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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

○沖縄は「水社会」ではない❔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉城哲
PHOTO”レポート”カー〟再発見ー宝口樋川/金城大樋川/佐久之川/竜樋/仲村渠樋川/ウティンダ/チジンガー嘉手志川/与座泉
「北水南送」からの脱却・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東一彦
宮古における水と生活誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲宗根将二
「新しい水」の開発・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・古川博恭


橋本淳司 | 水ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表 9/24[ 小泉環境相がステーキを食べたことの何が問題か]牛肉生産は水を大量に消費する。肉を育てるには水が必要だ。なぜなら水をつかって育てた飼料(植物)をエサにしているからだ。 家畜が育つまでにつかった水をすべて計算すると、鶏肉1キログラムには450リットル、豚肉1キログラムには5900リットル、牛肉1キログラムには2万600リットルの水が必要だ。こうした水使用が生産地の水環境を悪化させる。 小泉環境相が何グラムのステーキを食べたかはわからないが、仮に一般的なサイズとされる300グラムを食べたら、6180リットルの水を消費したことになる。東京に住む人が1日に使う水の量が約250リットルなので、25日分の量だ。

 2019年9月20日ー県内の水源が、有機フッ素化合物ピーフォスなどによって汚染されていた問題を受けて、子育て中の母親たちで作る会が、19日夜、那覇市で勉強会を開きました。勉強会は、水の安全性に関心を持ってもらいたいと子育て中の母親たちで作る「水の安全を求めるママたちの会」が主催しました。講師には、イギリス人ジャーナリストのジョン・ミッチェルさんが招かれ、米国内における規制の動きや、大学などが行った人体への影響についての研究成果を紹介しました。ジョン・ミッチェルさんは「より多くの研究者がたちが、より多くの調査・研究を行えば行うほど、より多くの危険性が見つかっている。そしてその危険性というのが最も晒されているのは女性であり、子どもであり、胎児である」と話していました。またミッチェルさんは、米国内で、ピーフォスやピーフォアの規制が強くなっている状況を指摘したうえで、沖縄県が採用している米国環境保護庁の規制値を採用するのは時代遅れだと指摘しました。

2016年7月ー昨日7日のテレビニュースで、今年の夏、首都圏は空前の水不足に見舞われそうだ。水源のダムはこの時季としては「最低の貯水量」(国土交通省管理事務所)になっている。と呑気に報じていた。これでオリンピックを迎えられるか少し気になる。日本は食料自給率が低く、世界最大の農産物輸入国である。このため、食料輸入という形で大量の仮想水を輸入しているので水不足を真剣に考えない体質となっている。仮想水(かそうすい、virtual water)とは、農産物・畜産物の生産に要した水の量を、農産物・畜産物の輸出入に伴って売買されていると捉えたものである。ヴァーチャル・ウォーターともいう(ウィキ)。このアベ政権になってからどうも国民生活の基盤がガタガタだ。電気は将来も原発。国防はアメリカの「核の傘」、この抑止力とやらは尖閣でも分かるように中国の覇権に対し抑止力が疑わしい)。

龍脈/16日午前、沖縄気象台と鹿児島地方気象台は、沖縄・奄美が梅雨入りしたとみられると発表した。
1933(昭和8)年11月2日 那覇市泊「高勝い」の上之屋浄水場で通水式ー開栓は照屋宏那覇市長。那覇市内は綱曳で水道通水を祝った。

那覇市上下水道局庁舎入口にある記念碑
 1925年10月、那覇市長に就任した岸本賀昌は水道敷設に執念を燃やし、1928年2月、政府の許可を得るための滞京中に病没。そのあとを受けて3月に小嶺幸慶助役が那覇市長に就任。小嶺市長は大阪に出張し、専門家から意見を聴き、兵庫県尼埼市技師の山中小六を那覇市水道調査技師に迎える。しかし市会で一票の差で可決後、水源地の宜野湾村の猛烈な反対運動の最中、1931年7月、小嶺市長は水道汚職で辞任することになる。後に一中同窓の東恩納寛惇は1933年12月『琉球新報』で水道敷設にかけた小嶺を称えている。ちなみに1900年の卒業生は伊波興旺、漢那憲英、國吉眞徳、崎浜秀主、島袋慶福、比嘉盛珍らが居た。戦前の水道敷設については那覇市歴史博物館に詳しい資料もあるので、それを見てもらうことにして、この水道敷設は沖縄戦でほとんどが破壊された。戦後、水道施設が再建され、大型ダムも続々と建設された。沖縄県内の水道普及率は1998年に99,8%に達した。沖縄は大きな長流もなくお天気任せの水事情である。
1935年4月  東恩納寛敷『那覇市水道誌』那覇市役所

