11/01: 2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑥< 人生は、今からが面白い>
○最近、テレビのクイズ番組が面白いです。東大出のIQ150とか160の人達が出ているのを見ていると、私など十分の一の正解しか出来ず、東大の偉大さを見せつけられている。そこで思うのだが、日本には、これほど頭の良い連中が居るのに如何して伏魔殿が存在するのか不思議でならない。しかし同じ人間です。昔の詩を思い出しました。「佛も昔は人だった。吾も終わりは佛なり」。
IQの高い人も歳を取るのです。高齢者になってから多少は呆けるでしょう。認知症になるでしょうが、ここまで来ると楽しくなります。脳みそが詰まってない私の脳には隙間があるので、今からでも詰め足すことが出来ますが、脳満杯の人のIQは減少していく筈です。人生は高齢者になってからが面白い。
2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑦< 丁字風炉の源慶さん>
○物を作るより、家造りが上手になっている作家が多くなった陶芸界だが、金城次郎さんは読谷に立派な窯を造った。当時は次郎さんの次男夫婦が大変だった。でもその甲斐あって沖縄で初めての人間国宝と謂う栄冠を得られたのです。
金城次郎パネル写真(古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)
焼物造りが至福の業と励む人がもう一人居た。小橋川源慶さんです。口数の少ない小柄だが、自分と同じ位の大物を作っていた。丁字風炉の名人で、何か丁字風炉に拘りがあったのでないかと思う。大和の陶工たちが丁字風炉を無視した観があったので、源慶さんは格別に拘ったかなと思うのです。私も大好きでたくさん扱いました。
写真左から小橋川源慶氏、小橋川秀義氏、新城栄徳
2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑧< 私は遊鬼>
○ここ沖縄の夏でも、私の部屋は、クーラーは使うことがありません。「 涼風も仏任せの此身かな」 と、一茶の句、そのままですが、 「涼しさや 聞けば 昔は 鬼の家」と子規は云います。と云うことは鬼が住んでいた家に私たち父子は住んでいることになります。
昔から私は鬼が嫌いではありませんでした。鬼については色々な話を聞いています。鬼は、あの世では閻魔大王の下働きで、決して悪いことをしているわけででなくて地獄の番人で、時折、逸れた鬼を見ると、人間は地獄の仇討ちとばかり、鬼を攻撃するのです。私は地獄で鬼にお世話になることを予想して、節分の折に「鬼は外」などと叫んだことはないのです。
「この世は 遊びに来たところ」をモットーとしている私は遊鬼かも知れません。もう少し生かして頂いて、もっともっと楽しく遊ばして欲しいと願っております。
2017年1月 城谷一草「春秋庵雑筆⑳<シーサー作り>
私の人生は、その大半を焼物と共に過ごしたので、焼物無しに私の人生はあり得ない。沖縄との交わりのなかでシーサーとの関わりが深くなってきた。諸説あるが、シーサーの祖先はエジプトのビラミッドを守護したスインクス説が強い。中国で獅子と親しまれた獅子が日本に来て、中国同様、獅子舞で愛される一方、神社等の守護で民衆に愛された獅子は沖縄に渡来して、石のシーサーで全島に60余体が各村に置かれて村民を守護し、村民に深く敬愛されてきた。更には各家庭の屋根、門柱から家の中心の床の間にまで置かれ人気者的存在である。このシーサーは民芸店でも様々な陶芸品が置かれている。
80歳で、ギャラリーを閉じ、無職になったときから、退屈から手遊びにシーサー作りを始めた。作るほどに愛らしさが増し、その作成が日課となっている。
2017年1月 城谷一草「春秋庵雑筆㉑<童話と老話>
人間は年を取ると子供に戻りますが、違うことは子供には経験が無いが、老人には各々の体験が断片的にせよ残っているのです。例えば童には童話、老人には老話があっていいと思うのです。そこで、私なりに老人の為に色んな話を綴ってみたいと思うのです。
