長の野間清治氏は去る16日東京小石川区関口台町の自邸に於いて狭心症のため急逝した享年61、葬儀は20日午後1時から佛式により講談社で同社並びに報知新聞社合同により社葬が行われた(略)報知新聞社社員の渡嘉敷唯錦氏の本社(大阪球陽新報社)に宛てた通信に、今更の如く故野間先生の偉大なる人物であったことに敬服した森田孟睦君を始め一中出身の講談社員4名と小生も葬儀委員を勤めた。沖縄県人で葬儀に参列し入口に立っている私の目についたのは読谷山朝宜(医師)、国吉真俊、久高将吉、冨名越義珍、宮里良保、恩河朝健の諸氏であったが勿論混雑の際とて他にも多数参列者があったことと思う。

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Category: 04-書の森
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2017年10月 豊里友行写真集『南風の根 ふぇー 沖縄1995-2017』沖縄書房

仲里効氏(左)と豊里友行さん/仲里効氏(左)豊里友行さん


豊里友行さん(右)、森本浩平ジュンク堂那覇店長

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1975年6月 沖縄の雑誌『青い海』<特集 詩人・山之口貘の世界>
 2010年3月8日、松下博文(筑紫女学園大学教授)さん、上原実(沖縄コレクター友の会長)さんと海員会館で懇談。9日、沖縄県立図書館に山之口貘の詩の原稿を整理している松下さんを訪ねる。膨大な量である。その中に「ねずみ」もあった。貘さんの13年忌を機に故里那覇にその詩碑をつくろうと1975年に期成会発起人総会が開かれ、6月には「貘パンフレット」ができた。そのパンフの表紙に「ねずみー生死の生をほっぽり出して ねずみが一匹浮彫みたいに 往来のまんなかにもりあがっていた まもなくねずみはひらたくなった いろんな 車輪が すべって来ては あいろんみたいにねずみをのした ねずみはだんだんひらたくなった」が掲載されていた。パンフには佐藤春夫の「山之口貘の詩稿に題す」も載っていた。


1938年8月 山之口貘『詩集 思辨の苑』むらさき出版部


1940年12月 『山之口貘 詩集』山雅房
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山之口貘の詩集


1997年4月4日『琉球新報』「あしゃぎ/バクさんの詩を見つけ出すーあちこち歩き回っては新しい資料を見つけ出し、研究者たちをあっと驚かす新城栄徳さんがまたまた珍しいものを捜して一人悦に入っている。(略)さて、今回探し出したのは山之口バクの詩。大正14年(1925年)に出た雑誌『沖縄教育』(沖縄県教育会)に2編が収められている。筑紫女学園短大の松下博文さんは『詩集にも収録されてないし、すごい発見ですよ。バクさんの習作の時期をよく表している詩です』とコメントした」。

□又吉康和は1923年10月に『沖縄教育』編集主任になった。編集後記に「私は人間の生活は総てが教育だと、こう広く解釈し、従来取り扱ってきた教育雑誌のように範囲を限らないで、あらゆる方面の材料を蒐集したいと思って居ります」「今般帝都の大震災により中央集権の弊害を痛切に感じた」と記した。また山城正忠を詩歌の選者に迎えて、雑誌の幅を広げている。1924年4月に国吉真哲、山口三路(貘)、伊波普哲、上里春生らは、山城正忠を会長に琉球歌人連盟を発足させた。

□1925年8月『抒情詩』に山之口貘「日向のスケッチ」「コンーニヒリストへの贈物」(1926年12月の又吉康和編集の『南鵬』に転載)、「昼はからっぽである」「夜は妊娠である」。

1925年9月発行の『沖縄教育』は、表紙題字を山城正忠が書き、カットの獅子は山口重三郎(貘)である。又吉康和は編集後記で「山之口貘氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ他3篇入選しました。之より琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます。救世者は政治家でなく、それは詩人と哲人であります」と記し貘に大きな期待をよせている。


山之口貘詩碑の前でー神坂次郎氏→(こうさか じろう、1927年3月2日 - )は、日本の小説家。本名、中西久夫。三田文学会員。社団法人日本ペンクラブ理事。

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『沖縄タイムス』2003年7月4日/写真ー山之口泉さん親子と、左から琉球新報の松島弘明氏、那覇市歴史博物館の外間政明氏、新城栄徳、詩人の高良勉氏

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1951年12月ー琉球新報に送った詩の原稿



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12/01: 新生美術

Category: 03-所感
Posted by: ryubun02


1984年8月 『新生美術』<特集・玉那覇正吉>
1987年5月 『新生美術』6号□新城栄徳「『浦崎永錫画伯』美術史を語る」
1988年5月 『新生美術』7号<特集・大嶺政寛 追悼アルバム>
1990年5月 『新生美術』8/9合併号<特集・山里永吉・豊平良顕・宮城孝也
1992年6月 『新生美術』10号<追慕・山元恵一・山田昌弘・浦崎永錫>
 
        □新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」
1996年3月 『新生美術』11号<特集・安次嶺金正の画業を偲ぶ>
2001年3月 『新生美術』12号<特集・追悼 思い出 アルバムー具志堅聖児・金城安太郎・大嶺政敏・大嶺信一・宮良信成>
         □新城栄徳「金城安太郎さん」
2004年9月 『新生美術』13号<特集・比嘉景常・島田寛平・南風原朝光・名渡山愛順・大城皓也・宮城健盛・安谷屋正義・新川唯盛・仲嶺康輝・山之端一博>






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