2016年 「那覇市の水道下水道」那覇市上下水道局〇みずの資料館(那覇市おもろまち1-1-1 那覇市上下水道局庁舎内)→検索「水の資料館 - 那覇市上下水道局」


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1988年6月 『新沖縄文学』76号<特集・水と暮らし>
○水ーその民俗誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いれい・たかし
水管理と地域自治・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多辺田政弘
水の南北問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・島袋久光
自給への試み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宇井純
水資源開発の限界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・賀川健二
河川汚濁とその対策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下地邦輝
水道の水質は安全か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・遠山英一
<年表>上水道のあゆみ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・賀川健二・編 

<随筆>近代沖縄の新聞人群像・・・・・・・・・・・・・・・・・新城栄徳

1974年10月 『水と人間』創刊号<水底考 その自然と文化>□宮本常一「琵琶湖の文化」 琵琶湖問題研究機構

1987年  横浜水道記念館ー水道をテーマにした博物館。近代水道100周年を記念し、横浜市水道局西谷浄水場の隣接地に1987年(昭和62年)に開館。


1989年4月 『水の美味帖ーハウスポケットライブラリー6』ハウス食品

1991年11月 「国営公園 淀川河川公園利用マップ」


1993年3月 「雨水利用の手引きー雨水を暮らしのなかにー」沖縄県企画開発部振興開発室〇雨水利用の先進地である粟国島を紹介します。

1995年4月、文京区の東京都水道局本郷庁舎内に、東京都水道歴史館が開館。


1996年6月 宇井純『日本の水はよみがえるか』日本放送出版会

1996年11月 『PURE ピュア 水の情報誌』「川のない橋 橋のない橋」「涙の不思議」「氷枕」大阪市水道局
1998年10月 『沖縄の水』沖縄県企業局


1999年5月23日『琉球新報』「沖縄20世紀の光芒 昭和初期まで天水と井戸ー収用法適用 那覇市水道敷設」/2003年3月 「知ってて得する水の知恵」<日本の食料の60%は世界の水に頼っています。地球はひとつ。世界の水問題は、私たちの問題です>大阪府 水道部

2000年10月 『沖縄の水』沖縄県企業局経営計画課
2002年8月 『水浪漫』10号□長嶺恵美子「井戸端の思い出」 沖縄建設弘済会
2003年8月 『水浪漫』13号□富永麻子「泡盛とおいしい水」 沖縄建設弘済会
2003年11月 『水浪漫』14号□田場由美雄「四昔前の水」 沖縄建設弘済会

2004年1月1日『琉球新報』「水 多様な可能性ー沖縄産の自然水やミネラルウオーターが人気を集めている・・・」/2004年7月6日『琉球新報』「ビジュアル版 世界の水危機」
2004年1月1日『沖縄タイムス』「深刻化する砂漠化ー毎年1000万ヘクタールの土地が利用不能に」
2004年2月 『なはすいどう』第1号<那覇市水道通水70周年記念> 那覇市水道局
2008年 『潮』沖大幹「最大の環境問題ー世界を襲う”水の危機"。-現在、世界で約10億人の人々が水への『完全なアクセス』が不可能な状況下におかれている。」