特に吾々の年代は、今からは恐らく体験することは無いと思う「大東亜戦争」があり、有史来、初めての敗戦と貧苦がありました。戦争が無かったら、そんな苦労も無かった筈ですので次の世代にはあんな苦労はさせてはならないと思います。その苦しかった吾々の国は、戦争に敗れた国民は、贖罪的行為からか、経済の飛躍を目指して、世界一の高度成長も成し遂げてきました。
IQの高い人も歳を取るのです。高齢者になってから多少は呆けるでしょう。認知症になるでしょうが、ここまで来ると楽しくなります。脳みそが詰まってない私の脳には隙間があるので、今からでも詰め足すことが出来ますが、脳満杯の人のIQは減少していく筈です。人生は高齢者になってからが面白い。
2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑦< 丁字風炉の源慶さん>
○物を作るより、家造りが上手になっている作家が多くなった陶芸界だが、金城次郎さんは読谷に立派な窯を造った。当時は次郎さんの次男夫婦が大変だった。でもその甲斐あって沖縄で初めての人間国宝と謂う栄冠を得られたのです。
金城次郎パネル写真(古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)
焼物造りが至福の業と励む人がもう一人居た。小橋川源慶さんです。口数の少ない小柄だが、自分と同じ位の大物を作っていた。丁字風炉の名人で、何か丁字風炉に拘りがあったのでないかと思う。大和の陶工たちが丁字風炉を無視した観があったので、源慶さんは格別に拘ったかなと思うのです。私も大好きでたくさん扱いました。
写真左から小橋川源慶氏、小橋川秀義氏、新城栄徳
2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑧< 私は遊鬼>
○ここ沖縄の夏でも、私の部屋は、クーラーは使うことがありません。「 涼風も仏任せの此身かな」 と、一茶の句、そのままですが、 「涼しさや 聞けば 昔は 鬼の家」と子規は云います。と云うことは鬼が住んでいた家に私たち父子は住んでいることになります。
昔から私は鬼が嫌いではありませんでした。鬼については色々な話を聞いています。鬼は、あの世では閻魔大王の下働きで、決して悪いことをしているわけででなくて地獄の番人で、時折、逸れた鬼を見ると、人間は地獄の仇討ちとばかり、鬼を攻撃するのです。私は地獄で鬼にお世話になることを予想して、節分の折に「鬼は外」などと叫んだことはないのです。
「この世は 遊びに来たところ」をモットーとしている私は遊鬼かも知れません。もう少し生かして頂いて、もっともっと楽しく遊ばして欲しいと願っております。
2017年1月 城谷一草「春秋庵雑筆⑳<シーサー作り>
私の人生は、その大半を焼物と共に過ごしたので、焼物無しに私の人生はあり得ない。沖縄との交わりのなかでシーサーとの関わりが深くなってきた。諸説あるが、シーサーの祖先はエジプトのビラミッドを守護したスインクス説が強い。中国で獅子と親しまれた獅子が日本に来て、中国同様、獅子舞で愛される一方、神社等の守護で民衆に愛された獅子は沖縄に渡来して、石のシーサーで全島に60余体が各村に置かれて村民を守護し、村民に深く敬愛されてきた。更には各家庭の屋根、門柱から家の中心の床の間にまで置かれ人気者的存在である。このシーサーは民芸店でも様々な陶芸品が置かれている。
80歳で、ギャラリーを閉じ、無職になったときから、退屈から手遊びにシーサー作りを始めた。作るほどに愛らしさが増し、その作成が日課となっている。
2017年1月 城谷一草「春秋庵雑筆㉑<童話と老話>
人間は年を取ると子供に戻りますが、違うことは子供には経験が無いが、老人には各々の体験が断片的にせよ残っているのです。例えば童には童話、老人には老話があっていいと思うのです。そこで、私なりに老人の為に色んな話を綴ってみたいと思うのです。
特に吾々の年代は、今からは恐らく体験することは無いと思う「大東亜戦争」があり、有史来、初めての敗戦と貧苦がありました。戦争が無かったら、そんな苦労も無かった筈ですので次の世代にはあんな苦労はさせてはならないと思います。その苦しかった吾々の国は、戦争に敗れた国民は、贖罪的行為からか、経済の飛躍を目指して、世界一の高度成長も成し遂げてきました。