○(略)和田清博士の説に拠りますと明の洪武5年(1372)に琉球(流求)招撫を命ぜられた楊載なるものが、その琉球は台湾であることを意識してをりながら、この慓悍な蛮人の拠ってゐる危険な島を避けて故らに人情温雅な今の琉球(即ち中山國)に到り、その王を誘って明廷に入朝せしめ、之を琉球王なりとしてその使命を果たしたやうに見せかけたのに拠るのであらうといふことであります。・・・

石田幹之助 生年明治24(1891)年12月28日 没年昭和49(1974)年5月25日
出生地千葉県千葉市
主な受賞名〔年〕フランス政府アカデミー勲章〔昭和35年〕,紫綬褒章〔昭和39年〕
経歴大正5年東京帝大卒業後、中国に留学。留学中、東洋学関係の文献蒐集家モリソンを知り、その日本誘致を行ない(岩崎家が購入)、その文献整理に当って、モリソン文庫(現・東洋文庫)の基礎を築く。6年〜昭和9年同文庫主事。傍ら日大教授、国学院大学教授を歴任。20年東方学会設立にあたって理事となり、機関誌「東方学」の編集に従事した。48年同学会会長。著書に「長安の春」(昭16)をはじめ、「欧人の支那研究」「南海に関する支那史料」「唐史叢鈔」「東亜文化史叢考」、「石田幹之助著作集」(六興出版)などがある。→コトバンク

1974年7月15日『日本古書通信』第363号「石田幹之助氏・岩佐東一郎氏の死」