2009年1月 藤田絋一郎『万病を防ぐ「水」の飲み方・選び方』講談社


2010年3月『NATIONAL GEOGRAPHIC』日本版「地球の水が危ない」

2011年1月 『沖縄の水』沖縄県企業局

 2012年発行の『今がわかる時代がわかる世界地図』成美堂出版□日本は水の大量輸入国ー食料(トウモロコシ、牛肉など)というかたちでで水を大量に輸入していることになる。→バーチャルウォター」/『会社四季報 10年後に浮かぶ業界 沈む業界』東洋経済新報社□水ビジネスに勝機はあるかー現状では、水メジャーのような運営まで含めた事業の広がりはない。今後は業界の垣根を超えた、オールジャパンの取り組みが必要になりそうだ。水ビジネスは商社と親和性が高い。■最近(2016年3月)三菱商事、三井物産は資源不況が直撃し歴史的な巨額の赤字だという。

2013年2月 『水から見た日本文明史と世界の水問題』リバーフロント研究所
2013年9月 自然と科学の情報誌『milsil』ミルシル<水の惑星「地球」№5ー生命に不可欠といわれる水はどこからやって来たのか>国立科学博物館

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Posted by: ryubun02

田中健夫訳注 『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』 岩波文庫、1991年
海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 朝鮮語: 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年(燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年(燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。→ウィキ


2014年12月9日~韓国・ソウルの国立古宮博物館で「琉球王国の至宝」展

2014年12月9日『沖縄タイムス』琉球王が着用した国宝の「玉冠(たまのおかんむり)」など、琉球国に関する資料約200点を一堂に集めた「琉球王国の至宝」展が9日、韓国・ソウルの国立古宮博物館で開幕する。来年2月8日まで、東アジアの中で独自の歴史と文化を築いた琉球国を、韓国の人々に紹介する。 展示資料は那覇市歴史博物館、県立博物館・美術館、浦添市美術館、美ら島財団(首里城公園)、東京国立博物館などが貸し出している。王族の衣装や当時の風景を描いた絵、高い技術を伝える漆器など第1級の資料が並び、琉球国の文化を伝える。

〇1992年にオープンした国立古宮博物館は、朝鮮時代の宮中で使われていた貴重な物品を文化財として保存、展示しているところです。景福宮、昌徳宮、昌慶宮、宗廟などに分散し埋もれていたこれらの文化財約20,000点あまりを所蔵しています。

1913年5月 『沖縄毎日新聞』襄哉(末吉安恭)譯「朝鮮小説 龍宮の宴」


松都に天磨山と云ふ山がある。高く天に沖りてグッと聳へ立った山の姿が厳かなので天磨山の稱も成程と思はせる。この山の中に一つの池がある。周囲は窄いけれど深さが底の知れぬ池で、恰度瓢箪ののやうな形をしてるので瓢淵と云ふ名が利た。

■「金鰲新話」 朝鮮時代初期に政治家であり文学者であった金時習によって書かれた漢文文語体の朝鮮最初の小説です。《萬福寺樗蒲記》《李生窺牆傳》《醉遊浮碧亭記》《龍宮赴宴録》《南炎浮洲志》の5編で構成されています。後世の研究者に依れば元々はそれ以上に書かれていたと推測されていますが、残された資料が少なく定かではありません。また、この作品がその後に書かれた小説に大きな影響を与えたと言われています。ぜひ皆さんもイージー文庫の連載『金鰲新話(クモシナ)』をお楽しみください
王からの招待
松都(高麗時代の都=開城)には天磨山と呼ばれる山がある。その山の高さが天に届く程で、その険しく秀麗である事からその様な名前が付いた。山の中に大きな滝があったが、滝の名を*朴淵(パギョン)と言った。滝つぼの広さはそれ程広くは無かったが、深さは如何程か分からないほどであり、水が落ちてくる滝の高さはとても高かった。この朴淵瀑布(パギョンポクポ)の景色が非常に美しく、地方から松都に来た人々は必ずこの地を訪れて見物して行くの常だった。また、昔からこの滝つぼには神聖な存在が居るとの言い伝えがあり、朝廷では毎年の名節の折に牛を供えて祭祀を執り行っていた。  *朴淵瀑布:高さ37m、幅1.5mの開城にある滝で、金剛山の九龍瀑布、雪岳山の大勝瀑布 と併せて朝鮮三大名瀑に数えられる。

高麗の時代の話である。韓氏の姓を持つ書生が居たが、若い時から書に優れていることで朝廷にも知られ称賛を受けていた。ある日、韓生(ハンセング)は自分の部屋で一日過ごしていると、官吏の正装をした二人の男が天から降りてきて庭にひざまずいた。「朴淵の神龍さまがお呼びで御座います。」韓生は驚きの余り顔色が変わった。「神と人の間は遮られているのに、如何して行き交う事ができるのですか?まして神龍様の居られる水府は水の奥深くにあり、滝の水が激しく落ちるのに如何して行く事ができましょうか?」二人が言った。「門の外に駿馬を準備致しました。どうか遠慮なさらずにお使い下さい。」二人は身体を曲げつつ韓生の袖を引いて門の外に連れ出した。すると外には馬が一頭用意されていたが、金で出来た鞍と玉と絹で作られた手綱で仕立てられており馬には翼が付いてた。その傍には赤い頭巾で額を隠した絹の服を着た10余名の侍従が立っていた。侍従は韓生が馬にまたがるのを助けると、一隊の前に立って先導し、女官と楽隊が後に続いた。また、先の二人も互いに手を取り合って続いた。馬が空中に舞い上がると、その下に見えるのは立ち込めた煙と雲だけであり、他には何も見る事が出来なかった。やがて韓生は龍宮門に到着した。馬から下りると門番たちが蟹、海老、亀の鎧を着て杖を持って立っていたが、その目がとても大きかった。彼らは韓生を見ると皆こぞって頭を下げてお辞儀し用意された席まで案内して休息を勧めた。予め到着を待っていた様であった。彼を案内して来た二人がいち早く中に入って到着を伝えると、すぐに青い服を着た二人の童子が恭しく出迎えて挨拶すると先導を代わった。韓生は先導に従いゆっくりと歩いて宮殿に向った。韓生が門の中に入ると龍王が*切雲冠をかぶり剣を差したまま、手に竹簡を持って階(きざはし)まで降りて迎えた。龍王は韓生を誘い殿閣に上がると座る様に勧めたが、それは水晶宮の中にある白玉の椅子であった。  *切雲冠:雲を衝くほどに高くそびえ立った冠

末吉麥門冬が最初に朝鮮史にふれたのは1915年6月22日『琉球新報』末吉麦門冬「朝鮮史に見えたる古琉球」(1)からである。
1915年6月22日『琉球新報』末吉麦門冬「朝鮮史に見えたる古琉球」(1)
□松下見林の『異称日本伝』の例に倣った訳でもないが、記者は年来琉球史の記実が詳細を欠き、漠として雲を掴むような観あるを、常に憾みとしていた。其の原因は吾々の祖先が文字に暗い上に、筆不精と来てるので、有る事実も材料も使い得ず、官命を帯びて不性無性、筆を執って偶々物したのが、僅かに球陽、中山世譜位のもので其れも憖じいに廻らぬ筆の陳文漢文だから要を得ぬ所が多いのである。其れは先ず正史の方だが沖縄には元来野乗随筆と云った物が無い。正史の缼を補うような材料が得られない。歴史家困らせである。

目下県の事業として真境名笑古氏が満幅の精神を傾けて、材料蒐集に従事して居らるるが、氏も常に語って委しからず、録して汎ねからぬ史籍に憾みを抱き是ではならぬと本邦の史籍は無論支那朝鮮の史料まで眼を通さねばならぬと云って望洋の歎を発している。幸いに氏が不撓の努力と燃犀の史眼は、沙礫の中から珠玉を拾うような苦心で新材料が一つ一つ机の上に転がって来る。其の愉快は又学者ならでは味わえぬことだろう。此の新材料提供の泉の一つが朝鮮の古書である。流石は朝鮮で支那に次ぐ文字の國ではある。蔚然たる古記録には東洋各國の史料が束になって這いっている。一たび其の堆土の中に熊手を入るれば、敕々雑々として葉山の秋の落葉を掻くが如きものがある。記者も眠気醒ましに熊手代わりの雑筆を揮いて高麗山の落葉を掻いて荒れたる史田の肥料にでもと思い立ちぬ。

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麦門冬が引用した文献資料
○りゅうひぎょてんか【竜飛御天歌】 朝鮮の李朝建国叙事詩。鄭麟趾らの撰。1447年刊,木版本。10巻,125章から成る。初章1聯,終章3聯以外は2聯で,対になったハングル歌,そして漢詩訳が続く。前聯は中国の故事,後聯は朝鮮の事跡で建国の正当性を主張する。世宗(せいそう)前6代祖の事跡を述べるが,太祖(李成桂)に最も詳しい。110章以降は後代の王への訓誡。ハングル(1446年訓民正音として制定)による最初の資料で,注は漢文で書かれて長く,高麗末から李朝初期の中国東北部や日本に関する記事もあり,文学・語学・歴史的にも重要である。
(コトバンク)
○櫟翁稗説・筆苑雑記 李斉賢/徐居正著
高麗・朝鮮王朝の古典の翻訳
韓半島に栄えた高麗・李氏朝鮮の両王朝の2人の高官が書き残したさまざまな人物評や風聞、笑い話、風俗、官僚の姿、制度などの記述に豊富な注と解説を加えた歴史的古典の翻訳。 韓流ブームの中にあって、解説書や入門書の紹介は数多いが、本格的な当時の古文書を翻訳したものは少ないので貴重な書籍である。 とはいえ、全体が短い文でつづられているので、出てくる人物のことやその他の情報を知るにはいささか厳しい。それこそ多数の人物が登場するが、注を読んでもさっぱり分からないことが多い。 しかし、当時の人物が直接書いた感想や評伝なので、歴史的な事実の裏側を知るには貴重な文献とは言えるだろう。 高麗王朝の高官だった李斉賢の「櫟翁稗説」の解説には、当時の高麗王が元の侵略によって、その後の王の名前に「忠」が付いたものが多いことが指摘されている(「忠烈王」「忠宣王」「忠粛王」「忠恵王」など)。
これは解説によれば、「元の圧力によって高麗王は『宗』や『祖』を名乗れなくなったのである」とある。要するに、「『忠』などというのは臣下の徳目であって、王の徳目としてはありえない。最高主権者は『忠』であるべき対象をもたないはずだが、高麗王は元の皇帝に『忠』であることを強制されたのである」。 そのことは世継ぎを「太子」と呼ぶのではなく、「世子」と呼ぶようになったのも元の干渉からきていると訳者は指摘している。 また、李氏朝鮮王朝の高官だった徐居正の「筆苑雑記」では科挙の試験に昔は酒食がふるまわれたことや日本の戦国大名の大内氏の祖先が新羅から来ているのではないかと考察したものや7代王の世祖の時代に「女と見まがう容貌」の男がいて、罪人として法によって処刑することを司法関係の役所では願ったが、王が大目に見て却下したことなど興味深いエピソードが記されている。 (梅山秀幸訳) 中山雅樹

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2015年7月22日~8月31日 古代出雲歴史博物館「琉球王国ー東アジア交流の盛華」琉球王国のすべてが出雲に集結

出雲/島根県と沖縄

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前列左から前田所長、當間次長、兵庫県人会婦人部ー大城一史の作品を背景に

沖縄県大阪事務所は前田所長、當間次長のとき(1980年)島根県ビルから大阪駅前第3ビルに移転してきた。だから梅田に行くと島根県事務所もよく寄るが、島根(出雲)はまだ行ったことがない。熊野は熊野本宮大社だけが残っている。1937年7月の『月刊琉球』に沖縄県総務部長の清水谷徹が「王仁三郎を捕ふ」というのを書き「元来、島根県は松江市は有力な大本教の地盤で、その大本教松江分院なるものが、また素晴らしく豪奢なものであった。面白いことには、その隣りが皮肉にも島根県警察部長官舎で、当時私が住んでいた訳である。」と述べている。私は最近、千田稔『華族総覧』講談社を愛読しているが、島根県・亀井家を見ると「王政復古以後、議定、神祇局副知事となり、同局判事に大国隆正を登用した。まさに津和野藩主主従が宗教行政を握ったかであり、廃仏毀釈で神道国教化政策を推進した。(略)亀井家では西周が亀井玆明の養育を担い、森林太郎も同世代として玆明と交流した。日清戦争が勃発すると、亀井玆明は祖先玆矩が琉球守として外征の大志を抱いたことに触発され、従軍写真家として中国に赴く。のちに『明治廿七八年戦役写真貼』を皇室に献本した。」とある。



○森鴎外記念館もりおうがいきねんかん 島根県津和野町町田イ238 電話番号 0856-72-3210
営業時間 9時~16時45分  定休日 12月~3月中旬の月曜(祝日の場合は翌日)
料金 入館600円(森鴎外旧宅の見学料含む)  アクセス JR津和野駅→石見交通バス鴎外旧居・長野行きで7分、バス停:鴎外旧居前下車、徒歩3分
森鴎外旧宅に隣接して立つ記念館。軍医であり、文学者でもあった鴎外の生涯を、遺品や直筆の原稿、ハイビジョン映像などで紹介している。鴎外は、幼くして『論語』や『孟子』を学び、天才少年の誉れ高かった。7歳から2年間、養老館で学び、10歳で上京し、その後、鴎外は陸軍軍医となり総監に就任。そのかたわら『舞姫』『山椒大夫』『阿部一族』など多くの小説を著した。鴎外が妻や子どもたちに宛てた書簡や、日記も展示。

○安部榮四郎記念館ー〒690-2102 島根県八束郡八雲村東岩坂1754 ☎FAⅩ(0852)54-1745
安部栄四郎 あべ-えいしろう
1902-1984 昭和時代の和紙製作家。
明治35年1月14日生まれ。出雲国(いずものくに)製紙伝習所で修業し,家業の和紙づくりにはげむ。昭和6年柳宗悦(むねよし)と出あい民芸運動に参加,雁皮紙(がんぴし)の特色をいかした出雲民芸紙を創作。43年人間国宝。昭和59年12月18日死去。82歳。島根県出身。著作に「出雲民芸紙譜」「和紙三昧(ざんまい)」など。(コトバンク)
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2020年5月 上江州敏夫『写真資料集・勝 公彦ーその紙漉き人生』勝公彦記念琉球紙振興基金実行委員会

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 1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』
〇1832年(天保3)6月8日、那覇港を立ち江戸に赴く。7月21日、琉球国尚育王即位の謝恩のための使節(正使尚氏豊見城王子朝春副使毛氏澤岻親方安度)らの一行、鹿児島着。8月27日、正使豊見城王子死去。讃議官の向氏普天間親雲上朝朝典を正使として9月1日鹿児島を立つ。11月16日、江戸着、江戸城に登城し朝覲の礼を行う。12月13日、江戸を立ち帰路に就く。1833年(天保4)4月8日、江戸上り使節一行那覇に帰還。
 豊見城王子(普天間親雲上朝朝典)の歌→『通航一覧続輯』
 ※わた津海の底より出て日のもとのひかりにあたる龍の宮人

□①5代京都府知事 中井弘(なかいひろし)
就任期間:明治26年(1893)11月~明治27年10月
天保9年(1838)、鹿児島生まれ。幕末と明治のはじめに二度にわたり欧州に留学、西郷隆盛に従軍したこともあった。工部大学校書記官、滋賀県知事、貴族院議員を経て京都府知事となる。滋賀県時代は時の北垣京都府知事とともに琵琶湖疎水建設にあたった。京都府知事在任中は「京都三大問題」(遷都千百年記念祭、第四回内国勧業博覧会、京都舞鶴間鉄道の建設)に力を尽くしたが、在任中脳出血で倒れ、これらの完成を見ずして亡くなった。(京都府)中井弘の胸像は円山公園内にある。

②六孫王神社
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大城弘明氏撮影

□六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。十五才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである。(平安時代中期)
 境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。(6月13日弁財天御開帳祭)
 江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。
 王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
 昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。

「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。

1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。

1925年8月 『琉球新報』□女子師範二部旅行便り・夏の旅ー7月17日、2日目の京都見物に8時頃宿を出発して京津電車に乗って浜大津に着く。(略)高く聳える比叡山を後にして瀬多の唐橋を潜りときに名高い石山寺に詣づ。紫式部の源氏の間はかたく閉ざされて、ありし昔を物語る如く墨黒々と書かれて居るここに天然記念物に指定されたるけい灰岩あり、其処を引き返して又船に乗る。粟津の晴嵐を右手に眺め三井寺に参拝して疎水下りにつく流れ清き水に行く船の淡き灯の中より歌の聲もれて暗きトンネルの天井に反響して周囲の空気をゆるがし流れを波立たす。トンネルを出ると眩ゆい光線に小波はプラチナのように光り輝いて其の美しさはたとえ様もない夏の事とて海水浴をする人や釣をする人が多い。疎水を下り終ってインクラインを見てから知恩院に向かう。左甚五郎の荒れ傘や鶯張廊下を見る3百間もある長い廊下である。ここより清水寺に行き方広寺、三十三間堂に詣ず。恩賜の京都博物館を眺め黄昏の町を電車で宿に帰り又10時に宿を出発して岡崎公園に至り、平安神宮に詣で桓武天皇当時の昔を忍ぶ、公会堂の前を通り西本願寺に行って電車で駅に向かう。

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1939年4月 平良盛吉『花柳雑話』

題字揮毫・東大寺清水公俊師
清水公照(第207世、第208世東大寺別当、華厳宗管長)1927年:東大寺塔頭宝厳院に入寺。清水公俊の下僧名公照となる。1945年:終戦を出征先の中国廬山で迎える。師父清水公俊大僧正死去。→ウィキ


○売笑の起源と遊女の変遷 娼婦の元祖は巫女である
○芸妓の揺籃とその成長 三味線伝来を画期として独立すー(略)茲に正親町院の文禄年間、琉球から蛇皮線が伝来し、それが堺の琵琶法師の工夫で本手、破手などの組歌が出来、次第にはやり出して小唄、地唄、長唄などが盛んに流行するようになると、従来ただ色だけを売っていた遊女の間にもこれを唄うものを生じ、又私娼の間にも堪能なるものが出来て、遂に三味線という芸だけで独立する女が出来ました。
○公娼制度の濫觴と遊廓の発達 豊太閤は遊廓開基の大恩人ーそれが一の営業として公認された形になったのは、鎌倉時代の『遊裙別當』(足利時代には『傾城局』)といふのが其の濫觴であり、更に一歩前進して公娼を保護し、且つこれを取締まるために遊廓を公許するようになったのは豊公の英断に出でたのであります。豊臣秀吉が天下を平定してから、京都に初めて柳町遊廓(後の島原遊廓)が新設されました。以後ー奈良・木辻、駿河府中、大阪瓢箪町(後の新町廓)などが出来た。・・・江戸吉原遊廓、大阪松島遊廓、大阪飛田遊廓、兵庫の遊廓
○遊里と社寺ー祭礼と遊女ー(略)琉球辻の遊廓の開祖は浦添王子の妃であると伝えられ、その命日である旧正月廿日には『廿日正月』又は『尾類馬ずりうま』と言って廓内の名妓が総出になり、花魁道中のような行列絵巻が繰りひろげられます。
平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)
羽地村に生まれる。沖縄県立一中を中退し沖縄毎日新聞記者。記者の傍ら、琉球史、琉球古典音楽を研究。羽衣、羽生、平氏、野の人というペンネームで論文、随筆を新聞、雑誌に発表。

平良盛吉・著作目録
1905年
3月ー『少年世界』第11巻第4号□平良盛吉「明けがた」/7月、平盛吉「朝顔」。
1906年
2月ー『少年世界』第12巻第2号□平良蘭月「梅花一枝」。□→斎木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房。
1910年
2月4日ー『沖縄毎日新聞』平良盛吉(羽衣生)「小品・三味線」
3月14日~29日ー『琉球新報』平良盛吉「村の先生」□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」。

2019年7月21日ーRBCiラジオ「ふるさとの古典」(上原直彦/島袋光尋)で平光雄氏が紹介されていた。私が平光雄という名を聞いたのは、東大阪市永和に居られた平良盛吉翁からで1974年であった。


1967年8月 平良盛吉『琉球音楽の研究』沖縄文化協会(大阪市住吉区粉浜中之町2-13)山内盛彬「序文」


琉球古典音楽CD 「湛水流曲集」:平光雄 沖縄県指定無形文化財「湛水流」保持者認定記念 /→吾天為(あてに)「三線な日々」

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近鉄○2015年(平成27年)4月1日に、これまでの(旧)近畿日本鉄道を近鉄グループホールディングスに社名変更した上で、会社分割により鉄軌道事業を近畿日本鉄道分割準備(2014年4月20日設立)に、不動産事業を近鉄不動産に、ホテル・旅館事業を近鉄ホテルシステムズ、流通事業を近鉄リテールサービスにそれぞれ継承させ、持株会社制に移行した。鉄軌道事業を継承した近畿日本鉄道分割準備は(新)近畿日本鉄道に社名変更し、近鉄グループホールディングス傘下の事業会社となった。


1991年12月 季刊『食・№42』桑原守也「近畿文化会と近鉄資料室」

近鉄資料室

1994年7月『沖縄都ホテル20年史ー万国津梁に夢はせて』桑原守也「はるけき思い出のいくつか」、早野充・加藤忠雄・親川幸男「”味”の魅力を語る」



1972年11月 沖青友の会機関誌『石の声』10号〇上原良三「初秋の京都北山へーそもそも諸準備の為、京都に勤める新城君の職場(某食事処食堂)で米や、スープンの調達のついで、コーラやコーヒーを御馳走になったのも一原因かも知れない。」


1974年
京都駅八条口近鉄名店街/紅屋

寮は南区/近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅
  
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1973年、上の沖縄タイムスの記事をみて、京都駅近鉄名店街の「紅屋」に石川氏が訪ねてきた。後日、一燈園に石川氏を訪ねて歓談した。


左が石川洋氏、新城榮徳

○1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特集『熊野誌』37号を入手、中瀬さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が十社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは私の息子の自宅から二駅先の駅がご自宅なので、大阪に行くと、いつも近鉄資料室、袋中上人のゆかりの地、京都の古書展などに同行している。

沖縄都ホテルで新城栄徳と桑原守也氏


桑原守也資料

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淀川長治
1981年9月『青い海』106号 淀川長治「私と映画と人生」
1982年2月『青い海』110号 淀川長治「人生はロング・ランー個人主義と他人主義」




淀川長治 よどがわ-ながはる
1909-1998 昭和後期-平成時代の映画評論家。
明治42年4月10日生まれ。映画雑誌の編集部員,洋画配給会社の宣伝部長をへて昭和23年「映画之友」編集長となる。のちフリーとして活躍。テレビ「日曜洋画劇場」の解説者として出演,映画への愛を独特の口調でかたり人気をあつめた。平成10年11月11日死去。89歳。兵庫県出身。第三神戸中学卒。著作に「映画散策」「映画千夜一夜」など。(→コトバンク)



1973年8月 『ワンダーランド』創刊号 淀川長治「ロイド映画の楽しさを忘れてやしませんか」
植草甚一
うえくさじんいち(1908―1979)
評論家、エッセイスト。東京・日本橋生まれ。早稲田(わせだ)大学建築科中退。初め外国映画、とくにヒッチコックのスリラー映画などに独自の批評を展開。さらに欧米の現代文学、推理小説、現代美術、漫画、ジャズなどの現代音楽の紹介・批評へと多くの趣味を生かして広範囲に活躍。「ワンダーランド」(のち「宝島」)を創刊,編集。1960年代以降は自らニューヨーク生活を繰り返して、つねに現代に密着した自由な雑学精神で一生を貫き、前衛的若者芸術の教祖的存在でもあった。著書に『僕は散歩と雑学が好き』(1970)、『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』(1972)、『映画だけしか頭になかった』(1973)など多数。→コトバンク
1974年創刊の月刊「宝島」。前身は「ワンダーランド」という雑誌で、責任編集者はエッセイストの植草甚一氏(1908~1979)でした。植草氏は、映画、音楽、文学評論など多方面で活躍し、1970年代の若者文化に革新的な影響を与えた人物として知られます。「ワンダーランド」は、アメリカ文化を紹介し、大小の記事を詰め込んだカタログ雑誌のつくりで、「シティー・ボーイ」という言葉をいち早く使い出した雑誌と言われています。


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